第5章(6) 私も前に進みたくなったの
長い廊下の両側に無数に並ぶ部屋のひとつを適当に選んで、扉に鍵を閉めた。天使に見つからないように、っていうのもあるけど、そうでなくても今は誰にも会いたくない。しばらく、独りきりになりたかった。
飾りっけのない小さな部屋の真ん中に、たった一つぽつんと置かれたイス。正面の壁はひとつの大きな窓になっていて、そこから見える限りにひたすら海が広がっている。何も考えないで入ったにしては、気持ちを整理するのにちょうどいいところだ。
「……」
イスに座って目を閉じると、規則正しい波音が心地いい。潮の匂いのしない風が、部屋の中に流れ込んでオレを包み込んでいく。心の中のもやもやしたわだかまりが少しだけ軽くなった気がして、大きく息を吸って吐き出してから、さっきまでの話を思い出してみた。
『神サマを、破壊する?』
意味が、わからなかった。そのまま聞き返したオレに、神サマは唯一動かせる頭を小さく縦に動かした。要するに、自分を殺してくれってことだろ? なんだよ、それ。確かにみんなの人生を勝手に決めているっていうのは気に食わなかったけど、死にたいって言われて賛成なんかできるわけがない。まして、万能の神サマを殺すなんて。
『オレにはそんなこと、できないよ』
『お前にはその力がある。神に逆らえないという運命の制約を受けない、お前にしかできないのだ』
『でも、他に何か方法がないのか? 死ぬなんて言わないで、生きてさえいれば……』
『この状態を、まだ生きていると言えるのならばな』
メタトロン神がオレの言葉をさえぎって自嘲した。機械につながれて身動きさえできないで、歳をとることも死ぬこともなく、永遠にただ大陸を見守り続けるだけ……オレははっきりと断言する自信がなくなった。生きるってどういうことなんだろう。絶対神の真実に虚しさを感じると同時に、オレは怒りも覚えた。動けないことで生きているって言えないなら、自分の意思で決められない人生は何なんだ。
『どうしてこの大陸やオレ達を創ったんだよ。『始まりの民』の悲劇はわかるけど、オレ達は彼らの代わりなんかじゃない。さんざん他の命をもてあそんでおいて、今さら投げ出すなんて無責任すぎるじゃないか』
『フィリガーよ、神は……』
『よい、エルヴァ』
横から言いかけたシオンを、神サマがかぶりを振って止めた。問い詰めるオレの視線を、逸らすことなく正面から受け止めている。オレと同じ青の目には、人の一生なんかじゃ計り知れない悠久の時間に刻まれた、深い悲しみと憂いが満ち溢れていた。
『お主が最後の希望なのだ。四百年前にエリンができなかった運命を、今度こそ果たしてほしい』
『オレはオレだ! エリンも運命も関係ない!』
シオンの期待と神サマの視線に耐えられなくて、つい大声で怒鳴って駆け出した。オレだけじゃ、どこをどう走ってもあの空間からは出られないはずなのに、すぐにカーテンのない窓から廊下に飛び出したのは、彼らが考える時間を与えてくれたということなんだろう。少し冷静になった今ならわかるけど、あの時はカッとなって、どうしても自分を抑えられなかった。
「……」
わかっている。神サマが悪いわけじゃないってことは。『始まりの民』も、自分たちの平和だった時代を再現したかっただけなんだろう。たとえそれが作られた箱庭の、歪んだ予定調和だったとしても。
でも、どんな理由があろうとも、他人の人生を縛りつけた責任はある。初めて帝都でそのことを聞かされた時から、絶対に許せないと思っていた。……なのに、ここにきて迷っているなんて。
『わたしを、破壊してほしい』
そう言った時の、あの悲しい希望にすがる眼を見てしまったから、もう怒りに任せて破壊するなんてできなくなってしまったじゃないか。いっそ神サマが傲慢で非情な性格だったら、ためらうことはなかったかもしれないのに。こんなにも悩まなくて済んだかもしれないのに。
目を閉じたまま、前かがみになって両手で頭を抱えた。オレは戦場で命を奪いすぎた。たとえ本人が望んでいようとも、命が消えるのを見るのはもうたくさんだ。死にたいなんて言わないでくれよ。生きたくても生きられない人はいっぱいいるんだぞ。あんたが死んだら、それで全部うまくいくのか? 本当にそれしか方法がないのか?
