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気まぐれで短い命を拾ってみたら、どうやら氷のように冷たい私の心のほうが温められていたらしい。

掲載日:2026/05/10

『――人間は、どうしてこんなにも不便で、脆く、儚い生き物なのだろうか』



かつて私は、本気でそう思っていた。数百年の時を生きる我々エルフにとって、人間の寿命など、ほんの一瞬のように短く、あまりにもちっぽけなものだ。

彼らは短い生の中で常にせっせと動き回り、僅かな土地や富を巡って血を流し、そして勝手に自滅していく。

短く駆け抜けていく命に、一体どれほどの価値や意味があるというのか。



深い森の最奥、外界のあらゆる喧騒から隔絶された『星読みの塔』。

そこで何百年もの間、ただ魔導書をめくり、星の流れを記録し続けるだけの私にとって、時間は川の流れのように止まることなく通り過ぎていく現象でしかなかった。


……あの日、泥だらけの小さな手で、私のローブの裾が引かれるまでは。



―・―・―



約六十年前。私は珍しく塔を離れ、人間の領地へと足を運んでいた。

目的はただ一つ、激しい戦火の跡地——魔力を含んだ血が染み込んだ土壌にしか群生しないという、希少な魔法薬の素材『紅血苔(こうけつこけ)』を採取するためだ。


眼下には、無惨に燃え落ちる村が広がっていた。

夜空を焦がすような赤黒い炎。逃げ惑う人々の絶叫、剣が交わる金属音、そして鼻を突く肉と木材が焦げる臭い。寿命の短い人間たちが、自らの手でさらにその命を削り合っている地獄のような光景を、私は小高い丘の上から、路傍の石でも見るかのような冷ややかな目で見下ろしていた。


助ける義理も、関わるつもりも毛頭ない。

どうせ彼らは皆、五十年もすれば寿命を迎えるのだ。今日死ぬか、数十年後に死ぬか。悠久の時を生きるエルフからすれば、その時間など変わらないものと等しかった。



目的の苔を採取し終え、このひどく騒がしい場所から立ち去ろうときびすを返した、その時だった。



「……」



ふわり、と。

本当に微かな力で、何かが私のローブの裾を掴んだ。

鬱陶しい茨にでも引っかかったかと思い視線を落とすと、そこには、泥にまみれた人間の幼子が立っていた。年は五つほどだろうか。彼女の背後、少し離れた崩れた屋根の下には、彼女を庇うようにして倒れ、すでにこと切れている男女の姿があった。



幼子は、泣いていなかった。


これほどの惨劇を前にして、震えすらしていない。ただ、大きな琥珀色の真っ直ぐな瞳で、感情の抜け落ちた私の銀色の瞳をじっと見上げていた。


「……離しなさい。私は人間に関わるつもりはない」


冷たく言い放ち、ローブを振り払おうとした。

しかし、幼子は小さな両手で私の指先をぎゅっと握りしめた。エルフの体温は人間よりもずっと低い。まるで氷のような私の指先を包み込んだその手から、彼女はふう、と温かい息を吹きかけた。


「……何をしている」

「……つめたい、から」


掠れた、小さな声だった。

両親を失い、自分の命すら風前の灯火であるというのに、この幼子はなぜ私の冷たい手を温めようとするのか。

そのあまりに弱々しく、けれど確かに命の熱を持った小さな灯火のような温もりに、私はひどく戸惑い、そして——目を逸らすことができなかった。



「……名前は?」

「ルア」



幼子はぽつりと、自分の名前だけを口にした。

気がつけば、私はその幼子——ルアを抱き上げ、炎上する村に背を向け、自らの塔へと連れ帰っていた。


ほんの少しの気まぐれだった。

短く儚い命だとしても目の前で見過ごすことは気が引ける。私は自分自身にそう言い聞かせていた。



しかし、塔での生活が始まると、ルアは魔導書を読み星の流れを記録する変わらぬ私の日々に、鮮やかな日常を分けてくれた。



最初の数ヶ月は、決して穏やかなものではなかった。

毎夜のように、ルアは炎に包まれる村の悪夢を見て泣き叫んだ。子育てなどしたことがない私は、ただ彼女の背中を不器用な手つきで一定のリズムで叩き、「もう火は来ない」と事実を繰り返し告げることしかできなかった。

