1 幽霊の正体見たり
常識という理屈を思考放棄の言い訳にしてはならない。
常識的な道理など通用しない非常識だって普通に存在するのだから、当然だろう?
―――――霞霧
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眠れないときは羊を数えると良いなんて最初にほざいたのはどこの阿呆だろう、と弼はよく言っていた。
だから弼は小学生低学年の段階でその睡眠法を斬り捨てた。そして中学生になってG快眠法を開発し、高校生になってからは眠くないなら無理に寝る必要は無いと開き直った。
であるからして、弼は大学生になった今も眠れない日は完徹で漫画を読んだり、ゲームをしたり、ネットで動画拾いに励んだりするわけである。
そんな不変的で、然したる理由がない場合に限りもはや決して手順の狂わない本能と言ってもいい弼の夜の営みだったのだが、しかしあの日は違った。
あの日の弼は、どうかしていた。
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「それにしても珍しいね。いや、健康面から考えたら良いことだと思うんだけれど。しかし珍しい」
街灯によって斑に照らされた夜の住宅街をどこともなしにブラブラ歩いていると、隣の霞霧がそんな風に繰り返した。
「まあ、弼が漫画やテレビ画面やパソコンのモニターを覗き込んで一人でニヤニヤしている様は、横から見ていて痛々しいと常々思っていたから、夜の散歩は大変結構なんだけど、良かったら理由を聞かせてくれるかい?」
「ニヤニヤなんかしてねえよ」視線は前方の薄い暗闇に固定しながら、俺は適当に応える。「別に理由なんてないけど、強いて言うなら漫画もゲームもネットも飽きたからかな」
霞霧も「ふぅん」と適当な相槌を返してきて、続ける。
「しかしもう夜中の二時だよ。明日、っていうかもう今日なんだけど、平日だし授業はあるんだろう。大丈夫かい?」
「それは数時間後の寝起きの俺に訊いてください」
「いや、そうではなく。そもそもの問題として君が数時間後に寝起きの状態になれるか、つまり朝に起床できるかどうかを事前に心配しているわけだよ」
俺の軽口に真面目に答える霞霧。いや、その薄ら笑いから察するに、冗談としてあえて真面目っぽい返答をしているのだろう。だから俺も真面目に答えてみる。
「今のは皮肉だ。起きれるかどうかもわからない未来の俺に訊く、つまり今この段階では起きれる気がしないってこと。ってかぶっちゃけ明日の授業は苦手な情報処理があるから端から起きる気なんてねえのであーる」
「ぶっちゃけ過ぎだよ。苦手なら尚更出席するべきだと僕は思うよ。単位を落としたら笑えないぞ?」
どうやら冗談ではなく、真面目に心配されているようだ。そんな正論を言われても困る。こちとらダメ人間論理で武装して現実を見ようとしない今時の若者なのだ。目先の楽のために未来に苦を時間移動させるのは条件反射的にしょうがないだろう。
「余計なお世話と思われることを厭わずに進言させてもらうならば、早く帰って寝るべきだ」
「いや、眠れないからこそこうして散歩しているわけで……しかし、お前こそ珍しいな」
「うん?」と小首を傾げる霞霧。
「いやさ、いつもはどんなに夜更かししても何も言わないだろお前。今日はどうかしたのか?」
そう、いつもならどんなに遅くまでゲームやらネットやらをしていても、同居人である霞霧は絶対に文句を言わない。そんなコイツが今日になっていきなり俺の学業の心配を始めるとは考え難い。
その問いに、霞霧は一度俺から視線を外し、困ったように頬を掻く。
「いや、実を言うとね、弼の学業の心配をしているわけじゃないんだよ。明日起きれるか否かもどうでもいい」
なんだそりゃ。それはそれでちょっと薄情だと思う我が侭な俺だったりする。
「そこで話は冒頭の珍しいって件に戻るんだけど、珍しい行動とは普段と違うって意味だ。そして更に今は夜、丑三つ時の真っ只中だよ。周りを見てごらん、人っ子一人いないだろう。この時間帯、普通の人はもう寝ている。つまり普通から認知されない、日常の死角だ。弼なら、もう僕の言いたいことがわかったんじゃないのかい?」
なんだ。散々回りくどい言い方をした割には、至ってシンプルな理由じゃないか。ようするに、
