3
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時刻は午前二時過ぎ。
幽霊の住処は意外と早く見つかった。
紫白町の中心部しか知らない俺でも、町の大雑把な全体図はそれなりに把握している。だから山田家付近から人里を離れるように隣町へ伸びる街道を進んでいくと、次第に街灯の数は減っていき、左右には闇一色の山林が広がり、その山林を奥に入ったところに、一棟の建物が一つ虚しく佇んでいるのは知っていた。
郊外も郊外、中途半端な山中にぽつねんと在るそれは、誰も気に留めない廃墟。何に使われていたのかは知らないが、今では雑草茂り放題、壁ひび割れ放題、窓ガラスは例外なく割られ、落書きされ放題のドMな建造物。しかしそこから感じる雰囲気は、足を踏み入れる者は皆呪うってほどドSな感じ。
俺は隣の霞霧と目を合わせる。
「ここか?」
「うん、僕らの推理が当たっているなら、ここしかないと思うよ。この辺りには他にそれらしい建物はないし」
だな、と応えつつ、懐中電灯で入り口付近を照らす。すると、そこらじゅうに書かれた死とか殺とか、ヤンキーお得意の攻撃的なアートが目に付いた。
「……不吉」ぼそっと呟く霞霧。
恐怖という名の事前知識、悲鳴も届かぬであろう遠方で響く車の走行音、そして斑の闇に色めく空間が、ここが何かよくないモノの縄張りだと教えてくれている。
「ま、入るしかないんだけど」
楓彌さんの部屋に足を踏み入れるときの恐怖に比べたら、この程度は屁でもない。地獄の門でも鼻歌交じりにノックできようものである。淀みなく正面の両開きのドアを押し開けて、躊躇わず中に足を踏み入れる。
幽霊に察知され逃げられたら元も子もないので懐中電灯は点けずに、やがて視力が闇順応を始める。廃棄されて間もないのだろう、荒れに荒れた外見とは相反して、内部は意外と小綺麗に保たれていた。
すぐ左には上階へ伸びる階段があり、ロビーは幾つか支柱があるだけで、開けていて見通しが良いことから、こうなる以前は道の駅的な商業目的で使われていたことが窺える。ちょこっと掃除すればまだまだ使えそうである。後先考えない都市計画の成れの果て……全くもって、勿体無い。
「もったいないお化けが出そうなこの建物を、今じゃ幽霊が隠れ家として再利用してる……。笑える皮肉だね」
「笑えないが、皮肉には違いないな。ま、本当にここに居ればの話だけど」
まずは一階から慎重に索敵作業を開始。といっても、ただっぴろいフロアの隅に幾つか小部屋があるだけの単純構造なので、すぐさま終了。一階には何も居なかった。
そして、次は二階、階段を上がり、見渡す。
二階も一階と同じく、開けた広いフロアだった。足下には、空き缶だの菓子の空き袋などのゴミが大量に落ちていた。……そう、大量にだ。少量なら不法投棄で納得できるが、この量から察するに、やはりここには何者かが住んでいる。
奥の方に幾つかドアが見える。とりあえず、一番奥の部屋から調べよう、と一歩を踏み出した。そのときである。
「―――――」
スッと、まるで俺が二階に来るのを待っていたかのように、支柱の死角から一つの人影が歩み出た。
その姿は白一色で、俺の脳裏に幽霊を連想させたが、タネを明かせば白いスウェットを着たただの人間。
正直、まさかこんなにも簡単に見つかるとは思っていなかった。しかも、向こうから出て来てくれるとは。
「……こんばんわ」
声を掛けると、その人影は困惑したような表情を作り、口を開く。
「あ、あの、すいません。私、ここで遊んでて……」
「は?」
その第一声の意味がいまいち理解できずに、首を傾げたが、ほどなくしてその真意を悟り、心の中でほくそ笑む。ようするに逃げの口上、言い訳である。なぜこんな所にこんな時間に居るのか、そんな誰もがいぶかしむであろう疑問について、訊かれる前に答えようとしているのだ。何かやましいことがある証拠である。しかし、心優しい俺はあえて乗ってあげることにする。
「ふーん、遊んでた? こんな時間に?」
「あの、えっと、肝試しっていうか……冒険っていうか……」
「へぇー、肝試し? 冒険? たった一人で?」
「と、とくかく、たまに一人でここで遊んでるんです。あのっ、すいません、すぐに出て行きます」
必死でわけのわからない弁解を並べ立てたかと思うと、その人影は軽く頭を下げ、俺の後ろの螺旋階段を目指し、歩み寄ってきた。
俺は霞霧と顔を見合わせて肩を竦めた。そうして人影に向き直り、言う。
「その前に、幾つか訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「は、はい……?」人影はピタリと、足を止める。「なんですか?」
「まずあれだ、君はお姉さん? それとも妹さん? どっちかな?」
その質問に人影は、一瞬考えるような、不思議そうな顔を作り、すぐに不安そうな表情になる。
「あの、意味がわかりません……」
「意味がわからないって? なんで? こんなに単純な質問なのに。君には姉妹がいるだろう?」自然と棘のある口調になってしまうが、しかしそれはしょうがない。そうなって然るべき相手なのだ。「君は、その片割れのどっちかって訊いてるんだけど」
「……私、姉妹なんていません」
「おいおいおいおい。もういいよ、白を切らなくて。俺は知ってるから」
「………」
とうとう沈黙してしまった人影に、俺はここで初めて誰何する。
「山田さん……。君は山田さん家の娘だろう?」
人影は、みずぼらしいスウェットを着た、小学生高学年と思しき少女は、目を見開き、驚嘆を顕にした表情で、俺を見る。
「下の名前までは知らないけどさ、とにかく、君は山田さんとこの娘だろう?」
「………違います。私は、私の名前は、よ、横山ケイコ、です……」
誰だよそれ。
子供が咄嗟に思いついた偽名にしてはいっちょ前だが、この期に及んで白を切るとは、図太いというか面倒臭いというか、今風に言うならテラウザス、である。このまま無意味な問答を繰り返すのもなんだか馬鹿馬鹿しいので、そろそろタネ明かしと洒落込もうか。
俺は少女の脇を通り抜け、フロアの中央まで進んで、故意に何食わぬ口調で切り出した。