食事の味付けも分からず、ただ魔力で生成した無味乾燥な栄養食を与えたが、彼女は文句一つ言わずにそれを飲み込んだ。



だが、季節が一つ巡る頃には、塔の空気は完全に変わっていた。

ルアは驚くべき適応力と前向きな性格で、悲しみを乗り越えていったのだ。感情の起伏が乏しい私とは正反対に、彼女はよく笑い、よく怒り、よく動き回った。

静寂だけが支配していた塔には、彼女のパタパタと走る足音や、舌足らずなハミングが響くようになった。



ある日のことだ。私が書斎で難解な古代魔法の解読をしていると、そっと扉が開いた。


「アルティス、見て!」


彼女が背中に隠していた両手から差し出したのは、塔の裏庭に咲いていたらしい、不格好に束ねられた野花だった。赤や黄色、青。エルフからすれば雑草に等しい魔力を持たない花々だ。


「……そんなものを摘んでどうする。三日もすれば枯れるぞ」

「三日で枯れちゃうからこそ、今こんなに綺麗に咲いてるんじゃない!アルティスのお部屋、暗くて寂しいから、飾ってあげる」


そう言って、彼女は私の机の端の空き瓶に、その花を活けた。


色などなかった私の視界の隅で、その日を境に、常に小さな花が揺れるようになった。

枯れれば、ルアがまた新しいものを摘んでくる。それを繰り返すうちに、私は無意識のうちに、彼女が花を替える「三日」という単位で時間を計るようになっている自分に気がついた。




それから数年が経ち、ルアが十歳になったある夜。

彼女は私の書庫で、人間が描いた分厚い世界図鑑を夢中でめくっていた。


「アルティス。うみって、本当にこんなに青くて、広いの?」

「……本に描いてある通りだ。私は数百年前に一度見たきりだがな」

「じゃあ、この金色の平原は?夜になると星が降るみたいに光る湖は?」


図鑑の挿絵を指差すルアの瞳は、好奇心でキラキラと輝いていた。

塔の窓から見える深い森の景色しか知らない彼女にとって、本の中の世界は途方もない魔法そのものだったのだろう。


「見に行きたいのか」

「うん!いつか大人になったら、全部見てみたい!」


ルアの無邪気な言葉に、私はふと視線を伏せ、窓の外を見た。

彼女が大人になるまで、あと数年。そして老いていくまで、長く見積もっても六十年や七十年。

もしこのまま塔に引きこもっていれば、彼女を危険から遠ざけ、安全に一生を終えさせることはできるだろう。しかし、彼女はこの広大な世界のほんのひと握りも知らないまま、あっという間に寿命が尽きてしまうのだ。



(……どうせ儚く過ぎゆく短い命なら)



私は、彼女が摘んできた机の上の花を見た。

たった三日しか咲かないその花が、どれほど私の無機質な空間を彩ってくれたかを想った。


(せめてその短い時間を、鮮やかな色で染め上げてやるのも悪くない)


それは、私にとってはひどく理屈に合わない、エルフらしくない不思議な感情だった。

私は静かに本を閉じ、ルアの小さな頭にポンと手を置いた。



「明日、荷物をまとめなさい」

「え?」

「塔を出る。お前がその本で見た景色を、すべてお前のその目で確かめに行くぞ」



ルアは一瞬ポカンと口を開け、次の瞬間、塔の天井が揺れるほどの歓声を上げて私の首に抱きついた。



「やったあ!ありがとう、アルティス!大好き!」



その日。

感情を知らない魔法使いと、命短き人間の少女の、途方もなく長く、そしてかけがえのない時間を巡る旅が始まった。




―・―・―




これまでも素材集めなどで塔の外に出ることは何度かあったが、ルアと共に歩く世界は、私が一人で見てきたかつての無機質な景色とはまるで違っていた。

見慣れたはずの森も、初めて訪れる街も、彼女の隣を歩いているだけで、世界は遥かに騒がしく、そして眩しく感じられたのだ。


旅に出て最初の数年、ルアは見るものすべてに目を輝かせた。

雲の形が変わるだけで歓声を上げ、名も知らぬ鳥が飛んでいればいつまでもその姿を追いかけた。私にとってはただのありふれた風景でしかなかったものが、彼女の琥珀色の瞳を通すと、まるで世界で一番の宝物のように光り輝いて見えた。


