婚約破棄された万能調香師、隣国の冷徹覇王に「国ごと」買い取られる
「――エルセ! お前のような無能で陰気な女は、我が公爵家にはふさわしくない。今この瞬間をもって、婚約を破棄する!」
頭上から降ってきたのは、ガラスを引っ掻いたような不快な高音だった。
まばゆいばかりのシャンデリア、贅を尽くした夜会会場。 その中央で、私の婚約者であった第一王子・カイルが、私の義妹であるマリアの腰をいやらしく抱き寄せながら、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべている。
周囲の貴族たちから、一斉に冷ややかな視線が突き刺さる。 クスクスという品性のない、しかし明確な悪意を持った囁きが、容赦なく私の鼓膜を陵辱していった。
「やっぱりね」「調香しかできない寄生虫が、ようやく追い出された」「マリア様のほうがよっぽど聖王妃にふさわしいわ」
(ああ。また、これだ)
私はただ、俯くことしかできなかった。 ドレスの裾を握りしめる指先が、怒りではなく、あまりの虚しさに震える。
私が調香してきた香水が、この国の兵士たちの傷を癒やし、結界を維持するための魔力を補ってきた。寝る間も惜しみ、指先がひび割れ、血を流しながら乳鉢をすり潰してきた日々。 そのすべてが、この一瞬で「無能」という二文字に塗りつぶされる。
「お前の作った香水など、ただの泥水だ。マリアの清らかな癒やしの香りに比べれば、吐き気すら催す。おい、警備兵! この哀れな女を今すぐここから引きずり出せ!」
カイルの言葉に、マリアが「お姉様、可哀想……」とわざとらしい涙を浮かべて胸に顔を埋める。その瞳の奥が、愉悦で濁っているのを私は見逃さなかった。
涙さえ出なかった。 ただ、胸の奥が、冷たい泥を流し込まれたように重く、暗く、凍りついていく。 私の10年間は何だったのだろう。誰も私を見てくれなかった。誰も、私の手を握ってはくれなかった。
「――おい。誰の許可を得て、俺の『宝物』を泥水呼ばわりしている?」
その瞬間。 夜会会場のすべての灯火が、一瞬だけ恐怖に爆ぜた。
物理的な質量を持った「ナニカ」が、空間そのものを圧殺する。 空気が凍りつき、呼吸をすることさえ許されないほどの圧倒的な魔圧。 さっきまで私を嘲笑っていた貴族たちが、まるで首を絞められた鶏のように声を失い、ガタガタと膝を震わせ始めた。
コツ、コツ、と。 静まり返った静寂を切り裂くように、硬い軍靴の音が響く。
会場の入り口から、群衆がモーセの海割りのように左右に弾け飛んだ。 現れたのは、漆黒の軍服を身に纏い、すべてを見透かすような冷徹な琥珀色の瞳を持った男。 この国の政財界はおろか、大陸全土の裏の支配権を握ると噂される隣国の覇王――アルフレッド・フォン・ヴァルハイト。
「あ、アル……アルフレッド陛下……っ!? なぜ、我が国の夜会に……っ」
カイルの声が情けなく裏返る。マリアに至っては、その威圧感だけで腰を抜かし、床にへたり込んでいた。
だが、アルフレッドは、そんな有象無象には一瞥すらくれなかった。 彼の燃えるような、しかし酷く冷徹な視線は、まっすぐに――床にへたり込もうとしていた私だけを射抜いていた。
大股で歩み寄ってくる。恐怖で動けない私の前に、彼は、戦場で何万人もの命を奪ってきたはずのその身体を、信じられないほど優雅に折り曲げた。
そして、私の泥に汚れた手を、まるで割れやすい極上の硝子細工でも扱うように、優しく、あまりにも丁重に包み込んだ。
「……遅くなってすまない、エルセ。やっと、見つけた」
「え……?」
私の口から、掠れた声が漏れる。 冷徹無比、他人に興味など持たないと恐れられる「夜の覇王」の瞳が、いま、狂おしいほどの熱と、焦がれるような愛おしさを孕んで私を映している。
その大きな手が私の頬に触れた。私の指のひび割れを見て、彼の琥珀色の瞳が、一瞬で昏い殺意に染まる。