「それで……男物のサバイバルブーツとか、犯行に使った凶器とか、家から持ち出した諸々の金品とか、もしかしてここのどっかに隠してあったりするわけ?」
「――――――」
少女が絶句する雰囲気を背面で感じながら、続ける。
「たぶん、あるんだろうね。第三者による犯行に偽装して父ちゃん母ちゃんぶっ殺すほどの小賢しいオツムがあるなら、変に処分しようとは考えず、自分と一緒にここに隠した方が利口だ」
振り返り、まるで廃墟に一ヶ月ほど住み続けたような小汚いスウェットを着た少女を見据える。
「それでも、家の風呂を使ってるのはいただけないな。ま、のこのこ銭湯に行くわけにもいかないだろうから、気持ちはわかるけどさ。それでもあまりに浅はかというか大胆不敵というか、狂ってるというか……。近所で幽霊が出るって噂になってるよ」
「お風呂……? ゆう、れい……?」
「そう、幽霊。君の家から夜な夜な物音がするって噂があってね。それで実は俺、今さっき君の家にお邪魔してきたんだけど、そこでシャワーが使われた形跡を見つけたんだ。そうなれば噂の原因はシャワーの物音だということは明白。殺人事件があった家のシャワーを無関係の人間が勝手に使ってるとは考え難い。つまり身内の人間ぐらいしかシャワーを使う奴は居ないだろうし、定期的にシャワーを使っているとなれば、その身内の人間は人目の付かない近所の廃屋にでも隠れ住んでるんじゃないのかなと、そう考えて、ここに辿り着いたというわけだ」
「……シャワーが、使われている……」
少女は眉を寄せ、俺の言葉を反芻するように呟いている。まあ、この反応は当然かもしれない。自分でも論理的からはほど遠いかなり変哲な推理になっていることはわかっている。そもそも、俺は刑事でも探偵でもなんでもないので、無理に推理を理解してもらう必要は全然ない。ただ、こちらの質問に答えてさえくれれば、それでいい。
「で、脈絡もなく最初の質問に戻るけど、君は山田家の長女、次女、どっちなんだい?」
少女は、それでもしばらく俯きながら沈黙を続けた。
そして、数分。
俯いたまま、ゆっくりと眼球を動かして、目線だけを上げて、その先に俺を捉えて、
「あなたはなぁに?」と。
「あなたは何者?」と誰何してきた。
その瞳からは、最初に言い訳をしてきたときのような幼さや弱さが、完全に消失していた。露骨に言うならば、正体不明の者を警戒する視線から、明確な敵と対峙する眼差しに、変貌していた。
悪くない……。
「ああ、そうか」俺はおどけるように肩を竦めて見せる。「大丈夫だよ、警察とかじゃないから。俺はただの物好きな大学生さ。だから君を逮捕するつもりも通報するつもりもない。ただ真実を知りたいだけなんだ」
「………」
少女は何も答えない。
俺はしつこく、繰り返す。
「それで、君が長女か次女かって質問なんだけど――――」
「長女です。長女の山田優子です」
少女改め、優子ちゃんは答えた。四度目にしてようやく、きっぱりと、えらく端的に。
彼女の中で、どんな凄まじい心情変化が行われたのか、俺は知らない。しかしそれでも感じ取れる。何かがフっ切れたような雰囲気を、何か好からぬ覚悟を決めたようなオーラを、感じ取れちゃった。
いいねえ……。
「……ふーん、長女か。へぇー」
実を言うと、彼女が長女か次女かなんて、然したる問題じゃない。この質問は次の質問を切り出すために必要不可欠だったただの伏線である。そして次の質問こそが、俺が一番気になっていた事柄なのだ。
「じゃあさ、次女の方、つまり君の妹さんは――――今どこにいるの?」
「殺しました」
これまた即答だった。微塵の逡巡もなく、微々たる躊躇いもなく、優子ちゃんは即答した。まるで二つ返事をするかのように、クイズ番組の早押し問題のように、答えやがった。殺したと。
たまらない……。
「……一応訊くけど、なんで? ついでに両親殺した動機も教えてくれる?」
「両親は、あいつらは死ぬべき人間でした」
優子ちゃんは虚のような瞳で俺を凝視しながら、語る。
「自分の子供は無条件で可愛いなんて、嘘です。少なくとも家は違いました。世間の目がある昼間は、私を娘として見なしてくれましたが、夜になると、サンドバッグとして扱われました。あいつらは、まるで暴力を振るえる対象を作るためだけに、私を生んだようでした」
能面のような顔で、台本に書かれた台詞を、あらかじめ決めておいた回答を、まるで棒読みするかのように。
それにしても、夜になるとサンドバッグか。中々オツな言い回しをするじゃないか。つまり殺害動機は至ってシンプル、家庭内暴力に耐えかねて、だ。
なるほど、久本家の娘さんが事件が起きる前から聞いていた泣き声と悲鳴というのはそこに繋がるわけか。霞霧はこの少女の動機まで推測していたわけだ。そしてもしかしたら、その虐待の悲鳴を聞いていた久本家の娘さんも、事件の真相を無意識的に推測してしまったのかもしれない。だからこそ、『それは有り得ない』と自己暗示を掛けていたのかもしれない。不変的な日常と我関せず主義から抽出された上等な麻痺薬、と言ったところか。
「そっか……。それで妹さんは? 彼女に罪はないだろう? まさか両親と一緒になって君に暴力振るってたとか?」
「妹は……強盗誘拐殺人に偽装するためには、妹も誘拐されないと不自然だと思ったんです。だからここまで連れて来て、殺して埋めました」
偽装するためには、不自然だと思い、殺して埋めた、か。なんの罪もない実の妹を、その方が自然だからという理由だけで、ころしてうめた。コロシテウメタ。こーろーしーてーうーめーたー、か。
それはそれは、なかなかどうして。
「あ、あなたは……」
と、ここで優子ちゃんは表情を一転。能面のような無表情ではなく、眉間に皺を寄せ、口角を軽く引き攣らせた、何かをいぶかしむような、何か醜いモノを見るような顔に。そして言う。
「……さ、さっきから、何が可笑しいんですか……?」
なんで、なんでそんなに笑ってるんですか、と。
「――――へ?」
笑ってる? あぁあ、俺は今笑っているような貌をしているのか。
夢中で全然気付かなかった。
だってこの子、いや、この事件の全てが、この状況の全てが――――すっげぇ異常なんだもん♪
後ろの霞霧も大喜びさ! そうなりゃ俺だって、
楽しくないわけがない!
