56. 甘い蜜には毒がある
「もう終わりましたよ」
フローラがドアの向こうから顔を出す。
ジョシュアが有能だったため、大きな一部屋に泊まることになっていた。今まで馬車で散々一緒に寝てきたというのに、というか自分がベッドにまでなっていたくせに、どうして国一番の宿屋になった途端恥ずかしがるのか。フローラは理解不能だった。結局アーサーは足をはみ出してまでソファで寝て、着替えの時は別室で待機していた。
「見、見てもいいのか?」
「見てもいいも何も、この間着たのと同じですよ?」
フローラの全身が見えた時、アーサーの心臓が止まった。遺言は「美しい」のみだった。
白を基調とし、何枚ものチュールが重ねられたドレス。金の刺繍は華やかで、フローラの瞳の色と同じピンク色の大きな花びらの意匠がふんだんにあしらわれている。ふわりとしたラインはフローラの華奢な体を引き立て、白いレースの手袋がその儚さを守る。いつもは下ろしている髪は結われ、ドレスと同じ花飾りの横には控えめながらもブルーダイアモンドが輝いていた。
「こりゃ凄いな……っておーい、息してるか?」
「ダメです、これ死んでます」
「戻ってこーい」
アーサーの目の前にはいまだに綺麗なお花畑と川があった。ジョシュアが一発殴ってようやく現世に戻ってきた。
「では、参りましょうか」
アーサーだって、とても美しくセットされていたのだが、フローラは自分の美が基準だったため、なんとも思わなかった。というよりも、フローラが心ときめくものはほとんどの人にとって最悪なため、むしろこれでよかった。
フローラは日常茶飯事に動じず、ただ優雅にエスコートされて馬車に乗った。
「アーサー・フロスト辺境伯とフローラ辺境伯夫人のおなりです」
思い出したくもない混沌の舞踏会から早一年。今度は大目立ちで入場し、会場をざわつかせる。辺境伯の陰口を叩こうと待ち構えていた多くの人々は、フローラの美しさに言葉を失った。しばらくしてざわついたところで、聞こえてくるのは感嘆のため息である。
『ねぇ、あんな令嬢いたかしら?』
『スペンサー家のフローラ様よ。冤罪で婚約破棄されて、辺境領に嫁がれた』
『えぇ!? 確かに昔からふとした時に美しかったけれど、まさか、こんな……』
フローラどころか、アーサーでさえ嘲笑されない。というよりも、アーサーはフローラの美しさで失神しないように、また下品な目で見た奴を眼圧で殺すのに必死だった。
フローラは惚れられても困ると、誰とも目を合わせずにエスコートされていたが、ある人物たちのあまりにも悪目立ちする行動に瞬きを繰り返す。何も知らない観客はまつ毛の長さに惚けていた。
「アーサー様、あの方々に見覚えがあるのですが」
「……ウィリアム・フォードとブリアナ・スペンサーだな」
フローラは自分の利益になる者しか覚えない。また、愚かすぎる者は人間として認識していない。
ブリアナは苗字で思い出した。自分の旧姓くらい覚えている。つまり、豚こと異母姉だ。ブドウを食い尽くしているところ、何も変わっていないのだろう。
ウィリアムとは一体誰なのかと思ったところで、フローラは自分で選んだ元婚約者のことを思い出した。
「まぁ……」
「あの二人は婚約者同士だ」
フローラが顔を見上げると、アーサーは悪戯っぽく目を細めた。初めて見る顔に、フローラは少し驚く。
つまり、アーサーの報復の一つなのだろう。ブリアナと結婚とは、生き地獄と同じようなものだ。雪山に埋められた方がまだマシだろう。
「仲がよろしそうで素敵ですね」
「……ああ、そうだな」
フローラはごく自然に、しかし華麗にターンし、別方向へと向かう。せっかく美を振り撒いているのだ、穢れたくはなかった。
「アーサー様、私お話ししたい方々がおりますの」
ここからはフローラの独擅場だ。甘い蜜に引き寄せられた者たちを、ゆっくりと食すのだ。貴族たちはもう二度と、辺境領を蔑むことなどできない。
「共に踊っていただけますか?」




