第三話 護衛騎士ロキ、二度目の忠誠
黎明の王都ルクシオン――
霧をまとった西門は、まだ赤金の朝日が届かぬ灰色の空気を湛えていた。巨大な尖塔都市を囲う石壁の要所。旅の荷馬車と農産物を積んだ荷車が列をなし、開門を待つ商人たちが焚き火に手をかざしている。城内より一歩外へ踏み出せば、そこは貴族の権威も薄まる“外界”。だが今朝、この門が見送るのはただひとりの元公爵令嬢と、その小さな一行だった。
門兵の槍先が空気を切る。鎧の合わせがぎしりと響き、門番長が帳簿をめくった。
「次、アルセイン家荷馬車」
呼ばれた馬車は濃紺の幌を張った四輪。御者台には漆黒の外套を羽織った護衛騎士ロキが座り、後部扉からリディアが歩み出る。侍女ミーナが慌てて後を追い、馬車内へ戻れと袖を引いたが、リディアは軽く首を振った。
「西門通行手形と、公爵家印章。それと貨物目録です」
淡藤色の瞳で門兵に書類を差し出す。
「ふん……“偽聖女さま”がご丁寧に」
門番長が意地悪く唇を歪めた。背後の兵士たちがくすくすと笑う。
「教会新聞は読んだか? 黒の儀式とかいう噂だ」
「くっ……」
ミーナの肩がびくりと揺れる。ロキの拳が手綱を締め付けた。それでもリディアは眉一つ動かさない。
「噂は自由ですが、公文書に偽りはありません。お急ぎなら次の荷車を通してあげてください。私たちは検査を受けても構いませんわ」
門番長は鼻を鳴らし、書類に押された公爵家の黄金印章をじっと睨んだ。
「……“追放令嬢”は手間がかかるな。見張りを一人つける。出過ぎた真似をすれば、戻ってきてもらうぞ」
門兵のひとりが馬車横に歩み寄る。リディアは会釈し、ミーナを先に乗せた。
ロキが門兵に視線もくれず、御者台で呟く――「姫に手を出したら、槍をまとめてへし折る」。声は低いが、門兵はぞわりと肩をすくめた。
荷馬車が門を抜ける。石畳が土道に変わり、朝の霧が馬の吐息に混ざる。王都を背にした瞬間、リディアは小さく息を吐いた。
「姫様、悔しくないのですか?」
ミーナが涙を滲ませる。「偽聖女なんて、ひどすぎます……」
「悔しさは剣にならないわ。必要なのは真実だけよ」
ロキは微かに笑い、御者台から降りて馬の首を撫でた。「姫の言葉は鋼より重いな」
* * *
街道に薄桃の光が差しかけた頃――馬のいななきが静寂を破った。
後方から乾いた蹄の連続音。塵を巻き上げて近衛騎士団の正規騎馬小隊が現れる。赤白の軍旗を掲げ、五騎一列。先頭の銀鎧はロキの旧上官ヴェルド中隊長だ。
「おおい、ロキ=バレンシア!」
ヴェルドが馬を止め、通告書を掲げる。「無断離隊の咎により連行する。辞表は受理されていない。王城へ戻れ」
ロキは息を潜めるように立った。「辞表は宰相局へ提出した。文書番号31304、正式な手続きを踏んだはずだ」
「そんなものは届いていない。宰相局より“偽造”の疑いが出た。騎士団規律に従い、鎧と剣を返還せよ」
ロキの額に浮かんだ青筋を、リディアは横目で見守る。宰相イグランによる書類潰し――想定内。だが、宰相がここまで早く動くとは。
「――名誉争いは剣で決める。貴族法第五十九条」
ロキが一歩前へ。鞘から剣を抜く。刃身に影が絡みつき、薄闇が揺らめく。
「決闘を要求する。俺と貴様ら、騎士の誇りを賭けて」
ヴェルドが笑う。「随分と自信があるらしいな。よかろう、ここで決めてやる」
騎士たちが円陣を取る。ミーナは馬車内で悲鳴を噛み殺し、リディアが扉を開けて降り立った。緩い斜面、小石混じりの街道。豚革の靴先が枯れ葉を踏む。
「怪我だけはお気をつけて、ロキ」
ロキは剣を軽く掲げ、影をまとった刃で朝陽の欠片を弾いた。
* * *
最初に動いたのはヴェルドではなく、脇を固める二番槍だった。突進の踏み込みで砂礫が飛ぶ。ロキは半歩退き、剣を水平に払う。カァン――火花。槍の鉄穂が刃と噛み、次の瞬間に砕けた。影が槍身を包み、まるで鋼を溶かす硫酸のように鉄を歪める。
「なっ……!」
動揺した二番槍の懐に、ロキの膝蹴りが突き刺さる。鎧の胸板が沈み込み、男がうめき声と共に後方へ吹き飛ぶ。続く三番槍、四番槍が左右から挟み込むが、ロキの影剣が月を描き三歩先に黒い弧を落とした。影に触れた刃は鈍色の霜をまとい、重さを失ったかのように地面へ落ちる。