「ぷふっ」
耐え切れず、そもそも耐える必要もなく、
「ふぅあはッ、あっははははははははははははははははははははははははははははは!」
俺は笑い声に似た奇声を、開放した。
他人の不幸は蜜の味なんて言葉があるが、しかし、俺のこれは違う。他人の不幸を嗜好するほど悪い性格はしていない。俺の大好物は異常なのだ。他人の異常はステーキ肉400グラムって感じだ。もっとも、異常なんて大抵の場合、不幸とイコールで繋がるわけで、俯瞰的に見れば、俺が他人の不幸を嗜好していると言っても、残念ながらさほど語弊はないんだけどね。
まあ、とにかく。
「はははははははははははははははははははははははははははっ! ふぅ……あーあ」
サンキュー楓彌さん。今回も大変結構な異常でした。
そういえば、楓彌さんと最初に出遭ったとき、彼女は俺達のことをなんて評してたっけな。
秋葉大臣萌え萌えビュンビュン丸……違う。
歩く粗大生ゴミ……コレも違う。
過激妄想変態男……コレはおしいけど違う。
えっと、なんだっけな――――?
「ん?」
その時、不意に、優子ちゃんが動いた。右手を後ろに持って行き、腰の辺りを弄って、
一振りのサバイバルナイフ。
を取り出した。ちょっと遠いし暗いのでよく視えないが、そのナイフは赤い錆のような附着物で汚れている気がする。あれが身内を三人も屠った凶器というわけか。隠し持っていたところから察するに、やっこさん初めから殺る気満々だったようだ。つくづくたまらん。けれども一応命乞いぐらいはしておくか。
「逮捕する気も通報する気もないって、言わなかったっけ? 俺は真実さえわかればもう用がないんだけど」
「そ、それを信じろって、言うんですか?」優子ちゃんはナイフの柄を両手で握る。「……それに、それにあなたは、こ、怖いです。とっても、怖い……」
本当に怖いらしく優子ちゃんの声は震えていた。しかし怖いとは心外だな。ナイフ装備のヤンデレ少女にだけは言われたくない台詞である。
「自衛のために、ついでに口封じも兼ねて俺を殺す、と?」
「………」
口を噤んで、こちらに一歩を踏み出す優子ちゃん。これ以上ないというほどの無言の肯定。
「ふぅん、まぁなんにせよ」
俺は一度俯きがちに嘆息してから、ゆっくりと頭を持ち上げ、たっぷりと少女の瞳を凝視する。
「しっかりしてくれよ。手が震えているぞ殺人者。身内を三人も殺したくせに、今更オボコ気取るってのもないだろうが。あんまりがっかりさせてくれるなよ」
「――――ひ」
俺は一体どんな顔でそんな科白をのたまったのか、優子ちゃんは痺れるように全身を戦慄させて、その恐怖を振り払うかのように、俺の胸目掛けて突進してきた。腕には刃渡り十センチほどのちっぽけな殺意を携えて。
「ふん……。霞霧、殺すなよ」
その言葉は明らかにつまらなそうな顔をして呟いたと思う。
優子ちゃんが俺から一メートルに、ナイフが俺の心臓から九十センチに迫った。
瞬間、
ガツンと、音を立てて、ナイフは天上にぶつかった。
「え」
手ぶらで呆けたような顔をする優子ちゃん。
「僕の弼に、そんなものを向けるな」
右足を天に向けて振り切った、ハイキックの姿勢の霞霧。
そして霞霧は、慣性に従いそのまま前進してくる優子ちゃんの脳天目掛けて、その足を振り下ろす。
「きゃん!」
それは踵落としというよりも、踵による拳骨といえるぐらい正確に、頭部の天辺、聖門に命中。
反射で脳天を押さえ蹲ろうとする優子ちゃん。霞霧はそれを許すまじと言わんばかりに、追い打ちを掛ける。左、右、左と、優子ちゃんの脇腹を突貫しようかというほどの、強烈なコンビネーションボディーブローを見舞った。そして止めは、目一杯腰を捻った、気功弾を撃ち出すんじゃないかというほどに型が決まった正拳突きで、鳩尾を打ち抜いた。
どこッ、と嫌な打撃音が響く。
「か、ふ――――っ」
空気が漏れるような音を発し、崩れ落ちる優子ちゃん。
ガラーンと、ようやくナイフが床に落下する。
「…………」
よほど遠慮容赦なしの当身だったのだろう、優子ちゃんは床にキスをしたまま微動だにしない。見ると、白目を剥いて失神している。
少女が、白目を剥いて、失神している……。
小学生の女の子相手に何やってんだとか、どんだけ鬼畜なんだとか、非人道的過ぎるだろとか、色々と思うところはあったが、相手は小学生以前に一人の殺人犯であるからして、仕方がないよね?
