第1章(6) こいつらがいれば、それができる
六年前に終わった通称百年戦争は、昔からいくつもあった“蒼穹の涙”を巡る争いの中じゃ一番新しいやつだ。オレが生まれたのはその末期だったとはいえ、この戦争は誰が勝っていたわけでも、和平条約を結ぼうとしたわけでもないから、いつ終わるかなんて誰にもわからなかった。あるとき突然、町を壊滅させる地震や木が枯れる疫病、そして海が干上がりそうな日照りが立て続けに起こって、どの種族も戦争どころじゃなくなったっていうのが、終戦の理由だった。
ともかく、そんな戦争でもそれぞれに大義や目的を振りかざしていて、オレも自分なりの正義で戦った。殺し合いに正義も理由もあるわけがないのに、若いころはそんなこともわからない、まぁ今のサンやリトルみたいに血の気が多かったわけだ。
戦争に参加していた四年間、いろんな土地をまわって、数えきれない戦いをしてきた。そのときの上官は厳格な軍人で、誇り高くて責任感のあるところが、オレは好きだった。戦争が終わる直前にある理由で戦線を去って以来、当時の知り合いには誰とも会っていないから、彼がどうなったのかも知らない。
――そう、知らないままの方がよかった。こんなところで、こんな形で再会するくらいなら。
「久しぶりだな、フィル」
ゾンネ少佐は笑うことも怒ることもなく、オレが知っている六年前もそうだった、いつもの厳しい表情で言った。
入口で覆面黒服の一団を倒したオレ達は、誰もいないがらんとした一階から階段を降りて、地下にあるかつての収容施設跡に侵入した。二階建ての地上部よりも広いそこには、今も血の跡が生々しく残る部屋がいくつもあって、奥の方は扉に鍵がかかっていた。そして唯一明かりがついている管理フロアらしい部屋で、かつての上官と狐の獣人が待ち構えていた。
「ゾンネ少佐、なぜ……」
訊きたいことが多すぎて、言葉にならなかった。なぜここにいるのか、ここで何をしているのか、どうして獣人と一緒にいるのか、誘拐の目的は何なのか……。
でも、そのどれをも聞く前に、すでに答えはわかっていた。
「なぜ、また戦争を起こそうとしているんですか」
それは疑問にさえなっていなかった。少佐はかすかに眉を動かして目を細めただけで、口を開こうとしない。逆にリトル達の方が戸惑った。
「フィリガー、あいつを知ってるのか?」
「あぁ、昔の……上官だ」
「戦争って、なんのことだ? こいつらは誘拐犯なんだろ?」
「誘拐した獣人を人間が拷問して、解放する。そうしたら人間にさらわれて傷つけられたという話が広まって、獣人の間で人間に対する憎しみが増える……」
「そして逆に人間も獣人に捕まったとなれば、もはや戦争が再開するのも時間の問題でしょうね」
気品のあるキツネが、横から出てきて薄く笑った。年齢はわからないけど、細身の線と長いブロンドの髪は、人間の基準でいってもかなりの美人だろう。もっとも、湿っぽい地下室の曇った明かりの下じゃ、妖艶な笑みも背筋がゾッとする不気味さしかない。
「お前、その金色の髪はライオン一族の……?」
サンが首をひねってつぶやいた。言われてみれば、ライオンのたてがみに似ている気もする。とがった耳と細い目は、確かにキツネのはずだけど……。
「キツネとライオンのハーフ、か」
ボールドさんが言うと、彼女は笑みを消して唇をかんだ。
「裏の情報で聞いたことがある。現国王の従兄弟が若いころに遊びまわって、いろんな他獣種との間に子供を作ったとか……」
「そうよ。私はそのうちの一人」 狐の声が低くうなった。「でも戯れに生まれた私の存在を、世間に知られるわけにはいかない。他の子供はすべて消されたし、私もこれまで何度も暗殺されかけたわ」
階級社会を守るための犠牲者か。ただでさえハーフへの風当たりは強いのに、頂点の王族が絡んでいるとなれば、表からも裏からも圧力がかかっただろうことは、簡単に想像できる。
「そこのあなたもハーフなんでしょう?」
「……」
「あなたなら、この理不尽な苦しみがわかるはず。外に行けば人間や水人に狙われるし、森にいれば忌み子と呼ばれ罵られて、どこにも居場所はない。望んで生まれてきたわけでもないのに、存在することさえ許されない」
視線を向けられたリトルは、じっと立ち尽くしているだけだった。たとえ戦争が終わって外部の敵がいなくなっても、内部ではいまだに強い差別や階級の束縛が残っている。話には聞いていても、本当の凄惨さは当事者にしかわからないだろう。
「自分の存在を認めてほしいという、ただそだけの願いさえ叶わない国なんか、消えるべきなのよ」
「だからといって、戦争を起こしていいはずがないだろう。どれだけの無関係な犠牲が出ると思っているんだ」
