2
2
「なあ、思ったんだけどよ」
時刻はちょうど午後四時。本日の仕事を終えかけた太陽がラストスパートをかけている中、中学校もちょうど下校になるであろうこの時刻を見計らって、噂の発信者である久本家の娘さんを尋ねるために紫白町外れの住宅街へと歩を進めながら、気になっていたことを霞霧に問う。
「楓彌さんもお前も、何か知ってるよな?」
「何かとはなに?」
「えっと、いやさ……何かつったら何かだよ」
自分でもどうかと思うほど頭の悪い質問だが、本当に漠然とした『何か』とした言えないのだから仕方がない。
「だってお前、例の山田さん宅の事件を単純で異常な事件とか言ってたじゃん? それに楓彌さんも何か知ってる風だったし」
「それは僕と楓彌さんが事件の真相を知っているのか、って意味かい? だとしたら、答えはニョエス」
「なにそれ!?」
「ノーとイエスを合体させてみました」
だったらノエスになるだろ、ニョはどっから来たんだ、などという突っ込みは棚の上にでも置いといて、否定と肯定を合体させたということは、どういう意味になるのだろう?
いや、待て。それ以前に事件の真相と言ったか? それは全体どういう意味だ。強盗誘拐殺人じゃないのか……?
「真相とは、そのままの意味。ニョエスとは、知らないけど推測はできるという意味だよ。そしてその推測は、どうでもいい些事を無視するならば、80パーセントの確率で真相と相違ないだろう。楓彌さんも同じだと思うよ」
「80パーって……ほとんど間違いないじゃないか」
「20パーセントの確率で間違いあるかもしれない。これはあくまで曖昧模糊な推理・推察・推測でしかないんだよ。0.1パーセントでも否定できない可能性がある限り、それは間違いないとは言えない。もっとも、そんなことを言い出したら世の中に確かなものなど一つも無いのだけれどね」
ハハハハハ、と難しいことを言って笑う霞霧。俺は小数点以下の数値は切り捨てるタイプなのでシブイ顔をしながら言う。
「ま、なんでもいいけど。その80パーセントを教えろよ」
霞霧は俺の顔をじいっと見て、大きな瞳を半月状にした。つまりはジト目。
「……楓彌さんも言ってただろ? メインはあくまで弼であり、僕はおまけだ。弼風に言うならスタンドみないなもの。スタンドがベラベラ喋っちゃおかしいだろ?」
それを言うならすでに喋り過ぎな気がする。一人でセックスピストルズばりの饒舌さだ。
「それに、弼が依頼されたのは幽霊の調査だろう? 事件の捜査じゃない」
「まあ、そうなんだが……。どうせお前は幽霊の方にも見当が付いてるんだろ?」
「ふふん、さすが弼。僕の心内に関しては鋭いね」
と、そんなことを話している内に、久本家の前に到着した。もっとも、正確には久本家を目指していたわけではない。そこそこ慣れ親しんだ町ではあるが、ここは町の外れで俺の網羅している中心部からは遠い故、数多ある家屋の中から一軒だけを目指すなんて芸当は不可能だった。ではなぜ到着できたのかというと、隣の家のネームバリューの恩恵だ。
『山田』。
表札で踊る在り来たり過ぎて逆にレアな名字。
ニュースやワイドショーで散々観てきた白塗りの都心風家屋。
殺人事件があったと言っても、一家総員被害者でプライベートもクソもない。報道の自由に則って、テレビでは近所の映像や害者の顔写真が普通に公開され、週間情報雑誌には周辺地図まで載っている。だから俺のような物好きも、こうして容易に見物できるわけだ。
「……んんー」腕を組んで、仰ぎ見る。「どうじゃ? キタロウ」
「何も感じないよ、父さん」霞霧は乗ってくれた。「……でも、どちらかと言えば僕はネコムスメのポジションに憧れるけどね」
「あっそう。でもお前はヌラリヒョンって感じだな」
差し詰め俺はイッタンモメンだ。キタロウどーん。
そしてイッタンモメンの俺も何も感じない。生まれつき霊感の類はゼロなので悪寒を感じることも、当然髪の毛がピーンと逆立つこともない。そもそもそういうモノは信じていない。こちとら目に見える物だけを信じる、物質文明の申し子なのだ。
「キープアウトのテープとかないんだね。一ヶ月も経てば当然か」
きょろきょろと、色んな角度から山田家を観察しつつ霞霧が言った。
確かに。俺ももう少し物々しい雰囲気を想像していたのだが、一ヶ月の期間は警察の初期捜査を終わらせ、世間の興味を失わせるには十分過ぎるのかもしれない。もっとも、幽霊調査を依頼されたからには出現スポット、つまり山田家の内部を検証してみるしかなく、夜な夜なの不法侵入を企てている俺達からすれば都合が良い。
そんな物騒なことを考えていると、遠方から複数の女の子がはしゃぐような声が聞こえてきた。
見ると、通りの向こうから女子中学生とおぼしきセーラー服の一団が、こちらに歩いて来る。
予想通り、この時間帯は中学校の下校タイムのようだ。それはいいのだが、果たして久本家の娘さんは部活動に属しているのだろうか。部活をしていなくても、遊び盛りの中学生が真っ直ぐ家に帰ってくるだろうか。最悪、あと数時間は待ちぼうけをくうことになる。そんなことは来る前からわかっていたのだが、この実家の前で待ち伏せ作戦しか採用できそうな案がなかった。