しかし、いつ見ても霞霧の体術は見事なものだ。何を隠そう霞霧は古今東西有りと有らゆる戦闘術に精通しているのだ。以前エアガンでガン=カタを見せてもらったこともある。しかしながら霞霧は道場に通ってるわけでも、元傭兵だったわけでも、実は暗殺者集団の一員だったわけでも、自主練に励んでいるわけですらない、これも全て偏に読書の賜物なのだ。霞霧曰く『百聞は一見に如かずという諺があるけれど、それは裏を返せば、一万聞すれば百見ぐらいには相当するということだよ』らしい。
病的なまでに繰り返された妄想は、現実の錬度を凌駕する。
つまり、霞霧は身体を動かして技を覚えるのではなく、読書での頭脳労働だけで技を吸収しているのだ。そんな無理が通れば道理が引っ込むの無茶理論を、こいつは見事に実践してしまっている。
「白か……」
そして当の霞霧は、意識を失った優子ちゃんのズボンのゴムの部分を摘まみ上げ、その中身を覗き込んでいた。
最低だ。こいつ最低だ……。
「さて、弼。それで、どうするんだい?」
こちらに向き直り、朗らかな口調でそんなことを訊いてくる最低男。
「どうするって、決まってるだろ。真実は明かされたし犯人は伸びてる、そうなれば善良な市民がすることは一つだ」
俺は欠伸をして、軽く嘆息する。
「帰って寝る」
そんな俺を見て、霞霧は鼻を鳴らしつつ、
「そう言うと思ったよ」
小悪魔っぽく、微笑した。
/1
アパートに着いたのは午前三時頃だった。
弼は着くや否や、布団に倒れ込み、寝入ってしまった。
僕(霞霧)は弼の隣に座り、その綺麗な頬をそっと撫でてみる。
「弼、寝てるかい?」
反応がない。
今度は寝転がり、弼の美しい顔と数センチに肉迫してみる。
「弼、今日も添い寝するよ?」
無反応。
更に、その愛らしい唇を軽く指でなぞってみる。
「弼、食べちゃうよ?」
「うーん」と、すこぶる嫌そうな寝顔をした。けれども泥のように眠ったままで(弼を泥に形容するのは若干以上に抵抗があるけれども)起き出す気配は一向にない。まあ無理もない、久しぶりの労働で疲れているのだろう。
さてと、僕は立ち上がり、忍び足でアパートを後にした。
向かうべき場所はただ一つ。
弼の調査は一応に完了したんだから、放っておいても構わないし、むしろ放っておくべきなんだろうけど、僕は僕で疑問や違和感を解消しなければ気がすまない性質なのだ。それに、楓彌さんは僕のことをおまけのサポート役とか言っていたけれど、おまけにはおまけなりの役割というものがある。
だからこそ、向かうべき場所はただ一つ。
果たして彼女達はまだあそこに居てくれるかな?
5
「おいコラ、てめぇ、どういうつもりだ?」
正午におっきした俺は幽霊調査の結果報告をするために楓彌さん宅を訪れたのだが、ドアを開けるや否や、楓彌さんは罵声とも暴言とも取れるようなそんな疑問文で俺を出迎えた。
ちなみに今日も平日で授業も普通にあったのだが、自主休校したのは言うまでもない。
「……どういうつもり、と言いますと?」
ビクビクおどおどな俺の質問返しに、楓彌さんは「あぁん?」と小首を傾げて俺の後ろの霞霧を見るようにしてから、チッと舌を打った。
「ああ、そうか。お前じゃないのか。ならいい」
ひらひらと手を振ってから、回れ右をして奥の作業部屋に引っ込む楓彌さん。
「はあ……?」
全く意味がわからずに、背後の霞霧に目をやると、そっぽを向いていた。その様子に若干の違和感を覚えたが、とりあえず俺も楓彌さんの後に続き部屋に入る。
「それじゃあ。……よっと」と、楓彌さんは定位置の回転椅子に腰を埋め、シガーケースから取り出した葉巻を銜え、プラプラと動かす。「とっとと調査報告を聞かせろや」
俺はすかさず火を差し出してから、事の顛末を語った。
何時、誰が、何処で、何をして、何を言い、何を思ったか、5W1Hよりもずっと明確且つ子細に、脳内で記憶の情景を呼び起こしながら、一言一句漏らさぬように言葉で描写する。
実に地味ではあるが、これが俺の仕事のハイライトともいうべき作業だった。いや、ハイライトというよりも難所というべきか……。殺人犯を相手にするよりもずっと神経を使う。
「――――とまぁ、そんなわけだったわけですよ」
そんな言葉で報告を結び、楓彌さんを窺うと、聞いていたのかいなかったのか、宙を見上げながら、口から煙のわっかを吐き出して遊んでいた。
「……あの、楓彌さん?」
「あん? なんだ、もう終わったのか?」
えー、終わったのかって……。適当に報告したらブチ切れるくせに、真面目に報告したら露骨に退屈がるんだもんなぁ。まあいつものことなんだけど。
「いや、しかし予想はしてたけどつまらんオチだったな。要するに幽霊じゃなく、シズカちゃんばりに風呂が大好きな犯人がいたって、それだけの話か。仕方ねえけど、単純に推理できるようなオチはつまらん」
遊んでたくせにしっかり話は聞いている楓彌さんだった。
「推理できるって、やっぱり楓彌さんも知ってたわけですか……」
「それは事件の真相をあたしが知っていたのかって意味か? だとしたら答えはニョエス。知らなかったが推測はできたという意味だ」
またニョエスだ……。流行ってるのか?
