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第二話 追放令嬢、影を抱いて旅立


 王城の裏手に張りめぐらされた回廊は、儀式のざわめきが去ったあともまだ白い霧の匂いを抱えていた。

 侍女ミーナ・ブレアはふらつく足取りで柱の蔭を回り込み、まるで置き去りにされた子鹿のようにきょろきょろと辺りを見回した。袖のレースが震え、銀盆が小さく鳴る。半刻前まで鳴動していた聖堂のパイプオルガンが、いまでは嘘のように静まり返っている。


「姫様――姫様はいずこへ……?」


 ひそかな呼び声はすぐに届いた。

 回廊の突き当たり、古びた片扉の隙間から、淡藤色のドレスが翻るのが見える。ミーナは胸を撫でおろし駆け寄った。扉の向こうは人の気配もしない書庫だった。砂のような静寂。天窓から差す光が埃を白金に照らし、その中心でリディア=アルセインは床に膝をついてなにやら箱を開けている。


「姫様っ、今すぐ御身をお隠しください! 王太子付き侍従が――婚約破棄の正式手続きを、と……廊下を……」


「ミーナ、扉を閉めて鍵をかけて。誰が来ても開けなくていいわ」


 振り向いたリディアの声は澄んでいた。縁に細工を施した木箱をぱたりと閉じ、真鍮の錠を掛ける。箱は手のひらよりひと回り大きい黒色。蓋の中央には、影を象徴する二重螺旋の魔導紋章が刻まれている。ミーナはごくりと息を飲んだ。


「それは……?」


「私の研究の核となる転移石。そして――影属性の触媒よ」


 リディアは箱をゆっくり抱え上げる。指先が白い光を吸収し、微かに深紫の燐光が滲んだ。ミーナの視線が吸い寄せられる。転移石とは古代遺跡で稀に発掘される空間転移の秘石。王家が独占管理するため、一般人どころか大貴族でも滅多に所持しない。ミーナは慄きながらも扉に鍵をかけ、ふと気づいた。


「姫様、お顔が……笑って――いらっしゃる?」


「ええ。私にとってはお祝いの日だもの」


 リディアは指で頬を撫でる。鏡があれば笑みが映るだろう。

 十七年間、王都貴族としての義務を果たし、王太子妃に相応しい品位を刻み込まれた。その鎖が、つい先ほど自らの手で外れた。残るは自由だけ。そう思えば、胸の奥で弾ける高揚を抑えられなかった。


「さあ、荷造りに取り掛かりましょう。父上のもとへ行かねば」


 ミーナが慌てて銀盆を棚に置き、手伝いに駆け寄る。二人で書庫奥の隠し棚から革製トランクを引き出し、研究ノートや魔道具を詰め込む。魔力測定具、ルーペ、鉱石標本、影素を抽出する蒸留管。リディアはそれらを丁寧に積み重ね、最後に紫水晶のペンを納めた。


「姫様……」


「不安?」

「いえ……ただ、これだけの宝物を抱えて旅立つなんて。今朝まで私は、王都を一歩も出たことがなくて――」


「平気よ、ミーナ。影はどこにでもあるわ。暗闇を恐れなければ、夜は私たちを隠してくれる」


 リディアは微笑みかけ、トランクを閉じた。その眼差しに、ミーナは確かな炎を見る。

 ――姫様は本当に、恐れていない。


* * *


 公爵家本邸は王城の西、虹石橋を渡った丘陵に建つ。日時計塔がそびえ、夜には月光を集めて庭園を照らす白い宮殿だ。転移石の力で一瞬にして渡り、書斎へ入ったリディアは息を吐いた。転移酔いを防ぐための深呼吸。壁に掛けられた父の戦装束の下で床板を押す。鈍い音とともに隠しスペースが開き、緋色のベルベット包みが現れた。


 包みを解く。厚さ三センチの帳面には《影属性マナ応用研究:発動式・生体循環・結界理論》と刻まれている。ページを指で弾くたび、墨色の魔法陣が淡い発光で浮かび上がった。これが彼女の宝、そして王都では禁忌とされる禁術指定ギリギリの研究成果。