旅の道中、私たちは様々な種族の土地を訪れた。


ルアが十二歳になったばかりの頃、私たちは南の国境近くにある獣人たちの村に立ち寄った。

獣人たちは陽気で、生命力に溢れていた。村の広場では常に肉が焼ける香ばしい匂いが漂い、太鼓の音が鳴り響いている。ルアはすぐに獣人の子供たちと仲良くなり、言葉の壁すらないかのように、日が暮れるまで野山を駆け回っていた。


しかし、人間の子供の体力では、獣人の子供たちに一日中ついて回ることはできない。

夕方、村への帰り道。すっかり歩き疲れてしまったルアは、私のローブの裾を握ったまま、こくりこくりと船を漕ぎ始めた。


「……仕方がないな」


私はため息をつき、ひょいと彼女を背負い上げた。

ルアは「ごめんなさい、お父様……」と微かに呟き、私の背中に小さな頭を擦り寄せて、すぐにスースーと寝息を立て始めた。


お父様。

いつからか、彼女は私のことをそう呼ぶようになっていた。

背中越しに伝わってくる、規則正しい心音と、人間の持つ高い体温。

かつての私なら、他者とこれほど密着することなど絶対に避けていただろう。しかし不思議なことに、嫌悪感は全くなかった。むしろ、背中にあるその小さな重みが、冷え切っていた私の胸の奥をじんわりと温め、奇妙な安堵感すら与えてくれていることに気づいた。


(……これが、『愛おしい』という感情なのだろうか)


生まれて初めて自覚したその見知らぬ感情に戸惑いながらも、私は彼女を起こさないよう、ゆっくりと歩幅を合わせて村への道を歩いた。





それからさらに数年の月日が流れ、ルアが十六歳になった頃。

私たちは西の険しい渓谷にある、ドワーフたちの巨大な鉱山都市を訪れていた。


この頃には、ルアは私の肩の辺りまで成長し、すっかり落ち着いた少女になっていた。彼女は道中、私から魔法の基礎を熱心に学んでいた。本来、人間がエルフの魔法を扱うのは至難の業だ。魔力の総量も、それを制御する感覚も全く違う。しかし彼女は諦めず、自分なりに陣を描き、工夫を重ねていた。


都市の地下深く、熱気と鉄の匂いが充満する採掘場を見学させてもらっていた時のことだ。

突然、古くなった坑道の支柱が折れ、天井の一部が崩落した。轟音と共に土砂が降り注ぎ、ドワーフの鉱夫たちの退路が塞がれそうになった。


「危ない!」


私の横で、ルアが咄嗟に声を上げた。

彼女は前に飛び出し、両手を広げて、私から教わったばかりの『防壁』の魔法陣を空中に展開した。

人間の少ない魔力で編み出されたその光の盾は、エルフの強固な魔法と比べれば、ガラス細工のように薄く脆いものだった。しかし、落下してくる岩の軌道を数秒間だけ逸らすには十分だった。


その僅かな隙に、鉱夫たちは間一髪で土砂の下から逃れることができた。

ドシャーッ!と凄まじい音を立てて坑道が完全に塞がった後、ルアはその場にへたり込んだ。無理な魔力の使い方をしたせいで息を乱し、顔も服も土埃で真っ黒になっていた。


「無茶をするな。お前の魔力で防げる質量ではないと分かっているだろう」

「……でも、誰も怪我をしなくて、よかった……」


ルアは泥だらけの顔で、へへっ、と照れくさそうに笑った。

かつてなら「合理的な判断ができていない」と切り捨てていたはずのその無鉄砲さに、私はどうしても怒る気になれなかった。



「……本当によくやった」



私がそっと頭を撫でると、ルアは目を丸くした後、嬉しそうに目を細めた。

その夜、助けられたドワーフたちは大広間に私たちを招き、樽いっぱいのエールと、山のようなご馳走で盛大な宴を開いてくれた。エルフは滅多に他種族と酒を酌み交わさないが、その夜ばかりは、誇らしげに笑うルアの横顔を見ながら、私も彼らの荒々しい乾杯に付き合った。



そして、塔を出てから十数年。

ルアが二十二歳になった秋、私たちはついに、彼女が幼い頃に図鑑で見た『星降る湖』へと辿り着いた。


夜の闇の中、湖面には無数の発光するプランクトンが漂い、まるで空の星々がそのまま水面にこぼれ落ちてきたかのように青白く輝いていた。波が静かに打ち寄せるたび、光の粒が砂浜でサラサラと音を立てて砕ける。