「利いた風なことを言わないで。ただそこにいるだけで災いだと言われる者の気持ちが、わかるはずがないわ」
「戦争なんかでよくなる現実などない」
「少なくとも、今の地獄より悪くなることはないわ」
いくらボールドさんが説得しようとしても、彼女の耳には届かない。生まれたことさえ疎まれて、差別どころか命の危険にさえ晒されてきた辛酸を思うと、オレも賛成こそできないけど、安易に否定する言葉が見つからなかった。
「それに私たちはね、ただ壊すだけじゃないの。どんな種族の、どんな生まれでも上下のない、平穏な世界を創るのよ」
「そんなこと、簡単にできるわけが……」
「できる。“蒼穹の涙”があればな」
今度はゾンネ少佐が答えた。ということは、少佐もそれが目的で手を組んだということなんだろう。
戦争が終わったからといって、すべての者があきらめて忘れるくらいなら、何百年も前から争いが続くこともなかっただろう。それほどの魅力と絶対的な力が、“蒼穹の涙”にはある。たとえ歴史上に何度も出てきたものが全部にせもので、誰も本当の姿を見たことがない幻の伝説であったとしても。そんなものに頼らなければならないほど、この世界はどうしようもないんだろうか。
「お主らは大きな勘違いをしておる」
いつもの尊大でのほほんとしたシオンとは別人みたいに、いきなり出てきた言葉はみんなが息を呑むほど威厳があった。
「“蒼穹の涙”はメタトロン神がこの世界にもたらした、唯一最後の希望なのだ。個人の欲望を叶えるような、都合のいい宝などではない」
シオンは“蒼穹の涙”のことを何か知っているのか……? 疑問には思っても、それを訊くことは憚られる威圧感のようなものが、この時のシオンにはあった。
「これは個人的な欲望などではない。差別や不条理に虐げられた者を救うため、それこそ理想の世界のためだ」
あの厳格で冷静な少佐が視線を逸らして、どこか言い訳めいた響きに聞こえた。代わりにキツネが確信を込めて言った。
「戦争の混乱でそれを求める者が増えれば、“蒼穹の涙”の存在は必ず現れるわ。だからあなたも、私たちとともにこの国を変えましょう。今のままでいいわけがないと、あなたも思うでしょう?」
「俺は……」
「あなたや私には、そうするだけの力も権利もあるわ」
キツネの優しい笑みと力強い言葉に、口を開きかけたリトルはこぶしを握りしめた。オレはこんな時に、声をかけることさえできなかった。
過去の苦しみを見つめるのか、それとも新しい未来を作るのか。戦争だけは絶対に止めなければいけなくても、彼がどちらを選ぼうとも、その責任の半分はオレ達にだってある。彼らにしかわからない深い苦悩の選択に、オレ達が口を出せるだけの権利があるんだろうか……。
「ざけんなよ!」
顔を上げかけたリトルを差し置いて、サンが怒鳴りながら前に出てきた。
「リトルはオレ達のダチなんだよ。勝手にこいつが被害者みたいな言い方しやがって。昔なんか関係ねぇ、今は独りなんかじゃ……いで!」
「サンのくせに生意気だ」
ずっと目を伏せて動けずにいたリトルが、つばを飛ばしながら叫んでいたサンの後頭部を見事に張り倒した。いつかどこかで妖精もどきが吐いたような尊大なセリフで、不敵な笑みさえ浮かべて。
「あぁ、国がどうなろうと関係ねぇ。邪魔するヤツは上等だ! 俺はそんな宝なんかに頼らなくても、自分で変えてやる。こいつらがいれば、それができる」
単純なだけに裏表のないサンの言葉で、リトルはいつもの自信たっぷりのケンカ屋羊に戻っていた。過去の苦しみと向き合いながら、でもそれに囚われることなく未来の可能性を拓く。コトが予言したとおり、リトルにはその強さと、手を差し伸べてくれる友達がいる。責任とか権利とか、そんな貧弱なしがらみに縛られるようなタマじゃなかったな。どうやらオレの杞憂だったみたいだ。
「……そう。あなたもしょせん、うわべだけの友情ごっこで満足しているのね」
キツネが辛辣な挑発をしても、リトルは鼻で笑っただけだった。
「フィル、お前はどうなのだ」
今度はゾンネ少佐が、オレに呼びかけてきた。
「大切な者をなくしたお前なら、この世の不条理がわかるだろう? もう一度わしについて、ともに世界のために戦おうではないか」
「お断りします。過去のために、今の大切な友まで失うわけにはいきませんから」
迷いの消えた彼らに応えるために、オレも今こそ過去との決別をする時だった。
あいつを失ったのはオレの責任だ。そこから逃げるつもりはない。でも、いつまでもそこで立ち止まっていても、何も変わらないんだ。オレが未来を歩かなければ、過去さえ意味がなくなるということを、ここにいる新しい『今』、変わり者の友達が教えてくれた。オレ達は、確かにかけがえのない同じ時間を生きたんだから。
なぁ、そうだろう、エメリナ?