「こんな、ゴミ溜めのような国に君を置いておいた、俺の落ち度だ。……エルセ、君を迎えに来た。俺の城へ行こう。君の居場所は、あんな男の隣じゃない。俺の、腕の中だ」
「でも、私は……無能だと、婚約を破棄されて……」
「無能?」 アルフレッドが初めて、カイルたちの方を振り返った。その瞳は、完全に獲物を屠る猛獣のそれだった。
「世界を裏から維持する『神聖調香』の真の価値も分からず、我が国の至宝を泥に塗れさせた愚か者が。カイル・フォン・ルミナス。お前が今しがた捨てたのは、ただの女ではない。この国の『未来』そのものだ」
アルフレッドは私を軽々と横抱きに――いわゆるお姫様抱きで抱き上げた。 彼の胸の鼓動が、驚くほど速く、そして温かく私に伝わってくる。
「エルセは俺が『国ごと』買い取る。交渉の余地はない。……おい、ルミナスの王族ども」
アルフレッドは、恐怖で泡を吹きかけているカイルとマリアを見下ろし、極上の、しかし冷酷極まりない笑みを浮かべた。
「俺の宝を泣かせた代償、首を洗って待っていろ。明日から、君たちの国には一滴の癒やしも、一筋の結界も存在しなくなる。……絶望の中で、己の無知を呪うがいい」
唖然とする群衆と、悲鳴を上げる元婚約者を置き去りにし、私はアルフレッドの腕に抱かれたまま、夜会会場を後にした。
夜の冷たい風が頬を打つ。けれど、私を包む彼の腕の中だけは、狂おしいほどに熱かった。
これが、私の地獄の終わり。 そして、冷徹な覇王にすべてを捧げられ、世界ごと狂わされる、甘くて息ができないほどの溺愛生活の始まりだった。
ルミナス王国を飛び立った魔導特急の最上級客室。 高級な薔薇の香りが微かに漂う室内で、私はふかふかのソファに深々と腰掛けていた。
目の前には、世界を震撼させる覇王、アルフレッド陛下。 彼は、先ほどまでの冷徹なオーラをどこへやら、私の前に跪き、私の両手をそっと自身の両手で包み込んでいた。
「痛むか? エルセ。あの愚か者どもに何か乱暴はされなかったか? どこか少しでも傷つけられたのなら、今すぐあの国を地図から消し去るが」
「い、いえ! 大丈夫です! カイル殿下たちには何もされていません。ただ、言葉で……その……」
「言葉の暴力も立派な大罪だ。あの国に流れる我が国からの魔力供給はすべて遮断した。エルセ、君を愚弄した報いは、彼らが身をもって知ることになる」
彼の琥珀色の瞳は、私を見つめるときだけ、まるで極上の蜂蜜のように甘く、とろけそうな光を帯びている。 そのギャップに、私の心臓はさっきから暴れ馬のように鳴り止まない。
「あの、アルフレッド陛下……。なぜ、私のような調香しかできない女を、ここまで……?」
私の問いに、アルフレッド様は一瞬だけ、子供のように切ない表情を浮かべた。
「君は覚えていないかもしれないな。……10年前、俺がまだ王位を継ぐ前、暗殺者に追われて瀕死の状態で国境の森を彷徨っていたときのことだ」
「え……? 森……?」
「ああ。そこで俺を救ってくれたのが、君の作った『香水』だった。あの香りを嗅いだ瞬間、俺の身体にまとわりついていた呪いが消え失せ、命が繋がった。それだけじゃない。君はその時、泣いていた俺に『大丈夫だよ』と笑ってくれたんだ」
アルフレッド様の手が、私の頬を愛おしげに撫でる。
「俺はその時から、君だけを求めていた。ルミナス王国が君を不当に扱い、調香の成果を搾取していると知った時の俺の怒りが分かるか? 君が婚約破棄されたのは、俺にとっては天啓だった。ようやく、君を我が物にできる、と」
彼の言葉に含まれる、あまりにも巨大で、重すぎる愛。 冷徹覇王と恐れられる男の正体は、私に対する狂気的な執着を抱いた、一途すぎる純情の塊だった。
「エルセ、俺の国へ来い。ヴァルハイト帝国では、君の調香のすべてを国家最高機密として保護し、君を我が妃として迎える。誰も君を蔑ませない。誰も君を傷つけさせない」
「妃、ですか……? 私が……?」
「嫌か?」
彼が捨てられた犬のような目で私を見上げてくる。世界を滅ぼせる男が、私の機嫌一つでこれほどまでに揺らいでいる。 その事実に、私の胸の奥に灯ったのは、これまでに感じたことのない高揚感だった。