「……綺麗。本で見たのと同じだわ」


すっかり美しい大人の女性へと成長したルアは、湖畔に腰を下ろし、感嘆の息を漏らした。

焚き火の柔らかな光が、彼女の顔を照らしている。十数年の歳月は、彼女の背を伸ばし、顔つきを大人へと変えた。しかし、私を見上げるその琥珀色の瞳の真っ直ぐさだけは、あの燃え盛る村で出会った日のままだ。


「お父様。私をここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」


ルアは、私の隣に座り、そっと私の手に自分の手を重ねた。


「私ね、お父様と一緒に色々な世界を見られて、本当に、本当に幸せよ」


重なった手を見る。彼女の手はもうあの日のような小さな子供の手ではなく、私とさして変わらない大きさに成長していた。それでも、私よりずっと温かいその熱は、変わらずに私の胸の奥を強く締め付ける。



私が生きてきた何百年という時間の中で、彼女と共に歩いたこの十数年は、ほんの僅かな期間でしかない。

しかし、これまでのどの数百年よりも、私の心は鮮やかな色で満たされていた。獣人の村で聞いた笑い声、ドワーフの街で嗅いだ土の匂い、そして今、目の前に広がる星降る湖の光。

そのすべての記憶の真ん中には、必ず彼女の笑顔があった。


「……ああ、私もだ。お前とこの景色を見られて、よかったと思っている」


私がそう答えると、ルアは嬉しそうに身を寄せ、私の肩に頭を乗せた。


こんな穏やかな日々が、いつまでも続くような気がしていた。

エルフの私にとって、数十年などあっという間だということを、頭では理解していたはずなのに。人間である彼女の時間は、私とは全く違う速さで、残酷なほど早く過ぎ去っていくということを、私は本当の意味で分かっていなかったのだ。


色鮮やかな旅の終わりが、刻一刻と近づいていることに。



―・―・―



星降る湖での夜を境に、私たちの旅はさらに何十年という長い時間をかけて、世界の隅々へと広がっていった。


幼い頃から心の優しかったルアは、行く先々で出会う「困っている人々」を決して見過ごすことができなかった。二十代半ばを迎え、魔法の扱いにも長けるようになった彼女は、自らの力で人々を直接救うようになっていった。

またその頃から、彼女は私のことを「お父様」ではなく、再び「アルティス」と名前で呼ぶようになっていた。保護者と庇護される子供としてではなく、隣を歩く対等な相棒として在りたいという、彼女なりの自立の表れだったのだろう。



ある年の夏、私たちは大陸の東に広がる広大な荒野を旅していた。

そこには、何ヶ月も雨が降らず、井戸も枯れ果て、立ち枯れる寸前の小さな村があった。やせ細った家畜と、泥水を啜って生き延びようとする子供たち。村の長老は「これも神が定めた運命だ」と乾いた大地に膝をつき、ただ死を待つばかりだった。


かつての私なら、その光景を見ても何も感じなかっただろう。自然の摂理であり、寿命の短い人間がいずれ辿るありふれた結末の一つに過ぎないからだ。

しかし、今は違う。どうにかしてやりたい気持ちが生まれていた。けれど、どうすることもできないと無意識に私は諦めていた。しかし、ルアは違った。彼女は無言のまま村の広場の中央に立ち、荷物から杖を取り出すと、ひび割れた地面に直接、巨大な『水脈探査と引き上げ』の魔法陣を描き始めたのだ。


炎天下の中、汗だくになりながら複雑な陣を組み上げる彼女に、私は声をかけた。


「……やめておけ、ルア。お前の魔力量で干上がった水脈を引き上げることなど不可能だ。それに、一時的に彼らを救ったところで、この過酷な土地に住む限り、彼らはまた数年後に同じ危機に直面する。残念だが結局は無駄になる命だ」


私の忠告に対し、ルアは陣を描く手を止めず、額の汗を拭いながら真っ直ぐに私を見つめ返した。


「無駄なんかじゃないわ、アルティス」

「何?」

「彼らが数年後に死んでしまうとしても、五十年後に寿命を迎えるとしても。私たちが今ここで彼らに『明日』をあげることができれば、その明日は必ず、次の誰かの明日に繋がっていく。……私が、アルティスに明日をもらって、今こうして生きているように」


