第5章(7) また、いつか……
青いカーテンの窓の前に、シオンが立っていた。少し手前で足を止めたオレをじっと見つめる目は、泣いているようでもあり怒っているようでもある。口をぐっと閉じて動かないその表情からは、どんなことを思っているのか読み取れなかった。
オレがどんな結論を出したのか、それがどういう意味なのか、どこまでわかっているんだろうか。……いや、すべて承知しているからこそ、フィーラに話したんだよな。オレの迷いを消せるのは彼女しかいないって。あぁ、まんまとお前の思惑どおりだったよ。いつも、オレのことはなんでもお見通しだって顔してさ。
「……」
でもな、シオン。オレが何に一番悩んでいたのか、何を一番守りたかったのか、本当にわかっているのか? オレは神サマが望むような立派な人間じゃないし、世界を救おうなんて崇高な考えもないんだぞ。オレは、ただ……。
「最後に、これだけは言っておく」 シオンが目を逸らしてつぶやいた。「お主に会えて、よかった」
やっぱり、肝心なところはわかっちゃいないな。
「最後なんかじゃないさ」
オレはただ、この何もない毎日を守りたいだけなんだよ。だから最後になんかさせない。これから世界がどうなろうと、それだけは絶対に。
「行こう」
口をへの字に曲げて目を閉じていたシオンは、息を吐いて顔を上げた時には、いつもの憎らしい笑顔で表情でうなずいた。あるいは、いつものオレだって諦めたかな。
今度はただの布きれらしいカーテンをくぐったら、窓の向こうはすぐにあの白い空間につながっていた。耳が痛くなるほどの静寂。色のない無限の世界。……そこにたったひとつだけ存在する、影。
ゆっくりとその前に進み出た。一枚の岩壁みたいにたたずむ存在感、なのに他の生命には真似できない圧倒的な威圧感。さっきは驚きが大きすぎて何も思わなかったけど、すべてを理解して改めて見るからなのか、自分で覚悟を決めたせいなのか、今はこうして向かい合っているだけで喉がからからになる。これが創造主たる絶対神の力なのか……気を抜くと震えそうになる手で、刀を握りしめた。
「あんたを、破壊する」
メタトロン神の表情は動かない。鞘からこぼれ出た刃を、むしろ愛おしそうに凝視している。後ろで立ち尽くすシオンが、息を呑んで見守っているのを感じながら、オレはさらに進んで刀を構えた。
待ちかねた瞬間、数万年ぶりに進もうとしている時間。
ささやかな日常に生き続けるために、永遠の呪縛を断つ。
これがオレの、答えだった。
『おい、エノク。こいつが、ティエンが外の世界で見てきたっていう食べ物だぜ』
『生の魚をパンに乗せるのか? ニオ、またティエンにだまされたんだろ』
『そんなわけあるか。結構うまいんだぞ。トレも食ってみるか?』
『私は嫌よ、そんな不気味なもの』
『どうしたの? うわ、もしかしてそれ、ティエンが言っていた新しい食べ物なのかい?』
『どうだ、フェム? あいつの説明どおりに作ってみたんだ。うまそうだろ!』
『僕が読んだモノの本には、パンじゃなくてコメっていう白い粒を使うって書いてあったよ。しかも魚を丸ごとっていうのは、たぶん絶対に違うと思うけど』
『ハハハッ! 今ごろティエンは笑い転げているね』
『あんのヤロー!』
『やぁ、みんな。さっそくスーシーを食べ……うぉわッ!?』
『てめぇ、ティエン! よくもデタラメ言いやがったな!』
『アハハ! 見事に引っかかってくれたみたいだね』
『待ちやがれーッ!』
『あちゃー、ゼクスまで来ちゃったよ。ここは逃げるが勝ちだな。じゃあね』
『にゃろう、今日という今日はもう許さねぇ!』
『ニオ、そっちだ! 絶対にとっ捕まえてシメるぞ!』
『まったく、ティエンったら懲りないわねぇ』
『ニオとゼクスもな……』
空間を覆い尽くして広がったまぶしい光の中に、どこかの映像が浮かび上がってきた。数人の男女が笑ったり怒ったりしている光景……これは……メタトロン神の記憶……?
