第二十八話 無心
民宿を出ていく日、隣に秀司はいない。昨日のうちに秀司は帰ってしまった。
隣にいないことが寂しいよりも、恐い。昨日倒れた時にあたしが立つことしかできなかったのも、恐怖があったからだった。秀司の側に行かなきゃならない。だけど、足がすくんで動かない。
初めてだった。秀司が倒れたのも、孤独に感じたのも、本物の恐怖を味わったのも。これからあたしってどうなるんだろう。こんなに弱くなってるのに、今にも泣きたいのに、泣ける場所がない。それがあたしを孤独にさせて、地獄に突き落としていく。秀司が眠る姿を思い出すたびに、あたしの背筋が凍ってしまう。体中に悪寒が走り、嫌な考えが頭を巡る。闇の世界にあたしだけがいる。あたしだけがその世界の中心。
民宿の外には秀司の母親の車がある。そこに乗る前に、バイトのみんなとヒロさんと香織さんに挨拶をした。サヨとはしっかりと抱きしめあって、病気の事を話した。励ますしかできないといった感じで、とても笑える状態じゃなかった。
車に乗ってみんなに手を振った。
どこにも秀司のいない世界。寂しくもあり、真っ白にも見えて、本当は何も変わらない場所。おばさんは何も言わない。あたしも何も話そうとしない。考える事は、秀司の事だけで、出てくるのは涙だけ。空を見ても何も見えない。何も見えない。真っ暗闇で道すら見当たらない。駄目だ。あたし、駄目になってく。
家に着いてしばらく、車の中でじっと動かなかった。おばさんに聞くことがあって、行きたい場所もあった。連れていってほしいけど、おばさんはあたしに笑顔を向けたまま「ちゃんと連絡するから」とだけ言った。
納得しなかった。けど、おばさんの気持ちだって分かる。車の外に出て、おばさんを見送ると空を見上げてみた。上の世界は綺麗で澄んでいて、明るい。ただ、そう見えただけかもしれないけど。
家に入ると、すぐに部屋に入った。親には疲れたとか適当なことを言って夕食も抜いたけど、考えるのは秀司のことで、どうしても頭から離れていかなかった。会いたいと思うのが恋なら、こんなにも悲しくなるのは何なのか、今はまだあたしには分からない。
その夜、あたしはまた眠れなかった。
夏休みが終わって、始業式が始まる数日間。あたしと秀司はつき合ってから初めて、連絡を取らない日々を過ごした。携帯に何度かメールしてみたけど、返事はかえってこなくて、一日の終わりに必ず秀司の母親から電話が掛かってくるだけだった。
秀司が今どうしてるかとか、明日はこうだとか、逐一詳しくあたしに知らせてくれるけど、おばさんの声なんかよりあたしは秀司の声を聞かせてほしかった。
入院をすることになったけど、始業式までには退院できるはずだからと、あたしを期待させてくれたけど秀司は来なかった。そしてまた、メールは返ってこなかった。
教室に誰もいなくなるまで、しばらく外を眺めた。今夜もまたおばさんから電話がかかってきて、心配ないわよ。とか、あたしに秀司のことを聞かせてくれるわけだ。そんなの全然うれしくない。秀司も秀司だ。あたしが携帯に何個メール送ってると思ってんだか、見てるなら返事送れっての。
窓のそばにイスを置くと、ため息をついた。
「美香」
はっとして、後ろを見た。予測はずれ。あからさまにあたしはもう一度、深くため息を吐いた。あたしに近付いてくる、高司は苦笑いを浮かべながら、あたしの隣にイスを用意して座った。
そういえば高司も結構日焼けしてる。あたしよりマシだけど。
「帰らないの?」
「ん、ちょっと直美ちゃんに用があるから。美香は? 見舞い、行かないの?」
「行けないだけ。秀司と連絡とれないし・・・あんまり病院には行きたくないの」
秀司の笑ってる顔が見たい。でも病院ってあたしには、あまり明るいイメージがない。秀司が癌だと知らされてからはよけいにそう思ってしまう。
「明日には、来ると思うけどね。・・・高司って好きな人いるの?」
高司はあたしに微笑みながら頷いた。
「その人と・・・ずっと一緒にいたいって思う? 傍にいなかったら寂しいって思う?」
あたしは高司から目を反らして外をみつめた。涙があふれてきそうになって、止められそうにもない。
しばらく、沈黙があった。高司との沈黙は、嫌なものではない。時々黙り込んでしまうけど、すぐに話ができる準備の時間の様で特に気を使わなくてすむ。でも、今の沈黙は重たい。いつもとどこか違った。
「片思いに、そんな感情ないよ。一緒にいたいなんて、望み過ぎだと思うぐらいに・・・現実は厳しいよ。美香みたいに笑っていられない。隙をみつけたら奪いたいと思うから・・・」
油断はできない。高司は最後にそう言った。
じゃぁ、あたしは油断してるの? 望みはいくらでもあるけど、片思いしている人から見ると贅沢なのか、よく分かんないや。だってあたしは確かなものを手に入れてるもん。あたしは確かに秀司っていう人の隣にいるもん。
堪えてたのに、涙が出てきた。すぐに顔を覆ってなるべく高司に見られないようにした。
「あたし、どうしたらいいのかわかんない。秀司と一緒にいたいけど、秀司はあたしなんか必要じゃないのかも。むしろ、邪魔なのかもしれない。このまま、あたしと秀司って離れてしまうのかな・・・どうしよう、会いたいのに、会えないよ」
声が漏れると同じに気持ちが溢れ出す。
いつの間にか高司に抱きしめられてると気付かず、あたしは泣いていた。何度も秀司を思い浮かべながら、高司の腕の中で。
「行けばいいだろ、無理してないで、会いにいけばいいじゃん。好きなら、思ったままに行動しろよ」
高司の声に頷きつつも、涙が声をとどめさせた。
結局、あたしって気合いが足りない。会いたいと思ってるのに、病院に行けなかった。
夜になり、いつもの様におばさんから電話がかかってきた。言い訳は、秀司の容態が悪くなってまた二三日退院を引き延ばすとか。あまり耳の奥には届いていない。
傍にいるべきなのだ。でも、あたしを必要としない彼のところに行って、何をしたらいいのか全然わかんない。あたしはいつでも秀司を想ってるけど、秀司はあたしの事たまには考えてくれてるのかな。きっと考えてないんだろう。あたしなんて、秀司にとって大きな存在なんかじゃない。
それであたしはどうしたいんだっけ? 会いたい? なら会いにいけばいい。でも足がすくんで身動きが取れない。じゃぁ、他にどうしたい? あたしがなにかしなきゃ、何もおこらない。それはもうそろそろ、あたし自身感じはじめてもいい頃だ。
傷付いて泣いているだけの女になりたいのか、秀司を支えられる強い女になるのか、あたしはどっちだったっけ。確か、つき合う前は後者だ。でも今のままじゃ前者を選んでしまいそう。
洗面所の蛇口をひねり、水を出すと冷たい水を顔にかけた。それから鏡に映る自分をみて、頬をつねってみる。
痛い。痛みを感じるこの肌はあたしのものだ。
痛みを感じるのは生きてるからだ。
痛みを感じるのは、死んでないからだ。
あたしの心も死んでない。奥にある熱い気持ちもちっとも冷めてない。なら、考えずに行動すればいいんだ。後のことは考えない。前を向けば後はやってこない。
今より早い時間はない。あたしにとって今は最前線。行くなら、行こう。あたしがしたいように、あたしの気持ちが向く方向へ。