あした、雨になあれ
あした、雨になあれ
七月上旬のある日のこと。世間一般では梅雨と呼ばれる時期である。
ソファで本を読んでいた明彦は、きりのいいところで本を閉じ、窓へと向かった。外はどこまでも灰色が広がっている。いつ止むとも分からない連日の雨が、彼の心を暗くした。ゆっくりと首を横に振り、カーテンを閉めてからソファに落ち着く。
雨の日は、憂鬱である。洗濯物は乾かないし、外を歩くだけでも一苦労だ。服が濡れるのは嫌だし、傘を持つなんて面倒極まりない。そういうわけで、彼はこの春に入学したばかりの大学生であるが、雨が降ると自主休学するようにしている。
だが、どうしても外に出なければならない時だってある。彼は一人暮らしをしているので、当然食事は外食か自炊ということになるが、なにぶん雨のせいで買い物に出かけたのは数日前である。家には腹を満たしてくれるようなものはなにもなかった。バイトもしていないので、出前を取るなんて金のかかることはできない。
はあ、と彼は大きくため息をついてから、まもなく決心した。食べないという選択肢はない。ならばここは我慢して、買い物へと出かけなければならないだろう。
明彦は立ち上がって服を着替えると、もう一度ため息をついてから、傘を掴んで家を出た。じめっとした嫌な臭いが鼻をつく。彼はぎゅっと傘を強く握って歩き出した。
家から一番近いスーパーまで二十分、コンビニはさらに遠くにある。わざわざ遠いところまで行って高いものを買う必要はない。彼はスーパーを目指した。なるたけ水たまりは避ける。車が近づいてきたときは、十分に距離を開ける。そこまで努力をしても、スニーカーは雨水をたんまりと吸収し、ジーンズの裾は色を青から藍色に変えた。
家を出て数分歩いたところで、彼は立ち止まった。彼の前には大通りが立ちはだかっている。びゅんびゅんと走る車が、歩道に水を飛ばしているのが見える。
「参ったな」
明彦は頭の中にここら一帯の地図を広げた。明彦は大学に入学してからこの辺に一人住み始めたのだが、一人暮らしを始める際に、何かと便利だろうと思い、頭に地図を叩き込んでおいたのだ。そのため、通ったことのない道まで記されている。
目の前の大通りを通らずに、最短でスーパーへと行ける道を検索する。そのルートを行けば、目の前の大通りを通るよりも、十分だけ損することになる。さて、どうしたものだろう。
どちらにしても濡れることは濡れる。要はゆっくりと時間をかけて不快指数が上がっていくほうがいいのか、それとも水を一気にバシャッとかけられて去っていく車を睨みつけることになるほうがいいのかを選べばいいのだ。
明彦は少し逡巡してから、前者を選択した。後者の場合、トラックが走ってきたら悲惨なことになってしまう。それはなんとしても避けたいところだ。
道を少し戻ってから、細い道に入る。どこにでもある路地裏の風景。生まれて一度も来たことがない場所なのに、なぜか懐かしくなってしまう。
室外機の下でまぶたを閉じている子猫、外国を思わせるようなレトロな外灯、二階建ての家々から漏れる子供たちの笑い声。しとしとと降る雨も、大通りの風景よりかは幾分マッチしていて、明彦は少し心地よくなった。自然に歩が遅くなる。
そうして雨と一体となった風景を目に焼き付けながら歩いていると、突然、近くの家の扉がガラッと開いた。中から出てきたのは女性だった。明彦より少し年上くらいだろうか。夏着物を着ていて、肌が白く、長い黒髪を胸のあたりまで垂らしている。そして、美人だった。地味だが、おっとりとした柔和な顔が、明彦好みである。しかし次の瞬間、明彦は耳を疑った。
「んー、いい天気」
彼女は、灰色の空を見上げてそう言ったのだ。
いい天気だって? こんな雨が?