「そうか……それがお前の答えならば、もはや別々の道を歩むしかあるまい」
少佐は、静かにかぶりを振った。どうして少佐と道を違えなければならないんだろうか。オレも無邪気に戦場を駆けまわっていたころとは違うけど、彼も何かが変わってしまった。あの威風堂々として活力に溢れていた、オレの憧れの上官の面影は、すでにここにはなかった。
「だが、わしらも道を譲るつもりはない。力ずくでも通らねばならんのだ!」
剣を抜き放って突き付けた少佐の表情は、悲痛でさえあった。何がそんなに追いつめているんだ? あの公正で理知的な少佐なら、この誘拐事件の非道さも戦争を企てる愚かさも、わからないはずがないのに……。
「こっちだって、さっさとてめぇらをぶっ飛ばして、カームを助ける!」
真っ先にリトルとサンが飛び出して、少佐の大剣とぶつかった。部隊の指揮官だったとはいえ、若いころは歴戦の戦士として知られた腕だ。覆面黒服たち(オレとは面識がないから、少佐の直接の部下じゃない最近の傭兵隊だろう)をあっさりやっつけた獣人二人が相手でも、巧みな動きでさばいていく。
「いいのか?」
短刀を出しながらもすぐには加わらなかったボールドさんが、突っ立ったままのオレにささやいた。
「あぁ、オレ達も行かないとな」
あの二人だけじゃ、ちょっとキツいだろう。卑怯だとは思うけど、四人がかりでいかないと、オレの尊敬した上官は倒せない。
「腕の問題じゃないだろう?」
「……」
ボールドさんは、オレの迷いに気付いていた。自分たちだけでもやるから、無理なら出なくてもいい、と。
「ぐはっ……!」
リトルが肩を斬られてよろめいたところへ、サンが後ろから殴りかかったけど、ふり向くことなく避けた少佐に壁に叩きつけられた。
「……いや、オレもやるよ」
やらなきゃならない。みんなと一緒に、オレも先へ進むためには。もうあの人は、オレの知っているゾンネ少佐じゃ、ない。
「こい!」
少佐が向き直った瞬間、オレの捨てた鞘が床に落ちる前に刃がぶつかった。いくら体格のいい少佐でも、肉食獣人やそれに勝つケンカ屋の腕力にはかなわないから、彼らの攻撃はすべてかわしている。そこへオレとボールドさんが間断なく攻め立てた。疲れて集中力が切れてきたら、その一瞬の隙をたたく。
これこそゾンネ少佐、あなたに教えてもらった戦術の一つです。互いの信念と命を賭けて戦うと決めた限りは、卑怯な手段や敵への同情など、余計な思考は自分にも相手にもいいことはない、と……そう教えてくれた昔には、もう戻れないのか……。
「ぐっ……!」
「もらったぁッ!」
上段を受けそこなった少佐の手元が滑ったところへ、すかさずサンの爪が光った。このタイミングと態勢なら、絶対によけきれない。よけてほしいのか、これで決着がついてほしいのか、正直、オレにはまだわからなかった。真っ赤に切り裂かれた少佐の姿に目を背けそうになった、その瞬間。
「……ッ!?」
実際には爪が届く前に、耳をつんざく爆音と大きな地震が起こって、そこにいた全員がよろめいた。……いや、一人だけ、不意を突かれずに平然としているヤツがいた。
「遊びはここまでよ」
ずっと部屋の隅に避難していたと思っていたキツネが、何かのスイッチを片手に笑った。しまった、この館を爆破するつもりか……!
