第4章(7) みんなで仲良く、自由に生きてほしいんだ
一瞬だったのか数日たっているのか、気が付いたら森の中にいた。オレは――エリンはそこに立ち尽くしたまま、夕焼けじゃない不気味な赤に染まった空を見つめている。その視線の先には、真っ黒な煙がもうもうと立ちこめていた。
『みんな!』
はじかれたようにエリンが駆け出した。すぐに森から抜けて海を臨む高台に出たら、燃え上がる半島が眼下にあった。ここからでも倒れた人が何人も見える。小さいとはいえ、半島ひとつが丸ごと炎上するなんて、明らかにただの火事じゃない。もしかして、これが逆さ鏡の魔法で作られたジェト半島なのか?
『キーク! ランシェルおばさん! ジップ!』
魔法の力を使って崖から緩やかに飛び下りたエリンは、村の入口で知り合いらしい名前を叫んだけど、石壁の下敷きになった三人はすでに動かなくなっていた。その向こうには切り裂かれた男が、池には全身血まみれのじいさんが、まるで投げ出された人形みたいに横たわっている。エリンはいろんな名前を呼びながら、延々と続く地獄のような中をひたすら走った。戦争で攻め込まれて……いや、ここがジェト半島なら、ルーフェンさんの推論が正しいなら……。
『エリン、か?』
『ヨルク! 大丈夫!?』
やっと息のある仲間を見つけて、すぐに駆け寄った。そいつもひどい傷を負っていて、一目見ただけでもう助からないだろうと思った。それはエリンもわかっているはずなのに、癒しの魔法で少しでも苦痛をやわらげようとした。
『いい、から……お前は逃げろ』
『いったい何があったんだ? どの種族が攻めてきたの?』
『違う。天使、だ』
『天使? なんで天使が、こんなひどいことを……』
『“蒼穹の涙”……』
『……ッ!』
『あの至宝が、ここにあるのは間違いないと言って……知らないと言ったんだが……』
隠し立てするなら容赦はしない、ということか……なんてことだ。“蒼穹の涙”は現界の三種族が奪い合っているだけだと思っていたのに、天使も狙っていたなんて。
『サクやアイハは? 村で一番の戦士が負けるはずが……』
『天使に逆らうなんて、誰にもできない。だからせめて、お前だけでも……』
『どうしてだよ!? なんでみんなが殺されなきゃならないんだ! 天使だからって、こんなことをしていいはずがない!』
エリンが必死に叫んでも、男は目を閉じて二度と動かなかった。オレも悔しいよ……本当にオレ達は天界の意志に従うしかないのか? 目の前で家族や友達を奪われて、それでも仕方がないと諦めるなんて、オレにはできない。
『何が願いを叶える至宝だ。大事な仲間さえ守れなかったじゃないか!』
エリンはポケットの中の青い宝石を握りしめて、こぶしごと地面に叩きつけた。血が出た手の痛みはわからないけど、深い心の傷は自分のことのように伝わってきて胸が潰れそうだった。
『ごめん、みんな。こんな悲しいことは、僕が必ず終わらせるから……』
ごめん、と何度も何度もつぶやくエリンは、立ち上がった時にはまっすぐに前を見ていた。それから足早に村を出たところで、目の前が真っ暗になった。
――演劇のカーテンがサーッと上がるように、また視界が開けた。さっきまでとは違う場所……よく晴れた青空に大きな葉っぱの木が点在する緑の草原は、四百年後とはまったく別の世界だけど、この光景は赤木ヶ原に違いない。
『三種族の長たちの目の前でこいつを破壊したら、きっと戦争は終わる。そうしたら、僕は天界に行って……』
荒野の真ん中に一人で立つエリンは、手の中の青い宝石を見つめてつぶやいた。前に言っていたとおり、それぞれの王を集めて“蒼穹の涙”の偽物を壊してみせるっていうのか? 確かに、うまくいけば諦めめて戦争をやめるかもしれないけど、でも……。
『いたぞ、あそこだ!』
『えっ……?』
後ろをふり返ったエリンの視界には、密かに近づいてきていた水人の軍隊が広がっていた。一個連隊……いや、師団クラスの人数だ。まさか、いくらなんでも多すぎる。都を総攻撃するくらいの規模だぞ!
『なんで、長だけで来るようにって……了承したって言っていたのに……』
『水人や人間の軍に遅れをとるな!』
『至宝は我らのものだ!』
左からは獣人が、右からは人間が、やっぱり何万って軍勢を率いてやってきた。彼らが目指す先にはたった一人の妖精しかいないっていうのに、あまりに桁違いの数だ。エリンも、長だけを呼んだみたいだけど……。
理由は簡単なことだ。みんな、エリンの呼びかけに応じたように見せかけておいて、実際にはまるで言い合わせたかのように“蒼穹の涙”を奪うチャンスだとして大軍を繰り出したんだ。すべての種族が互いを牽制して、明るい草原には欲望と憎しみと殺気が満ち溢れていた。
『どうして……』
エリンは目を見開いて立ち尽くした。少し疑ったら、これくらいのことは当然するだろうことがわかったはずなのに。そんな言葉どおりにおとなしく来るくらいなら、いつまでも戦争なんかしているはずがないのに。
でも、彼は優しすぎた。逆に、みんなが仲良くなれるって信じていなかったら、こんな無謀なことはできなかっただろう。突然一族を失っても唯一の希望を信じていたのに、目の前に残された現実には、最後まで彼のささやかな願いは届かなかった。
『どうして……ドウシテ……!』
エリン? なんだ、彼のまわりに黒い光が溢れて……まさか!
