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奇々怪界  作者: エヌの人
6/10

第六話 鬼女

夜半、寺の戸を叩く音で目が覚めた。


――ドン、ドン、ドン。


遠慮のない、切羽詰まった音だった。


親父が先に立ち、俺はその後ろに続く。

戸を開けると、檀家の男が立っていた。

息が上がり、顔色は真っ青だ。


「すみません……! 女房が……!」


言葉が、続かない。


その背後で、奥さんが俯いたまま立っていた。

いや――立っている、というより、引きずられている。


足が、うまく動いていない。


「様子が……おかしいんです」


男の声が震える。


「急に笑い出したり、何もないところを睨んだり……

さっきなんて、腹を押さえて……“返して”って……」


その瞬間だった。


アヤメが、ひゅっと俺の耳元に飛んできた。


「ワカ……やばい」


声が、いつもより低い。


「これ、生霊だよ。

しかも――女」


俺は、奥さんを見る。


俯いた顔の影が、揺れている。

影だけが、微かに――角の形をしていた。


「……あの檀家さん」


アヤメが続ける。


「浮気してる。

でね、その相手……まだ生きてる」


生霊。


しかも、怨念が濃い。


「怒りと執着が混ざってる。

このまま放っておいたら……鬼女になる」


親父が、静かに息を吸った。


「中へ」


短い言葉だった。


奥さんが、ふっと顔を上げる。


その目が、俺を見た。


――いや。


俺の向こうを、見ていた。


「……返して」


女の声が、二重に響いた。


その夜、寺は戦場になる。


奥さんはお堂に通された途端、崩れるように座り込んだ。


床に落ちた瞬間、

腹を押さえ、低く唸る。


「……いや……いや……」


声は本人のものだ。

けれど、響きが重い。


親父は脈を取るように手を伸ばし、すぐに引っ込めた。


「憑いてるな」


断言だった。


アヤメが俺の肩に留まる。


「女の生霊。

怒りが核だけど……妬みと執着が絡み合ってる」


奥さんの背後、灯りに照らされた影が、ゆっくり歪んだ。


影だけが――

人の形をやめ始めている。


「……別れるって言ったのに……」


奥さんの口から、別の声が漏れた。


「奥さんと別れるって……言ったのに……!」


床に、爪が食い込む。


一本、角のような影が、はっきりと浮かび上がった。


イズナが歯を剥く。


「もう……鬼化、始まってる!」


「タケル!」


親父の声が鋭く響いた。


「座敷に飾ってる

童子切安綱――模造刀を持ってこい!」


俺は走った。


家の寺に代々置かれている一本。

切れない。

だが、斬るための刀じゃない。


刀身には、びっしりと陀羅尼経が刻まれている。


戻った瞬間、空気が変わった。


奥さんが叫ぶ。


「返せえええええ!!」


背中から、黒い気配が噴き出した。


エリカとトウヤが同時に動く。


「こっちは人だ! 引き剥がすぞ!」


「離れろ! お前の怒り、ここで終わりにしろ!」


二人が押さえ込むが、

見えない腕が絡みつく。


イズナが駆け回り、

生霊の“核”を探る。


親父は、不動明王火界呪を唱え始めた。


低く、重く、

堂内に火の気配が満ちる。


「……今だ!」


俺は一歩踏み出した。


童子切安綱を構える。


斬る相手は、奥さんじゃない。

その背後に縋りつく――執着。


「――もう、終わりだ」


振り下ろす。


刃は、何も切らない。


だが――


影だけが、裂けた。


悲鳴が一つ。


女の声だった。


角の影が砕け、

黒い気配が霧のように散る。


奥さんは、そのまま崩れ落ちた。


静寂。


親父は経を止め、深く息を吐いた。


「……終わった」


後日、檀家の男は謝罪に来た。


浮気は事実だった。

慰謝料を払い、関係を清算したという。


ただ――


浮気相手の女性は、

その後、行方が分からなくなったらしい。


奥さんは、ほどなくして妊娠が分かった。


俺は、それを聞いても、何も言わなかった。


鬼女は、悪じゃない。


怒りと執着が、

行き場を失っただけだ。


――人の業が生んだもの。


だからこそ、

斬るのは鬼じゃない。


想いの縁だけだ。





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