六 祭り・かげろう様の章
――深夜。
明かりが消され、暗闇で夜具に横たわり微睡んでいた凪は、微かな気配に目を覚ました。気配へと首を廻らすと、左手に敷かれた夜具の上に影がある。
驚き、飛び起きようとする凪に影がのしかかった。ほっそりとした柔らかなそれが、凪の身体をさわさわと撫で回す。
影の口元がにたっと笑いの形に歪んだ。
(女?)
影が凪に跨る。影の纏った白い衣がはだけ、衣よりもまだ白い肩と胸が露わになる。凪は相手の顔をよく見ようと、暗闇で目を凝らした。凪の視線に気付いた影が、激しく腰を振り乍ら、再びにたっと笑う。
長くも短くも感じた時間は暗闇の内に終わった。身支度を整えた影が、何の余韻も残さず、静かに部屋を後にする。
泥の様な眠りに落ちる寸前、凪の頭を過ぎった考えは形を捉える前に闇に溶けた。
(真っ暗なのに、どうして笑うのが見えたんだろう……ああ、神様だからか……)
気付けば、既に外は明るくなっていた。
(夢だったのか?)
隣に敷かれた寝具の中央、丁度あの女が座っていた辺りが浅く窪んでいる。そっと触れたが、僅かな温もりも無い。だが。
(いや、あれは夢じゃない)
形だけの儀式と思っていたのに……密やかな気配と、生々しく残る柔らかな感触。すべらかな肌。荒い息使い……にたっと笑った赤い唇を思い出し、顔が赤らむ。
廊下から声がかかった。凪が慌ててはだけた衣装を整え返事を返すと、静々とあわいが現れた。
あわいは立ったままじろっと部屋を見回し、にたっと笑うと、
「お疲れ様でございました。かげろう様は婿殿をお気に召されたようだ。ほほ、なによりなにより」
凪が目を泳がせる。あわいの口元に浮かぶ笑みに、昨夜の女の面影が重なり、とてもではないが真面に顔が見られない。
(昨夜のは、まさか……いや、それとも……判らん……)
あれが本当にかげろう様だったのかは分からない。が、凪の中では、既にかげろう様は確かに形を持った存在になっている。
「今日からは好きに過ごせ」
「本当に、何をしていてもいいのかい?」
あわいは声を低めて凪に鋭い目を向け、
「……細工物を作るも売りに行くも好きにせい。だが、遠出は許さぬ。明日からは、かげろう様への日々の奉仕が始まるのを忘れるな。他の女と契ることはもっと許さぬ。お前様は、かげろう様の婿殿なのだ」
凪が気圧された様に黙って頷くと、あわいの強い気が緩み、あの何とも言えないにたっとした笑いを浮かべた。
凪はあわいに気付かれないように、小さく溜息を吐く。
細工物の材料は、川や山で幾らでも手に入れられる。出来上がった品は、定期的に里を訪れる商人が纏めて買い上げてくれる。これまでも、態々遠くまで出向くことなく凪の生活は成り立っていたし、実際、凪は殆ど里から離れたことは無い。だが、こうして言葉にされてしまうと、置かれた状況に閉塞感が無い訳では無い……。
大人しく俯く凪を一瞥したあわいが、満足気な顔で部屋を去るのと入れ替わりに、昨夜と同じ若い女が朝餉を手に現れた。女は黙って部屋の隅に控え、凪が食事を終えると膳と夜具を手際よく片付け、話しかける間もなくさっさと立ち去った。
離れに一人残された凪は、ぽりぽりと頭を掻き、気を取り直したように仕事に取り掛かり始めた。
木片に花や鳥の下絵を描き、丁寧に線に沿って彫る。時折手を止め、全体を眺め、再び手を進める。息抜きの様に、既に彫り終えていた幾つかの細工に脂を塗り磨く。一息つくと、再び彫る作業に戻る。
慣れた作業に没頭する内に、いつの間にか昨夜の高ぶりは鳴りを潜めていた。
ふと、背後に感じた気配。
凪が勢いよく振り向くと、跪いたあの若い手伝い女が、驚いた様に目を丸くしている。女はすぐに丁寧に床に指を付き、頭を下げた。
「申し訳ありません。邪魔をしてしまいましたか」
女は夕餉の配膳にやってきた所らしく、顔を上げると、脇に置いていた膳を凪に向けて置き直した。気付けば既に日は傾き始めている。
「いや、何時も一人なもんだから、ちと驚いて……こっちこそ、驚かせてすまん」
もごもごと言い訳をする凪の腹が鳴る。気まずそうにそっぽを向いた凪を見て、女が笑った。
「そろそろ日が暮れます。すぐに明かりをお持ちいたしましょう。湯浴みはなさいますか?」
凪が頷くと、女は「離れを少し下ると、湯殿があります。湯を張っておきますから、お食事後にご自由に」と腰を上げた。凪は女を呼び止め、
「昨日から世話かけてます。あー……えーと、あんたさんのこと、何て呼んだらいいかい?」
女は少し考えひとつ頷くと、
「ひい、と申します。つがいさんにお仕え出来るとは、この身に余る光栄です。どうぞ、何なりとお申し付けください」
「俺は凪と言います」
「存じてます」
「……ですよね」
何とも収まりが悪い顔をする凪に、ひいは真顔で、
「ですが、我らは貴方を『つがいさん』とお呼びします。ご承知ください」
世話係は他にも居るが、彼女達は母屋での勤めが主な仕事で、こちらに顔を出すことは無い。つがいさんに不自由をかけないようにするのが己の仕事なので、何なりと申し付けて欲しい……ひいが丁寧に頭を下げる。
つがいさんの世話係というのは、祭主家において誉れであるのかもしれない。そんな扱いに、凪は少しの居心地の悪さを覚え、
「あの、出来ればもっと気楽に接して欲しいんだが……」
「つがいさんがそうお望みならば、考えておきます」
ひいの目が僅かながら優し気な光を含んだことに、凪は気付かなかった。