「安心して。この部屋は安全だから。でも人質たちはどうなるかしら……うふふ」
「てんめぇー!」
逆上したリトルが、立っていられないほどの揺れの中で飛びかかった。その速さをよけられるはずもないキツネが焦る間もなく、ひづめが襲いかかって……。
「なっ……!?」
リトルだけでなく、キツネも息を呑んで目を見張った。鋼鉄の蹄は彼女の寸前で止まっていた。……いや、正確には、彼女の前に飛び出したゾンネ少佐の胸を貫いていた。
「ど、どうして……」
キツネはわけがわからないと言うように、何度も首を振りながら後退った。オレもまさか、受け止められないとわかっている一撃から、自分の体を盾にしてまで彼女をかばうとは思っていなかった。誰も少佐の行動を予測できなかったし、またすぐには理解もできなかった。
「あなたと私は、ただ戦争を起こすために手を組んだだけなのよ。なのに、どうしてこんなことを……あなたに助けてもらう義理なんかないわ!」
「すまない、スキーム……」
リトルが体を引くと、少佐は血に染まったわき腹を押さえてひざをついた。戸惑うキツネを見上げるその表情は、優しさと謝罪に満ちている。……そういえば、彼女の名前さえ、オレ達は今まで知らないままだった。
「わしは……お前がどう思っていようとも、わしはお前を大切な同志だと思っている。お前の苦しみを知るうちに、どうしても放っておけなくなった……」
「同情なんかしないで!」
「あぁ、そうだな。すまない……」
何度も何度も謝りながら、ついに体を支えていることができなくなって、苦痛に顔を歪めながら床に横たわった。そんな少佐を、スキームはただ見つめているばかりで、誰にともなく叫んだ。
「何? いったいなんのつもりなの!? 私は獣人なのよ。ハーフなのよ。人間が助ける意味ないじゃない!」
「意味なんて、いらねぇよ」
怒っているような泣いているような抑制のない声で、リトルがつぶやいた。
「大事な仲間を助けるのに、意味なんかあるかよ。大事に思うのに、獣人も人間も関係ねぇ」
それはスキームに言ったのか自分に言ったのか、オレ達にはわからなかった。たぶん、その両方だったんだろう。リトルは強いふりをしていても、実際にどれだけケンカが強くても、同じ血と過去を持つ者として、誰よりも彼女の痛みを知っている。そしておそらく、違う立場と種族でありながらも、少佐も彼女のことを……。
「ヤバい!」
「あ……!?」
瞬きをする間もなかった。突然、轟音が頭上から降ってきたと思った時には、大岩みたいな天井の破片が崩れてきた。オレ達は瞬間に跳び退ったけど、土埃が収まったそこにリトルの姿がなかった。
「リトル! おい!?」
「……でかい声出さなくても大丈夫だ」
がれきの隙間から、かすかに声が聞こえてきた。スキームと少佐も、この向こう側にいたはずだ。あいつ、彼らをかばって……。
「それより、お前らは早くカームを助けに行け」
「お前はどうするんだよ!?」
「サンのくせに俺の心配なんかしているんじゃねぇ。さっさと行かねぇと、もうここはもたねぇぞ」
「でも、お前を置いてなんか……」
「いいから行け!」
いつにも増して厳しいリトルの声に、サンは食いさがる言葉が見つからなかった。それでも諦めきれずにがれきを動かそうとしたら、ボールドさんに取り押さえられた。
「行くぞ。早く人質を助けないと本当に危険だ」
「いやだ! オレはリトルを助ける!」
「あいつなら大丈夫だ。それに俺たちが行かないと、全員で生き埋めになる。……リトル! 先に人質たちを連れていくから、外で落ち合うぞ!」
「任せたぜ、ボー兄」
先にサンを部屋の外に引っ張り出して、ボールドさんも出ようとした時、オレに目でうなずいていった。さっきからあえて何も口出ししないでいたけど、オレの意図は伝わっていたらしい。
「シオン、お前も逃げろ」
「フィリガーのくせに、何を格好つけておるのだ」
「お前がいても、どうにもならないだろ」
「心配するな、応援くらいはしてやろう」
こんな時にワケのわからないことを言って、あくまで動こうとしないから、もう放っておくことにした。
「……さて」
大木が積み重なったような巨大ながれきの前に立って、とりあえず一息ついた。傷ついた少佐と細身のスキームは、意識がないのか声がしない。リトルの気配も、さっきからほとんどわからなくなった。早く助け出さないと、三人とも危ないな。
試しに隙間を探して手を伸ばしてみたけど、引っ張り出すのはむずかしかった。小さな破片から動かしていっても、すぐにまた崩れてきて、よけいに危ういバランスになってしまった。
「さすがにマズい、かな」
素手でこのがれきに立ち向かうのは、やっぱり無理らしい。どんどん揺れがひどくなって、入口の方でも崩れる音がしたけど、ふり返って見るのはやめておいた。
残るはこの黒い刀のみ。オレの長年の相棒でも、果たしてこんな大きな塊をどうにかできるんだろうか。
……いや、どうにかしないとな。過去に世話になった上官と、今を見せてくれた女性と、未来を一緒に歩く友達。彼らは絶対にオレが助ける。目の前で大切な者を失うのは、もうたくさんだ。
遠くで近くで、いよいよ最後の崩壊が始まったみたいだ。サンとボールドさんは、無事に人質たちをつれて逃げられたかな。
「……やってみるか」
刀を鞘に戻して、左足を後ろに引く構えをとった。速さ重視のオレの刀術の中で一番威力のある技で、一か八かの賭けだ。がれきとがれきの間、最ももろい支点に狙いをさだめる。
そして抜き放った一撃の瞬間、ついにすべての天井が崩れ落ちてきた。