現場検証
とある丘の展望スペース。そこから見下ろす湖は、風に撫でられ笑うように波紋を作り、鳥たちがそれにつられて歌うたう。
それを上から眺めていた彼の表情は穏やかに見えたが、実際にはただ呆然としているだけだった。確かに、心の動揺は先ほどに比べて少し治まっているが、気を緩めれば深く暗い湖の底に引きずり込まれることは彼にもわかっていた。
まさか、楽しい旅行のはずがこんなことになるなんて……。
彼はまた嘆いた。後ろを向き、手で顔を覆い、髪をかき上げた。と、その時、彼は一人の男と目が合った。首からカメラをぶら下げた男だ。その男は彼に近づき、声をかけてきた。
「あ、こんにちは」
「え、あ、あ、どうも、その、すみません、あの、お疲れ様です……」
彼は、しどろもどろになりながらそう言った。
「お疲れ様です」
「あの、本当に友人同士のじゃれ合いというか、ちょっとふざけてただけで、その、突き落とそうなんて全然考えてなかったんです!」
そう、友人たちと旅行に来ていた彼は、この高台から一人の友人を突き落としてしまったのである。
「はぁ、それでどこから突き落としたんですか?」
「あ、はい。現場はこっちです……」
と、彼はカメラを持ってやってきた男に手で指し示した。
「こちらで?」
「ああ、はい、そうです。そのお立ち台というか、切り株の上に友人が立っていました」
「ああ、柵がないですよねぇ。それで下までゴロゴロと」
「は、はい」
「あなたが押した、と」
「はい、すみません。ちょっと、そのあいつが、友人が尻をこっちに向けてたので」
「お尻を」
「は、はい。ちょっとふざけた感じで、こっち見ながらそれで、ツッコミというか」
「突っ込んだ。勢いをつけて突撃したというわけですね」
「い、いや、ツッコミって笑いのほうで」
「ああ、芸人さんでしたか」
「ああ、いえいえ、ただの会社員です」
「ああ、素人さん、と」
「まあ、はい……」
「はしゃぎすぎた素人」
「はい……」
「そう……それで、ご年齢は?」
「僕ですか? 四十代です」
「ああ、そんな」
「はい……そんな?」
「そんないい歳して……」
「それは、まあ、いいじゃないですか……。それで、写真を撮るんですよね?」
「ああ、撮りますか。じゃあほら、指で現場をさしてくださいよ」
「ああ、はい。人差し指でですか?」
「それ以外にありますかね。まあ、中指でもいいですけど」
「ああ、はい。すみません……じゃあ、ここです」
「はい。そのままお待ちください」
彼は少し膝を曲げ、切り株を指さした。そして……。
「………………………………………………………………………………………あの、長くありませんか?」
「あ、ちょ、動かないでくださいよ。はぁ……」
「あ、すみません……でも、時間がかかるなあって」
「何か文句でも?」
「ああ、いえ、すみません……」
「じゃ、動かないでくださいね」
「はい。お願いします………………………………………………………………………あの」
「まだ!」
「あ、はい……………………………………………………………………………いや、長いですって!」
「もう、なんなんですか。手をビシッと上げて」
「いや、そりゃツッコむでしょうよ。あ、はははっ、あれですか? ちょっと気分を和らげてくれようとしてくれていたんですか?」
「そういうのいいので、ほら、早く指し示してください」
「あ、はい………………長いなぁ………………同じ角度から何枚撮るんだよ……………………日が暮れちゃうよ………………現場検証ってそんなに時間かかるの……………………まあ、かかるかぁ………………いや、だから長いですってば!」
「だからぁ! あーもう! なんでツッコむんですか!」
「そりゃツッコみますってば!」
「よくもまあ、人を突き落とした手でビシッとやれますね」
「うぐ、そんなこと言わなくていいでしょうよ……反省はしてるんですから……」
「反省じゃなくて後悔でしょ」
「うう、うるさいなっ。あと、この手で突き落としたわけじゃないですから」
「はい? 逆の手ですか?」
「いえ、尻です」
「尻!? 尻で尻を押したんですか!?」
「はい、ヒップアタックです」
「いい歳したおじさんが何をしてるんですか……」
「それはその、いいでしょうよ。こういうおふざけはみんな好きですからね。他のみんなもよく笑って、あれ、そういえば……みんな……どこに行ったんだ……? 病院かな……あれ、でもあの時、あいつって、あれ、落ちたんだっけ……」
「はぁ、もういいからほら、撮って欲しいならちゃんと場所を指し示してください」
「ああ、はい……」
「こちらがいいというまで動かないでくださいよ」
「はい。はぁ……………………………………………………………………………」
「長いなぁ」と心の中でぼやく彼。一方、「シャッターが押せないなぁ。どうしてだぁ」と呟く男。沈黙を続ける空、囀る鳥の声、そよぐ風の音、湖の表情は一定のリズムを繰り返し続ける。
時々ふと抱く違和感は、押さえつけられるようにすぐに身を潜めた。
この場所で死した彼らは、後悔と未練に縛られ、まるで一枚の写真のようにこの場に閉じ込められていた。