明彦は彼女を凝視していた。そして彼女のほうも明彦を見た。目が合うと、彼女は笑顔で声をかけてきた。
「あら、お兄さん。ちょっと寄っていきません?」
「え?」
明彦は混乱した。道行く知らない人を家にあげようというのか? と疑問に思ったが、そうではなかった。彼女の手に握られていたものを見て、明彦は納得した。
『御食事処 雨宿り』
彼女が持っていたのは、暖簾だった。つまり彼女が出てきた扉は、家の扉ではなく、お店の扉だったのだ。そして彼女は、明彦に食べていかないかと言っているらしい。
明彦はどうしようかと迷った。こういった食堂なら、外食チェーンの店で食べるよりかは、金もあまりかからないだろう。だが、ここで食べるにせよ、食べないにせよ、買い物には行かなくてはならないのだ。
彼は数秒悩んでいたが――お昼時ということもあったのだろう――腹がぐぅと鳴ってしまった。恥ずかしさを覚えながら、女のほうを見ると、まだ笑顔を向けていた。それを見て、もう迷う必要はなかった。食べる食べないの選択肢よりも、美人の笑顔のほうに目が眩んでしまったのだ。
彼が店に向かって歩くのを見て、女は深くお辞儀した。
「お帰りなさい」
店の中は小奇麗だったが、狭く、カウンター席しかなかった。そのうえ薄暗い。なんだか場末の飲み屋のようである。壁にはお品書きが書かれた紙と、数枚の浮世絵が飾られていた。
「どうぞ」
店先に暖簾をかけていた女が、一つの席を指し示す。彼は、どうも、と返してからその席に座った。カウンターの向こう側に女が行くと、和風のBGMが流れた。なるほど、雰囲気はばっちりである。
「お兄さん、お名前は?」
女が熱々のおしぼりと、冷たい緑茶を出しながら訪ねてきた。ここでは店の者に名前を告げるのが普通らしい。
「明彦です」
「あら、よい名前。私はミサキ。注文はいかがなされます?」
ミサキか。ありふれた名前なのに、彼女にとても合っているように思えた。明彦は壁に目をやる。数あるお品書きから、親子丼を選んだ。
「親子丼ね。少しの間、待っていてくださいな」
ミサキは食事を作り始めた。材料はすでに用意してあるようで、彼女はすぐにコンロに火をかける。
「明彦さんはおいくつ?」
「十八です」
「やだ、年下だったの。背が高いからてっきり」
確かに明彦は背が高い。だから雨の日は、傘をさしても、ズボンが人より濡れてしまうのである。
「十八ってことは、大学生さんかしら」
「ええ、そうです」
「このあたりには最近越してきたの?」
「ええ」
次第にいい香りが漂ってきた。明彦の腹が、またぐぅと鳴った。
「このあたりは静かで、お勉強にはもってこいですものねえ」
ぐつぐつ、と煮立った音がしたところで、ミサキは火を弱めた。
明彦は、気になっていたことを彼女に訊いてみた。
「雨が好きなんですか?」
こんな雨の日に、いい天気だなんて言っていたし、店の名前は雨宿りである。これで雨が嫌いなんてことはないだろう。その推測は正しかった。
「ええ。今日みたいなしとしとと降る雨が一番好きなの。だからこのお店も、雨の日しか開けていないのよ」
なんと晴れの日は休業するらしい。明彦とはまるで反対である。
「どうして好きなんです?」
訊くと、彼女はにこりとした顔を明彦に向けた。
「さあ、分かりませんねえ。気づいたら好きになっていたの」
ふぅん、そんなこともあるか、と明彦は思った。確かに自分も、気づいたら本が好きになっていた。小学生のころは寝る間も惜しんで本に没頭していたくらいである。実家の近所に大きな図書館があるのだが、どうして夜になると閉まってしまうのか、不思議に思っていたくらいである。
不意に、卵のほわんとしたいい香りが鼻をくすぐった。もうじき出来るらしい。明彦はお茶でのどを潤した。
「お待たせ」
親子丼が出される。色合いは鮮やかで、卵が黄金色に輝いている。香ばしい匂いが沸き立っている。明彦は涎が口の中いっぱいに出てくるのを感じた。ゴクリ、とそれを飲み込んでから「いただきます」と手を合わせる。
「ごゆっくり」
明彦は夢中で親子丼をかきこんだ。それくらい美味かった。ご飯にしみ込んだだし汁、やわらかくてぷりぷりとした鶏肉、それらの風味をすべて閉じ込める魔法の卵……。
食べ終わると、彼は店の中が騒々しいことに気づいた。なんと彼の周りには客が数人いて、カウンター席がいっぱいだったのだ。そんなことにすら気づかないくらい、彼はミサキが作ってくれた親子丼に夢中だったらしい。
「あら、もう食べ終わったの。お味はどうでした?」
ミサキが訊いてくる。彼は少し顔を赤らめて「美味かったです」と答えた。子供みたいにご飯を食べていたのかと思うと、なんだか気恥ずかしい。
「そりゃそうだ、ミサキちゃんは子供のころから料理してんだからな」
「おうよおうよ」
明彦の言葉に、店の他の客が反応する。常連だろうか。ミサキの料理はどの客の舌も満足させられるらしい。
扉のほうに目をやると、そこにはこちらが食べ終わるのを待っている客がいた。明彦は立ち上がって勘定を払い、待っている客に席を譲った。その客は明彦と目が合うなり破顔させて、「ミサキちゃん、定食ねー」と叫び、明彦が座っていた席へと急いだ。よっぽどミサキの料理を楽しみにしていたのだろう。
明彦が外に出ようとしたとき、ミサキが声をかけてきた。
「行ってらっしゃい。よかったらまた来てくださいな」
彼女の笑顔は、明彦の心に沁み込んだ。
扉を開ける。雨は変わらず、しとしとと降っていた。だがなぜか、明彦は不快に思わなかった。もう一度店の中に目をやる。ミサキは客となにか話しながら、料理を作っていた。どの客も笑顔が絶えない。
明彦は店の外に出る。店先にできた水たまりに目をやると、彼は自分が微笑んでいるのが分かった。
空を見る。どこまでも灰色が広がっていた。はてさて、明日は――。