「……嫌では、ありません。私を必要としてくださるなら、私は、貴方の隣に行きたいです」
「エルセ……!」
アルフレッド様は私の腰を引き寄せ、強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。 首筋に触れる彼の熱い吐息に、私の身体の力が抜けていく。
その頃、私を捨てたルミナス王国では、すでに「破滅の歯車」が回り始めていることなど、この時の私はまだ知る由もなかった。
ルミナス王国の王宮。 婚約破棄の夜会からわずか3日後、第一王子カイルは、絶叫とともに机を叩いていた。
「どういうことだ!? なぜ、国内の『結界香』の在庫が底を突いている!? 新しい香水を今すぐ用意させろ!」
「そ、それが……殿下……」
内政官が青ざめた顔で平伏する。
「これまで国内の結界香、および騎士団の『治癒香水』の9割以上を製造していたのは、追放されたエルセ様でした。マリア様が用意された香水は……香りは素晴らしいのですが、魔力の含有量がエルセ様の数万分の一しかなく、結界を維持する効果が全くありません……!」
「なっ……なんだと……!?」
カイルは隣でガタガタと震えているマリアを睨みつけた。
「マリア! お前、エルセの調香はすべてお前のアイデアを盗んだものだと言ったな!? お前の方が優れた聖女の香りを作れると言ったはずだ!」
「ひ、ひぃっ……! だ、だって、お姉様はいつも地味な部屋で引きこもって作業していただけですし、私の方が可愛い香りを……っ」
「可愛い香りなどどうでもいい! 結界が消えたせいで、国境沿いに魔獣が大挙して押し寄せているんだぞ!」
さらに追い打ちをかけるように、伝令兵が血相を変えて飛び込んできた。
「報告します! 隣国ヴァルハイト帝国より、我が国への『魔石・触媒の輸出を全面的に停止する』との通達が入りました! さらに、我が国が保有していた帝国の資産はすべて凍結されました!」
「な……アルフレッド陛下が、なぜそこまで……!?」
カイルの顔から完全に血の気が引く。 彼らが「無能な寄生虫」として切り捨てたエルセは、ヴァルハイト帝国が喉から手が出るほど欲していた、世界で唯一の『神聖調香師』だったのだ。
彼女を失ったルミナス王国は、今や外からは魔獣に脅かされ、内からは経済崩壊を待つだけの「死に体」へと成り下がっていた。
「お、おのれエルセ……! よくも我が国をハメてくれたな! おい、すぐに連れ戻せ! どんな手段を使っても、エルセをこの国に監禁し、死ぬまで香水を作らせるんだ!」
カイルの狂ったような叫びが響くが、時すでに遅し。 彼女は今、世界で最も安全で、最も甘い「覇王の腕の中」にいるのだから。
ヴァルハイト帝国の首都にそびえ立つ、黒曜石で作られた壮麗な王城。 その最上階にある、本来なら皇帝以外の一歩の立ち入りも許されないプライベートルームが、私の新しい部屋だった。
「エルセ、今日の調香の調子はどうだ? 無理はしていないか?」
部屋に入るなり、アルフレッド様は私を後ろから包み込むように抱きしめた。 すっかり日課となったこの抱擁に、私の身体も自然と彼の体温に馴染みつつある。
「はい、アルフレッド様。帝国の用意してくださった素材はどれも一級品ばかりで、ルミナス王国にいた頃よりもずっと素晴らしい『神聖香水』が作れそうです」
私が作業台の上の小瓶を指差すと、アルフレッド様はその中身ではなく、私の指先に視線を落とした。
「指の傷はすっかり治ったな。……あんな国のために、君がその綺麗な手を血に染めていたと思うだけで、今でも胸が引き裂かれそうだ。これからは、俺のためだけにその力を使ってくれ」
「アルフレッド様……」
「いや、違うな。力など使わなくてもいい。君がそこにいて、俺の名前を呼んでくれるだけで、俺は世界中の何よりも満たされる。エルセ、君は俺の呼吸そのものだ」
