第2章(1) とりあえず、逆向きません?
突然だけど、オレは今、とてつもなく大変なことになっている。
どれくらい大変かというと、耳のない青いネコが机の引き出しから現れたり、パンを食べようとしたらそいつがパンチを喰らわしてきたりなんていう、いつかうなされた夢とは比べものにならないくらい、ヤバい。
「……」
オレは今、落ちている。ずっと、ずーっと、ただ下に向かって突き進んでいる。いったいどこまで落ちていくのか、まるで見当もつかない。
落下中じゃどうにもならないから、こうなったいきさつを説明すると、オレは今日も朝から釣りをしていたんだ。で、岩に座って針を池に投げ入れようとしたら、こないだ拾ったあの青い珠がポケットから落ちた。珠は岩の上から転がっていって、とっさに伸ばしたオレの手をすり抜けて池の中に消えた。
それだけなら「残念」で終わるところだけど、足を滑らせて体勢を崩したオレまで池に落ちてしまった。さらにまだそこまででも、「びしょ濡れ」で終わらせることができただろう。問題は、なぜかそれほど深くないはずの池の底に吸い込まれて、そこからこうして果てしなく落ち続けているということだ。
まさか池の底に、こんな大穴があったなんてなぁ。六年も近くに住んでいて、しょっちゅう釣りをしていたのに、全然気づかなかったよ。普通、誰も想像できないだろ! ……ダメだ、自分でボケて自分でツッコんでしてしまうくらい、この状況はいろんな意味でヤバい。
こうやってあれこれ考えている間にも、暗い空間をひたすら底をめざして落下している。底なんてあるのか? まぁ、あったらあったで、それが見えたときにはいっかんの終わりだろうな。
とりあえず、どこにつながっているのかを考えてみよう。池の下には地面があって、地面の下には……何があるんだ? もしかして、大陸の裏側に出たりして。
そういえば、大陸の外ってどうなっているんだろ。どれだけデカい戦争をしていても、船や航海術が発達しても、誰もこの大陸から出たことがない。エラい学者がいうには、海の向こうには世界の果てがあって、何もない真っ黒な空間に向かって、ただ海水が落ちこんでいるだけらしい。……え? もしかして今、オレが落ちているのはそこだったりするのか?
「あ〜ぁ」
もう、どうでもよくなってきたよ。やり残したことといえば、リトルにもらって帰った極上ワインを隠しておくのを忘れたくらいか。今ごろシオンに飲まれてるかも……それはかなりくやしい心残りだ。でもこの状態じゃ、それもどうにもできない。どこでもいいから、早くこの落下を止めてくれ〜。
「……あ」
誰かがオレの心の声を聞いてくれたらしい。はるか下に、かすかな光が見えてきた。え、え? つまりもうすぐ着陸……じゃなくて、墜落するのか!? もう落ち飽きたと思っていたのに、いざ終着点が迫ってきたらやっぱり焦った。
「うわぁああーーッ!」
……。……。あれ?
「はい、いらっしゃい」
シャレじゃなく死ぬほどの衝撃を覚悟していたのに、地面が頭に乗っけられたみたいにぽすっと触れて、続けて女の子の声まで聞こえてきた。恐るおそる目を開けたら、頭で逆立ちしていているオレの前に、レースのついた白い服の少女が立っていた。
「え? えーっと……あれ?」
「混乱するのも無理はないですけど、とりあえず、逆向きません?」
黒縁メガネをして、たんぽぽ色の髪を二つに三つ編みした女の子は、極めて妥当な提案をした。言われて、オレもようやく足で立った。明かりらしいものはないうす暗いところで、しっかりとした地面以外には何もない。足元に転がっていた青い珠をやっと回収して、ポケットに戻してから向き直った。
「で、あんた、誰?」
「私は死神のうつほといいます。初めまして、フィリガーさん。」
しにがみ……死神? 死んだ人のところにお迎えに来るっていう、あの……!?