「危険だ、と。危ないから早く帰って寝なさい、と?」
「寝なくてもいいから、今すぐに帰って欲しいんだ。ただでさえ弼はあのろくでもないバイトの所為でそういうものにどっぷり関わってしまっているというのに、夜道というシチュエーションはお膳立てが過ぎる」
「うーん、言いたいことはわかるけどよ……」
ちと警戒し過ぎじゃないか? 夜の街を歩くだけでおいそれとそういうモノに遭遇できるなら、涼宮某は憂鬱にはならない。
俺が唸っていると霞霧は両手を後ろに回し、とん、とん、とん、と跳ねるように数歩先行して、振り返った。
「ま、なんだかんだと文句を言ってみたけれど、こうして弼と並んで夜の街を歩くのも悪い気がしないよ。“あの頃”を思い出す」
「は? あの頃って、どの頃だ。そんなシチュエーション今まであったか?」
眉を寄せる俺に、なぜか霞霧は抗議するようなジト目を寄越してきて、今度は言い訳をするように言葉を濁し始めた。
「……あの、ほら、えと、“彼女”が生きていた頃だよ」
「は? 彼女って誰?」
霞霧は何かを諦めたように首を振って嘆息した。
「いや、彼女なんていないんだけどさ。ダメだよ、そこは突っ込んじゃ。意味深な伏線は冒頭の方に張っておいた方が効果が高いんだよ」
「内容のない伏線を張る意味はない!」
存在すらしない彼女を勝手に殺すな。俺はそんなドラマチックな人生を送ってない。二重引用符(“”)の無駄使いである。
「内容がないようってかい? 面白いことを言うねえ。内容が無いYO! ってラップ風に言えば一世代築けそうな予感だよ。ダジャレラップ、略してダジャラップだ。いや、でもラップの韻を踏むなんてもともとダジャレみたいなものか」
「………」
俺はそんなこと一言も言ってないし、こいつは話すら聞いちゃいない。……まったく、どんなキャラなのだ。
まあそれはともかくとして、こんなおバカな遣り取りをしながらも、もう三十分は歩いている。霞霧の進言を聞き入れたわけではないのだが、そろそろ面倒臭くなってきたし、帰ることにした。
そしてのらりくらりと歩いて来た道を戻り、五分ほど経っただろうか、ふと、数メートル先の塀の角から人影が現れた。
「――――、……」
こちらを見て、ピタリと動きを止めたそれは、少女だった。
小学生か中学生ぐらいの背丈。おそらく寝巻きであろうネズミ色の動き易そうなジャージ姿。そしてその顔に俺の視線の焦点が定まろうとした瞬間、少女は右向け右をして歩き出した。後頭部で揺れる黒いロングヘアーが淡い街灯の光に照らされて、鈍い光沢を放っている。
少し遅れて、俺も歩みを再開する。
「……」
俺のアパートもそちらの方向にあるので、必然的に少女の後に続く形になるのだが、なんだろうなぁ、この気まずさ。電車に乗ったとき視線の置き場所に困るような、遠くから人が歩いて来て擦れ違うとき挙動に困るような、買い物をしたときおつりが十円足りないのを言えず泣き寝入りするような、心の強い人間にはわかり得ない、気の小さい人間だけが勝手に感じ取ってしまう被害妄想に良く似た微妙な心境。
しかし気まずいながらも気を病むほどのことではないので、少女が十字路を折れる度に俺の帰路と一緒かよ、となんともなしに思いながら歩いていたのだが、どうやら向こうはそうじゃなかったらしい。角を曲がる度に、さりげなさを装いつつも、それでも露骨にチラチラとこちらに視線を送ってくるではないか。暗くて顔までははっきり見えないが、間違いない。
「………」
いや、えっと、うん、気持ちはわかるよ。向こうはその手の人種なら垂唾必至の愛らしい少女。そして俺は、人気のない夜道でずっと後を付けて来る不審者だもの。寝るとき以外常に被っている俺のトレードマーク(自称)である黒いニット帽が怪しさを常人比の二倍にしているのもわかるけどさ。そこまで明らさまに怯えられるとお兄さん悲しいな。
そのなんとも言えない拮抗状態が終焉を迎えたのは、少女が四つ目の十字路を左に曲がったときだった。
俺のコースは直進なので、ようやく開放されたと安堵したのだが、タッタッタッタと、軽快な駆け足の音が遠退くのを聞いてしまった。
まさかっ、と少女が曲がった角に目をやると、やっぱり、少女は駆け出していた。それはもうすんごいダッシュ。助けてぇーと叫ばんばかりに、脱兎の如く遠ざかって行く。
逃げられた! 少女に本気で逃げられたっ!