中学校に直接赴くという案は、不審者多しのこのご時世、何者とも知れぬ自称大学生を簡単に通すとは考え難く、一番楽な案は夜分遅くにお邪魔して娘さんから話を聞き、その足で山田家に侵入するという物だったのだが、同じ理由で却下。『すいませーん。お宅の娘さんから隣の家の幽霊について訊きたいんですがー』そんな奴が訪ねて来たなら、俺ならゲットアウトサノバビッチと間髪容れずに追い返す。
楓彌さんは接触も容易だろうなんて言ってたが、刑事やマスコミならいざ知らず、大学生の肩書きと原付き免許しか持ってない俺が、顔も知らない人間と接触するのは結構大変なのだ。
まあ待つしかないか、と久本家の塀に背を預け唸っていると、
「あのー……」
不意に、横から声を掛けられた。目をやると、おとなしそうなロングヘアーの、セーラー服を着た小柄な少女が不安そうに俺を見上げている。少し距離を置いた位置には、同じくセーラー服姿の三人組が警戒するような眼差しでこちらを窺っている。どうやら先ほど向こうから歩いて来ていた一団のようだ。
「あの」少女は再び呟くように言う。「私の家に何か用ですか?」
「ん、私の家って……。え、もしかして、君、久本さん?」
「はい、そうですけど」
おお、ラッキー。待つ必要はなくなった。
普段ツイてることの少ない俺としては、後で良くないことが起こるんじゃないか、と余計な勘ぐりをせずにはいられないが、とりあえず今は目先の僥倖に感謝しておこう。
「えっと、俺は大学生で、ミステリー研究会ってとこに入ってるんだけど、ちょっと隣の家の幽霊について聞かせてくれない?」
まずは怪しまれないように身分を明かした。ちなみにこれは嘘ではない。俺の大学にはミステリーサークルなる怪しげな研究会(愛称ミス研)が存在しており、俺はそこに(楓彌さんからの指図で嫌々)席を置いている。もっとも名前の通りミス研の専門は宇宙人的な与太話で、霊的なモノの存在は一切否定しているのだが。
理由も教えずいきなり幽霊の話を訊くのもよろしくないと思ったので、利用させてもらったのだが、マズイ。久本さんはキョトン顔だ。痛い人だと思われる!
「いや、怪しいのはわかるけど、少し話を聞くだけだから――――」
「いいですよ」
俺の心配を他所に、久本さんは微塵も逡巡した風もなく、頷いた。
「え、いいの……?」
「はい。大した話はできませんけど」
全然構わないよ、と微笑みを作りながら若干いぶかしむ。不審者には違いない俺の話を素直に受け入れるなんて。いや、こちらとしては望むべく展開なんだけど、簡単過ぎて拍子抜けだ。意外と使えるじゃないかミス研。
ここで久本さんは振り返り、「大丈夫だから、帰っていいよ」と後ろの一団(護衛だった)に声を掛けた。一団は「ふーん、じゃあね」と久本さんに別れを告げ、俺に軽く会釈しながら通り過ぎていった。近頃には珍しく礼儀正しい。彼女らが通っているのはお嬢様学校なのかもしれない。そういえば、この辺にはそういう女子校があると風の噂で耳にしたことがある。
「あの、それで話って……?」
余計な方に行こうとした思考を久本さんに修正される。
「ああ、あのね。幽霊の噂知ってるんだよね? というか、単刀直入に訊くけど、その噂の発信者は君で合ってるよね?」
「え? は、はい、でも、えと、発信者っていうか……。あの、その前に一ついいですか?」
久本さんはなぜかバツが悪そうに口ごもった。俺は首を傾げながら無言で続きを促す。
「その噂ってそんなに広まってるんですか? 私、家族ぐらいにしか話してないんですけど……」
ああ、なるほど。久本さんからしたらそんなファミリー規模の他愛も無い噂話を、誰とも知れない大学生が知ってるのが不思議なのだ。そしてそんな与太話の発信者が自分だと露見されれば、誰だって嫌だろう。だから俺のインタビューを素直に受け入れ、余計な話を聞かれる前に学友達を帰したのかも知れない。
俺からしたら、楓彌さんの地獄耳は地獄だけでなく、異世界にまで及ぶともっぱらの定評がある(俺と霞霧の間でのみ)ので、別段不思議じゃない。
「いや、広まってないと思うよ。そういう噂に異様に詳しい人が居てさ、それで知っただけ。大丈夫、俺も他言しないし大学の研究会もプライベートは守るから」
「そうですか、それならいいんですけど」久本さんは俯くような頷くような、曖昧は反応を見せる。「でも、あの、本当に大した話はできませんよ。えと、幽霊ですか? そんなのを見たわけじゃないですし、私自身、気のせいだと思ってますから……」
「うん? というと?」
「……たまに物音が聞こえるような気がするんです。私の部屋は山田さんの家に面してるんですけど、夜遅くに物音が聞こえるような……。山田さんの家の事件は知ってますよね? だから誰も居ないはずなんですけど……」
なるほど、音か。確かにそれだけで幽霊と決め付けるのは些か軽率かもしれない。音がするということは、単に何かが動いているということである。
「どんな音だったの?」
「え、どんなって言われても困ります。本当に小さな音で……物を動かしたり、水が流れたり、歩き回るような音ですかね?」