彼の琥珀色の瞳に、じっと見つめられる。その瞳の奥にあるのは、純粋な愛を通り越した、どこか狂気じみた「執着」だ。 普通なら恐怖を感じるほどの重さ。けれど、これまでの人生で誰からも必要とされず、透明な存在として扱われてきた私にとって、彼のこの重すぎる愛は、何よりも心地よい救いだった。
「私も、アルフレッド様のためなら、何でもしたいです」
私がおずおずとそう言うと、アルフレッド様の瞳が怪しく光った。
「何でも、言ったな?」
彼は私の身体を軽々と持ち上げ、部屋の中央にある巨大な天蓋付きのベッドへと運んだ。 シーツの上に沈み込む私の身体に、彼の大きな影が覆い被さる。
「……これまでは君が怖がると思って手控えていたが、もう限界だ。エルセ、君の香りを、体温を、すべて俺だけのものにさせてくれ」
「あ……」
彼の唇が、私の唇を優しく、しかし有無を言わせぬ強さで塞ぐ。 頭の芯がとろけるような、薔薇と、彼自身の甘い香りが鼻腔をくすぐる。 私の手は自然と彼の背中に回り、彼をより深く求めていた。
ルミナス王国が私を連れ戻そうと刺客を放っているという噂は聞いていた。 けれど、この無敵の覇王の腕の中にいる限り、私は何一つ恐れる必要はない。 むしろ、私を傷つけようとする愚か者たちが、どのような破滅を迎えるのか――それを想像することすら、今の私には微かな愉悦へと変わりつつあった。
――私たちは互いを貪るように求め合い、夜の帳が降りる中、甘い香りに包まれて深く、深く堕ちていった。
エルセがヴァルハイト帝国へと連れ去られてから、わずか二週間。 驚くべきことに、ルミナス王国の第一王子・カイルは、自ら使節団を率いて帝国の謁見の間に足を踏み入れていた。
その隣には、すっかりやつれ、華やかなドレスが浮いてしまっているマリアの姿もある。 彼らの背後にある故国は、すでに結界の消失による魔獣の襲撃と、帝国からの経済制裁によって、崩壊の瀬戸際に立たされていた。
「――ヴァルハイト帝国皇帝、アルフレッド陛下! 我らは、我が国の重大な国益を損ねた罪人、エルセを引き戻しに参った!」
謁見の間に、カイルの浅はかな声が響く。 玉座に不遜に腰掛けるアルフレッド様は、頬杖をついたまま、まるで汚物を見るかのような冷徹な視線を彼らに向けていた。
そして、その玉座のすぐ隣。 帝国の最高級のシルクで仕立てられた、薔薇色のドレスを身に纏った私がいる。 ルミナス王国にいた頃の、泥に汚れた哀れな調香師の面影はどこにもない。肌は艶やかに潤い、その瞳には明確な意思の光が宿っていた。
「お、お姉様……!?」 マリアが私を見て、驚愕に目を見開く。 「そんな……なんで、そんなに綺麗に……。お姉様は、私より地味で、惨めでなきゃいけないのに……っ」
カイルもまた、見違えるほど美しくなった私を見て息を呑み、すぐに醜い欲望の笑みを浮かべた。
「エルセ! よくもこれほどの贅沢を貪ってくれたな! お前が国を捨てたせいで、我が国は危機に瀕しているのだぞ! 貴様の『結界香』さえあれば、魔獣など恐るるに足りん。今すぐルミナスへ戻り、死に物狂いで香水を調合しろ! 戻るというなら、婚約破棄の件は不問にして、側室の地位くらいは与えてやってもいい!」
どこまでも傲慢で、どこまでも独善的な言葉。 かつての私なら、その大声に怯え、俯いていただろう。 けれど、今の私の背後には、世界で最も強大で、最も私を愛してくれる男がいる。
私は一歩前へ出ると、カイルをまっすぐに見据え、冷ややかに微笑んだ。
「お断りいたします、カイル殿下。……いえ、もうルミナス王国の籍を抜けた私にとっては、ただの『異国の無能な王子』ですね」
「な、なんだと……っ!?」
「私の調香を『泥水』と呼び、ゴミのように捨てたのは貴方です。その価値に今更気付いたからと、這いつくばって縋り付いてくる姿は、見ていて本当に滑稽ですね」
「貴様、誰に向かってそんな口を――!」
激昂したカイルが私に向けて手を伸ばそうとした、その瞬間。
「――その汚い手を、誰に伸ばそうとしている?」
ドォン!!!
