第5章(4) それもまた、お主の自由だ
天井も壁もないうす暗い部屋にそびえ立った十字架の真ん中に、シオンは鎖も留め金もないのにつながれていた。外傷はないみたいだけど、うなだれた顔は目を閉じていて、意識があるのかもわからない。
「……ッ!?」
駆け寄ろうとしたら、寸前で見えない壁のようなものに当たって阻まれた。これがニオの言っていた、魔法の力に反応するっていう牢の扉なのか。
「どうすれば開くんだ?」
「魔法以外の力をぶつければいい。できるか?」
結局は力ずくってわけか。上等だ。どうにか動かすだけはできるようになった左手を柄に添えて、鞘に入れたまま刀を構えた。片手でどこまで力を出せるかとか、天界の牢に通用するのかとか、そんなことは問題じゃない。目の前にあいつがいるんだ。やっとここまで来たんだから、絶対に助ける!
「はぁっ!」
何も見えない空間に向かって、鞘走った刃から一撃必殺の力技を放った。岩より硬い手ごたえを感じた瞬間、ガラスが砕けるようなかん高い音が響いた。
「シオン!」
刀も鞘も放り出して、オレの目にはどう変わったのかもわからない壊れた扉を越えて叫んだ。でも、シオンはかすかに目を開けただけで、指先さえ動かなかった。
「シオン! おい、しっかりしろ!」
「その声は……フィリガーなのか?」
ささやくような声もやっとみたいで、シオンの衰弱は体の傷じゃなく他の何かにあることは明らかだ。中から力がなくなったようなこの感じは、呪法を使って魔法力が尽きたエリンの最期を思い出した。
「待っていろ、いま降ろしてやる!」
ニオとフィーラが翼を広げて飛び上がって、大木のような十字架にシオンを縛りつけていた力を解いてから、慎重に担いで降ろした。床に横たえられたシオンは、深いため息みたいに一度大きく呼吸をして、目だけでオレ達を見まわした。
「すまんな、ニオ。まさかフィーラまでいるとは驚いた」
「いいってことよ。オレ達の仲じゃねぇか!」
「私はフィリガーに協力しただけよ」
「フィリガー……よく、ここまで来てくれたな」
「当たり前だろ。勝手にひとりでいなくなっちまいやがって」
どれだけ心配したと思っているんだ。よくも今までいろいろなことを黙っていたな。言いたいことは山ほどあるし、会ったらぶん殴ってやろうと思っていたのに、今は何もかもがどうでもよかった。ただ、これ以上しゃべったら声が震えてしまいそうで、わざとそっぽを向いて不機嫌な顔をした。
「それにしても、こんなに衰弱しているなんて、出力を上げすぎじゃないの?」
「どういうことだ?」
「あの十字架は魔法力を吸収するんだけど、普通は体が重くなるくらいの効果なのよ。このままだったら、もう少しで魔法力が空っぽになってしまうところだったわ」
「もし、魔法力がなくなったら……」
「自分というものがなくなって、精神的な死を意味するわ」
いちおう訊いてみたものの、シオンのこの状態を見れば予想できる答えだった。処刑推進派の連中は積極策じゃなく、少しずつ弱らせて中身を壊す手段に出たのか。危ないところだったけど、なんとか間に合ったな。
「チクショウ、あいつら汚い真似しやがって!」
ニオがキレた勢いで殴った床に穴が開いたけど、みんな同じ気持ちだったから、それを見ても驚くよりちょっとすっきりした。
「こんなことなら、もっと早く助けにくればよかったぜ。オレとしたことが、魂の友をみすみす死なせてしまうところだった」
「お前ら、どういう仲なんだ?」
「じつは昔、こいつに助けられたことがあってな。命の恩人なんだ」
「ニオほどのヤツが、どうしたんだ?」
「ミミズだよ、ミミズに襲われたんだ。あの十字架よりデカいのにな。うぅ、いま思い出してもゾッとするぜ……」
驚くべきなのかあきれるべきなのか、反応に困った。こんなマッチョな図体のくせしてミミズが怖いなんてかわいいところがあるけど、見上げるほどあるサイズとなるとオレも遠慮したいな。
「それ以来、オレ達は魂で結ばれた仲なんだ。なぁ、エルヴァ!」
「あ、暑苦しいから放せ!」
なぜかいろんなところで大人気のシオンは、ぐったりして力が入らないくせに、抱きついてきたニオを全力で振り払った。なんかこいつのまわりは『こっち系』ばっかりだなぁ。いや、もちろん断じてオレは違うぞ。
「まったく、バカなことをしている場合ではない。早くメタトロン神のところへ行かなければ」
「おい、まだ動かない方が……」
「構わん、歩ける程度には回復した」
オレ達が止めるのも聞かないで、シオンはふらふらと起き上がった。それだけで息が切れているくせに、なに強がっているんだ。
「ほら、来いよ」