いや、訊かれても困るのだが。
とにかくどんな音かもいまいちわかりかねるほどの小さな音なのだろう。本当に聞こえているのかさえ定かじゃないような微音。それは音というよりも気配に近い。
「父と母に話したらお前の気のせいだって……」
「でも、夜遅くって具体的に何時ぐらい?」
「一時か二時頃です」
「それなら君の両親も寝てるだろ? その音を聞いたのは君だけなんじゃないのかい? だったら気のせいだって決め付けられないと思うんだけど」
「そうなんですけど、本当に聞こえたのかも怪しいぐらいの音ですから……」
本当に自信なさげに軽く視線を落とす久本さん。
俺は唸りながら腕を束ねた。
「たまにって言ってたけど、何日ぐらいに聞こえたの?」
「えっと、何日かまでははっきり覚えていないんですが、事件があってから一週間ぐらい経った頃と、それからも一週間置きぐらいでたまに聞こえます。……昨日も聞こえた気がしました」
「へぇ、昨日も。一週間置きっていうと、週に一度は聞こえるってこと?」
「……はい、聞こえた気がします」
ふーん、と相槌を打ってから、他に何か訊くべきことはないか考えて、目ぼしい質問は思いつかなかった。
「そっか、わかった。ありがとね」
俺のお礼に、久本さんは軽く会釈を返してきて久本家の玄関へ向かう。
と、そこで、今までずっと沈黙を守っていた霞霧が、
「最後に一つ、事件の前は、何か聞こえたかい?」
そう久本さんに問い掛けた。
久本さんはドアノブに伸ばしかけた手をピタリと止め、振り返る。
その顔は、俺との問答では一度も見せなかった明確な驚愕。
「――――どういう、意味ですか?」
「そのままの意味だよ。事件があった山田家の隣に住み、その久本家で唯一遅くまで起きている君は、事件が起きる前から何かを聞いていなかったかい?」
そのよくわからないようでいて、単に最初の質問の言い方を変えただけの問いに、なぜか久本さんは俯き、ややあって、意を決したように俺達の近くに戻ってきて、囁くような声で、
「……泣き声と悲鳴……が聞こえたような気がしました」
ボソボソと、言葉を濁すような早口で言った。しかし、それでも十分に聞き取れた。
――――泣き声と悲鳴?
どういうことだ。
霞霧は事件の前と問うた。それに対し、久本さんは泣き声と悲鳴が聞こえた、と答えた。事件当日ならわかる。山田夫妻は暴行を受けたうえで殺された。その断末魔を聞いたなら道理が通る。事件の後でも、まぁわかる。それこそ霊的なモノが発したオカルト現象で納得できずとも理解はできる。
しかし、事件の前とは……?
俺の混乱を他所に、霞霧は満足そうに頷いた。
「事情聴取とかは受けたよね? そのことを警察に話したかい?」
「え? ………は、話してません。だって私の気のせいかもしれませんから……」
盛大に俯きながら、まるで悪事を懺悔するかのように久本さんは呟く。
なんだか霞霧と久本さんの二人だけで出来上がっていく世界。いつの間にか俺は蚊帳の外。それはヒューヒューと茶々を入れるような雰囲気ではなく、完全に悪いベクトルへと出来上がっていく世界だった。
「ありがとう。邪魔したね」
さらりと、妙な雰囲気を創造した張本人の霞霧は言うが早いか、すたこらと来た道を戻り始める。
俺は俯いたままの久本さんと霞霧の背を交互に見て、迷いながらも霞霧に続く。そして歩を進めながら、疑惑の山田家に目をやる。
この雰囲気……。先ほどは何も感じなかったが、今や盛大な霊気を放つ白塗りの廃墟と錯覚してしまう。きっと色々意味深過ぎて気分が落ち込んでいるのだろう。
あ――――今窓辺に白い影が……いや、嘘だけどね。
町の外れの山田家から俺のアパートまで片道三十五分。実に二度手間ではあるが、人目がある内から不法侵入をするわけにはいかず、山田家にお邪魔するのは丑三つ時が良いだろうと目処を立てているわけで、そうなれば再び一旦お家に帰るしかない。どんだけ家が好きなんだとか言われても、元来出不精で引きこもり予備軍の俺としては文句を言われる筋合いはない。
なんて強がってみたものの、面倒臭いのは否定しようもない事実。それも先の久本さんとの会話で大した収獲が得られなかったとなれば尚更だ。いや、そもそも俺自身、何を収獲しようとしていたのかさえも定かではないので、仕方のないことなのだが、しかし隣の男は違う。先の会話で確実に何かを得ていた。俺の勝手なイメージとしては、大漁ののぼりを掲げて帰港しそうな勢いである。
見慣れたアパートに辿り着き、二階の一番奥の自室に帰投。万年床の布団にひっくリ返りたい気持ちに駆られるが、今寝ると間違いなく夜起きれなくなるだろう。あんまり調査が遅れると楓彌さんが黙ってはいないだろうし、俺も事の真相が気にならないでもないので早目に決着をつけたい。なのでとりあえず、じいっと霞霧を見詰めてみる。
その意思表示を汲み取ったのか、
「95パーセントになったよ」
そんなことを霞霧が言った。
95パーセントになったというのは言うまでもなく事件の推測が、だろう。それはそれは頭が良くて羨ましいこった、と無言で睨み続けていると、霞霧は観念したように小さく首を振った。