「まぁ、タネを明かせば単純な事件でしたけど、俺は楽しかったですよ。少なくとも、両親と姉妹を殺す少女ってのはなかなかレアでしょう」
「この極東の島国で見たら、な。世界規模で見たらそんなガキは五万といる。ポケモンで言うならピッピばりさ。しかし」と、ここで楓彌さんは明らかに故意に俺の顔に紫煙を吐き掛ける。「お前みたいな奴は一人もいないだろうけどな。ミュウツー」
「………」
俺は黙って、親指を立てて見せた。
「褒めてねえ」
ビシッとローキックを喰らう。ミュウツー5のダメージ。
「ま、楽しかったかどうかはともかくとして、放っておいても自然に解決するような事件でしたね。週一ペースで実家の風呂に通ってたら、まず間違いなく近いうちに誰かに見つかってたでしょうし、むしろ今まで見つからなかったのが奇跡的です」
「かもな。もっとも、この事件は永久に迷宮入りすることになるだろうけど……」
「え? なんでですか?」
そりゃあ、俺も楓彌さんも警察機構に協力するためにこんなことをしているわけじゃないし、通報なんてとんでもないけど、それでも迷宮入りするような事件だとは思えない。警察とて無能だが馬鹿ではないのだ。
「……いや、こっちの話さ」楓彌さんは俺の問いをそんな風にあしらい、机の引き出しから財布を取り出し、「なにはともあれ、ご苦労さん」と、財布の中身を見もせずに適当に鷲掴んだ札束を、宙に放り投げた。
事もあろうに、現ナマを投げた。
ひらひらと舞う万札が、音も立てずに足元に散らばる……。
「どうした? 早く拾えよ、餌に群がるブタのようにな」
酷い、酷すぎる。どんな給料の渡し方なのだ……。
そんなことを思いつつ、床に這いつくばってブタのように万札に飛びつく俺。お母さん、ごめんなさい。
「いや、一緒にしちゃあ豚に失礼か。いつの世だって、一番醜い動物は人間なんだから……」
と、なんの脈絡もなく三文小説のような締めに入ろうとする楓彌さん。
「……弼」憐れむような声を俺の尻に掛ける霞霧。「もうちょっとプライド持とうよ……」
黙れ。お前の生活費と書籍代は俺がこうして集めているんだ。もっと敬え。
そうして、拾い集めたその額は、仏頂面の諭吉さんが、ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ……、八万円なり。昨日、一日働いただけで八万円、いや、実際に働いたのは四時間ほどだ。つまり時給二万円のバイト。法に触れずに(触れてないよな?)、身体も売らずに時給二万、美味し過ぎる。まぁ普通に考えたら、命を賭して(ナイフで襲われて)八万円というのはちょっとどうかと思うが、生憎こちとら普通じゃない。ナイフで襲われたというハプニングも含めて、このバイトはうま過ぎる。趣味を仕事にしていると言うべきか。これだから辞められない。
「ありがとうございますっ。今後もよろしくお願いしますっ」
丁寧にお礼を言って帰ろうとしたら、「待て」と楓彌さんに呼び止められた。
「……霞霧はちょいと残れ」
「へ?」
霞霧ではなく俺が疑問符を発してしまう。
「霞霧に何か用ですか?」
「いいから、お前は外で待ってろ」
「はあ……」霞霧に目をやると、いつものおすまし顔で肩を竦めて見せた。「じゃあ外で待ってるからな」
いぶかしみながらも俺は部屋を出た。
/2
楓彌さんは弼の気配がなくなったのを確認した。そして言った。
「さて、邪魔者は消えた。そろそろ本当のところを話せよ」
「邪魔者? 僕の弼を邪魔者扱いして欲しくないね」
僕(霞霧)の眉間に自然と皺が寄る。それに対し楓彌さんはニヒルに唇を吊り上げる。
「おいおい、あいつに隠しごとしてるのはお前だろ? それとも別に聞かれても構わなかったのか? あたしのお節介だったか?」
「別に隠してるわけじゃないよ。ただ、知らなくてもいいことは知らせなくていい、そう思っただけさ」
「そうかい。しかしあたしには知る権利がある。なんたって幼女を二人も面倒見せられたんだからな」
葉巻を灰皿に押し当てる楓彌さん。その甘ったるい臭いに、僕は顔を顰めた。
「……事後承諾になったのは謝るよ。じゃあ、謝罪の代わりに真実を話そう」
「弼のとは違う、とびきりのオモシロ話を所望するぞ」
「所望されても困るけどね。これから僕が話す真実とさっき弼が語った仮の真実は、実のところ内容的には大差ないよ。それに」僕はわざとらしく言葉を区切り、遠くを見るように宙を仰いだ。「それに真実とは大抵の場合、つまらないものさ。勿論、今回もね」
そして僕は、昨晩の出来事を思い返す。
先ほど訪れたときと寸分違わぬ姿で、郊外の廃墟はそこにあった。まぁ、当然である。変わっていたら嫌だ。
僕はしばらく両目を瞑り、目蓋の暗闇に視力を慣らしてから、中に足を踏み入れた。
足音を立てないように慎重に歩き、そして二階へ。階段の終盤の辺りに差し掛かったところで、二階のフロア、その中央付近に人影を見つけた。
それは当然、僕がついさっき伸した少女、優子ちゃん。床にぺたんと、女の子座りをしている。
階段を上がり切り、足下に散乱した様々な生活ゴミを注視してから、それらを足で蹴るようにして進む。
と、そこでようやく優子ちゃんは僕の存在に気付いたようで、こちらに目をやり、驚愕の表情を顕にする。
「やあ、また会ったね」
「な、なんで……?」優子ちゃんは素早く立ち上がり、僕の姿を見てトラウマ的な記憶でも思い出したのか、腹部の辺りを押さえながら口を開く。「なんで……、何をしに、戻って……?」
支離滅裂だが言いたいことはわかる。
「さっき弼が言ったと思うけどさ、僕らは真実を知りたいんだ」僕はポケットから取り出した煙草の箱から一本銜え出し、マッチで火を点けた。銜え煙草のままふーっと紫煙を吹いてから、続ける。「君がさっき話してくれたのは、全部とは言わないけどほとんどが出鱈目で、真実じゃないだろう?」
「そんな、何を言って……?」
この後に及んで白を切り通そうとする優子ちゃんに、僕は煙草のフィルターを八重歯で噛み締めた。
「いちいち説明してあげないとわからないかな? いいかい、まず君は、さっき僕らが来たとき、自分から進んで姿を現しただろう? まるで誰かを庇うようにね。そして、弼がお風呂の件を解説しているときは、君は何も知らない風だった。それは本当に君が知らなかったからだ。更に、実は君が気絶してるとき、下半身を拝見させてもらったんだけど、傷一つない綺麗な身体だったよ。日常的に虐待を受けていたように見えなかった」