「いや、違う。うん、あれは、きっとあれだ………」
きっと彼女には見えない何かが視えているのだろう、妖怪的な、幽霊的な、宇宙人的な。もしくは彼女は病気なのだ。夜の道で他人と帰路がかぶった場合、駆け出さなくては死んでしまう病気なのだ。いやいや、単純に急いでいただけなのかもしれない。決して、断じて、絶対に、俺から逃げ出したわけではない。
そんな風に自分を納得させていると、ポンと、霞霧が俺の肩に手を置いた。その顔色は同情というよりも、憐憫のそれだった。
「こんなことを言って、弼の心の傷を癒せるとは思っていないけれど、痴漢やストーカーの七割は女性の自意識過剰による被害妄想だ。しかし、それは仕方のないことなんだよ。女性というのは生まれ持ってして自意識過剰になるものなんだ。それは男性に比べて女性は腕力が弱い故の自己防衛機能と言っていい。だから誰も悪くない、本当に仕方のないことなんだよ」
「……ド畜生っ!」
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本当にどうかしていた。
弼は、なんであの日の夜に限って散歩なんて小洒落た真似を敢行したのか。いや、まあ再三『どうかしていた』なんて大仰に繰り返してはいるが、それ自体は大したことではないのだ。今になって察してみてもその理由はやっぱり“ただなんとなく”なのだろう。つまりこれといった理由なんてない。あったとしても、いつもコンビニで買っているオレンジジュースを今日はアップルジュースにしてみようか、程度の冒険心であったと思う。そんな些事にいちいち明確な動機付けをして日々の行動を起こす人間はいないだろう。弼も然り。
だから、弼が散歩に出掛けたのも、そしてあの少女と出遭ったことも、全てが偶然だ。
だからこそ、偶然であるが故にこうも考えてしまう。
僕が日頃から弼に言い聞かせているある件に関する注意事項。あれは、あながち嘘ではない、どころか正鵠を射ているのかもしれない、と。
そして、僕がいくら言い聞かせたところで弼の頑なな意思は揺れ動くことはあっても変化することは決してないということを知りつつも、それでも、やはりささやかな警鐘として言い聞かせ続けなければならないと。
僕はそう想うのだ。
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翌朝、やっぱり俺は起きれなかった。もっとも起床するための努力を故意に欠いていたので当然の結果と言えよう。というかもう朝ではない。布団から手を伸ばして目覚まし時計を確認すると、見事に午前の授業が終わった頃の午後十一時半。フツーの人はこれを昼間と呼ぶ。
やれやれと欠伸をして、不貞寝の二度寝を決め込むために布団に再びもぐり込むが、
「まったく弼は、びっくりするぐらいダメ学生だなぁ」
「――――!?」
息がかかるほどの近い声と胸元を撫でられる感触に、俺は布団から這い出した。見ると、嫌らしい上目遣いを寄越しながら、なぜか俺の布団の中に居る霞霧。
「ナニシテンノ?」
自然と声がロボット風になってしまう。
霞霧はわるびれた風もなく、「うん?」と首を傾げた。
「何視点の、とは? 僕は自分視点、つまり一人称で世界を視ているつもりだけれども」
うるさい黙れ。そんなこと訊いてねえ。
「アナタは、なんで、俺の、布団の、中に、居やがるんですか?」
「いや、最近の流行に乗るために、こういうのも必要だろうと思ってさ」
「……最近の流行とは?」
「いわゆる一つの燃え要素、BLだよ」
「…………」
もう眠気とかダルさとか、そういうのが一気に覚めた。そして心も急速に冷めた。
萌えじゃなく燃えになってるのがポイントだよ、と嘯く霞霧。その顔面に地球割りを喰らわしてやりたかったが、自重することにした。数少ない友人に暴力はよくないというのもあるが、その最大の理由としては、不覚にもちょっとドキドキしてしまった自分がいるからだ。
こんなことを言うと誤解されてしまうかもしれないが、それを覚悟して言うのならば、霞霧は美人だ。それも頭にスーパーやアルティメットが付くほどの。
後ろは肩口、前は眉上でパッツンに切り揃えられた艶やかな黒髪、病的な白さで輝く肌、細筆で刷いたように整った眉、日本人離れした二重に黒目がちな大きな瞳、小さく高い鼻、薄く紅色に染まる唇。第一印象は深窓のご令嬢。この顔面を福笑いにしてパーツをバラバラに並べ変えても、やっぱり美形になるんじゃないかと思えるほどである。
道行く野郎は十人が十人振り返り、そいつは分類上オスですよとバラすと、今度は女が寄ってくるだろう。そう、こいつは男なのだ。美人のくせに、男なのだ。胸は文字通りツルペタだし、下にはちゃんと得物も装備している。
「どうしたの弼。まるで僕の外見を紹介をするような目でじぃっと見て。まさか本気にした? いいよ、僕は本気だから」
両手を広げて、来い来いをする霞霧。しかも、布団の隙間から覗くその透き通るような白い身体には、衣服というものを纏っていない。
ってかマッ裸で添い寝されてたの俺!?