その言葉に、私は息を呑んだ。

彼女の琥珀色の瞳には、あの燃え盛る村で私の冷たい手を握りしめた時と同じ、決して消えることのない強い光が宿っていた。


「……勝手にしろ」


私は短くため息をつき、彼女の背後に立った。そして、人間が構築したその緻密で繊細な魔法陣の核に、エルフの持つ膨大な魔力を静かに注ぎ込んだ。


「え……アルティス?」

「陣の制御だけに集中しろ。力は私が貸す」


驚いて振り返るルアにそう告げると、彼女は花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、強く頷いた。


次の瞬間、地鳴りのような音と共に、干上がっていた広場の井戸から、天高く水柱が噴き上がった。何ヶ月ぶりかの澄んだ水が荒野の土を濡らし、人々に降り注ぐ。

村人たちは信じられないものを見るような目でその水滴を浴び、やがて歓喜の声を上げて泣き崩れ、私たちに向かって何度も何度も地面に額を擦り付けて感謝の祈りを捧げた。

泥だらけになって笑い合う村の子供たちを見つめながら、ルアは本当に嬉しそうに目を細めていた。その横顔を見て、私は「人間の短い命が繋がっていくことの美しさ」を、生まれて初めて理解したような気がした。





またある冬には、北の果てにある、猛吹雪に閉ざされた雪山の集落を訪れた。

その村では、数日前から魔獣の群れが頻繁に現れて食糧庫を荒らし、さらには村の幼い子供が一人、吹雪の森の中で行方不明になってしまっていた。

村の大人たちは猛吹雪と魔獣の恐怖に足止めされ、捜索を諦めかけていた。



「探しに行きましょう、アルティス。まだ間に合うかもしれない」



ルアの強い願いに引かれ、私たちは村人たちが止めるのも聞かず、視界もままならない猛吹雪の森へと足を踏み入れた。

私が『風避け』の結界を張り、魔力探知で周囲を探る。ルアは膝まで雪に埋まりながらも、決して弱音を吐かずに歩き続けた。やがて、森の奥の氷の洞窟に追い詰められ、数頭の氷狼アイスウルフに囲まれて震えている子供を発見した。


私が氷狼の群れを魔法で一掃するより早く、ルアは子供の元へ駆け寄り、自分の着ていた厚手の外套を脱いで小さな体を包み込んだ。


「大丈夫、もう怖くないわ。よく頑張ったわね」


そう言って子供をきつく抱きしめ、自分の体温を分け与えるルアの姿は、ひどく神々しく見えた。

村へ子供を連れ帰った時の母親の安堵の涙。父親の震える手からの感謝の言葉。彼らが囲む暖炉の火は、凍え切った体を溶かすだけでなく、私の心に深く根付いていた氷をも溶かしていくようだった。



「……人間という生き物は、本当に騒がしくて、面倒だ」

「ふふっ。でも、アルティスも一緒に探してくれたじゃない」

「お前がうるさく言うからだ」



温かいスープを飲みながら私がそっぽを向くと、ルアは嬉しそうにくすくすと笑った。

彼女と世界を歩くうち、私たちはいつしか行く先々で「長命の魔法使いと、心優しき人間の聖女」として人々に記憶されるようになっていた。私たちが立ち去った後も、彼らはルアの優しさを語り継ぎ、その足跡は確かに世界に温かい色を残していったのだ。




しかし――。

私たちがどれほど多くの人々を救い、美しい景色を共有し、鮮やかな思い出を重ねていこうとも、たった一つの残酷な現実だけは、決して避けることができなかった。



「時間」である。



ルアが四十歳を超えた頃から、その歩みは少しずつ、確実に遅くなっていった。

かつては日が暮れるまで山を越えられた彼女が、半日歩いただけで息を乱すようになった。五十歳を迎える頃には、夜の寒さが関節に堪えるようになり、薬草を煎じて飲む日が増えた。



ある朝、宿屋の鏡の前で髪を梳いていた彼女の豊かな栗色の髪に、何本もの白い糸が混じっているのを見つけた時。

私は心臓を冷たい手で直接掴まれたような、かつて経験したことのない強烈な「恐怖」に襲われた。



エルフである私の姿は、彼女と出会った六十年前から何一つ変わっていない。透き通るような肌も、銀色の髪も、青年のような顔立ちも。

私の中の時間は止まっているのに、彼女の時間だけが、指の間からこぼれ落ちる砂のようにサラサラと失われていく。



「……ルア。今日はもう休もう。いや、しばらくこの街に留まってもいい。私が疲れた」

「アルティス……?あなたが疲れるなんて、珍しいわね」



私は彼女の老いを直視することができず、見え透いた嘘をついて歩みを止めることが多くなった。

夜、ルアが眠りについた後、私は彼女を残してこっそりと宿を抜け出し、各地のエルフの隠れ里や古代遺跡を狂ったように探し回った。「人間の寿命を延ばす魔法」や「不老不死の秘薬」の記録を見つけるために。