そして何より、と僕は一歩を踏み出した。
すると、優子ちゃんは「――――ひぅッ」と、悲鳴とも奇声ともとれない音を発して、盛大に肩を揺らしながら後退る。
「そう、その反応だよ。そんな可愛らしい反応を見せる君は、とてもじゃないが両親と妹を殺すような異常者には見えない」
「………」
俯いて、唇を一文字に結ぶ優子ちゃん。
意地でも喋らない気だろうか。
身体に訊いてもいいのだが、あんまり酷いことをすると弼に後ろめたいので、しょうがなしに、僕は口の煙草を手に移して、叫ぶ。
「おーいっ、居るんだろう! 僕の堪忍袋の緒が残っている内に、出て来た方がいいよ! さもないと優子ちゃんが泣いたり笑ったりできなくなるよー!」
凶悪な常套句が暗闇に滲み込むように響く。
すると、
「あんまり苛めないでよぉ」と、
「これでも大事なお姉ちゃんなんだからぁ」と。
よく通る明るい、けれども幼年期特有の舌足らずな声を発しながら、奥の小部屋から、一人の少女が歩み出て来た。
闇の中でも映えるような気味の悪いピンク色のパジャマを着た、愛らしい少女、否、幼女だ。
「きょ、鏡子……」
優子ちゃんはその幼女を見て、何かを諦めたかのように頭を垂れ、そのまま力なく床に崩れた。
サポート役の面目躍如。僕は自分の推測が正しかったことに心の中でガッツポーズを取りながら、煙草を口に戻した。
「……大事なお姉ちゃん、か。すると君は」
「うん、私、山田鏡子。よろしくね、お兄ちゃん」
ぺこりと、年齢相応の可愛らしいお辞儀をする鏡子ちゃん。もっとも、こんな状況でそんなお辞儀をするのは全く年齢相応じゃないのだけれど。
「山田鏡子ちゃんか……すると山田家の次女だね。ついさっき、そこに居る優子ちゃんから殺したって聞いたんだけど、見たところちゃんと足も生えてるね」
「お姉ちゃんが嘘を吐いたのは謝るよ。でもぜーんぶ私を守るためなの」
「と言うと?」
「あは、わかってるくせに訊かないでよう」
鏡子ちゃんは爛漫な笑みを頬に湛えながら、
「そんなの、私がお母さんとお父さんを殺したからに決まってるじゃんか」
と。そう言った。
けらけらと、笑ってから、床に座ったままの優子ちゃんを背後から抱く鏡子ちゃん。こんな状況でなければ、それは実に微笑ましい光景だった。こんな状況だからこそ、弼が居たら、狂喜乱舞するほど異常な光景だった。
「お姉ちゃんはね、私がお父さんとお母さんを殺した後、だいさんしゃのはんこーにぎそーしてくれたんだよ。それにさっきは自分を犯人だと言って、私まで殺したことにして、ねー?」
鏡子ちゃんは同意を求めるように背後から優子ちゃんの顔を覗き込む。優子ちゃんは泣きそうな顔で、それでも戸惑うような微笑を浮かべた。
「なるほどね……」
おおまかにではあるが、僕の推測は当っていた。だがわからない部分もある。もっとも、それはわからなくて然るべきな動機と呼ばれる部分についてなんだけれども。
「しかし優子ちゃん、君はなぜ鏡子ちゃんを助けるような真似をしたんだい? 両親を殺されたんだろう? 恨みこそすれ、庇うような道理は微塵もないと思うけど。それに、第三者の犯行に擬装したなら、わざわざ家を離れる必要はなかっだろう?」
そう、単純な強盗殺人にすればいい。誘拐などを間に入れずに。もっとも、その場合、保護された彼女達が警察の聴取にどこまで耐えられたかは甚だ疑問だけれども。
優子ちゃんは俯き、ふるふると震えるように首を振り、嗚咽に塗れた声を漏らす。
「……だって、この子は、私の妹なんだから……もう、たった一人しかいない、家族なんだから……刑務所なんかに、行かせない……。私、私は一人に、なりたくない……。それに、それにこの子は、私にだけは優しいから、ずっと、ずっと二人で、ここで暮らせば、誰にも迷惑は掛からないから、だからっ………」
「……そうかい」
家族を殺した張本人である妹を、残った唯一の家族だからという理由で庇う姉。
壊れた幼女を、封印するかのように廃墟で匿う少女。
彼女は、咽び泣きながら鏡子ちゃんの膝に縋り付いている。
その矛盾した理屈じゃない理屈は、わからなくもないけれど、その気持ちに対しては、さっぱり皆目微塵も理解できない。
鏡子ちゃんは、そんな優子ちゃんの頭をそっと抱いてから、こちらを見た。
「お兄ちゃん、そういえばさっきお姉ちゃんはいじょーしゃに見えないって言ってたけど、私はどう?」
私は異常者に見える? と問うてきた。
「見えるよ」
僕は即答する。
「紛う方なく、君は正真正銘の異常者さ、鏡子ちゃん」
うふふ、と満足げに、鏡子ちゃんは笑った。
もし、今の彼女が同年代の女の子達と集合写真のように並んだとしたら、その笑顔は周りの普通のそれと比べて何も変わらない、純真無垢で屈託のない笑顔だろう。
異常と通常は紙一重、ではなく、表裏一体。
見るからに異常な人間がいたら、それはただの変態であって、僕らの云う異常者ではない。
真性の異常者とは、ケースバイケース、状況と環境に合わせて、その異常性を発揮するものなのだ。だから厄介なのだ。
たとえば――――弼や僕のように。
鏡子ちゃんの場合は、彼女の通常モードを僕は知らないので、何とも言えないけれど、きっと普通に周りと馴染んでいるのだろう。爪を隠した鷹が雀と編隊飛行するように、牙を隠した狼が羊の群と戯れるように、外見上は普通に生活していたのだろう。
「おっと、異常で思い出したけど、一応確認で訊いておこうかな。家のお風呂を使っているのは君なんだよね? 君ほどになれば、そんな狂行は簡単にやってのけそうだ」
「ああ、そういえばお兄ちゃん言ってたね、ゆーれーがどうとか、おふろがどうしたとか」
しかしそこで、鏡子ちゃんは難しそうな顔をして、小首を傾げた。
「……でもね――――私知らないよ?」
「――――え?」
「だって私、お姉ちゃんと一緒にずっとここに居たもん。私が一人で出歩こうとしたら、お姉ちゃんに止められるよう、ねー? お姉ちゃん」
優子ちゃんは頷き、そして伏目がちにこちらを見る。
「……私達は、本当にその、お風呂とかは知りません……」
「そう、なのかい……?」
確かに、その通りだ。
優子ちゃんが鏡子ちゃんの一人歩きを許すとは思えない。
それに彼女達の姿をよくよく見れば、油で黒光りする髪に薄汚れた肌を見れば、定期的にお風呂に入っているようには、とてもじゃないが見えない。
じゃあ一体――――誰がお風呂を使っていたんだ?