『どちらをとるか、それは人それぞれだろう。予定調和の平穏か、責任という名の自由か』
ルーフェンさんの言葉が頭をよぎった。選択肢は二つに一つ、神に管理された予定調和と、何が起こるかわからない暗黒と自由の未来。
システム・ノアを破壊しない限り、呪縛された魂の輪廻が永遠に続くことになる。ただ“蒼穹の涙”をめぐる戦争さえなくなれば、平穏な暮らしも約束されるんだろう。それはそれで、ある種の幸せなのかもしれない。
でも、オレはそれを幸せだとは認めたくない。自分の未来を自分で選んで、その結果起こることもすべて責任を持って、厳しくても自由な世界……それが本来あるべき姿、生きるってそういうことじゃないのか。
『フィル、忘れないで。私はいつも一緒にいることを……無限の可能性も、すべては私たちの意志だということを……』
エメリナ……オレはどうしたらいい? こんな時、お前ならどうしていた? いったい、何が本当の幸せなんだ……。
「フィリガー」
一瞬、エメリナが答えてくれたのかと思ってしまった。静かな声なのにビクッとして、危うくイスから転げ落ちそうになりながらふり返った。
「入ってもいい?」
「……あぁ、いいよ」
鍵をかけたはずの扉が開いた。誰にも会いたくないと思っていたのに、フィーラの顔を見たらなぜかほっとした。一人で考えることも必要だったけど、誰かに何かを言ってもらいたかったのかもしれない。あるいは、彼女だったからこそ、そう思ったのかな。
「聞いたわ、エルヴァから」
「……そっか」
「まさか、あなたが“蒼穹の涙”だったなんて。もしかしたらとは思ったけど……」
「天使にとって、オレは厄介な存在なんだろ?」
「そうね、不確定要素は真っ先に処分しなければならないわ。秩序を守るのが、私たちの最重要プログラムだから」
だからフィーラも現界で探していたんだよな。どんなに仲良くなっても、自由で優しい性格でも、存在意義である使命には逆らえないだろう。だからって、フィーラがどんな攻撃を仕掛けてきても、オレはやり返すつもりはない。そんなことを思っていたら、フィーラは戸口に立ったまま肩をすくめた。
「でも、緊急の特別法令が発動されたわ。メタトロン神の最大の権限で、上天院を通さずに行使できるの。もう誰もあなたに手出しはできないわ」
「それじゃ、これで自由に外を歩きまわれるのか。キミとも、敵対しないでいいんだな」
「私もこうして、あなたとまた話ができてよかったわ。約束したものね」
心なしか広くなったような気がする部屋で、いつの間にかもうひとつあったイスにフィーラが座って、オレ達はお互いにクスクス笑った。あぁ、また会おうって約束したもんな。敵としてなんかじゃなく、大事な友人として、笑い合える相手として。
「答えは、出た?」
フィーラが、じっとオレの目をのぞきこんでささやいた。オレが何に悩んでいるのか、どこまで知っているんだろう。全部知っていて、こんなにもオレを心配してくれているのか。オレは、キミ達が絶対としている神を殺そうとしているんだぞ。そして、もしかしたら……。
「答えは……」
自分の中で堂々巡りしていたもやもやが、他の誰かに改めて訊かれることで、じつはもう形に成っていたことに今さら気付かされた。ただ、それを答えだと決める前に、一つだけどうしても確かめておきたいことがあった。
「フィーラは、神サマを創った研究者の一人なんだよな」
「え? ……えぇ、この体と性格は、フィーラという研究員がモデルになっているらしいわね」
「その彼女のこととか、前の記憶は覚えていないのか?」
「覚えていないんじゃなくて、ないのよ。初めから。私たちは彼らを元に創られただけで、まったくの別人。天使は神を守るための存在だから」
「それじゃぁ、他の、オレ達みたいな他の生命とは違うのか?」