何百年も生きてきた中で、これほどまでに何かに執着し、必死になったことはなかった。どうしても、彼女を失いたくなかった。彼女のいない無色の世界に、二度と戻りたくなかったのだ。


しかし、どれほど探しても、理を覆す術など存在しなかった。

ある夜、泥だらけになって宿に戻ってきた私を、目を覚ましていたルアが静かに迎えた。彼女は全てを悟っていた。



「……アルティス。もういいのよ」

「ルア、私は……」

「私、魔法で寿命を延ばしたりなんてしたくない。人間として生まれて、あなたと一緒に年を重ねて……そして、自然のままにあなたに見送られたい。それが私の願いなの」



私の頬に触れた彼女の手は、少しシワが寄り、小さくなっていた。しかし、その温もりだけは、あの日のままだ。



私はその手を両手で包み込み、声を殺して泣いた。悠久を生きる私が、初めて「時間」の残酷さに己の無力さを痛感し、運命の前でただ咽び泣くことしかできなかった瞬間だった。




私たちは、長く続いた旅を終わりにすることにした。

ルアが六十五歳になった春。私たちは、かつて彼女と出会い、共に暮らしたあの『星読みの塔』へと帰還したのだった。



塔での生活は、昔と何も変わらないように見えて、決定的に違っていた。

ルアは急速に体力を落とし、七十歳を迎える頃には、一日の大半をベッドの上で過ごすようになっていた。



私は毎日、彼女が少しでも苦しまないよう、痛みを和らげる魔法をかけ続けた。彼女が食事を喉を通らなくなれば、魔力で口当たりの良い栄養食を作り、彼女が昔好きだった裏庭の花を摘んでは、ベッドの横の空き瓶に活けた。

かつて彼女が私にしてくれたことを、そっくりそのまま返すように。



ルアはただ寝てばかりいたわけではなかった。

体調が良い日には、ベッドの隣に机を引き寄せさせ、分厚い魔導書を広げて、虫眼鏡を片手に何やら熱心に書き込みをしたり、特殊なガラス細工のようなものに魔力を注ぎ込んだりしていた。



「……何を作っているんだ?あまり無理をして魔力を使うな」

「内緒よ。これはね、お父様のための『宿題』を作っているの」



彼女はしわがれた声で、悪戯っぽく笑った。いつからか、彼女は再び私のことを「お父様」と呼ぶようになっていた。自分が幼かったあの頃に戻っていくかのように。




そして、その時はやってきた。

外は冷たい秋の雨が降っていた。部屋の中は静寂に包まれ、ストーブの火だけがパチパチと小さな音を立てている。



「……お父様」



ベッドの上に横たわるルアが、ひどく掠れた声で私を呼んだ。

私はすぐに椅子から立ち上がり、彼女のしわだらけの右手を両手で強く握りしめた。彼女の呼吸は浅く、体温は恐ろしいほどに下がっていた。エルフである私の手の方が、温かく感じてしまうほどに。



「ルア。喋らなくていい。今、魔力を注ぐから……」


「だめよ、お父様。私の時間は、もう尽きかけているの。エルフの魔力でも、時の流れには逆らえないって、お父様が一番よく分かっているでしょう?」



ルアは優しく私の手を握り返した。その力は、微風のように弱かった。



「怖かったのよ、ずっと」


「何がだ。痛むのか?苦しいのか?」


「違うわ。……私が死んだ後、お父様がまた、あの冷たくて、色のない一人きりの時間に戻ってしまうことが、何よりも怖かったの」



彼女の琥珀色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

私は首を横に振った。言葉が出なかった。ただ、彼女の手を握りしめ、ぽろぽろと無様な涙をこぼすことしかできなかった。



「だから私、お父様のために『宿題』を用意したの」



ルアはゆっくりと視線を動かし、枕元の小さなテーブルを見た。

そこには、彼女が最期の数年間をかけて密かに作り上げていた、手のひらサイズの『アンティーク調の小さなランタン』が置かれていた。ガラスの中には芯も油もなく、ただ透き通った空洞があるだけだった。



