第一話 婚約破棄宣言は王城の朝礼で
王都ルクシオンに夜明けが訪れた。
千の尖塔が並ぶ白亜の王城。その最上階、聖堂と隣り合う回廊を薄紅の光が満たし、長い影が床の大理石を滑る。早朝にもかかわらず侍女や従臣が慌ただしく行き交い、巨大な水晶柱を磨き上げていた。今日は年に一度の〈聖女適性再判定式〉。王国の礎である聖女候補が、再びその“神意”を測られる日だ。
十五歳の侍女ミーナ・ブレアは銀盆を抱え、回廊の端を駆けていた。盆には試験に使われる香炉と、聖堂へ献じる白薔薇のペタルが載せられている。香炉の蓋がかたかたと鳴り、彼女は慌てて手を抑えた。
(今日こそ、姫様が“真の聖女”だと証明されるはず――)
心の中で祈りながら角を曲がると、控室の扉が開いた。早くも侍女長が声を張り、着付けを終えた貴族令嬢たちを整列させている。
「ミーナ、遅い!」
「も、申し訳ありません!」
ミーナが頭を下げた瞬間、回廊の向こうからゆっくりと歩む少女が目に入った。薄水色のドレスに羽根のようなレースを散らし、白銀のティアラを掲げたその姿――公爵令嬢リディア=アルセインだ。淡いラベンダー色の瞳が朝焼けを映し、冷たい光を帯びている。
リディアは侍女長に向かって軽く会釈した後、香炉を抱えたミーナの前に立った。指先で蓋を押さえ直し、ふっと小さく微笑む。
「焦らなくて大丈夫。まだ鐘は鳴っていないわ」
その声は静かだが、確かな芯があった。ミーナは安堵の息を漏らしながらあとに続く。だが――
(姫様の笑顔、少し違う気がする……)
言い知れぬ違和感が胸に引っかかり、ミーナは首をかしげた。
* * *
控室の奥、鏡台の前に腰を下ろしたリディアは、真珠の首飾りを外す手を止めた。鏡の中の自分をじっと見つめる。滑らかな頬、透けるような肌、そしてティアラの下で揺れる薄藤の瞳。それらは誰もを魅了する“貴族令嬢”の形を完璧に備えている。だが、その目の奥には研ぎ澄まされた刃の輝きが潜んでいた。
(今日が終われば、私は檻の鳥から解放される)
机の引き出しを開け、底板を指で押す。軽い音を立てて板が外れ、中から革張りの小冊子が現れた。そこには《影属性マナ研究ノート》と金箔で刻まれ、びっしりと魔法陣や数式が走り書きされている。リディアは指先でノートの背を撫で、微かな熱を感じ取った。
影属性――光と相反する稀有な魔力。王国が管理する聖女適性測定装置は光属性魔力に最適化されており、影属性を測ることはできない。つまり“適性ゼロ”と出るのは当然だ。リディアは六年前、その仕組みを知り密かに研究を進めてきた。今日は王国中が見守る朝礼で、彼女の“無能”が正式に宣告される――だがそれは、同時に自由への切符でもあるのだ。
控室の扉がノックされ、灰色の法衣をまとった司祭リガンが入ってきた。肋骨の浮いた老司祭は深く頭を下げつつ、口元には仄かな嘲笑が宿る。
「アルセイン公爵令嬢、準備は整われましたかな。適性判定の間もまもなくですぞ」
「ええ。お手を煩わせてすみません、司祭様」
リディアは微笑みつつ立ち上がり、ティアラを外した。胸の奥で何かが静かに燃える。――第一幕の幕開けだ。
* * *
大聖堂に設置された試験場。“聖女水晶”と呼ばれる淡紫色の球体が台座に嵌め込まれ、王侯貴族が見守る中で儀式が始まった。式次第を読み上げるのは宰相イグラン。痩身で蛇のような目をした老人は、澄ました声で宣言する。
「ただ今より、聖女適性再判定式を執り行う。アルセイン公爵令嬢、前へ」
リディアが壇上に進み出ると、聖堂のあちこちから囁きが漏れた。「今年こそ適性を示せるかしら?」「もう十七で最後のチャンスだ」と憐憫混じりの声。壇上の正面席には、金色の軍装を纏った王太子ユリウスが腕を組んで座っている。端正な顔に歪んだ笑みを浮かべ、退屈そうにあくびを噛み殺した。