「成り立ちからして、根本的に違うわ。普通の魂はメタトロン神が創ったけど、私たちは研究員が直接プログラミングしたもので、そういう意味では神と同位の存在かもしれないわね」
「……」
やっぱり、そうなのか……。いつものように笑って話すフィーラの顔を見ていられなくて、それ以上にどんな表情をしていいのかわからない自分の顔を見られたくなくて、海の方に向き直った。
懸念していた予感は、悪いものほどよく当たってしまう。結局のところ、見えかけている答えにためらう理由は、これがすべてだった。
「神が死んだら……フィーラも消えてしまうのか……?」
意味もなく、食い入るように波の動きを見つめた。フィーラも座りなおして窓を向いたのが気配でわかったけど、あえて横目でさえ見ようとしなかった。長い沈黙が続いた間、オレは頭の中を空っぽにして、ひたすら海に意識を集中させていた。
「それも、悪くないかもね」
波音に混じって、ぽつんと声がした。オレの耳に届いたのはただの言葉で、感情は波に飲まれて見えなかった。
「もう、何万年生きたのかしら。管理されていても現界は常に人も時代も変わっていくのに、私たちは何も変わらない。管理をしているって言っても、本当の自由なんて誰にもないのよ。ただ輪廻だけがくり返されている……永遠に」
「……」
「でも、あなたと出会ってから、また会いたいって……明日に希望を持つようになったわ。こんな気持ち、初めて。だから、私も前に進みたくなったの」
たまらなくなって隣を向いたら、フィーラはやっぱり微笑んでいた。システムの一部である神や天使が前に進むということは、永遠の輪廻を断ち切ること……つまり、システムという存在の根底そのものを破壊することでしかあり得ない。でも、そんなことをしたら……。
「嫌だ! オレはフィーラと離れたくない……!」
イスが音を立てて床に転がった。思わず抱きしめた細い体は、驚いてわずかに震えたけど、じっと顔をうずめて動かなかった。
「もう、大事な人を失いたくないんだ。フィーラも、シオンも、ニオも……神だって。死んでいい命なんかない」
「でもね、フィリガー。死は生とまったく同じことなの。死がなければ生はない。前に進めない永遠こそ、死そのものなのよ」
フィーラの腕が、オレの背中を包み込んだ。柔らかい心に満たされていく気がした。
「それに、私たちも一緒に消えるって、まだ決まったわけじゃない。お願い、メタトロン神を永遠の呪縛から解放してあげて。たとえ消えることになったとしても、私とあなたの想いまで消えるわけじゃないから」
「フィーラ……」
あんなに嫌悪していた永遠を、オレは望んでいたのか。これじゃ、『始まりの民』と同じじゃないか。
永遠なんて、どこにもない。始まりがあるものには、必ず終わりがある。だけど、受け継ぐ人がいる限り想いはなくならない。『始まりの民』が願ったことも、神が望んだことも、フィーラの心も、シオンとの思い出も……エリンの決意も。
『あぁ、一度でいいから、外の世界を見てみたかったな……』
窓の外に広がる海。手を伸ばせば届きそうなところに、外の世界はある。必要なのは、手を伸ばすということ。今ある場所から、最初の一歩を踏み出す勇気。
「……答えは、決まったよ」
ようやく、顔を上げることができた。いつの間にか声もなく流れていたフィーラの涙をぬぐって、その頬を両手でそっと包んだ。
「行くのね」
「でも、これがさよならなんかじゃない。きっと、また逢えるから」
この指きりに最後の希望を託して、オレは部屋を出た。見送るフィーラの視線と変わらない波の音を背中に受けて、ふり返ることなくまっすぐに歩いていった。
オレにできること、やらなければならないことは、ただひとつ。
もう、迷いはなかった。