『うわぁあああーッ!』
すべてに裏切られた悲しみと絶望が爆発して、魔法力が制御できなくなっていた。底のないどす黒い光が空を飲み込んで、木は枯れて、土は腐って、逃げまどう兵隊たちがこの世のものとは思えない悲鳴をあげながら消えていく。あらゆる生命を存在ごと根絶して、すべての光を黒に塗りつぶし、果てしない深淵の闇が世界を覆った。
これが、滅びの呪い……!
『エリン!』
シオンか? くそっ、エリンにはこの声が届いていない。ただ無尽蔵に憎悪と呪いを放出していて、もう自分でも何がなんだかわからなくなっている。種族を超えて命が消えるのを憂えていた深い哀しみが、終わりのない絶望になって、自分自身までをも消し去ろうとしているのか。やめろ! やめるんだ、エリン!
『創造主たる神の権限において、黒き呪いの光を収めよ!』
まるで膨らみすぎた風船が破裂したみたいに、黒い光がはじけとんだ。一瞬で静まり返った赤木ヶ原はオレがよく知る灰色の荒野になっていて、無数に押し寄せていた軍隊は一人残らず消滅していた。
『エリンよ、しっかりしろ!』
力を使い果たして倒れたエリンが薄く目を開けたら、青い顔をした紅髪の姿があった。魔法力を使いすぎるとどうなるのかオレにはわからないけど、あの呪法は複数の命を犠牲にしてするものだって、シオンが言っていた。それを無意識とはいえ、一人で使ったら……。
『シオ、ン……なの?』
『そうだ、わしだ。わしはここにいる』
『ごめん。僕、とんでもないことを……』
『今はしゃべるな。あれはお主のせいではない』
どこまで事情を知っているのか、シオンはかぶりを振って抱き起こした。小柄な少年の体は、もう指の一本も動かない。白くかすんだ視界が少しずつ暗くなっていく中、エリンがかすかな声でささやいた。
『シオン……一つだけ、お願いがあるんだ』
『なんだ? なんでも言ってみろ』
『もし転生したら、何も知らせないで……ただ、一緒にそばにいてやってくれないかな。次の――には、みんなで仲良く、自由に生きてほしいんだ』
『わかった。生まれ変わっても、わしが必ずそばで見守ろう。約束だ』
『あり、がとう……』
ゆっくりと目を閉じたエリンは、呼吸をするのも苦しいはずなのに穏やかに微笑んだ。この上もなく優しく、この上もなく哀しく。
『あぁ、一度でいいから、外の世界を見てみたかったな……』
『エリン? ……エリン!』
力の抜けた手から青い宝石が転がり落ちて、シオンが何度も呼ぶ声が遠ざかっていく。最後の妖精の命が消えた瞬間、オレの意識も途切れた。
――――……――――
現実に戻ってきたのはわかっていても、しばらく目を閉じたまま動けなかった。大戦を終わらせた英雄として、最強の戦士として語られている伝説の妖精は、一族の悲劇や呪いの事実を誰にも知られることなく、たった独りで哀しみを背負って消えた。だからせめて、一人くらい彼の最期の笑顔を思い返すのもいいじゃないか。
「泣いているのか?」
あぁ、ここにももう一人、彼の悲しみを知るヤツがいたんだな。あの時と同じ青い顔のシオンが、同じようにのぞき込んでいた。
「なぁシオン、オレは……」
「……?」
「オレはエリンの生まれ変わりなのか?」
疑問のように訊いておきながら、それはただの確認だった。赤木ヶ原で怨念たちに襲われたこと、何度も四百年前の夢を見ること、何よりもここにシオンがいること。それですべてのつじつまが合う。
「エリンの魂が転生していたことがわかって、わしは現界に来た。だが、お主に会ったのはまったくの偶然で、初めはわしも驚いた」
シオンはさっきの夢……というよりも、オレの前の魂の記憶を察して、いつも彼を案じていた時のように目を細めた。
「他種族との交流は、あやつがずっと望んでいたことだったから、もしやとは思っていた。確信を持ったのは赤木ヶ原だ。あの後からエリンの夢を見るようになったのは、お主の妹の魂に記憶の欠片が残っていたからだ」
六年前のあの日、エメリナは黒い光を見て気付いていたんだ。はっきりとしたことはわからなくても、あれがオレ達に関係があるってことに。呪法で消滅した兵隊たちの怨念が、術者と同じ魂を狙っていたことに。何も知らないオレだけが今もこうして生きていて、エメリナが犠牲になることで初めて真実を知ることになった。
「エリンはいったい、オレに何を伝えようと……」
壁や床が大きく震えて、思わず言葉を飲んで机に手をついた。今度はめまいなんかじゃなく、はっきりと爆音が響いていた。それも、すぐ近くだ。
「て、天使だ!」