「ま、残り5パーセントの確率で間違っているかもしれない推測なんだけど、それでよければヒントをあげよう。サポートは許されてるからね」
「待ってました!」
「弼も現金だね」霞霧は微笑して続ける。「まず、さっきの久本さんとの会話、何か違和感を感じなかったかい?」
「違和感って、そりゃあお前と話してるときは露骨に意味深だったけど……」
「今は僕との最後の会話は考えなくていい。弼との会話で違和感を感じなかったかい?」
「……ああ、そういえば、違和感ってほどのことじゃないけど、あの子あんまり怖がってなかったな」
一ヶ月前に殺人事件が起きて、無人のはずなのに夜な夜な物音がする家が隣にあったら、もっと恐怖して然るべきだろう。霊的なモノを信じていない俺でもビビる。久本さんは不安げではあったが、あれは恐怖という感じではなかった。
「そうだね。しかし、その答えは彼女自身が言ってたじゃないか」
怖がらない理由を自分で言ってた? 少し回想して、すぐに思い当たる。
「ああ、気の所為ってか」
「そう、それだよ。彼女、執拗なまでに何度も何度も気の所為とか気がしたとか、繰り返していただろう? そこに違和感を感じないかい?」
言われてみれば、確かに多少引っかかる。なぜあそこまで気の所為を強調する必要があったのか。
そんな俺の疑問を見抜いたかのように、霞霧は薄ピンクの唇を優しく持ち上げる。
「だって気の所為のはずがないじゃないか。彼女、物音がする時間をはっきりと断言していたし、あまつさえ音がする日にちの間隔まで記憶していた。正確な日付を覚えていないのは人間なら当然のご愛嬌だとして、実際に何か聞こえたのは間違いないよ」
「そんなもんか……。するってえと、なんだ。あの子は確かに物音を聞いたのに、気の所為って言い張ってたのか?」
「いや、そうじゃない。おそらく彼女自身は本当に気の所為かもしれない些末な物音という風に解釈している。彼女は気の所為なんだと自分に暗示を掛けることにより、確かに聞こえた音を、聞こえた気がした音という風に記憶を塗り替えたんだ」
如何せん、霞霧の口調だと大袈裟な与太話を吹いているように聞こえるが、暗示による記憶の塗り替えなんてよくある話だ。人間の脳みそはそのように出来ている。
「しかし、なぜだ? なんで自己暗示まで掛けて記憶を塗り替える必要がある。やっぱり幽霊が怖いからか? おばけなんて居ないもん的な? それとも、別の何か……?」
「ふふ、そこがこの件のミソなんだよ。しかし、今回のヒントはここまでだ。弼の頭脳も久々の労働に悲鳴を上げている頃だろうし、頃合いを見計らって第二のヒントを示唆させてもらうよ」
さりげなく俺の頭脳を馬鹿にしたようなことを言う霞霧。しかし、これは馬鹿にしているわけではなく、本当に気遣いからの発言なのだ。それを知ってるから余計に腹が立ったりするんだけど……。
「うーん、なんだか複雑になってきたな」
霞霧の言う通り、すでに俺の脳は久しい重労働にストライキ寸前。霞霧と会話すればするほど真相に近付いている気はするのだが、理解はどんどん遠ざかっていく、そんな感じだ。まあ、あくまで霞霧の立ち位置はサポート役のお助けキャラだし、こいつが迂遠な言い方をするのはいつものことだ。
とりあえず、今は何も考えずに夜を待とうではないか。
「そうだね。森羅万象、ありとあらゆる問題は、大概時間が解消してくれる」
解消か……。
解決ではなく、解消なのがミソなのだろう。
霞霧は微笑を浮かべながら小さく頷き、部屋の隅に大量投棄された様々な書籍を漁り始めた。引っ張り出した文献は、『猿でも体得、優しいマーシャル・アーツ』。胡散臭い事この上ない軍用格闘の参考書だった。
霞霧の趣味は読書なのだ。それも古今東西ジャンル問わず節操なしに何でも読む。本の虫というわけではないのだが、濫読には違いない。本人曰く、時間潰しには知識の吸収が一番、らしい。
その無造作に床に積まれた本の数はすでに数百冊を超え、俺の生活スペースを脅かしつつある。こっちの問題は時間と共に悪化しそうだった。
「弼、無論だけれど、僕らにとってのこの本の問題の解消策は、弼が諦めてくれることなのさ。だから解消。わかるだろう?」
3
時間を潰すという行為が好きではないが得意な俺。のんべんだらりとしている内に日はとっぷりと落ち、時刻は大半の人間なら寝静まっているであろう午後一時。
そろそろいい頃合いだろう、と霞霧に声を掛けて、俺達はアパートを後にした。
昨日見慣れた夜の帳が落ちた住宅街。二日続けて拝むことになるとは思わなかった。先ほどまでは心底面倒臭いと思っていたのに、不思議と夜の街の情緒は悪くない。
点々と続く街灯に斑に照らされたアスファルト、イメージはハイウェイ。両脇の小高い塀の向こうには、灯りの落ちた家屋、印象は世紀末。そして何より空が真っ黒という風景は、青空よりも遥かに好感が持てる。日陰者の俺には、この世界が影で満たされる時刻がわりと性に合っているのかもしれない。
これなら夜の散歩を日課にしてもいいかもな、なんてなんともなしに漏らすと、
「ダメだよ。日課にするなんてとんでもない」