(光を拒む影属性は禍々しい――と教会は断ずる。ならば私は、影が善を照らす未来を示してやる)


 机の上で蝋燭が揺れた。静かに扉が開く。

 頑健な体躯にセーブルの礼服を纏ったブランシュ公爵ギルフォードが入ってきた。白髪交じりの髪に眼鏡を掛け、威厳の奥に柔らかな父の表情を宿している。


「リディア。王城から戻ったばかりか。……その手の包みは?」


「研究ノートと転移石。それと、王都では公表できない魔導図案一式。辺境で試すわ」


 公爵は眉を上げた後、頷き書斎の金庫を開ける。奥から黒革の袋、そして三つの黒曜転移石を取り出す。袋は重く、銀糸で王家の鷹が縫い取られている。ブランシュ公爵が椅子へ腰掛け、袋を机へ置いた。


「中身は五百万クラウンと、資源開発許可状だ。お前の叔父ガレス伯が治めるグレイムーン領は資金難。好きに使え」


「ありがとう、父上。でも――」

「心配か? 王都で生き残る金は俺には十分ある。お前は己の影を世界に刻め。……母上が生きていれば同じことを言っただろう」


 リディアは瞬きし、そっと袋に指を触れた。口を開きかけるが、言葉が見つからない。その沈黙を破ったのは、甲冑の触れ合う乾いた音。


「姫様」


 扉の前に立つ青年は長身。黒に赤のラインを配した近衛騎士団礼装から赤いマントを外し、無造作に脇に抱えていた。陽に焼けた小麦色の肌。深緑の瞳に映るのは揺るぎない忠誠心。リディアの幼馴染、ロキ=バレンシアである。


「近衛騎士団に辞表を提出し、正式に公爵家随衛騎士となりました。影の旅路、お供します」


 ロキは胸に拳を当てて膝を折る。公爵が目を細めた。


「王太子の前で剣を突き立てた男だ。……覚悟はあるのか?」


「剣士にとって主は刃の行く先。主こそ小手を握る手。俺はリディア様の剣です」


 強い言葉にリディアの心臓が速く打つ。彼の眼差しは炎のように真っ直ぐだ。

 ――わたしに命を預けるというのか。


「ロキ、旅は危険ばかりよ。影属性の研究は異端視される。命を狙われるかもしれない」


「笑顔を失う貴女を見る方が――俺は怖い」


 その一言で、リディアは小さく息を呑んだ。

 公爵が咳払いし、机から書類を差し出す。「これも持って行け。開発局が半年前に上げた辺境測量図と資源埋蔵報告だ。鉱脈は生きている。掘れば金も鉄も取れる。お前の影マナ炉と合わせれば、領地は甦る」


 リディアは書類を慎重に畳み、革鞄に収めた。

 夜明けまで残り数時間――王都を発つ時刻が近づいている。


* * *


 一方その頃、王城地下の黒水晶会議室。宰相イグランは長テーブルに影を落とし、空色の羽根ペンで羊皮紙に署名を加えていた。王太子ユリウスは焦燥を隠しきれずテーブルを指で叩く。


「リディアが逃げおおせた? 教会の報告書では“拘束の準備中”と――」


「拘束? とんでもない。民衆は彼女を哀れな被害者と見ている。捕らえれば逆効果です、殿下」


 イグランは涼しい顔で指を鳴らす。司祭リガンが大量の写本を抱えて現れた。見出しにはこんな文字が躍っている。


> 《偽聖女の暗黒儀式 公爵令嬢、王城呪詛か?》


 ユリウスは目を見開いた。「虚偽記事だ。王国新聞社は王家の管理下――」


「世論が真実を選ぶのではありません。世論が“声の大きい方”へ傾くのです」


 イグランは嘲笑を浮かべ、手の中の報告書にハンコを押した。


「断罪会議の日程は三十日後。それまでに偽聖女の闇儀式疑惑が宮廷全体を覆えば、殿下の婚約破棄は正義と讃えられる。――そのころ彼女が辺境で何をしようと、『闇の聖女』のレッテル一枚で滅ぼせます」