まったく、男だと知っていても前後不覚になりかねない。朝っぱらからスリリングだ。
俺は甘い(キモイ)誘惑をしてくる変態に中指を立てて、洗面所で顔を洗い、いつもの黒いニット帽を被りながら冷蔵庫に向かった。チ、裂けるチーズと魚肉ソーセージしかない。しょうがないので二つをドッキング、簡易ハムチーズでくっちゃくっちゃと侘しい朝飯兼昼食を済ませてから、畳の上に投げ出されていた携帯電話を確認。自慢じゃないが友人は少ないし、物持ちは良い方である。だからどうせ置物と化してる骨董品ばりの携帯だ。いつもの素っ気無いカレンダーが表示されているだけだろうと高を括っていたのだが、意外にも小さなディスプレイは着信が二件もあったことを知らせていた。
「げげ、楓彌さんからかよ……」
どっちの着信名も『ボス』。番号を登録するとき、本人うっての希望によりボスか親分の二択にしろと命令を受け、泣く泣く俺が選んだ文字がディスプレイで躍っている。
着信時刻は九時二十四分と十時十五分。まずいな。寝てたからしょうがないけど、二件とも無視した形になる。怒ってるかな。否、愚問である。激怒しているに決まっている。
一瞬、掛け直そうかどうか迷ったが、やめておくことにした。あの人からの電話は大概仕事場への呼び出しだから直接行った方が速いだろう。布団でまどろむ霞霧に携帯を示して見せる。
霞霧は顔を起こして、心底ダルそうに嘆息を吐いた。
「また楓彌さんからかい? 何度も言ってるけど、いい加減止めた方がいいと思うよ、あのバイト」
「何度でも言うが、稼ぎが良いんだよ。それに他のバイトはしたくない」
いつもの文句を言う霞霧に、いつもの応えを返す。
あのバイトを始めた当初から霞霧は辞めろと繰り返す。雇い主のことは嫌いじゃないらしいが、仕事の内容が気に入らないらしい。俺は逆だ。雇い主は嫌いとまではいかなくとも苦手で、あの仕事自体は嫌いじゃない。むしろ好きだ。稼ぎが良いというのは建前のようなもので、あの仕事の愉しさを知ったら他のバイトなんておちおちしていられない。
「まったく、わかったよ。弼はアンニュイなくせに変なところで血気盛んだからね。僕が付いてないと危なっかしくてしかたない。でも本当に危ないと思ったら本気で止めるからね」
そして何時ものようになんだかんだ文句を言いつつも、何時ものように折れる霞霧だった。
俺は寝巻きから適当な服に着替えて、霞霧はようやく衣服というものを身に纏い、俺達はアパートを後にした。
名は体を表すという言葉があるが、あれは当たり前に本当だ。
体、つまりそのものの実体から名を付けた場合(例えばカブトムシ、飛行機、ゴミ箱)は当然として、逆の場合、名を先に付けて後から実体が出来上がっていく場合でも、それは顕著に表れる。
身近な例を挙げるとするならば、俺の住むこの街だ。
一獅子市。
この名前をどう思うかアンケート調査をしたのなら、老若男女問わず百人がこう答えるだろう。『変わってる』と。生粋のシシっ子は怒るかもしれないが、残念ながらその感想は概ね正しい。そしてそんな奇特な名を持ったこの街の実体も、すばりその感想の通りなのだ。
更に加えて、俺の通う大学と住まうアパート、バイトの勤め先が在る町の名は、紫白町。
一獅子市紫白町。……愛しき我が町である。
そんなイカシた町を駅前に向かって闊歩すること二十分。目的地の仕事場が見えてきた。
仕事場なんて言っても工場やオフィスビルのような如何にもな建物ではなく、外見は豪奢な黒塗りの十一階建てマンション。青い空をバックに聳え立つ漆黒のそれは、さしずめバベルの塔を思わせる。どんな悪どい商売をしたらこんなトコに住めるんだろうなあ、などと失礼な偏見を頭の片隅に浮かべつつ、ロビーに入り、壁に並んだモニター付きインターホンの見慣れた部屋番号を押す。
部外者、もしくは不審者が入り込めぬよう、ここで招かれざる客か否か選別される仕組みだ。頭上にはご丁寧に監視カメラまでありやがる。まったく、こういう電力消費場みたいな所に住んでるやつに限ってエコだのなんだのほざくんだ。
金持ちに対する嫌味が更にニ三思い浮かんだところで、
『とっとと上がれ、クソ野郎』