しゃがんで背中を向けてやったら、シオンは少し迷ってからおとなしくおぶさった。普段の元気な時はさんざん飛び乗ってきていたくせに、こんな時に遠慮なんかしてどうするんだよ。まだ肩で息をしているシオンは、なんだかいつもより軽く感じられた。
「主に謁見するなら、他の処刑反対派のヤツらも連れてきた方がいいんじゃねぇか?」
「いや、悪いが神の間にはわしとフィリガーだけで行く」
「人間なんか連れていって大丈夫なのか?」
「こやつはただの足だ。それにわしの情けない言い訳を聞かれても、こやつなら口封じできるからの」
「おいおい、オレは魂の友を売るようなマネはしねぇぜ? まぁ、エルヴァがそこまで言うならしょうがねぇけどよ」
相変わらず下手くそな嘘だな。まんまと信じているのはニオだけで、たぶんフィーラもシオンの真意を考えているんだろう。じっとオレの背中を見ている。でもな、フィーラ。さっきの言葉の最後の部分だけは、絶対に本気だぞ。
「……!」
フィーラとニオが急に立ち上がって、入口の滝をじっと見た。二人とも緊迫していて、お互いに横目で確認しながらも油断なく身構えている。オレには滝の音以外、なんの気配も感じないけど……。
「どうしたんだ?」
「さっき警戒用に張っておいた結界に、誰かが入ったみたいなの」
つまり、近くに天使が来ているってことか。味方ならいいけど、ニオから聞いた今の上天院の状況からいって、そうじゃない可能性の方が高い。
「すぐにここを離れるぞ。まだ遠いから、今なら気付かれずに逃げられるはずだ」
「ニオは二人をつれていってあげて。私は後ろからまわり込んで、向こうへ出ていくわ。私の方が疑われないでしょうから」
確かに。ニオはどう見てもシオン救済派の筆頭だし、この性格じゃすぐに嘘もバレそうだし。誰が相手にせよ、中立派で冷静なフィーラしか、この場の注意をそらせることはできないだろう。
「でも、大丈夫なのか?」
「心配しないで。様子を見てくるだけなんだから。フィリガー達も気をつけてね」
「急げ、こっちだ」
滝を出てフィーラと別れて、オレはシオンを背負ってニオの後についていった。危険は少なくても、一人で任せて置いていくのは気がひけて途中でふり返ったら、階段の下でオレ達が行くのを見届けていたフィーラと目が合った。
すぐに戻ってくるから。また会おう。
二人とも言葉はなかったけど、お互いにうなずき合って同時に背を向けた。オレ達だってまだ油断はできない。前を行くニオがあたりに気を配りながら慎重に進んでいくのに続きながら、オレもいつでも動けるように体勢を整えていた。シオンを背負っているから刀を抜けないし、いざとなったら走って逃げるしかない。
「こいつは……!」
角を曲がったところで、ニオが足を止めた。いくつも並んだ大きな窓の一つにカーテンが閉まっているのを、不思議そうに見ている。まさかカーテンを見たことがないなんてこともなかろうに、そんなに驚くほど不自然なことなのか?
「くそっ、トレの魔法だな。厄介なものを付けてくれたぜ」
「こんなの、別に放っておいたらいいじゃないか」
「鉄のカーテンか」
背中からのぞき込んだシオンに、ニオが苦々しげな顔でうなずいた。この、なんの変哲もないただの青いカーテンにしか見えないものが、わかるヤツにはかなりいやらしい仕掛けらしい。
「神の間へ行くにはこの窓を通らないといけねぇんだが、鉄のカーテンの魔法は、触れたヤツの最大限の力を使わないと開かないようになっているんだ」
「こんなひらひらの布っきれなのに?」
「試してみるか?」
そこまで言われたら、やってみたくなる。シオンを降ろして壁にもたせ掛けて、まずは軽く片手で引こうとした。……けど、なぜかビクともしない。触った感触は確かにやわらかい布なのに、まるでガチガチに固まった岩みたいだ。今度は足を踏んばって両手で押したら、ほんの少しだけ動いた。開けないこともないけど、ちょっと力を抜いたらすぐに元に戻ってしまうから、これじゃぁ通れないじゃないか。
「わかったか? こいつは一人じゃ通れない仕掛けなのさ」
シオンが一人で脱走したときのための防護策ってわけか。たとえ協力者がいたとしても、弱ったシオンを連れていけないように、と。原始的な仕掛けのくせして、魔法が相手じゃこんな布カーテンでも刀は通用しないし、やっとオレにも厄介の意味がわかった。
「ここはオレが開けてやるから、お前はエルヴァを連れていけ」
「わかった。こっちは任せてくれ」
またシオンを背負ったら、ニオが腕を回して構えた。全身筋肉の塊がカーテンにぶつかる様は、まるで分厚い鋼鉄の扉をこじ開けようとしているみたいだ。さっき試していなかったら、布一枚を全力で押してやっと動かしているなんて、おかしいというより奇妙に見えたに違いない。