優子ちゃんではなく、鏡子ちゃんでもない。実はそれは本当に幽霊の仕業だったとか、そんな使い古されたオチも気に入らない。
となると……。
「ああ、畜生」
そうか、そうだったのか、そういうわけなのか。
なるほど、全てに合点がいった。
弼に偉そうな高説を宣っといて、僕も見誤っていた。そして、幽霊の手の上で踊らされていた。
まったく、どいつもこいつも、嘘吐きだ。本当にどいつもこいつも、この話の登場人物は誰一人として正直者がいないというほど、とんでもない嘘吐きだ。
不思議そうな視線を寄越す山田姉妹に、僕はあることを訊こうかと思ったけれど、きっとお優しい優子ちゃんはまた嘘を吐くだろう。それでまた問答に発展するのも、そこはかとなく面倒臭いので、やれやれと嘆息するだけに止めた。
「……じゃあ僕はもう帰るよ。真実さえ解れば満足だ」
「あれぇ? 私がお父さんとお母さん殺したどうきとかは訊かないの?」と鏡子ちゃん。
「訊かない。優子ちゃんと君は違うんだ。異常者の動機なんて不確かなモノ、僕の辞書の真実という単語にはカテゴライズされてないよ」
涙なくしては語れない、それ相応のホームドラマがあったのかもしれないけれど、僕はそんもの望んでいない。それに、そんな些事、わざわざ訊くまでもなく、なんとなく推測できる。
鏡子ちゃんは可笑しそうにくすりと笑う。
「さっきからいじょうしゃ、いじょうしゃって……お兄ちゃんだってそうじゃんか」
「否定はしないけどね」
僕も不敵な笑みを返して、二人から視線を外し、階段へと向かう。
「あのっ、待ってください!」
すると、背後から優子ちゃんの制止が掛かった。
僕はうんざりした様子を如実に顕にしながら振り返る。
優子ちゃんは思い詰めたような必死の顔で、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あの……私達を、助けてくれませんか……?」
「は?」
「……できればずっと、このまま二人でここで暮らしたいんですが、やっぱり……やっぱりそれは無理です。近いうちに絶対見つかってしまいます……」
「だろうね。それで?」
「……あの、だから……、無理を承知でお願いします。私達を、いえ、鏡子だけでも、助けてあげてください……」
たどたどしい口調で、露骨におどおどしながら、それでも恐怖を必死に抑え込め、僕の眼を見て訴える優子ちゃん。
僕は嘆息するように紫煙を吐き出して、後ろ髪を払う。
「助けろとは言ってもね、具体的にどうして欲しいのさ? それに、君達を助けることで僕に何かメリットが生じるのかい?」
「お金なら、そこの部屋に家から持ってきたお財布があります、少ないですけど……」優子ちゃんはそう言ってから、急に頬を赤らめ、何か変な覚悟を決めたように唇を一文字に結ぶ。「あ、あの、それで足りないようなら、私、体だって……」
「からだ?」僕はきょとんとしてしまう。「それは身体を売るって意味かい? 君の貞操が報酬だという意味かい?」
しばらく俯いたまま黙っている優子ちゃんだったが、ほどなくして、こくんと頷き、肯定した。
妹を助けるために、姉は自分の貞操消失を肯定した。
自分の、女の子なら誰でも持つであろう貞操概念を、否定した。
ぽとりと、煙草が足下に落ちる。
それは、僕が大きく口を開けたからで、
あは。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
素晴らしきかな姉妹愛!
優子のユウは優しいの優!
ここまでくると彼女の方が異常に思えてくる!
本当にイカレてるのは妹にあらず姉だった!