「……お父様。私と出会ってくれて、この広い世界を見せてくれて、本当にありがとう。私の人生は、お父様のおかげで、色鮮やかな宝物になったわ」



「違う……私の方だ。私に心を与え、世界に色をつけてくれたのは、お前なんだ……!」



「ふふっ……じゃあ、お互い様ね……」



ルアは、まるでうたた寝に入る前のような、安らかな、満ち足りた微笑みを浮かべた。




「お父様……あのランタンを持って、またこの美しい世界を歩いてね。私がいなくなっても、どうか絶望して立ち止まらないで……。お父様には、これからもずっと、笑っていてほしいの……」




微かな吐息と共に紡がれたその言葉を最後に。

私の手を握り返していた彼女の指から、ふっと力が抜けた。






静かな、本当に静かな幕切れだった。



繋いだ手から、彼女が持っていた最後の熱が、少しずつ、少しずつ冷えて、空気中へと溶けていく。



「……ルア?」



返事はない。



ストーブの火がはぜる音だけが、無慈悲に響く。

私は彼女の手を自分の額に押し当て、声を上げて泣き崩れた。


何百年もの間、無色の川を漂うように生きてきた私が手にした、たった数十年間の色鮮やかな奇跡。

私に「愛する」という心を与え、世界を鮮やかに彩ってくれた最愛の娘は、静かにその短い生涯を終えたのだった。



枕元に置かれた硝子のランタンだけが、主を失った部屋の中で、冷たい雨の光を反射して静かに佇んでいた。




ルアが静かな眠りについてから、どれだけの夜が明けたのだろうか。



私は塔の裏庭――彼女が幼い頃、私のためにいつも不格好な野花を摘んでいた場所に小さな墓標を立て、そこに彼女を埋葬した。


彼女という光を失った星読みの塔は、再びひどく冷たく、静かな場所に戻ってしまった。私が生きてきた数百年の間、ずっと当たり前だったはずのその静寂が、今はただ恐ろしく、耳を塞ぎたくなるほどに苦痛だった。



食事をとることも忘れ、私はただ抜け殻のように、ベッドの傍らで椅子に座り続けていた。

目を閉じれば、今でも彼女の足音や、舌足らずなハミングが聞こえてくるような気がする。しかし目を開ければ、そこにあるのは無機質な石の壁だけだ。

彼女がいなくなった世界は、再び急速に色を失い、灰色に染まっていくようだった。




『私が死んだ後、お父様がまた、あの冷たくて、色のない一人きりの時間に戻ってしまうことが、何よりも怖かったの』




不意に、ルアの最期の言葉が脳裏に蘇った。

ゆっくりと視線を上げると、枕元のテーブルに置かれたままの、あのアンティーク調の小さなランタンが目に入った。



『お父様……あのランタンを持って、またこの美しい世界を歩いてね』



それは、彼女が最期の力を振り絞って私に遺した、最後の「宿題」。

私は震える手を伸ばし、その冷たい硝子のランタンをそっと持ち上げた。中には芯も油もなく、当然ながら火は灯っていない。


彼女は一体、この空っぽのランタンにどんな魔法をかけたのだろうか。



「……歩けと、言うのか。お前のいないこの世界を」



掠れた声が、静寂の部屋に虚しく響く。

一人で歩いたところで、そこに何の意味がある。お前が隣で笑っていなければ、どんな美しい景色を見ても、私の心は二度と色づくことなどないのに。



ランタンを元の場所に戻そうとした、その時だった。

窓の外から、不意に一陣の風が吹き込んだ。それは秋の終わりの冷たい風だったが、微かに、ほんの微かに、南の土の匂いが混じっていたような気がした。


南。それは私たちが初めて塔を出て、あの騒がしい獣人たちの村へと向かった方角だ。


何かに導かれるように、私はランタンを手に持ったまま、ふらふらと立ち上がり、塔の扉を開けて外へと足を踏み出した。




枯れ葉の散る森の中を、南へ向かって一歩、また一歩と進む。



すると――。



「……っ!?」



手の中のランタンが、にわかに熱を帯びた。

見下ろすと、空っぽだったはずの硝子の中に、ぽっ、と小さな明かりが灯っていた。それは燃えるような赤い炎ではなく、透き通るような温かい琥珀色の光だった。彼女の瞳と、同じ色の。