ぶっきらぼうな罵声がインターホンから響く。モニターを覗くも、すでに声の主は映っていない。
「ありゃりゃ、やっぱり怒ってるみたいだね楓彌さん」
他人事のように言う霞霧。いや、まあ正確には雇われてるのは俺一人なので霞霧からしたら他人事なんだろうけど。
やれやれと近い未来を憂いながら開錠された強化ガラスのドアを潜り、エレベーターに入り四階のボタンを押す。軽いGの後、果たして着いた先は、な、なんと四階。
「いや、いくら怒られるのが怖いからって無理に長引かせようとしてもダメだよ。もう観念した方がいいんじゃない?」
まったくその通り、進言痛み入る。ここまで来てしまったら年貢の納め時というやつだ。でも、エクスカリバーばりの金棒を携えた鬼が首を長くして待っている部屋に自ら飛び込むのは、ちょっとどうかと思うんだよ。神風特攻精神が流行ったのは六十年前だ。今はそよ風、ゆとり、保身の時代である。
「じゃあ帰るかい? 僕は一向に構わないよ。むしろ大歓迎だ。帰ってアレの続きをしようよ」
「なんの続き!?」
誤解を招くことを言うな。
再びやれやれと諦めて、エレベーターを出て左に折れる。楓彌さんは怖いが仕事は嫌いじゃない。命在るまでぜひ続けたい。第一、ここでばっくれたら鬼は地獄から這い出て追ってくるだろう。それは怖過ぎる。
ほどなくして、地獄こと四階の四つ目の部屋、つまり404号室に到着。ちなみにこのマンションの名はCC。意味不明な名前だが、この部屋の住所はさぞかし愉快なものになっていることだろうと訪れる度に思う。
「……うーん」
さて、到着したのが未だに迷ってしまう。いや、入る覚悟は決めたのだが、ドアの横にあるインターホンを押すか否かで迷っているのだ。以前普通に押してから入ったら、『ロビーで押したのになぜまた押す? 嫌がらせか!?』と殴られ、押さずに入ろうとしたら普通に鍵が掛かっていて、『勝手に入ろうとするな! お前はアレか? プレイベート無視か!?』と蹴られた。どんだけ理不尽なのだと堪えながらも、プレイベートじゃなくてプライベートですよ、と指摘したら頭突きを喰らった。
……もう何をしたって折檻を受けることは通例儀式化してる気がする。とりあえず今日はノックを試してみよう。
五月蝿くならないように気を使いながら数回ドアを叩く。
「楓彌さーん、こんにちわー。来ましたよー」
ほどなくして、ドアの向こうからドタドタドタドタと、悪しき者の近付く気配が響き。
「あたしん家のドアに勝手に触れるなッ!」
飛び出して来た楓彌さんにボディーブローを喰らった。
ぐふぅ、と蹲る俺の首根っこを捕まえ、手馴れたレ〇プ犯よろしく部屋に引きずり込む楓彌さん。
バタン、とドアが閉まり、
「あたしん家の玄関で勝手に寝るな! とっとと立て」
今更ながら無茶苦茶を言う人だった。
俺は腹を擦りながら立ち上がる。
「……お、お邪魔します」
「ああん!? もうお邪魔してんじゃねえか」
「え……じゃあなんて言えば?」
「おいおいおいおい、現役大学生だろ? ちったぁ頭使えよ。過去形って習わなかったのか?」
「えっと、じゃあ、お邪魔しました……?」
「もう帰る気かッ!?」
スパーンと尻を蹴られる俺。この人との問答で正解なんてねえのである。
「そもそもお邪魔しますってふざけてるよな。お邪魔する気なら始めから来んなって話だよ」
えー、日本國が生み出した美しい謙遜語にまで文句を言い始めちゃったよ。
もうすでにそのテンションに付いて行けなくなりつつある俺に、
「コーヒー。ホットで」
とだけ告げて、楓彌さんはスタスタと奥の部屋に引っ込んでしまった。相も変らず嵐のような人だ。
召使と化しているのは今更なので俺は文句も言わずに靴を脱ぎ、キッチンでインスタントコーヒーをドリップする。ホットに従いポットのぬるいお湯を使わずにちゃんとコンロで沸かしたあたり、俺も心得てきたのかもしれない。心得たくはなかったが、自分の身を守るために学習するのは生物の性であるからして仕方がない。
コーヒーカップを受け皿に乗せると、後ろに居た霞霧がくるくると周りを見渡しながら溜め息を漏らした。
