袴田小六
〈寒鯉や釣り人曰く食つてみよ 涙次〉
【ⅰ】
* 天神一享博士は文化勲章迄授與された、バイオテクノロジー研究者の中でも大立者とされる人物である。文化勲章受勲者は文化功勞者の中から撰ばれるが、文化功勞者には每年年金(年間350萬圓)が授給される。天神博士は所謂變人で、どの團體にも屬さない一匹狼だつた。從つて給與處得はなく、その年金と、国民年金とで細々と生活してゐた。博士には身寄りと云ふ者はなかつた。
或る朝、新聞の囲み記事で、博士を隣人が呼び掛けても返答がない。よもや大學者ともあらう者が孤獨死? 警察が乘り出したが、彼の自宅には影も形もない。事件は迷宮入り、と思はれる- と報道された。何の事はない。彼は【魔】に依つて誘拐されてゐたのだ(「舊魔界」はこれも細々ながらも存續してゐた)。
* 前シリーズ第2話參照。
【ⅱ】
それから數箇月が經つた。某文藝誌に、「猫文學精選」と云ふ企画があり、これ迄もテオ=谷澤景六の小説が掲載されてゐたのだが、この度新人・袴田小六なる猫の作家の『人身御供』と題する小説がピックアップされた。その荒筋は、「と或る新興宗教の教祖が、詐欺的行為の為(冤罪である)警察に拘留された。そこで彼は嚴しい取り調べを受け、あらう事か教祖としての節度を放棄し、棄教してしまふ。信徒逹は叛教祖派と親教祖派に分裂。最後はデウス・エクス・マキナの如く現れたイエス・キリストに依り彼らは皆昇天する」と云ふもの。「へえ、これ猫が書いたのか。ちと稚拙だが、僕のフォロワーなのかな?」と谷澤。木嶋さんに訊いてみたが正體は不明との事。この袴田なる猫の小説家、實は天神博士が造つた脳を持つ、「もう一匹の天才猫」なのであつた。
【ⅲ】
博士は叛ルシフェル派の(こゝら邊、小説のモティーフは現實の事件だと云ふ事が分かる個處だ)【魔】逹にそゝのかされ、つひ協力してしまつたのだが、博士自身は何の為、と云ふ事は聞かされてゐなかつた。魔界は、カンテラ一味に「寢返つた」ルシフェルを巡り、親・叛兩派の派閥に分裂、その叛ルシフェル派が、謂はゞ決定打として、この袴田なる猫を人間界に送り込んで來たのだ。
※※※※
〈我が齡は肉から魚へ食卓の興味移れるそんな齡頃 平手みき〉
【ⅳ】
文化人のゴシップを扱ふ週間誌などは、「あの谷澤景六に強力なライヴァル現はる!」と喧傳、テオのところにもコメントを求めて記者逹が大勢押し掛けた。テオ「彼がなかなか尻尾を摑ませないので、コメントは差し控へさせて貰ひます」としか、答へられない。だが、彼の担当編輯者は、確かに猫、然も* テオの右耳と同じやうに、左耳のない白毛のオッドアイの猫だと云ふ。實際にPCに入力してゐるところに立ち合つたのだから、まあ間違ひはない。猫用グラブも同じ物を装着してゐたと云ふ。「飛んだ亞流だな」とテオ、苦笑してゐたが、その實、叛ルシフェル派がカンテラ一味を叩く為、一味主要メンバーの中では一番攻撃力のない自分を狙つてゐるのだな、と薄々は感じてゐた。
* 當該シリーズ第94話參照。
【ⅴ】
では何故、武闘に依る攻撃ではなく、テオの谷澤としての文業を狙つて來るのか。それは、叛ルシフェル派の捻ぢくれたルシフェルへの愛情に依るものだつた。骨(前回參照)になつたとは云へ、ルシフェルには蘇生の可能性はまだ殘つてゐた。武闘ではカンテラ一派には太刀打ち出來ない。さうなるとルシフェルの奪還も難しくなる(彼らもまた、ルシフェルへの崇拝に於いては、シンパの者逹と變はりなかつたのだ)。すると、事態は元の黙阿彌に戻つてしまふ。ところが、思はぬ天神博士の協力に依り、脳生化學の分野でだけは、カンテラ一味に勝る、と云ふ事で、その方面での攻撃がこの場合ベターであらう、と讀んだのだ。谷澤景六としてのテオを「潰して」しまへば、彼は必ずやダウンしてしまひ、カンテラ一味は立ち行かなくなるだらう。兎に角、こつこつとでもいゝから、一味の一角から崩して行くのだ!
【ⅵ】
さて、事はテオ=谷澤の双肩に掛かつてゐる。『或る回心』さへ完成すれば、世論はテオに靡くだらう。この競争(?)はそれ迄續く。頑張れテオ!! と云ふ譯で、この項、續きとさせて貰ふ。讀者のテオへの聲援を待つ。また。
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〈寒鴉余計なイメージ無用なり 涙次〉