私が驚いて立ち止すると、光はわずかに弱まった。しかし、再び南へ――かつて二人で歩いた村の方角へ向かって歩き出すと、光は脈打つように強さを増していく。

そして、その琥珀色の光が周囲の木々を照らし出した瞬間、私の胸の奥に、直接「声」が響いてきたのだ。



『わあ……!アルティス、見て!この葉っぱ、太陽の光が透けてキラキラしてる!』



「ルア……!?」



私は弾かれたように周囲を見渡した。誰もいない。

しかし、胸の中に流れ込んでくるその感情は、紛れもなく彼女のものだった。初めて森を歩いた時の、あの弾けるような好奇心と、世界に対する純粋な喜び。

それは単なる記憶の映像ではなく、彼女がその時、その場所で感じていた『心の動き』そのものが、ランタンの光を通して私の心に直接注ぎ込まれているようだった。



私は悟った。

ルアが最期の数年間をかけて編み出し、私に遺した魔法の正体。



それは、かつて私たちが共に歩み、心を通わせた場所に近づくほどに光り輝き、そこに残された彼女の「喜び」や「愛」の感情を、私の心に届けてくれるという奇跡の魔法だった。



『私ね、お父様と一緒に色々な世界を見られて、本当に、本当に幸せよ』



星降る湖で、私の肩に頭を乗せて笑った彼女の温もりが、光と共に胸に蘇る。



ああ、なんと温かく、愛に満ちた魔法なのだろうか。



彼女は、一人残される私が絶望に沈んでしまわないように。二度と色のない世界に戻ってしまわないように。

「私たちが歩いた世界には、こんなにもたくさんの幸せな記憶が残っているのだ」と、教えようとしてくれているのだ。



私はランタンを両手で包み込むように胸に抱き寄せ、その温もりを感じながら、ぽろぽろと涙をこぼした。



それは、絶望の涙ではなかった。冷え切っていた私の心を再び溶かし、優しく満たしてくれる、温かい涙だった。



彼女の体はもう、この世界にはない。

けれど、彼女が私に教えてくれた優しさは、私たちが共に助けた人々の未来の中で生き続けている。そして、彼女が世界に向けた愛と喜びは、このランタンの光となって、これからの私の行く先を照らしてくれる。



彼女が遺してくれたたくさんの色が、今もそこかしこで、私が気づいてくれるのを待っているのだから。



私は袖で涙を拭うと、塔へと引き返し、長旅のための荷物をまとめた。

そして、裏庭の小さな墓標の前に立ち、穏やかな気持ちでそっと微笑みかけた。



「行ってくるよ、ルア」



その時だった。

手の中のランタンが琥珀色の光を強く放ち、私の目の前に、ふわりと光の粒子が舞い上がった。



光はゆっくりと形を作り、やがて、微笑むルアの姿――私が見慣れた、美しく成長した大人の彼女の姿――の幻影となった。


彼女の幻影は、まるで私の新たな旅立ちを祝福するかのように、優しく目を細めて口を開いた。




『いってらっしゃい、アルティス。――あなたの行く道が、これからも温かい光で満たされていますように』




風が吹き抜けると同時に、幻影は光の粒となって森の奥へ、そして世界へと溶けていった。

私はその光の余韻を真っ直ぐに見つめ、力強く頷いた。




塔の結界を閉じ、私は再び、広大な世界へと足を踏み出す。


これから始まるのは、一人きりの孤独な旅ではない。愛する娘が遺した足跡を辿り、彼女が愛したこの美しい世界を、もう一度見つめ直すための温かい旅だ。




木漏れ日の差す森の道を、琥珀色の光を揺らしながら歩いていく。

悠久を生きる魔法使いの、新しく、そしてどこまでも色鮮やかな旅が、今始まった。








ここまでお読みいただきありがとうございました!

最近、寿命をテーマにした作品を作った際にエルフのような寿命が長い種族の命の価値観ってどうなんだろう?と思って書いてみました!


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― 新着の感想 ―
悠久の寿命があれば数十年の時間は一瞬なのでしょう 人間から見たセミみたいな感覚なのでしょうか ルアさんが自分が亡くなった後のアルティスさんを心配して残した「宿題」に込められた深い愛情に感動しました …
 悠久を生きる『最愛の父』に遺した『温かな魔法』に涙腺が緩みました…(´;ω;`)
 アルティスとルアの間に通う、清らかで繊細な愛情に心打たれました。二人が旅する世界もまた、残酷な面もありながら、確かに美しくて。これもアルティスの隣りにルアがいるからこそなのでしょうね。  インクルー…
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