濃いめのシャワーと旅立ちの朝
目覚めのよい朝。
今日から旅にでるのだ。
昨夜、仕事も辞めてきた。
私を縛るものはもう何もない。
何年ぶりだろうか。目覚まし時計のアラームを不快に感じなかった朝は。
アラームを解除すると、小鳥のさえずりさえ聞こえてくる。この街に、こんなにも麗しい声で鳴く鳥がいたのかと、今更ながらに知る。
微睡みの抜けきらぬまま右の目だけをわずかに開く。白い薄手のカーテン越しに、まだ明け切らぬ朝焼けの茜色が差し込み、目の前のシーツが薄紫に染まっているのがわかる。
まだ寝ていてもよいのだ。無理をして起きる必要などない。しかし今朝は、水を満たした水槽に碧い水草が浮き上がるように、自然な流れで体が起き上がった。
空気は、まだかすかに心地よい冷たさを保っていた。
グラスに注いだ水の中で無数に踊り輝く気泡に美しさを覚えたのは、人生で初めてのことだった。
水をコーヒーマシンに移し替え、ドリップ機能をオンにする。バスタオルを用意して、洗濯かごに下着を脱ぎ捨てると、ほのかな寒さを感じる間もなく浴室へと駆け込み、そのまま全身に熱いシャワーを浴びた。
体中の毛穴が一斉に開き、一気に汗が噴き出す。体を伝う流水が、同時にそれらを洗い落としてくれる。浴室に充満した水蒸気を胸いっぱいに吸い込み、深呼吸をすると、それまで澱んでいた全身が澄んだ水で潤され、四肢の末端へ血が通うことで、それらが体の隅々にまで行き渡るような気がした。
浴室から戻ると、部屋の中はコーヒーの芳醇な香りで満たされていた。
髪を乾かし、洗いざらしのシャツを羽織ると、小さな花柄のカップに注がれた琥珀色の一杯を口にする。
わずかに静寂の時が訪れ、不意に部屋の中を一瞥する。しばし、そのまま目を瞑った。
もう、この部屋に戻ることはない。
両足を収めるはずだった主を失って玄関で靴ひもの解けたままになっているスニーカーを眼下に通り過ぎ、床の上に落ちて転がっているお気に入りだった花柄のカップと、もう二度と目覚めることのない永遠の眠りに就いたばかりの「この部屋の住人だったもの」に別れを告げ、扉を開いた。
外の世界は、光に溢れており、一瞬目眩がした。