謁見の間全体の空気が、一瞬で爆縮した。 アルフレッド様から放たれた、文字通りの『神殺しの魔圧』。 カイルとマリアは、まるで目に見えない巨人に上から叩きつけられたかのように、その場に激しく四つん這いにされ、床に顔をめり込ませた。
「が、は……っ!? あ、息が……っ」
「カイル殿、下……っ! 助け……っ」
床に這いつくばる二人を見下ろし、アルフレッド様はゆっくりと玉座から立ち上がった。彼の琥珀色の瞳は、完全に漆黒の殺意へと変色している。
「我が帝国において、エルセは俺の婚約者であり、次期皇后だ。我が国の至宝であり、俺の命よりも尊い存在だ。……それを、側室だと? 死に物狂いで香水を作らせるだと?」
アルフレッド様が一歩踏み出すたびに、謁見の間の大理石の床にピキピキと亀裂が入る。
「ルミナスの使節ども。お前たちの国をこれまで生かしておいたのは、エルセの故国であるという、ただ一点の慈悲ゆえだ。だが、それも今この瞬間をもって完全に終了した」
「ま、待て……! ヴァルハイト皇帝! 我が国と帝国は、100年前の不可侵条約が――」
「そんな紙切れ、俺の怒りの炎で一瞬で灰になる。……おい、近衛兵」
アルフレッド様の冷酷な声に、周囲を固める無敵の帝国騎士たちが一斉に剣を抜いた。
「この無礼者どもの四肢を叩き折り、家畜用の檻に放り込め。ルミナス王国の国王には、我が帝国が明日をもって『宣戦布告』をすると伝えろ。お前たちがエルセから搾取し、傷つけた代償……その血ですべてを支払ってもらう」
「いやだ、嫌だぁぁぁ! お姉様、助けて! 助けてよ!」 「エルセ! 俺が悪かった! お前を正妃にしてやる! だから、その男を止めろぉぉ!」
見苦しく泣き叫び、引きずられていく元婚約者と義妹。 その哀れな姿を見送りながら、私の胸に湧き上がったのは、ただただ深い「冷笑」だけだった。
失ってから、泣いて縋っても、もう遅い。 私はもう、二度とあの泥の中には戻らない。
ヴァルハイト帝国による宣戦布告から、わずか3日。 かつて栄華を誇ったルミナス王国は、一戦も交えることなく、内側から完全に自滅した。
結界の消滅によって首都にまで魔獣が侵入し、街は荒廃。さらに、帝国からの経済供給が完全にストップしたことで、民衆の怒りは爆発した。 「無能な王子と偽聖女が、本物の聖女を追い出したせいで、国が滅びる!」 その噂は瞬く間に広がり、怒り狂った民衆によって、王宮は包囲されたのだ。
国王は自らの保身のために、カイルとマリアの全権を剥奪し、罪人として帝国の軍門に降ることを決定した。
帝国の本陣。 前線の巨大な天幕の中で、私はアルフレッド様の膝の上に抱かれながら、魔導投影機に映し出されるルミナス王国の惨状を眺めていた。
「……酷いものだな」
アルフレッド様は、私の髪を愛おしげに梳かしながら、画面の中の光景を鼻で笑った。
画面の向こうでは、かつて私を「陰気な寄生虫」と罵った貴族たちが、泥に塗れながら帝国の兵士たちに許しを請うている。 そして、首枷をはめられ、民衆から石を投げつけられているカイルとマリアの姿があった。
「お姉様……お姉様さえいれば……っ。なんで、なんで私を助けてくれないのよぉ!」 画面の中で、髪を振り乱し、狂ったように叫ぶマリア。
「カイル殿下、そしてマリア。あなたたちは、私からすべてを奪って、笑っていたわね」 私は静かに、けれど明確な声で呟いた。
私が毎日、夜を徹して作った香水の価値を認めず、自分たちの贅沢のために使い込み、最後は用済みとして放り出した。 その結果が、これだ。 因果応報。彼女たちが今啜っている泥は、かつて私に啜らせようとした泥そのものだった。
「エルセ、気が済むまであの者たちを痛めつけてもいいんだぞ? 望むなら、俺の手で一人ずつ――」