聖女水晶に掌を当てる。司祭リガンが呪文を唱えると、水晶内部の針がぐるりと回転し――ピタリと静止した。何の光も色も灯らない。会場に失望と軽蔑のざわめきが走る。
「測定結果――魔力値、零」
高らかな声が響いた瞬間、令嬢たちの笑いが爆発した。「聖女どころか平民以下!」「お可哀想に」――侮蔑の言葉が踊る。リディアは静かに息を吸い込み、頭を垂れたまま瞳だけを細めた。
そのとき、ユリウス王太子が立ち上がる。白い手袋に包まれた指が宣言書を広げ、聖堂全体に届く声で読み上げた。
「公爵令嬢リディア=アルセイン。貴女には聖女としての資質がないと王国教会が正式に認めた。それゆえ私は貴女との婚約をここに破棄する!」
どよめきが嵐のように吹き荒れた。リディアはゆっくりと顔を上げた。王太子と視線が絡む。ユリウスの瞳には勝者の優越が宿り、口元には薄い嗤いが貼りつく。
だが次の瞬間、その嗤いは凍りついた。
「そうですか――では、殿下」
リディアは胸元の内ポケットから一通の文書を取り出した。極上の羊皮紙に金泥で縁取りされた《婚約破棄誓約状》だ。署名欄にはリディアと公爵家当主の署名があり、最後の欄だけが空白になっている。
「お言葉通り、正式なお手続きを進めましょう。こちらに殿下のご署名をいただければ、法務院が速やかに婚約を解消してくださいます」
水晶のような微笑みと共に差し出された誓約状。ユリウスは言葉をなくし、宰相イグランが慌てて間に割って入る。しかし会場の貴族たちは一転、ざわざわと新たな興味の炎を燃え上がらせた。
「殿下、サインを拒むのですか? それとも――ご決断に迷いが?」
リディアの声は柔らかいが、鋭利な刃のように空気を切り裂いた。ユリウスは顔を赤くし、震える手で羽根ペンを掴む。しかし続く視線の茫漠に耐えられず、ペンを放り投げるように誓約状へ殴り書きした。
リディアは深々と頭を下げると、誓約状を懐に収めた。小さく囁く。
「婚約破棄、承りました。これで私は自由です」
その言葉を聞き、王太子は震えた。聖堂のステンドグラスが朝陽を浴び、リディアの背後で七色の光が瞬く。その光の中で彼女は振り返らず、袖を翻して壇上を降りた。侍女ミーナは呆然としつつも、思わず拍手を打ちそうになる衝動を必死に抑えた。
* * *
宮廷を離れたリディアは、自室へ戻ると侍女たちを下がらせた。扉が閉まると同時に、書棚の裏板を外して革鞄を取り出す。中に研究ノートと、小型の黒曜石――〈転移石〉が入っている。魔力を込めれば一度だけ遠距離転移が可能な希少アイテムだ。
「父上には、予定通り“グレイムーン領へ向かう”と伝言済み。あとは……」
机の上には王太子から贈られた真珠の首飾りが転がっている。リディアはそれをひょいと摘み上げ、光にかざした。冷たい真珠の光沢が、滑稽なほど無価値に見えた。静かに首飾りを箱へ戻すと、窓を開いた。王城の庭園が下方に広がり、まだ薄朝の香りを湛えている。
「影は光があるからこそ生まれる――ならば私は影をまとい、光の芯を貫く刃となろう」
頬を撫でる風が彼女のドレスを揺らし、微かなほこりの匂いを運んだ。遠く、王都の鐘が第一声を放つ。リディアは黒曜石を握りしめ、静かな声で呟く。
「さようなら、王都。次に会う時、あなた方はきっと跪く」
舞い込む光が影を深く伸ばした。影の中心で、少女の瞳が夜よりも濃い輝きを放つ。すべてはこれからだ――婚約破棄の幕が下りた瞬間、真の物語が始まる。
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