28. やっと黙らせられた
その日の晩の執務室にて、伯爵は婚約破棄の書類を握りしめて激怒していた。
「この能無しが!」
額に青筋を立てた伯爵は、フローラを罵倒する。大勢の前で不当な理由によって婚約破棄された娘を気遣う言葉などない。脳内にはウィリアムとの婚約で得られるはずだった利益、名声、娘が婚約破棄をされたという羞恥心でが渦巻いているのだろう。溢れる言葉は支離滅裂だった。
「申し訳ありませんお父様。私がお父様に似てしまったがばかりに……」
私が能無しならお前も能無しだ、ドアホ、という意味合いだ。いつもなら泣き真似をして謝るフローラだが、もう違う。この家にいるメリットはない。頬に手を当て、周りに花が飛んでいる幻覚が見えるほど柔らかに言い返した。
「なっ、貴様っ!」
思わずフローラを殴ろうとした伯爵だったが、あまりのほんわか度に振り上げた拳は行き場をなくした。いくら腹を立ててもか弱いウサギを殴ることはしないだろう。同じことである。
「っお前なんて産まなきゃよかった!」
その様子を見ていた母は、髪を振り乱し、ヒステリックに叫ぶ。フローラは眉を下げ、曖昧に微笑んだ。
「お母様、そう熱くならないでください。お母様が夢見た結果が私ですよ?」
見栄と醜いマウントの取り合いのために、散々甚振ったことを、フローラは忘れない。ヒステリックな叫び声と共に、過剰なほどに所作や淑女教育をさせられた。トルソーのように、長時間立たされ針を刺され、動けば叩かれた。その末に、このほんわかな雰囲気と完璧な所作に隠された、腹に黒いものが巣くっている令嬢が生まれたのだ。
母の顔は真っ赤になった。
「何よ!! 私が悪いっていうの!?」
カッとなった母が叩こうとしてきたところを、フローラはサッと避ける。避けられるなんて思っていなかった母は、よろけて床に倒れ込んだ。フローラは冷たい顔で見下ろし、気味が悪いほど明るく吐き捨てる。
「……お二人とも顔色が悪いようですが、体調がよろしくないのでは?」
ずっと、避けようと思えば避けられた。でも、避ければ余計めんどくさくなるから耐えていた。
しかし今、勘当されたくてしょうがないフローラは自由だった。ウィリアムからの小切手は明日にも送られてくるだろう。長年かけて自分を愛するように育て上げた使用人達は、必ずフローラに先に渡してくれる。
フローラには余裕があった。伯爵と母はいつもと違う娘にたじろいでいた。
「くっ……また屋根裏部屋に閉じ込められたいようだな!」
どう足掻いても勝てないと悟った伯爵は控えていた側近にフローラを連れて行くよう命じた。側近は目を見開いたまま、慣れたように屋根裏部屋の鍵を受け取る。
フローラは、わざわざ渡さなくても自分で作った合鍵があるというのに……と鼻で笑った。
いつものようにしおらしくならないフローラに、誰もが驚き、焦りを隠せない。
「それがお父様のご判断ならば、私は甘んじて受け入れましょう」
屋根裏部屋は今や改造されすぎて、一つのコレクション部屋のようになっている。カーペットにクッション、ローテーブルにブランケット。それはそれは快適な空間で、フローラは虫と共存していることなど、伯爵や母、使用人ですら知らない。
伯爵が何も言えなくなっている間に、フローラはふわふわドレスを翻して執務室を退出する。側近も躊躇いながらもついて出た。
フローラは迷いのない足取りで屋根裏部屋へ向かい、側近はついていく。これは本当に妖精姫なのか、と側近は不思議に思っていた。
外付け階段を登り、屋根裏部屋のドアの前に立つ。フローラは服の中から合鍵を取り出した。
「……フローラ様?」
「長年心配をさせたわね。私、屋根裏部屋が大好きなの」
フローラは側近に笑いかけた。飾らないチャーミングな笑みだった。
……中が悪趣味に塗れているだなんて、考えられないほどに。