耳聡く霞霧が反応する。
「今回は仕事だからしょうがないとして、今後は夜の外出を控えて欲しいものだね」
「またその話か……。気にし過ぎだって」
「昨日も言ったけど、僕だって夜は嫌いじゃない。いや、白状すると大好きさ。しかしね。そこが問題なんだよ」
その意味不明な前置きに、俺は若干うんざりしながら霞霧を見る。しかし、霞霧の顔は至って真面目、怒っているようにさせ見える。その珍しい雰囲気に、俺も珍しく神妙な面持ちになる。
「いいかい。夜というのは魔を集める時間帯なんだ。いや、語呂的に魔なんて言い方をしたけど、魔というのは良くないモノ、普通じゃないモノ、つまりは異常だ。なんで異常が夜に集まるか、その理由がわかるかい?」
「……さあ、暗いから?」
「違うよ。昨日も言ったろう? 大半の人は寝ているからさ。今の時刻は日常の死角なんだ。それを狙った異常が徘徊し、そしてその異常は別の異常を呼び寄せる。異常というのは夜を好み、そして群れるものなのさ。何が言いたいのかわかるだろ?」
さっぱり、と言いたかったが、わかってしまった。
「つまり俺達も異常だ、と……」
「ザッツライト、その通り」霞霧はピシッ、と俺に人差し指を向けた。「人目を憚り、幽霊という異常に呼び寄せられて、本能的に夜を好む僕達は、すでに十分異常なんだよ。そして弼も経験していると思うけど、異常というのは大抵危ない。当たり前だ。通常という単語はイコールで安全に繋がるけど、その反対の異常と繋がるのは、ずばり危険さ。……具体的にどんな危険があるか、それは異常故に予想できようはずもないのだけれど、よろしくないのは間違いない」
「………」
「百歩譲って、今回みたいに仕事の場合は仕方ないけど、プライベートでまで異常と関わるような事態は断じて避けて欲しい。弼のことを誰よりも想っている僕からの、心からのお願いだ」
真っ直ぐに、向けられた方が怯んでしまうような言葉と視線で俺を見据える霞霧。
確かに、こいつは本当に俺のことを誰よりも想ってくれている。そんなのは俺が誰よりも知っている。その心からの言葉は胸に深く響いた。
だがしかし……俺にも譲れないモノがある。
だから、視線を逸らして、
「約束はできない。が、努力はするよ」
そんな曖昧で不誠実な答えしか返せない。
霞霧はそれに対して、諦めるような苦笑いを浮かべた。
「そうかい。……ま、僕は弼の気持ちも誰よりもわかるからね。とりあえず今は努力してくれるだけでいいかな」
こいつは俺のことを心配してくれているのと同時に、俺がそんな曖昧な答えをする理由を知っている。だからあまり強く言えず、最後には自分が折れるしかないのだ。
はっきりと言うのならば、俺達の関係においてのアドバンテージは、常に俺にある。
俺はそれが、正直ちょっと我慢ならない……。
「…………」
なんだか気まずくなってしまった雰囲気。この手の会話はいつもこんな空気になるから好きじゃない。
そしてそんな微妙な雰囲気を払拭できないまま、山田さん宅に到着した。
闇夜の相乗効果で、夕方見たときよりも不気味さは当社比1.5倍である。幽霊なんか信じちゃいないが、ものすごくお邪魔したくないのは、どこかで信じている自分がいるからかも知れない。
霞霧は山田家を仰いでから、俺に視線を寄越し、薄ら笑いを浮かべる。
「霊能力者や霊狂信派の人間曰く、信じていないと言う人は実は信じていて怖いからこそ、存在を否定して安心している、だそうだよ。それってなんかツンデレと似てるよね」
「……似てるか?」
「ゆ、幽霊なんて居るわけないじゃないっ。ここ怖くなんかないんだからねっ、的な?」
「言い方次第じゃねえか!」
と、突っ込んだところで、はっと口を押さえて隣の久本家を見上げる。
山田家に面した二階の部屋の一つ、カーテン越しに薄い明かりが漏れている。おそらくあそこが夕方話した久本家の娘さんの部屋なのだろう。明かりが点いているということは、まだ就寝していないということだ。幸い今の突っ込みは聞かれなかったようだが、こんな所で大声でダベってたらいつ通報されるか知れたものではないので、とりあえず山田家の敷地にスニーキング。
用意しておいた漆黒の皮手袋を両手に装着して、玄関のドアノブに手を掛ける。が、やはり鍵が掛かっていた。当然である。しかし某ゾンビゲームのように鍵を求めて警察署まで走るわけにはいかないので、背後のお助けキャラにアイコンタクト。
「……霞霧、アバカム頼む」
何を隠そう、霞霧は閉ざされた扉を開錠する呪文を体得しているのだ。無粋な言い方をすれば、ピッキングである。クリップ一つあれば一般的な施錠ならば攻略することが可能らしい。
しかし、霞霧はゆるゆると首を振り、
「とりあえず家の周囲を見てみようよ」
小声でそんなことを言った。
俺は家の周囲? と、一歩下がって右を見て、左を見る。一応都心に位置した一獅子市、地代も結構な値段だろうから一軒家を建てられる山田家がプチブルジョアだったことは想像に難くないが、それでも家屋と塀の間は1.5メートル程の庭というのもおこがましいスペースである。そんなとこ見る必要あるのだろうか?