「ってことは、やっぱりオレ、死んだのか?」
「ん〜、それがちょっと、むずかしいところなんですよね」
オレより五歳くらい年下に見える顔が、困った表情になった。だからといってシリアスな感じは皆無で、この明るい服とかわいい雰囲気は、世間で言われている死神のイメージを完全に破壊している。
「えーっと、まずここは冥界マーラの入口だから、まだ完全に死んだわけじゃありません」
「まだ、ね」
「フィリガーさんは『空の穴』に落ちたんです。あ、空の穴っていうのは冥界につながっている時空の歪みのことで、現界のいろんなところにあるんです。普通は誰も気づかないし、めったに落ちることもないんですけどね」
「そのめったにないことが、オレに起こった、と。……ん? なんで池の底なのに『空の穴』なんだ?」
「だって、マーラは現界の空の上にあるんですもん。ちなみにここは、境界の案内ルームです」
「空? さんざん落ちたのに?」
「詳しい原理は、千年死神やっていても知りませんから、神様にでも訊いてください。……あ、今、こいついくつだ!? って思ったでしょ。現界人から見たらおばあちゃんでも、千十七歳はまだまだ若いんですよ」
オレのツッコミを先回りしたつもりだろうけど、千歳なんておばあちゃんっていう次元じゃないぞ、と、さらにツッコミたいところだ。
「とにかく、まれにこうして落ちる人がいるわけですけど、その人が本当に死ぬべき運命なのか、残りの寿命やこの先の予定人生を確認します。通行資格があれば私たちがご案内して、ただの事故だったら現界に送り戻すって具合です」
のんびりとした口調で説明を続けるうつほは、オレの顔をまじまじとのぞきこんで、メガネのずれを直した。
「ところがですね、フィリガーさんの運命は、どうやってもわかりませんでした。ここだけの話、じつは現界人の運命はすべて予定帳に記されているんですけど、あなたのは白紙なんです。フィリガーさん、本当に生きているんですか?」
「いや、オレにそんなこと訊かれても……」
見せられたノートの表紙にはオレの名前があって、中は確かに真っ白だった。そういえば、白蛇の占い師にも同じようなことを言われたっけ。
「こういうイレギュラー、五百年に一回くらいあるらしいです。それなのに、ついこないだも来たんですよ、白紙の人。ほんと、最近の現界はどうなっているんですか」
いや、だからオレに訊かないでくれって。
「とにかく、オレはこれからどうなるんだ?」
「それが決まらなくて、ずっと落ちてもらっていたんですけど、どうしたいです?」
「帰りたい」
「ですよねぇ」
うつほはますますむずかしい顔になって、ぶつぶつとひとり言を言った。
「本当に生きているのか怪しいけど、別に死ななくてもいいのよね。あ、でもいつ死ぬ予定なのかわからないのに帰したら、誤送ってことになるのかな。うーん……まぁいっか」
今なんか、すっごく投げヤリな言葉が聞こえなかったか?
「とりあえず、私の上司に会ってもらえます? その人になら責任とってもらえますから」
「はぁ……」
なんだかなぁ。魂の管理を任されている死神が、こんな適当な仕事っぷりでいいのか? もっと驚いたり戸惑ったりするところのはずなのに、どうにも拍子抜けしてしまう。でもいちいちツッコむことさえ虚しくなって、おとなしくうつほについて暗闇の中を進んでいった。壁も飾りもない空間は、どこまで続いているのかもわからない。はぐれたら、それこそ死ぬまで迷子になりそうで、白い服の後ろ姿を見失わないように必死に追った。どれくらい歩いたのか、途中で一人の男がぼーっと座っていた。
「あの人ですよ、さっき話した、あなたと同じ白紙の人。しかも記憶がないらしくて、自分の名前も、どうやってここへ来たのかもわからないんです」
うつほよりも鮮やかな金色の髪の、オレと同い年くらいの男は、どこか遠くを見つめたまま動かない。
「彼も連れていこうとしたんですけど、『待っていなきゃいけない』って言い張って動かないんで、しばらくここに置いていくことにしました」
記憶がないのに、誰かを待っているってことだけを覚えているのか。しかもここにいたら、その人が死ぬまで待ち続けるってことになるのに。虚ろな目をした男は、そばを通り過ぎたオレ達をちらっと見ただけで、またうす暗い闇に視線を戻した。
「さ、この扉の向こうがマーラです」
壁もないのに、ドアだけが単体でそこにあった。あぁ、夢に出てきた青いネコが、こんな扉を持っていたような気がする。裏側はどうなっているのか気になったけど、のぞこうとする前に、うつほが扉を開いた。
その瞬間、いっきに飛びこんできたまぶしい光に、オレは思わず目を閉じた。