アルフレッド様が、私の首筋に甘えるように顔を埋めながら、恐ろしいことを囁く。 彼の独占欲と、私を傷つけた者への憎悪は、日々深まるばかりだ。
「いいえ、アルフレッド様。もう結構です。あの人たちは、自分たちが犯した愚行の報いを、これからの一生をかけて絶望の中で払い続けるのですから。……それよりも」
私は振り返り、アルフレッド様の首に手を回した。
「私には、もうあの人たちを見る時間すらもったいないのです。私は、私をこんなにも愛してくれる貴方だけを見ていたい」
「っ……エルセ」
アルフレッド様の琥珀色の瞳が、歓喜と、制御できないほどの熱情で激しく揺れた。 彼は私の身体を強く抱きすくめ、奪うような、激しい口づけを落としてきた。
「ああ、愛している、エルセ。君がそう言ってくれるなら、俺は世界なんてどうなってもいい。君だけが、俺のすべてだ」
故国が滅びゆく轟音を背景に、私たちは、狂おしいほどに互いの体温を貪り合った。
ルミナス王国の解体、そしてヴァルハイト帝国への吸収合併から数ヶ月。 大陸全土が、かつてないほどの壮麗な祝祭の空気に包まれていた。
今日は、ヴァルハイト帝国の皇帝アルフレッドと、新たなる皇后エルセの、世紀の婚礼の儀が執り行われる日。
「……信じられない。これが、本当に私なの?」
姿見の前に立つ私は、純白のウェディングドレスに身を包んでいた。 帝国の至宝である魔石が散りばめられたドレスは、私が調香した「祝福の香水」の香りをまとい、神秘的な輝きを放っている。
私の調香技術は、今や『神聖調香術』として帝国全土で称えられ、多くの人々を癒やし、豊かにするための国家の基盤となっていた。 誰も私を無能とは呼ばない。誰も私を蔑まない。 ここでは、私は私であるだけで、最高の価値として認められているのだ。
コンコン、と控えめなノックの音と共に、扉が開いた。
「――エルセ。綺麗だ。世界中のどんな宝石も、今日の君の前では色褪せる」
現れたのは、白い礼服を完璧に着こなしたアルフレッド様だった。 相変わらず、私を見るその瞳には、限界突破した溺愛の光が宿っている。
「アルフレッド様……。ありがとうございます。貴方が私をあの日、あの地獄から連れ出してくださったから、私は今、こうして笑っていられます」
「違うよ、エルセ」
アルフレッド様は私の前に歩み寄り、その大きな手で私の腰を引き寄せた。
「俺の方こそ、君に救われたんだ。10年前のあの森の日から、俺の心は君のものだった。君をこの腕に抱くためだけに、俺は皇帝にまで上り詰めた。……これからは、一分一秒、片時も君を離さない。俺の生涯のすべてをかけて、君を幸せにすると誓う」
「はい。私も、貴方の隣で、ずっと貴方だけを愛し続けます」
二人の距離がゼロになる。 重なる唇からは、これまでで一番甘く、そして深い、永遠の誓いの香りがした。
かつて泥を啜った調香師は、今、世界で最も冷徹で、最も一途な覇王の腕の中で、息もできないほどの極上の幸福に満たされていた。
これから始まる長い、長い未来。 私たちの愛の物語は、誰にも邪魔されることなく、永遠に、甘く香り続けるのだ。
この物語を「最後まで読んでよかった」「最高のハッピーエンドだった!」と満足していただけましたら、ぜひ本作への**【最終評価】**をお願いいたします。
画面下部にある
**【☆☆☆☆☆】を、お気持ちの分だけ【★★★★★】**に染めていただけないでしょうか?
皆様からいただく「星」と「ブックマーク」が、この物語が完結したという何よりの証、そして作者への最高の宝物になります。
またどこかで、エルセとアルフレッドの甘い物語の後日談(番外編)や、新作でお会いできることを楽しみにしています。
本当に、ありがとうございました!!