観衆が息を呑む。焚き火を囲んでいた商人が荷馬車から身を乗り出し、農民たちが杖を握り直して目を見開いた。「近衛騎士が……」
「影剣技――<月閃ノ陣>」
ロキが小さく宣した。影が彼の足元から放射状に伸びる。夜の残り香が薄明を切り裂き、槍兵たちの鎧の隙間を通って腕に絡みつく。鈍い衝撃。兵の指から槍がするりと落ちる。影が握力を奪ったのだ。彼らが手を震わせながら退くと、影は元の長さに戻り、地面で揺らぐだけになった。
「馬鹿な……影魔法の付与など王城では禁術だ!」
ヴェルドが馬を駆りロキに斬りかかる。剣がぶつかり合い、金属音が山谷にこだまする。ヴェルドは上段、側面、足払いと多彩な剣筋で攻め立てるが、ロキは紙一重でいなしては刃を受け流し、反撃の一太刀を放つ。影に纏われた剣は鋭いが、ロキの動きは静謐そのもの。観客の目には、影と剣が完全に同化したかのように映った。
十合――二十合――
最後の交差で、ロキが刃を地面に突き立てた瞬間、石畳が割れて細い影の裂け目が走った。影は一瞬だけ深い深い無音の奈落を覗かせ、ヴェルドは馬上で身体をこわばらせた。次いで馬が恐怖に嘶き、膝を折った。
静寂。
ロキは剣を抜き、刃を地面と水平に掲げる。その顔は淡く汗ばみながらも凛然としている。
「俺の剣は、リディア=アルセインの盾であり刃である。栄誉も地位も要らん。ただ彼女を守る」
ヴェルドが舌を打つ。「……退くぞ!」
近衛騎士団小隊は敗走した。残された門兵は呆然と立ち尽くし、商人や農民が拍手と歓声を送った。
「すごい……黒騎士様だ」
「偽聖女? あの令嬢を守るために近衛騎士が剣を捨てるのか?」
噂は風に乗り、王都の嘲笑に微かな裂け目を生んだ。
* * *
荷馬車が再び走り出すと、ミーナは車内でロキの袖を引っぱった。「腕が……血が!」
ロキは袖をまくり、浅い切り傷を見せた。「掠っただけだ。心配ない」
リディアが腰を下ろし、薬草を潰した軟膏を塗る。指先が触れるとロキの肩がわずかに震えた。
「私が影属性の制御法を教えなければ、あの技は使えなかったでしょう?」
「ええ。あの頃は剣を振るたび闇に呑まれて目を開けていられなかった。姫が影を“明かり”に出来ると教えてくれたから、今の俺がある」
リディアは微笑む。「影は光の裏側。光が射すから影が宿る。あなたの剣は光を導くわ」
ロキの頬がうっすら赤く染まり、扉の外を向いた。リディアも自分の胸が高鳴るのを感じ、視線を落とす。
* * *
正午、街道沿いの小さな宿場町。粗末な木造駅舎に馬車を停めると、飛脚が息を切らして駆け寄った。封筒にはブランシュ公爵の印。開封すると、緊急の書状が出てくる。
> 『宰相派が騎士団に圧力をかけ、ロキの辞表を不受理とし指名手配状を発行。王都の新聞社に“逃亡騎士”の見出しが踊る。真偽はともかく、法的拘束力が形だけ成立。万一捕縛されれば軍法会議。要警戒。』
ロキは苦笑し、封筒を折った。「名誉を奪うのが奴らのやり方か」
「名誉は剣と共に示せばいい」リディアが言い、視線で荷馬車の積荷――研究ノートが詰まった箱を示した。「証拠の資料作りを急ぎましょう。影マナ炉が形になれば、王都世論を覆せる」
* * *
薄暮が近づいた頃、遠くに細長い鉄の橋が見えてきた。山沿いの線路を旧式の魔導列車〈ステン=ライン号〉がゆっくり走っている。その手前にある木造駅舎には赤い貼り紙が目立った。
> 《整備不良につき減速運行。急停止の可能性あり》
リディアは駅舎の屋根へ影視を向ける。視界に青黒い濁流が走る――魔導炉心のマナ漏出。ガラスに細かい亀裂。
「安全装置が半日以内に壊れるわ」
ロキが眉をひそめる。「乗らずに迂回するか?」
「いいえ。乗って修理する。列車事故は旅人と子どもたちを巻き込むもの。影が恐れられる前に、影が人を救えると示さなくては」
ミーナが目を丸くした。「姫様、本気で?」
「ええ。波乱ばかりの旅だけど、影は波を飲みこみ静けさを戻す――それが私たちの役目よ」
ロキは剣の鍔に手を置き、微笑んだ。「了解、影姫」
汽笛が遠くで鳴く。夕映えの雲を突き抜け、列車は駅へ近づいてきた。
影と光の物語は、また新たな舞台を得て疾走を始める――。
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