「いやはや、ここに来る度に思うことだけれど、極悪な趣味の部屋だよね」
「……まったくだ。アニメ化するとき随分楽そうだよな」
俺も釣られてリビングを見渡す。
昼間だというのにカーテンが閉め切られ、人工の明かりで照らされた1LDK。しかしそれには理由がある。天然の太陽光では反射性の関係でこの部屋の明度を保持できないのだ。なぜならば、部屋の全てが紫なのである。壁紙はもちろん、床、ソファー、テーブル、棚、その他雑貨に至るまで、この部屋に存在している物質の全てが、病的な紫色で統一されているのだ。勿論、今手に持っているコーヒーカップもその例に漏れない。ペイントでカラーに紫を選択しバケツ(塗りつぶし)モードにしてクリック連打した感じ。
白黒よりも性質が悪い。シュールな絵画の中に取り込まれてしまったような錯覚に囚われ、瞳を開いているだけで色彩感覚が悲鳴を上げる、そんな部屋。
一体どんな変わり者が住んでいるのだと言えば、
「おーい、早くしろぉクソ野郎ぉ。あたしの喉を干乾びさせて殺す気かぁ。もしくはストレスによる胃潰瘍を狙ってんのかぁ」
こんなアウトローの住処なのである。
はいはい、と生返事をしながら、奥の引き戸を開けて作業部屋に入る。
すると、ほっと一安心。悲鳴を上げていた色彩感覚が若干大人しくなる。あくまで紫を基調としているところは先ほどのリビングと大差ないのだが、仕事の関係上、どうしても元来の色を保たなくてはいけない物が楓彌さんが向かう机の上に散乱しているのだ。
様々なペン、多様なトーン、凸凹な線引き、そしてなにより白い原稿。
俺の雇い主でありアウトローでストレンジャーな楓彌さんは、漫画家だった。
フルネームは朝桐楓彌。しかしこれはペンネームで本名は教えてもらってない。年齢も不明。外見から察しようと努力するも、若いということぐらいしかわからない。
背にかかるかどうかというぐらいのセミロングの茶髪、常に何かを蔑むような眼差しだが、それを含めても顔の造りは可愛い系で、赤い縁の眼鏡がその印象を強めている。服装も、部屋は紫を基調としているくせに、いつも少女のような色とりどりのワンピースを着ていて(今日は純白)。更に背丈も決して高くない俺よりも頭二つ分は低く、小柄でかわいらしい。
しかし侮るなかれ、そんな萌えな顔立ちと身長に反比例するかのように、胸元には豊か過ぎる膨らみがあるのだ。俺が度重なる暴力に耐えられるのは一重に、折檻に度に激しく揺れ動くおバスト様の恩恵だと言っていい。断じて被虐趣味があるわけではない。
とにかくようするに、二次元なら小柄で巨乳なロリキャラを張れそうな容姿なのである。
「おい、つっ立ってねえで早く持って来い。レ〇プするぞダボが」
ま、それは容姿だけの話で、本質は凶悪なビッチキャラなんだけどね。
「はい、お待ちどーさまです」焦らず急いでコーヒーを楓彌さんの前に置く。「それで、今日の用件は?」
「……おい、その前に一言あるだろうが、ああん?」
回転椅子をくるりと回し、こちらを見据える楓彌さん。チ、さりげなく流そうと思ったのに、意外と細かい。
「すいませんでした……。でも、あの、今日は平日ですし、普通に授業もあったんですが」
「おいおい。おいおいおいおいおいおい、おーいヘヘイってな。ナメてんのか? それとももっと苛めて欲しいのか? くだらねえ嘘を吐くなよ。いや、嘘は吐いてないのか。お前は授業もあったんですが、としか言ってねえもんな。授業に出席してた、なんて一言も言ってない。うんうん、嘘は吐いてないね」
「………」
可愛らしい得意顔でうむうむ頷く楓彌さん。しかしその愛らしさと逆ベクトルで激増していく不穏な空気。俺は沈黙するしかない。
「それで、あたしからの電話を二回も無視して爆睡ぶっこいてたくせに、小賢しい言い訳までしてあたしを騙そうとした弼くんは、なんて宣ってくれるのかなぁ?」
「すいませんっしたあ!」
俺は潔く、体育会系っぽく頭を下げた。なぜバレてるのかとかは、今までの俺の行い(遅刻)を考えれば推測されて然るべきなので突っ込まない。じゃあなんで言い訳したのかと言えば、言い訳せず素直に謝ったところでどうせ殴られるに決まっているからだ。