僕の咆哮するかのような大爆笑に、優子ちゃんは小さな悲鳴を漏らして、顔面を蒼白にし、
鏡子ちゃんは目を爛々と輝かせ、口を三日月型に吊り上げていた。
「紙とペン」僕は笑い過ぎて目じりに浮かんだ涙を拭いながら言う。「紙と何か書くもの、速く」
優子ちゃんはしばらく呆けていたが、立ち上がり、奥の部屋に走って行った。
すぐに戻って来た優子ちゃんは、小さな筆箱と連絡帳と書かれた小さなノートを持っていた。もしかしたら勉強道具一式までも家から持ってきたのだろうか……。
だとしたら尚傑作だ。
僕はそれを受け取り、ノートを数枚破いてマッチで火を点け、光源を確保。
そして一筆、うろ覚えな住所と地図を描く。
「はいこれ」
ノートを返された優子ちゃんは、僕が描いた地図を見ながら眉を寄せた。
「あの、これは……?」
「そこに怖いお姉さんが住んでるから、行ってみるといい。もしかしたら、本当にもしかしたら程度のか細い可能性なんだけど、何とかしてくれるかもしれない」
「え……? 私達を、助けてくれるんですか?」
「僕は助けないよ。何とかしてくれるかもしれない怖いお姉さんを紹介するだけさ」
一瞬、呆けるような表情をした優子ちゃんだったが、
「あ、ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
すぐに泣きそうな顔になって、何度も頭を下げた。
「お礼を言うのはまだ早いし、そもそも言うべき相手は僕じゃないよ。それに、そのお姉さんは何とかしてくれるかもしれないけど、君達を助けるわけじゃない」僕は欠伸をしてから、続ける。「仮に、そのお姉さんが何とかしてくれたとしても、結果として訪れる君達の人生は、とてつもなく凄惨なものだろうと、そういう意味さ」
「……え、あの、それは、どういう……?」
「つまり、長いスタンスで見たら、この行為は決して君達を助けることにならない。それでもいいなら、行ってみるといい」
優子ちゃんは意味不明といった感じだ。
僕は肩を竦めてから理解できないならいいさ、と階段へ向かう。
「え? あの、お金は?」
「いらないよ。ちなみに君の貞操もいらない、弼だったら即行で君を脱がしに掛かったかもしれないけど、生憎僕に少女趣味はない、残念だったね」
ひらひらと後ろ手を振り、僕は格好よく階段を降りる。しかし、
「待って、お兄ちゃん。最後に訊いてもいい?」
と、鏡子ちゃん。
にやにやと、嫌らしく笑いながら、言う。
「お兄ちゃんさぁ、さっきからタスク、タスクって、ずっと言ってるけど、タスクって――――」
「黙れ」
僕は鏡子ちゃんの言葉を止めた。
自分でも凄まじい声色になっていたと思う、流石の鏡子ちゃんも怯むほどに。
そして僕はそのまま、何も言わずに廃墟を去った。
●――――――
僕の説明が終わると、楓彌さんは気だるそうに宙を仰いだ。
「なるほどな。そういう経緯であのガキどもは家に来たってわけか……」
そしてこちらに目をやり、ニヒルに笑った。
「しかし、読めたぞ。お前がその真実を弼に黙ってる理由。要するに、妹があまりにも異常過ぎて、気に入らなかったからだろ? そんな異常を目にしたら、あいつ発狂するかもしれねえからな」
僕は肯定もせず否定もせずに、肩を竦めて見せた。
「しかし楓彌さん。あの二人に会ったのなら、わざわざ僕が話すまでもなかったんじゃない?」
「あたしはあの二人から何も聞いてないよ。犯人からのネタバレなんてクソつまらんだろうが」
「楓彌さんらしいね……。それで、紹介した手前一応訊くけど、あの二人どうしたの?」
「あん? わかりきったことを訊くんじゃねえよ」楓彌さんはとびきりの邪悪な笑顔で言う。「需要がある所に供給したまでさ。あの二人が見つかるのは、死体になったときだけだろうな。だからこの事件は迷宮入りさ」
僕はもう一度肩を竦めた。
「ひどいね。彼女らはどことも知れない少女趣味者の慰み物になるわけだ……」
「うん? 勘違いしてねえか? あたしはこう見えても平和主義者なんだよ。何もロリコンだけに少女の需要があるわけじゃない。例えば、あくまで例えばの話だが、暗殺目標を油断させて近付けるような手駒が必要な組織だってあるだろうに」
「……そんな組織とも繋がってるんだ」
実に嫌なパイプを持った平和主義者だった。
そして、――――実に都合のよいパイプだった。
あの二人は更なる異常者に仕上がることだろうと、僕はほくそ笑む。
「ま、そんな組織に売ったのはともかくとしてさ、楓彌さんが素直に彼女らを受け入れたのには驚いたよ。叩き帰されるのがオチだと思ってたけど」
「ああ、金持ってたからな」
僕は予知に近い嫌な予感を感じた。
「もしかして、彼女らが持ってた額って、八万円?」
「いや、十六万あった。半分はあたしが紹介料として頂いて、あとの半分をそっくりそのまま弼の財布に再インストール」
「……別にいいんだけどさ」
なんだか釈然としないなぁ……。
楓彌さんは葉巻を銜えプラプラさせていたが、火点け役の弼が居ないのにようやく気付いたらしく、舌を打ってから自分で火を点けた。
しばらくの沈黙。
まだ幾つか謎が残っているというのに、楓彌さんが何も言わないものだから、僕は訊いてみる。
「ねえ、楓彌さんはさ、どこまでわかっているの? 幽霊の正体について」
すると、楓彌さんは煙草を吸って、紫煙と一緒に唾棄するように吐き捨てた。
「だから、わかってることを訊くんじゃねえよ。そんなの、全てに決まってる」
最初から、全て推測していたに決まっている、と。
ちょっと悔しいな……。
楓彌さんは僕よりも一枚も二枚も上手だったというわけだ……。
まったくもって、やれやれだ。
楓彌さんは軽く首を傾げ、手首で眼鏡の縁を上げた。楓彌さんが眼鏡の位置を直すときの癖だ。猫が顔を洗うみたいで可愛らしいな、と思う。
「あたしはな、ぶっちゃけた話、事の真相なんてどうでもいいんだ。ただ、お前らが危険な異常を解明しようとする過程、つまりストーリーに興味があるんだよ」
「………」
楓彌さんがお金を払ってまで、異常の解明を弼に依頼する理由。異常を異常に蒐集するわけ。
それはつまりただのネタだ。
楓彌さんは漫画家なのだ。僕らの暗躍を漫画のネタに使うつもりなのだ。しかし楓彌さんは描いた漫画を一度だって僕らに見せてくれたことがない。そういえば、描いてる姿だって見たことがない。
煙を吐き出しながら、楓彌さんは続ける。
「お前らは金が貰えて、しかも大好きな異常に遭遇できるんだから良いこと尽くめだろ。あたしと利害が一致してる」
「そうかもね……。少なくとも弼はそう思ってるだろうね」僕はもっともらしく頷いてみせる。「しかし、だからこそ僕は心配なんだよ。いつかその異常に弼が喰われるんじゃないかってね」
「ははっ、ミイラ取りがミイラ……いや、ミイラがミイラに喰われるってか? だったらまず心配ない。なにしろ」
楓彌さんは蔑むような表情で一瞥してきたかと思うと、急に顔色を変えた。不敵な笑顔に。そして言う。
「お前らこそが、この街一番の異常者だからな。愛称は、異端タンだ」
お前らが喰われるほどの異常なんて、あたしは見聞にして知らないよ、と。
僕はバレリーナのように、もしくは道化のように、左手を後ろに回し、足を交差させ、右手を振り下げ、大仰なお辞儀をして見せた。
そして、弼が待つ外へと出た。