「……わかった」
だが霞霧が見ようと言うからには、何かしらの意味があるのだろう。俺はとりあえずぐるりと家を一周するように、散策してみることにした。
家の右側面のスペースは本当に真っ暗で、そして狭かった。塀に邪魔され街灯の明かりも届かず、片手を伸ばすだけでいっぱいになってしまう。猫の抜け道ような空間。一ヶ月も放置されているのに雑草が少ないのは、日当たりの悪さが原因だろう。幾つかあった窓に触れてみたが全てに鍵が掛かっていた。
そのまま裏手を通り、玄関側に戻ろうと左側面を進む。こちらは久本家に面しているので忍び足で歩き、最初の窓に手をかけると、やはり鍵が……
「開いてるし……」
霞霧を見ると、案の定と言わんばかりに微笑んでいた。
色々と訊きたいこともあったが、ここで会話をするわけにもいかず、とりあえず窓からお邪魔します。
その窓は風呂場に通じていた。靴を脱ぎ、音を立てないように浴槽に着地し、窓を閉め、浴槽から出ようと縁を跨いで、
「――――!」
ツルーンと転んでしまった。
盛大に縁に頭をぶつけ、声にならない声で悶絶。
血、出てない?
「ベタだなあ弼は。僕はそういうボケ好きだよ」
クスクスとせせら笑う霞霧を睨んで、家から持ってきた懐中電灯(光が目立たぬようライトの部分に赤いフィルターが隔ててある)をポケットから取り出し、足下を照らして見る。
「……濡れてる?」
本当に微量ではあるが、床の青いタイルには水滴が附着していた。シャワーにも触れてみると、若干の湿り気を感じる。前日に使用された乾きかけの風呂場といった感じである。しかし、それはおかしい。だってこの家は一ヶ月前から蛻の殻のはずなのだから、風呂場が使用されるわけがない。警察が何らかの捜査に利用したとも考え難い。それこそ、幽霊がシャワーを浴びたというのなら話は別だが……。
俺の頭の中で様々な疑問符や可能性が忙しく錯綜し始めたとき、
「とりあえず他の部屋も見てみようよ」
床が濡れているという矛盾を大して気にした風もなく、霞霧はスタスタと先行しだした。
「………」
こいつにとっては窓が開いていたという不審点も、風呂場の床が濡れていたという矛盾も、全て推測の範囲内なのだろう。それは何を意味するのか……。頭のよろしくない俺が考えてもわかりそうになかった。
とりあえず霞霧の後に続き、一階の部屋を見て回った。報道の通り、強盗に物色されたと思しき痕跡(リビングのタンスが片っ端から開けられていたり、キッチンでは雑貨が散乱していたり)はあったのだが、それ以外、特におかしなところはなかった。あらゆる物に薄く埃が積り、カビ臭い。まさに廃屋といった風情である。男物のサバイバルブーツの足跡というのも是非見ておきたかったのだが、さすがにそれは専用の鑑識道具がなければ発見できない類の物なのだろう、見当たらなかった。
「未解決だからね。一ヶ月経っても現場を保存しているんだろう。もし、今捕まったら僕等は立派な軽犯罪者だよ。罪状は不法侵入に捜査妨害ってところかな」
「そのときは楓彌さんに保釈金を払ってもらうしかねえな」
「絶対払ってくれないと思うよ。面会に来て、ゲラゲラ高笑いされるのがオチだね」
「だよな、やっぱり……」
霞霧と剣呑な会話をしながら、階段を上がり二階へ。
最初のドアを開けると、そこは山田家娘さん達が使用していたであろう部屋だった。勉強机が二つ並び、角には二段ベッドが鎮座している。
「見てごらんよ、この机。弼の大好きなプリキュアの学習机だよ」
「イエス! って誤解を招くようなことを言うなっ」
ノリ突っ込みしつつ机に近付く。しかし今だにあるんだな、こういうキャラ物の勉強机って。一体どこのコアなオタクが買うんだろう、と幼少のみぎりに思った記憶があるが、意外と真っ当な子供も使うものらしい。
それに対して、そう、本当に対峙するかのように、もう一方の机はなんとも無残な有様だった。ぼろぼろの木目が剥き出しの縁、幾度となくシールを貼っては剥がしたであろう跡、幾重にも重なる落書きはもはやアートと言っていい。とどのつまりは、完膚なきまでに汚い。
なんだろう、隣のプリキュア机とこの粗大ゴミの落差は……?