『それで、ここは重力係数より熱循環理論の第三公式を使うと、矛盾が解決できると思うの』
『なるほどなぁ。こんな観点から思いつくなんて、さすがイルだよ』
『実際、新プロジェクトもイルが主任になってから軌道に乗ってきましたからね』
『それはドヴァーやみんなの力でもあるわ。それにまだプロジェクトも仮説段階だから、うまくいくかどうか』
『きっと大丈夫だよ。フェムやアハトじいさんも請け合っているんだろ?』
『えぇ、あとは自然制御プログラムを構築すれば、本格的にプロジェクトのメドがたつだろうってね』
『システム・ノア……これでまた、昔のように森で暮らせるようになればいいんだけど……』
『ねぇエノク兄ちゃん、みてみて! セーミね、こんなのつくったんだ』
『ん? これ、なんの箱だい?』
『ここをひっぱって、ぐ〜〜! っておしたら……ほら!』
『うわっ、音が出た!』
『へへ、すごいでしょ! このあなからくーきをすいこんで、おとをならすんだよ』
『空気だけでこんなにいろんな音が出せるのかぁ。……そうだ! これ、風の制御に使えるんじゃないかな?』
『穴の大きさと角度を調整して、風圧を音エネルギーに変換……そうですね、応用すれば水も制御できるかもしれない』
『それじゃ、さっそく試してみましょう。ドヴァーは機器を準備しておいてちょうだい。私はみんなを呼んでくるわ』
『すごいぞ、セーミ。大発見だな』
『えへへへ〜。ママにも見てもらおーっと!』
プロジェクトが動き出して間もないころ。施設の中での限られた状況でも、みんなで楽しそうに過ごしていた日々……彼らが守ろうとしていた時間。時代は変わっても、他愛のない日常や何気ない笑みは同じなんだ。どこで間違ってしまったんだろう。誰が悪いわけでもないはずなのに……。
『ねぇ、エノクは空を飛ぶことはできるの?』
『うーん、どうかなぁ。やったことはないけど、風が協力してくれればできるんじゃないかな』
『あなたは本当に風と仲がいいわね』
『フィーラは、魔法が使えたら何をしたい?』
『そうね、海の一番深いところへ潜ったり、遠い土地まで自由に旅をしてみたいわね』
『昔はみんなできたのにな』
『さよう。今ではほとんどの民が、魔法力を発動しようとするだけでエネルギーが暴発してしまう……自然に接触することさえできなくなってしまった』
『アハトじいさんも、若いころは魔法ができたんですか?』
『さよう。わしがちょうどお主ほどの歳ごろに異変が起こり始めるまでは、みな呼吸をするのと同じように魔法を使っていた。あまりにも当たり前のように使いすぎた』
『それで、自然が怒ってしまったのね』
『でも、どうして僕は大丈夫なのかな?』
『自然がお主を認めているのか、あるいは……それがお主の役割なのか』
『役割?』
『すべての生命は理由があって生まれてくる。一人ひとりが自分の役割を果たして次の世代に引き継いで、そうして世界は成り立っておる』
『私の役割……いったいなんなのかしら』
『アハトじいさんの話は、いつもむずかしいなぁ』
『ホッホッ。お主らはまだ若いからの。いずれわかるようになる、然るべき時がくれば……』
保存されていたあらゆる記憶と記録が、光の中に溶けていく。壊れた機械のあちこちで火花が飛んで、切れた線から血のように赤い液体が流れ出ている。多くの願いから作り出され、無数の命を創り出してきたシステム・ノアは、今やただの金属の塊となって崩れ落ちようとしていた。
「ようやく……」
小さくくり返す爆発の中で、メタトロン神がかすかにつぶやいた声が聞こえた。オレは黒い刀を振り下ろした体勢のまま、何があるわけでもない足元の一点から目を放すことができなった。
「これでようやく、前に進むことができる」
ハッと顔を上げたら、メタトロン神……いいや、かつての姿に戻った人間エノクが、奇妙に穏やかに微笑んでいた。この上もなく優しく、この上もなく哀しく。
本当に、これでよかったのか? 光に包まれて満足そうに消えていく彼を見送りながら、オレはじっと心で問いかけた。こうすることでしか、あんたを救うことができなかったのか? 死ぬことでしか、前に進めなかったなんて……そんなの、悲しすぎるじゃないか。
キラキラ……きらきら……降りそそぐ光の粒は、同時に壊れていく白い空間を満たして、外に広がる大地に空に還っていく。
あぁ、そうだったのか。今さらながら、やっと気付いたよ。大陸を創った神は、いつでもすべてを見守っている、あの青い空そのものだったんだ。その蒼穹が、たったひとつの見果てぬ夢に涙を落とした……泣いていたんだよな、ずっと、誰かに止めてもらいたくて。
死ぬために生きているんじゃない。続いていく命のために、そしてまた次の命を生きるために、それぞれにしかできない役割を果たして思いを託して、そうやって永遠はつながっていくんだ。だからオレは、願わずにはいられなかった。
「また、いつか……」
どこの場所、どんな形であろうとも。たとえお互いに、気付くことはなかったとしても。どんなに時間は流れても、縁は廻り続ける。そしていつかどこかで、きっとまた逢おう。約束だ。
永遠に縛られた哀しい一族の願いと多くの人の想いは、蒼穹の彼方にある新しい明日へと、ようやく歩き始めた。
そして、オレは……大事な何かを失った。