誰かの声が裏庭から聞こえて、すぐにオレとシオンは外に飛び出した。パーティーの出席者たちや、通りに出て騒いでいる住民の視線を追うまでもなく、すさまじい殺気と桁違いの威圧感にすぐに気付いた。銀色の満月を背にして、翼を広げた三つの人影が西の空に浮かんでいる。その向こう、帝都の郊外にあるオレがここに来る途中で通った山が半分なくなっていた。
「出てきましたね、エルヴァ」
久しぶりでもうれしくないメンツが、この巨大な都の群集から一瞬でオレ達を見つけだした。あのキザなヤサ男ドヴァーと、ごっつい横暴な男ゼクスは予想どおりだけど、もう一人の落ちついた女性の天使は初めて見る。
「魔法力を消していたから、探し出すのに苦労しましたよ」
「そこの人間。貴様、まだ生きていたのか」
「この前はどうも」
あからさまな挑発にも、わざと肩をすくめて流してやった。イタズラ好きのティエンのように気まぐれに接触することはあっても、天使が現界人の前に姿を現すなんて、オレの知る限りじゃ聞いたこともない。これだけ大勢の人が同時に目撃するなんて初めてのことで、夜の都は大騒ぎだった。
「二人とも、あの天使たちを知っているのか!?」
「あぁ、まぁね」
まさか友達には見えないにしても、ルーフェンさん達は興奮してオレ達と上空の天使を見比べていた。ついでに言うと、オレはおまけなんだけど。
「イル、ついにお主まで出てくるとは予定外だったの」
「私はあなたの敵でも味方でもありませんよ」
イルって呼ばれた天使は、現界にはあり得ないほどの完璧なバランスの美しさで、優しく微笑んだらまるで教会にある聖母のようだった。それなのに、この息をするのもおこがましい威圧感と、冷たい汗が噴き出す圧倒的な力のほとんどが彼女一人のものなんだから、もう気が変になってしまいそうだ。あの強力な光弾を放ったドヴァーでさえ、今はおとなしく見えてしまう。
「あなたが、以前エルヴァとともに反抗したという人間ですか」
イルの視線がオレに向けられて、初めて我に返った。それで反射的に刀の柄に手をかけたけど、シオンが前に出てきて暗にオレを制した。
「わかりきったことだが、念のためにもう一度訊いておこう。わざわざ山を消してまで、何をしに来たのだ?」
「わかりきったことだな。貴様を今度こそ処分しにきてやったんだ」
「いいえ、ゼクス。私たちは彼を連行しに来たのです」
「ほう、ではまた上天院で新たな決定があったのだな」
「オレはすぐにでも抹殺するべきだと思うんだがな。寛大なる主の御慈悲だ」
「無駄な抵抗をせずに我々に従うか、ここにいる人間たちごと街を消してから連行されるか、どちらでも好きな方を選びなさい」
どう転んでも、シオンを連れて行くってことか。ドヴァーはどっちでもまったく問題ないって顔をしているし、ゼクスはあわよくば「手違い」ででも殺してやろうって腹だろう。オレも今度こそやられるつもりはないけど、こんな街中でやりあったら被害が出るのは免れない。なんとか、せめてヤツらを郊外までおびき出せれば……。
「わかった。お主らに従おう」
「シオン……!?」
ゼクスの剣呑な雰囲気やドヴァーの恫喝で、すでに街は逃げ惑う人やら神に祈る人やらで大混乱になっている。シオンはそんな騒ぎの中でも一人表情を変えずに、ルーフェンさんの家の屋根に軽々と飛び上がった。
「待てよ! なんでおとなしくついていくんだよ!?」
「今この場では、それ以外に選択肢があるまい」
「あいつら、お前を殺そうとしているんだぞ!」
「わしのことは案ずるな」
何カッコつけているんだよ。こんな時に笑っているなんて、オレには理解できない……!
「イルよ、お主を見込んでひとつ頼みがあるのだが」
「なんですか? 可能な限り、力になりましょう」
あいつ自身の力なのか、天使たちの力なのか、空に舞い上がったシオンは、隣でムッとしている二人を無視してイルに何かを話した。唯一、シオンやオレ達を傷つけるつもりがないらしい彼女は、小さくうなずいた。
「わかりました。では、あなた達は先に彼を連行してください」
「シオン!」
裏庭から叫ぶしかないオレを、シオンは一度だけふり返った。でも何も言わずに、ただじっと見返しただけで、ゼクスとドヴァーと一緒に淡い光の幕に包まれて消えてしまった。
「今夜のことは、私たちのことも彼のことも、すべてはうたかたの夢。さぁ、夢から覚めて、あるべき現実へと戻りなさい」
残ったイルが掲げた手から、まるで太陽がそこに現れたようなまぶしい光があふれ出て、この街だけでなく大陸中の夜を覆いつくした。そして光が消えた時、形のない大切なものがなくなっていた。