一方霞霧は、すでに机への興味を失ったらしく、クローゼットなどを勝手に開けている。
「確か娘さんは小学生高学年の長女と、低学年の次女の二人だったよね?」
「うん、だったかな? いまいち覚えてない」
「そのはずだよ。だって学校の制服らしき物はないし、子供用の服が多い。あ、ほらほら、見てよ。スクール水着があったよ。スクミズだよスクミズ、弼の大好物の小学生のスクミズだよ!」
「おい! 大好物ではないっ。断じて、ナイ!」
さすがにそこは即答で否定させてもらった。世間の評判を奈落に失墜させるような言葉にノリ突っ込みできるほど、俺は寛容ではない。もっとも、夜な夜な他所様の幼子の部屋に不法侵入している時点で評判もくそもあったものではないのだが。
俺は小学生の私物にテンションを上げる相棒を引っ張って、他の部屋へ向かう。
トイレやら物置やらを適当に見て周り、廊下の突き当たり、最後のドアを開けると、
そこは殺害現場だった。
いや、おそらくとしか言えないのだが、それでもこの部屋の調度と惨状を目の当たりにすれば察しがつく。一際散らかったシックな家具と家電、そして部屋の中央に並んだ二つのベッド。山田家夫妻の寝室なのは明らかだ。深夜という犯行時刻から察するに、このベッドで寝ているところを、ぶっ殺されたのだろう。
霞霧はベッドの周囲を見て周り、ふぅんとつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ドラマや漫画でお決まりの白テープの人型、ないんだね。期待してたのに」
「よくわからんけどベッドの上で殺されたならテープの貼りようがないんじゃね? まあどちらにせよ一ヶ月も経ってるし、撤去されたとかだろ」
そう言ったところで、俺は壁に背を預け、嘆息した。
はてさて、これからどうするか?
万策尽きた、なんて言うと大袈裟だが、これからの予定がなくなったのは事実。
隣の久本家の娘さん曰く、夜な夜なラップ音がするという心霊スポットに侵入したはいいが、粗方家の中を見て回ったが幽霊なんか居なかったし、それらしき物音も聞こえなかった。いや、居たら居たらで凄く嫌なんですけど……、幽霊調査を依頼されたからには何かしらの結論を出さねばなるまい。
幽霊なんて居ませんでした、久本家娘の妄言でした、と楓彌さんに報告してもいいのだが、しかし先の霞霧のヒントから考えるにその線はないのだろう。幽霊はともかく、物音がする原因は確実に存在しているはずである。
「………」
風呂場の窓が開いていて、つい最近、何者かがシャワーを使用した形跡があった。そして久本家の娘は昨日も物音を聞いたらしい……。
そこから導き出される答えは単純明快、昨日、何者かがこの家に侵入し、シャワーを使用したのだ。そしてその音を久本家の娘は聞いたのだ。水が流れるような音を聞いた、と言っていたし、それは間違いないだろう。しかも彼女は週間隔で物音が聞こえると言っていた。ということは、事件があってから一週間のインターバルで、何者かが夜な夜な同じようなことを繰り返している、ということか?
すると、どうなる?
俺の思考がそこまで至ったのを見透かしたかのように、霞霧はニヤリと、不敵に笑った。
「それじゃあ、お待ちかねの第二のヒントを教えちゃおうかな。いや、第二っていうか、これが最後のヒントになるだろうね」
最後のヒント……。このヒントで俺が結論に至るということか。
「いいかい、まずね。もう心配ないと思うけど、今回の件に関しては幽霊の存在は考えなくていい。久本家娘が聞いたという物音の正体は、ラップ音でも何でもなく、単に人間が発した物音だったんだよ」
「だろうな。しかし誰が?」
「さて、そこで一旦思考の時間軸を過去に戻そう。この家で一ヶ月前に起きた事件について考えてみようじゃないか」
霞霧はコホンと、わざとらしく咳払いをしてから、
「今から一ヶ月程前の四月二十九日、弼が大学生活に慣れようと四面楚歌で孤軍奮闘、獅子奮迅していた頃、紫白町外れの住宅街に在るこの山田さん宅で殺人事件が起きた。調べたわけではないのでワイドショー程度の情報しか知らないが、なんでも深夜に山田家の夫妻、二名が暴行を受けたうえ、刃物によって刺殺され、萌え盛りの小学生である長女、次女が同日から行方不明になっているらしい。黒いワンボックスカーが停まっていたという目撃者の証言と、現場に残されていた物取りに物色されたとおぼしき痕跡、そして男物のサバイバルブーツの足跡から、警察は強盗誘拐殺人事件と仮定して絶賛捜査中。しかし、足跡以外には役立つ証拠が皆無なことから、捜査は難攻を極めているらしい」
俺が少し前に回想した事件のあらましを一言一句真似て(若干の変更を交えて)繰り返した。四面楚歌とか萌え盛りとか、色々と突っ込みたかったが、ここは自重して続きを促す。
「うむ、それで?」
「今の説明、ちょっとおかしな箇所が二点ほどあるんだけど、気が付かないかい?」
「おかしな箇所?」オウム返しして、顎に手を当て考えてみたが、特に思い当たらない。
霞霧は呆れたように、それでいて笑顔で、ゆっくりと首を振る。
「弼と僕は異常というものを知っている、そうだろう? だから普通なマスコミや通常な警察みたいに道理で考えるんじゃなくて、穿った視点で考えてごらんよ」
と、ここで霞霧はベッドを指差した。
「そもそもさ、幼女趣味の変態が子供を誘拐したいだけなら、他にいくらでも上手いやり様はあるだろうし、強盗にしたって夫妻を殺す必要はどこにもない」
「まぁ、言われてみれば確かにおかしい……。けどよ、顔見られたから口封じとか、それこそ幼女趣味兼殺人趣味の犯人だったとか可能性はあるだろ?」
「そうだね。その可能性もなくはない。けれどもそこでもう一つのおかしな箇所が活きてくる」
霞霧はベッドを指し示していた指をそのまま横にスライドさせて、今度は俺の足下を指差した。見ると、何も無く、ただ靴下を履いた俺の足があるだけだ。
足? 待てよ……。
現場にはサバイバルブーツの足跡だけが残されていた。それは、なんでだ……?
