30. 真夏の夜の悪夢のように
「なっ!!」
結局、フローラは屋根裏部屋で三日を過ごした。流石に衰弱しているかと思えば、そんなことはない。フローラは合鍵を持っている。勝手に出て勝手に水分を摂り、勝手に食事も摂っていた。使用人達は皆フローラの味方なため、逆に少し食べ過ぎたくらいだ。慰謝料の小切手も無事に手に入り、フローラはただ勘当を言い渡されるのを待っていた。
伯爵は驚愕したが、どうにか立て直し、自信満々に告げる。
「ふん。その余裕も今のうちだ。……お前は冷血伯のところに嫁がせることにした!」
冷血伯……それはアーサー・フロスト辺境伯の異名だった。
辺境伯領は異民族の襲撃の絶えない雪国で、血濡れた悪魔の地と呼ばれている。ほぼ一つの国のようなそこは、閉鎖的で野蛮で、誰も寄りつかない領地だった。王侯貴族……特に中央貴族は辺境伯を忌み嫌っていた。
そんな地で、若くして爵位を継ぎ、無敗を誇るアーサー・フロストは、滅多に表舞台に出てこないこともあり、どんな怪物なのかと噂されていた。
侯爵に並ぶ地位を持つ辺境伯とはいえ、そんなところに娘を嫁にやる家などなかったし、どんなに肝の据わった娘でも、泣いて許しを乞うだろう。伯爵は鼻の穴を膨らませた。
「もう決まったことだからな、例え泣きついてきても無駄だぞ。親に口答えなどするから……」
「まぁっ! 本当ですか、お父様!」
ろくに子供を愛さず、趣味嗜好さえ知らない伯爵の敗北だ。
────フローラは悪趣味だった。
この三日間、フローラは持っていく物を吟味していた。最後だからともう一度蠱毒を試してみたり、呪術に使われた人形の釘を抜いてみたり、好き放題していた。
そんな娘に、悪魔の土地に嫁げなど、褒美……いや新しいおもちゃを買い与えるようなものだ。伯爵がフローラにプレゼントした唯一のことかもしれない。
「お父様、ありがとうございます。すぐに準備いたしますわ」
すっかり勘当されるつもりだったフローラだが、より魅力的な方を選ぶことにした。
血濡れた悪魔の土地、ましてや異民族の襲撃が絶えないなんて、たくさんの呪物や拷問道具、武功を表した絵画があるに決まっている。国境沿いだから、異国の物だって手に入るだろう。
「本当にありがとうございます。では」
桃色の瞳を輝かせ、亜麻色の髪を揺らして出ていった。自室と屋根裏部屋を往復し、トランクに色々なものを詰めていった。
伯爵は一人執務室で呆然と立っていることしかできなかった。もう我が娘ながら怖くてしょうがなくて、さっさと追い出そうと思った。
「……なんなんだ」
こうしてほんわか令嬢は冷血伯のところに嫁ぐこととなった。フローラは謎の大荷物と共に嬉々として辺境伯領へ向かう馬車に乗った。家族は誰も来なかったが、大勢の使用人たちに見送られて出ていった。とても異様な光景だった。
学園の卒業シーズン、ちょうど夏のこと。それは、えも言われぬ恐怖と狂気の混ざる、真夏の夜の悪夢のようだった。
……しかし、忘れてはならない。フローラは多くの人を誑かし、それを放っておいたまま、別れも告げずに嫁いでしまったことを。