「そもそもな、授業があったからってそれがどうしたってんだ? あたしに関係あるのか? うん? あたしはお前のスケジュールまで考慮して電話しなくちゃならないんですかー? ああん!?」
楓彌さんは椅子に座ったままジャンプして、やはり、ゴツンと、運命によって定められたゲンコツを俺の頭に放った。
痛い。
けれど独立した生き物のように揺れ動く二つの楓彌が峰に俺の鼻の下は伸びる。
「ったくよぉ、前にも言ったろ。親が死のうが運命の女性がくたばろうが、てめえが地獄に堕ちようが、まずはあたしからの呼び出しを優先しろ」
「いや、地獄に堕ちたら来れないですし……」
「閻魔ボコって生き返ってでも来いってこったよ。ダメでも怨念ぐらいにならなれんだろ。それぐらい汲み取れ、クソ野郎が」
そんな閻魔大王をヤンキーみたい喩えられても。汲み取れるわけがない。
「楓彌さん」と、ここで霞霧が若干凄みの混じった声を上げた。「それくらいにしておいてよ」
楓彌さんは溜飲下がらぬ様子でふーんと鼻から息を吐き出したが、諦めたように小さく頭を振った。そして再び椅子を回して、机に上に置いてあった小さな箱を開け、中から葉巻(葉巻だ!)を取り出し、片端を噛み千切って反対側を口に銜えた。俺はすかさず、どうぞボス、と脇に置いてあったピストルの形をしたライターで火を点ける。
「………」
脚を組み、唇をひん曲げて紫煙を燻らせる様はマフィアの女ボスばりの雰囲気なのだが、如何せん、ロリで萌えな外見には不釣合い過ぎてキャラが崩壊している。もしかしたら楓彌さんは謎の組織によって薬を飲まされ、見た目を子供にされたのかもしれない。
そんな何度も勘ぐった益体もないことを考えていると、
「さて、おふざけはこのぐらいにして、本題だ」
楓彌さんは切り出した。
「一ヶ月前に起きた山田家惨殺事件、覚えてるか?」
「……ええ、散々マスコミが騒いでましたからね」
今から約一ヶ月前の四月二十九日、俺が大学生活に慣れようと奮闘していた頃、紫白町外れの住宅街に在る山田さん宅で猟奇的な殺人事件が起きた。調べたわけではないのでワイドショー程度の情報しか知らないが、なんでも深夜に山田家の父、母の二名が暴行を受けたうえで刃物によって刺殺され、長女、次女が同日から行方不明になっているらしい。黒いワンボックスカーが停まっていたという目撃者の証言と、現場に残されていた物取りに物色されたとおぼしき痕跡、そして男物のサバイバルブーツの足跡から、警察は強盗誘拐殺人事件と仮定して絶賛捜査中。しかし、足跡以外には役立つ証拠が皆無なことから、捜査は難航を極めているらしい。
「ああ、あの“単純で異常な”事件だね」
と。さらっと聞き捨てならないことを言う霞霧。
「それがどうかしたの楓彌さん?」
「……ったく、頭の良過ぎる奴とは話してもつまらんな。お前は引っ込んでろ。あたしは頭の悪い方と話してんだ」
霞霧はぶー、と頬を膨らませながらそっぽを向き、棚に並べられた紫の小物の観賞を始めた。
霞霧は楓彌さんのことが嫌いじゃないらしいが、楓彌さんは霞霧を毛嫌いしてる節がある。
「で、その事件がどうかしたんですか?」頭の悪い方の俺は霞霧の言葉を引き継いだ。
「ああ。ちょっと小耳に挟んだんだがな」楓彌さんは一度煙を吐き出してから、雰囲気を豹変させる。軽く顎を下げ、おどろおどろしくこちらを睨め付けるようにして、ゆっくりと口を開く。「最近噂があってな。その家に……出るらしい」
「出るって……新手のスタンド使いが……?」
「幽霊だよ! ここはエジプトじゃねえ!」
さすが漫画家、わかりにくいボケまで汲み取ってくれる。しかし幽霊って。
「このご時世に幽霊って、まだスタンド使いの方がリアリティがありますよ」
「ねーよっ! ったく、話の腰を折るのが好きだなお前は。腰折り弼って呼ぶぞ」
その台詞自体が話の腰を折っている気がするのだが、揚げ足取りは怖いのでしない。
「腰折り弼……横文字にしたらウエストブレイカータスクだよ。ハリウッドに持っていったらアカデミー賞を狙えるほどの映画に仕上げてくれそうじゃない?」
後ろから話に入ってくる霞霧。くれそうじゃねえよ。どんなセンスだ。