「行け! そっちもうまくやるんだぞ!」
「すまん、助かった」
どうにかオレの体の分だけ隙間ができたところで、カーテンを越えて窓の向こうに飛び込んだ。すぐにふり向いたら、閉まる直前にニオがにんまり笑って見送ってくれていたのが見えた。カーテンが閉じたら窓も消えて、オレ達はだだっ広い草原の丘に取り残された。
「……行くか」
もう前に進むしかない。フィーラとニオは天使なんだから、そう簡単に危険な目には遭わないだろうし、オレ達だってシオンの罪の申し開きに行くだけなんだから、そんなに悲観的になるほどでもないよな。もし神サマが問答無用に怒るようなら、その時はその時だ。ちょうどオレも言いたいことがあるし、神サマにビビるより対面できるまたとないチャンスだと思えばいい。
上にも前にも空しかない大地に伸びる、三十人は並んで歩ける広い道を、オレとシオンはただひたすら進んでいった。本当はもっと簡単に行ける近道があるらしいけど、あいにくオレは魔法を使えないし空も飛べないからな。シオンの元気がない今は、この単純かつ確実な方法で行くしかない。
「久しぶりだな」
終わりの見えない道をどれだけ来たのか、途中で急に思い出してしまった。
「覚えているか? 赤ヶ原から帰る時にも、こうやっておぶっていったの」
「……忘れた」
「だろうなぁ」
短く答えたシオンの表情はわからない。どんな返事を期待していたわけでもないから、オレも遠くを見ながら苦笑して、またしばらく沈黙が続いた。砂を踏みしめる足音が、妙に大きく聞こえる。絵本の中に入り込んだみたいな、空の青と丘の緑しかないベタ塗りの世界には、他に音ってものが存在していないみたいだ。
「お主がここに来たということは、さごろもからわしのことを聞いたのだな」
背中で揺られるシオンが、顔も動かすことなくぽつりとつぶやいた。どういう意図があったにせよ、さごろもさんにあの金属片を預けていった張本人なんだから、そこは隠しても仕方がない。オレは黙ってうなずいた。
「驚いたか? わしが天使だとわかって」
「まぁな。あと、ちょっと腹が立った」
「騙していて、すまなかった」
精神的に弱っているせいなのか、いつも尊大でふてぶてしいシオンが、怒りもドツきもしないで素直に謝った。なんか調子が狂うなぁ。これじゃ、今までのことを文句言ってやろうと思っていたのにできないじゃないか。
「ニオ達も、お前のことは知らないのか?」
「わしの存在には誰も疑問を持たないよう、プログラムされておる。天使も死神も、現界人もな」
オレはものすごく疑問だったんだけど。「でも、どうしてそこまでして隠す必要があるんだ?」
十一人じゃ半端だからか? ってことぐらいしか思いつかなかった。だったら最初から天使を十人にすればいいんだよな。こんな時にまでアホなことを考えてしまう自分が悲しい。
「神のもとへ行けば、お主はすべてを知ることになる」
さっきの答えになっているのかいないのか、微妙にぼかした言い方だな。オレはただの足じゃなかったのかよ。
「知りたくなければ仕方がない。今ならまだ引き返すこともできる」
「何を知るのかもわからないのに、そう言われてもなぁ」
「お主の……定めだ」
「定め?」
定めって、定まった運命とか決まった未来とか、そういうことか? 相手は人間を作った神サマなんだし、気に食わないけど人生まで決められているって話だったからな。未来についても、もちろん知っているんだろう。そのシナリオとやらを教えてくれるって?
「いいさ。その運命ってやつを聞いて、オレが変えてやる」
「……そうか。それもまた、お主の自由だ」
あれ? てっきり『そんなことは絶対に無理だ』とか言われると思ったのに。
「フィリガーよ。真実を知っても、自分を見失うなよ」
「どういうことだ?」
肩越しにふり向いた瞬間、シオンが掲げた片手から光があふれた。まだ魔法を使うのは……って言う前に白い光はどんどん強くなっていって、いつの間にか白そのものの世界に立っていた。ぐるっと見まわしても、ただひたすら白が続いていて、白しかない。空の青と丘の緑が終わったら、今度はどこだ?
「待っていたぞ」
声というより、音だと思った。不意に気配を感じてふり返ったら、大きな黒い影がすぐ後ろにあった。さっきまで確かに何もなかったのに……いや、それより『これ』はいったい何なんだ?
「この大陸を創った神、メタトロン神だ」
金にも銀にも見える金属と、複雑に張り巡らされた配線、めまぐるしく明滅する赤や青の球、無機質な重低音――そこに埋もれるようにして体の一部だけが見える男に、シオンが恭しくひざまづいた。