霞霧は頷き、続ける。
「そう、現場にはサバイバルブーツの足跡が残されていた。普通に考えれば、別段おかしなことではないのだけれど、少し穿った見方をすれば、それはかなりおかしい。だってサバイバルブーツの足跡以外の物証は見つかってないんだ。皆無なんだよ? そんな狡猾な犯人が、足跡だけを残して去っていくものかね」
そう、そういう見方もあるわけだ。他の証拠がないということは、かなりの計画的な犯行だったと窺える。それなのになぜか足跡だけを残していった……。それはつまり、故意にサバイバルブーツの足跡だけを残した、ということである。
「さてさて」霞霧は底抜けに怪しい微笑を浮かべて、意味深な口調で言う。「なぜ犯人はわざと足跡だけを残したのか。それは無論、捜査を撹乱させるためだろう。しかし、果たして全く関係ない第三者がそんな回りくどいことをしたりするだろうか? いや、しない。もし仮に僕が犯人だったら、そんな面倒なことはしない。そんな危ういことはせず、何も証拠を残さずに現場を去っていくだろう」
「……だな。すると犯人は足跡を残す必要があった――――」
言った。その瞬間、一つの可能性が俺の脳内で稲妻のように瞬いた。俺は瞠目して、霞霧を凝視した。
霞霧はいつもの薄ら笑いで、顔の前に人差し指を持ち上げる。
この直後、霞霧が何をするのか、俺は予知した。
「その通り。捜査を攪乱するため、というよりも自分が疑われないためには、第三者の犯行を思わせる痕跡を残す必要があった。となると、それは足跡だけでなく、これでもかってほどに物取りに物色されたと思しき痕跡も、あからさまに怪しくなってくる。するとどうなるか? そして、思考の時間軸を事件後の現在に引き戻した場合、夜な夜な何者かがこの家に一定の間隔で侵入しているという事実……。そこから導き出される推測は、いや、絞り出される結論は、限られてくると思うんだけどね」
そうして霞霧は、やはり俺が予知した通り、持ち上げたままの指をクルクルと、狂狂と、自分の頭を指して回して見せた。
俺は、考えるまでもなく、最初から無意識的に省いていたこの事件の可能性を再確認して、
「おい、おいおいおいおい。――――そういうこと、なのか?」
いや、待て。しかし、その可能性を否定する材料もあるのだ。だからこそ、無意識的に省いていたのだ。
「そうだ、そうだよ。だって目撃者が居るんだぞ? 黒い車が停まっているのを目撃した人が居るんだ。それはどう説明する?」
「そこは適当な理由をこじつけて納得するしかないね。偶然通りかかって路上駐車していただけかもしれないし、そもそも見間違いかもしれない。誤った目撃証言なんて、よくある話さ」
「なんだそれ……」
ご都合主義というか、杜撰というか、随分脇が甘い推測に思えるが、だがしかし、その推測を観測してしまった今となったら、可能性としてはその推測が一番高そうに思えるのも紛れもない事実。
でも、だとしても、その推測は、そのオチはあまりにも――――
「荒唐無稽かい? 非常識的かい?」霞霧は俺の台詞を先回りするように言う。「しかし、たぶん、そういうことなんだよ。言ったろう? この事件は単純で異常だって。『それは有り得ない』という一般的で愚かしい思考回路が、この事件の最重容疑者から視線を逸らさせていたんだ」
「………」
俺は思考する。
前もって解答を教えてもらっていた数式を解くように、自分で自身を納得させる作業を開始する。ややあって、事件についても、幽霊についても、全てにおいて……もっとも合理的で非現実的な説明が付いてしまった。
そうか、そうなれば、そうして、そうなるか。うん、いいだろう。
どこか気に入らないが、異常が相手ならばそれもまた然り。霞霧が断言し、そして俺が辛うじて得心できた。これ以上何が必要だと言うのだろうか。
しかし、ということは、だ。
俺は霞霧を見て、口角を吊り上げる。
「ようし。だったらいっちょ、噂の幽霊さんに会いに行くしかねえな」
「やれやれ、そう言うと思ったよ」霞霧は俺を見て、目を瞑った。「それじゃあ急ごう、弼。こんな異常に何日も時間を費やすのは勿体無い。パッとババッとスムーズに、今晩の内に“解消”しようじゃないか」
そして諦めたように、けれども嬉しそうに、微笑した。