38. 不憫な男、アーサー
アーサーが初めて恋に落ちたのは、十四の時だった。数年に一度の、王家との会議。父である辺境伯と共に王城に参上した時のことだった。
『ぎゃああああああああ』
渡り廊下を通っている時、獣のような叫び声が聞こえた。狩りが当たり前の地で育ち、また既に戦場に立っていたアーサーは声の聞こえた方へ向かう。そこには突進する猪……ではなくどこかの家の令嬢がいた。後ろには正気ではない犬もいる。
『ちょ、たすけ、助けてぇぇ!』
猪たちの向かう先には、ビスクドールのような令嬢がいた。
……ふわふわとした亜麻色の髪が風にたなびく。その横顔は、作り物のように美しかった。薄ピンク色の瞳は、ただ真っ直ぐに、彼女は標的を見つめていた。
アーサーは彼女が逃げないことを不思議に思った。
それは恐怖で足がすくんでいるからでもない。彼女は冷静に考えて、動かないことを選択したのだ。
確かに、逃げ惑えば会場はめちゃくちゃになり、誰かが怪我をするだろう。王族の前でそんなことを起こしてしまえば、大変なことになる。
だからといって、その年で、その小さな体で、その選択を取れるだろうか。
『っ!』
気がつけば、アーサーは彼女を守るように片腕で覆い、もう片方でテーブルをなぎ倒して猪の動きを止めていた。テーブルは大破したが、猪は反動で後ろに転がるだけで済み、犬は潰される前に避けた。
『……あ、ありがとう、ございます』
作り物のようだった少女が、自分を見つめ、あどけない顔で呟く。
アーサーはその薄ピンク色の瞳に映る自分の顔が赤いことに気づき、それがただただ恥ずかしかった。
お怪我はないだろうか? ご無事だろうか? 言いたいことはたくさんあった。けれどもどの言葉も上手く言えず、悔しさと羞恥に悶えることしかできない。守るためとはいえ、腕の中に抱いてしまったことも謝罪したいというのに。
『あ、いや、お……ごごご……ば……うう!!』
もう何やっても上手くいかなくて、アーサーは頭を下げてその場から去ることにした。王家主催のガーデンパーティーだ。まずは主催者である王女殿下に謝罪しなければならなかった。
『異音がしましたので、襲撃かと思い……パーティーを荒らしてしまい申し訳ございません』
『……いいえ、あのままでは人的被害が出ていたでしょう。それに比べれば、テーブルなど安い物』
王女殿下は、快く許してくれた。アーサーは王女殿下の外面が違うこと、話がわかる人であることを知っていた。
一応体裁は保ったとしても、周囲のざわめきからは、辺境伯や血濡れた悪魔の地などと聞こえてくる。わかってはいたが、実際に聞くと嫌な気持ちになるものだった。王都の、他領の平和は、フロスト領民の犠牲から成り立っているというのに。
『このお詫びは必ず』
それでも、次期辺境伯として、大人な対応をしなければならない。それが領民を守ることに繋がる。
このことによって、アーサーは初恋を初恋だと気付かずにその場を去った。実際、十四の自分が、七歳の少女に恋に落ちるなど、自覚しても認めなかっただろう。
結局、会議もあまり上手くいかず、軍備費は上がりそうにもなかった。
が、彼女の美しさが、覚悟が、あどけない瞳が忘れられなかった。帰りの馬車の中で悶々としすぎて、辺境伯に水をぶっかけられたほどだった。
『おい、隊長が恋煩いしてるらしいぞ』
『は!? 誰なんだ!?』
『俺もわからん。なんでも王都から帰ってきてかららしい』
『せ、切ねえ!! 無理じゃねえか!! なんでそんなとこで恋に落ちちゃうんだよ、隊長!!』
訓練の最中、年上の部下たちからそんな会話が聞こえてきたとしても、恋煩い? 何を言っているんだ……とアーサーは思っていた。ただ思っていただけだった。
実際のところ、少女……フローラがどの家の誰なのかさりげなく調べ、腕の中で『……あ、ありがとう、ございます』と言われた時のことを何度も思い出していた。ふわふわとした雰囲気を思い出しては密かに縫い物を始め、詩集を読むたびにフローラが思い浮かんだ。落ち込んだ時は、彼女の覚悟を思い出し、自分を奮い立たせた。無自覚は自覚せざるを得なくなり、末期だった。
────これが十一年続いた。その間に爵位を継いだり、冷血伯との異名を持ったりしたが、まったく関係なかった。アーサーをよく知る人物皆が、不憫だと思っていた。