「しかし、ハリウッドつったら、日本のアニメやゲームをやたらと映画化したがりますけど、ほぼ例外なく微妙ですよね。特にドラゴンボー――――いてっ」
ウエストブレイカータスクの本領を発揮しようとしたら楓彌さんにチョップを入れられた。今のは悪ノリ、俺が悪いので素直に謝って話の腰を整体する。
「すいません、それで?」
「とにかくだ。その山田家に出るっつう幽霊について調査してくれ」
「はあ……」俺は曖昧に頷く。
「………」楓彌さんは何も言わない。
「………」必然的に俺も何も言えない。
どうやら、もう言うことはないらしい。楓彌さんは口から煙のわっかなどを出して遊び始めた。
いつもこうなのだ。
いつもわけのわからないおつかいを頼まれて、それを霞霧と二人でダラダラこなすのが俺の仕事であり趣味であり、異常な日常なのである。
しかし今回は幽霊調査か……。毎度のことながら変な仕事ではあるが、面白そうでもある。
「ラジャりました。いつも通り結果を報告すればいいんですよね?」
「ああ、それでいい。いつも通りメインは弼であって、霞霧はおまけのサポートだ。余計な口は出さず適度な口を出せよ」
「はいはい、言われなくともそのつもりだよ」
楓彌さんのちょいと無茶な要求に、霞霧はつまらなそうに了解した。楓彌さん相手にその態度、おまけにタメ口は大した度胸だ。もっとも、羨ましいとも真似しようとも思わない。くわばらくわばら。
楓彌さんはここでようやくコーヒーを口に運び、「苦い」と顔を顰めた。コーヒーデフォルトの味にまでいちゃもんを付けられたら敵わないとヒヤヒヤするが、そこまで傍若無人じゃなかったようだ。静かにカップを置いて続ける。
「山田家の隣の久本家、そこの一人娘が幽霊の噂の発信者だ。中学生らしいから接触も容易だろう。まずはそこから当ってみるといい」
了解です、と行こうとしたら、「あと一つ」と楓彌さんに呼び止められ、
「弼、お前は山田家の事件をどう見る?」
おかしなことを訊かれた。どう見る、とはどういう意味だろう? ニュースのアナウンサーじみた当たり障りのない見解を述べればいいのだろうか。
「えっと、そうですね。偽善的な立場から言えば痛ましい事件だなぁと、娘さん達の一刻も早い救出を望みますけど……。俺個人としてはぶっちゃけどうでもいいです。こういう答えでいいんですか?」
「大変結構」
楓彌さんは盛大に唇を吊り上げてそう言った。
声に乗って葉巻の甘ったるい臭いが鼻につく。この匂いは嫌いじゃないが、なんだか全てが意味深過ぎて怖過ぎる。もっとも、この人が意味深なのはいつものことだ。あんまり突っ込んで訊くのも野暮なので、やれやれと肩をすくめながら、部屋を出た。
紫に染まった網膜が、カラフルな外界によって回復していく。イメージとしては長時間スキーをした後、スキー靴を脱いだときのような開放感。
「その喩えはあんまり良くないね」
んー、と伸びをしながら文句を言う霞霧。
「じゃあ、どんな喩えならいいんだよ」
「えっと、そうだねえ。小学校とかで出たくない授業があってその間ずっと保健室でタヌキ寝入りしててチャイムが鳴り授業が終わってくれたときの安堵感、と、電車の中でブツブツ独りで五月蝿い危ない人に隣に座られてようやく降りてくれたときの安心感、その二つを足して二で割った、みたいな?」
「その喩えは全然良くないね!」
神速で突っ込んでしまったものの、しばらく考えたら意外とイイ線いってる比喩だった。スキー靴の喩えよりも心境的にはピッタリだ。もっとも、実際体験してみないことには伝わりようもない比喩なのは間違いない。
「ま、とにかく一安心って感じだな」
のらりくらりとマンションのロビーを抜けながら、携帯電話を開き時刻を確認。現在、正午ちょい過ぎの十二時二十分。
さてどうしたものかと、今後の予定について思案してみる。情報発信者の中学生と接触するのはいいが、平日の今頃は普通に学校だろうし。俺も本来は大学で睡魔と戦うべき時間帯なのだが、今更出席する気にはなれない。遅刻したら潔く自主休校が俺のモットーであり、ダラけた大学生が俺のキャラ設定なのだ。
うん、とりあえず一旦帰ろう。