第三十四話 死別
秀司は、酸素マスクをつけるようになった。
スー、ハー、という音がたまに耳障りになるときがある。でも一生懸命言葉を伝えようとしてくれる秀司が、あたしの心の支えになっていた。もし言葉を伝えようとしてくれてなかったら、あたしは日に日に弱ってしまうだろうから。
秀司の心を襲う恐怖は、大きかった。
あたしには決して言わないけど、おばさんが一度だけ聞いたと言っていた、どうしようもなくあたしを苦しめた言葉があった。おばさんはその言葉を聞いてすぐ、堪えきれずに病室を出てしまったと言った。
『はやく、死にたい』
あたしもその言葉を聞いてすぐに泣いてしまった。
「ねぇ、秀司。あたしの幼なじみの高司知ってるでしょ? 高司がね最近、遥かっていう同じクラスの友達のつき合うことになったの。前はね、高司に好きな人がいて、遥は振られちゃったんだけど、二度目のアタックで見事大成功。これからうまくいくといいんだけどね」
へへへっと小さく笑うと、秀司があたしの手に手を重ねてきた。これは耳を寄せてくれっていう合図。
「なになに? どうしたの?」
秀司はかすれる声を懸命にだして、あたしに言葉を伝えた。口の動きだけでしか言葉は読み取れない。だけど、それがあたしにはいやじゃない。
「む、り、し、て、わ、ら、わ、な、く、て、い、い」
無理して笑わなくていい。
「お、れ、な、ん、て、ほ、と、け」
オレなんて放っとけ。
それだけだった。
最近ずっとそう。会話はまったく弾まない。秀司の心がそうさせてるんだってことは分かってる。でもあたしには結構きつかったりもした。だけど泣いてばかりの彼女なんてうっとうしいだけだ。絶対に負けない。秀司があたしの言葉に反応してくれなくても、あたしは何度でも言い聞かせてやるって決めてる。
秀司の手を両手で挟み込んで、握った。それから口元に持っていって、キスをおとす。
「愛してるよ、秀司。・・・愛してる」
顔を向ける秀司は照れくさそうに笑うだけ。あたしに向かって、愛してるって言ってはくれない。分かってる。それを言ってしまうと、何かが崩れる気がするんでしょ。あたしもそれが怖くて、愛には気付きたくなかった。
気付いたら最後。あたしの気持ちは秀司にしかない。
それから時間が流れ、冬に突入した頃のある日、あたしが病室に入ると秀司がスー、ハー、も言わさずに眠っている姿を見た。酸素マスクの機械音だけが聞こえて、他に音は存在しなかった。怖くなった。青ざめていくのが自分でも分かった。
荷物を落として、秀司に近寄り、脈拍を調べた。手が震えてうまく腕もつかめなかったし、脈がどこか良く分からなくもなっていた。どうすればいいか、自分でも分からなくて秀司の頬をつかんで、少しだけ揺すった。
それからすぐにおばさんが戻ってきた。花瓶の水の入れ替えをしていたらしく、あたしの様子のおかしさに気付き秀司のところに駆け寄った。
ナースコールを鳴らして、医者がすぐに駆けつけたけど、秀司の心臓は音をたてることはなかった。
一瞬の出来事。
おばさんが少しだけ離れてる時間に、秀司は息を引き取っていた。
何度も、何度も秀司を呼んで、何度も、何度も体にしがみついた。だけど、涙が出なかった。驚きのせいだったかもしれない。恐怖があたしの中で勝ってしまったのかもしれない。こんなに悲しいのに、涙だけが出てこない。
蒼白な秀司の顔は、あたしが知らない顔。
冷たい体は、あたしの知らない秀司の体。
あたしを見ない目は、秀司のものじゃない気がする。手を握っても握り返さない。言葉をぶつけても何も言わない。あたしが笑っても、笑い返さない。あたしが泣いても、涙を拭ってくれない。
口を動かして、あたしの名前を呼ばない。あたしのことを好きだとは言わない。
あたしを抱きしめない。
音が失われていく。あたし暗闇にいるのか、真っ白の世界にいるのかわからない。ただ、秀司のいない世界はどちらにも似ている。あたしにとって、何もないも同じなんだ。音がなくて色がなくて、温度がなくて何もない。
ここは一体、どこなんだろう。