 司祭リガンは薄笑いで首肯する。「判定装置を改竄したのは事実。だが世が騒げば、誰も技術的な詳細など気にしませんぞ」


 ユリウスは唇を噛みしめ、つい先ほど壇上で見たリディアの冷たい微笑を思い出した。

 ――あれは敗者の顔ではなかった。

 胸にひやりとした恐怖がこみ上げる。それを打ち消すように、イグランはさらりと言った。


「殿下は黙って“正義の王太子”を演じていればよいのです」


* * *


 その夜、月が高い位置で雲に溶ける頃。公爵家中庭では荷馬車隊が準備を終え、松明の灯がいくつも揺れていた。幌馬車には研究機材、金庫箱、生活物資、薬草サンプルが積み込まれている。リディアは黒装束の騎士ロキと並び、最後の点検を終えた。


 ミーナがふかふかの毛布を手に走ってくる。「姫様、辺境は夜寒いと聞きました。この毛布を!」

 リディアは礼を言い、馬車の座席へ敷く。その後ろでブランシュ公爵が静かに手を広げ、娘を抱き寄せた。鎧のように硬い胸板が安心感をくれる。


「父上、王都は荒れます。どうか……」

「任せよ。王家も教会も我ら貴族院なくしては立たぬ。王太子が虚偽を連ねるなら、我らは真を突きつけるだけだ」


 言葉は短いが、信用できる重みがあった。リディアは泣きそうなミーナの手を取り、馬車へ乗り込む。御者席にはロキがいる。手綱を握る手に力がこもり、影剣士の証である黒鉄の鍔が月光を弾いた。


「グレイムーン領まで三日。途中で列車を使えれば一日短縮できますが……」

「急がないとね。宰相は三十日で断罪会議を開くらしいわ」


 ロキが驚きに眉を上げる。「情報源?」

「影は光より速いの。城の窓辺で聞こえた噂を拾っただけよ」


 馬車がゆっくりと門をくぐる。鉄柵の向こうで公爵が手を振った。

 リディアは振り返らない。代わりに胸元から研究ノートを取り出し、真新しいページにペンを走らせる。


> 【第一目標】影マナ炉:試作型完成まで30日。

> ──必要資材:黒鉄鉱30キロ、聖銀粉2リットル、光遮断ルーン石1基

> ──試作地:グレイムーン領・廃坑地下3層


 インクが乾かぬままページを閉じる。馬車の車輪が石畳から土道へ乗り上げ、リディアの体が小さく揺れた。樹々の間を吹き抜ける夜風は冷たいが、同時に自由の香りがした。


 影はいつも背中に潜む。光から逃げるものではない。光を刺すために、影はそこに在る。

 リディアは窓から顔を出し、遠ざかる王都の灯を見つめた。


「さようなら、王都。私の影があなたを貫く日を、どうか恐れて待っていて」


 彼女の囁きを夜だけが聞いた。その夜はひどく静かで、代わりに遠雷のような新聞印刷機の音が王都の暗がりに低く轟いていた。


* * *


 翌朝。王都の新聞屋の店先。刷り上がったばかりの号外が積まれる。


> 【偽聖女、闇の召喚儀式!? 王城呪詛の疑い】


 少年配達人が鐘を鳴らし、通りに声を張り上げる。

 宰相イグランは王城の窓辺で新しい新聞を広げた。その背後で王太子ユリウスが不安げに眉をひそめる。


「炎上は派手なほど、焼け跡が煌びやかに見えるものです」


 イグランの薄笑いは窓外の曇り空より冷たかった。

 だが遠く離れた街道では、一本の馬車が朝霧を切り裂き、確かな決意を乗せて走っていた。影を抱き、光を超えるために。


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