第4章(3) 俺の昇進はメシの次かよ……
夜でもにぎやかな巨大都市で、オレがすんなりと進めるはずがない。予定どおり(?)迷いに迷って、人に道を聞いたのが二回、酔っぱらいに絡まれたのが三回、そしてこれだけ迷子で泣きそうになっているのに逆に道を訊かれたのも一回。ようやく梅とフクロウの紋章がでかでかと刻まれた帝国大学の門にたどり着いた時には、すでに夜も更けていた。まだいくつか明かりのついた部屋はあるけど、大学自体は閉まっている。今夜はどこかで宿を探して、明日また出直しか。いや、それよりもう一回ここにたどりつけるのかな……。
「お、フィリガー君じゃないか!」
あぁ、まさに神サマの声にも聞こえたよ。諦めきれなくて、しばらく門の前をうろうろしていたら、ちょうど帰るところだったルーフェンさんが出てきた。
「来てくれたんだな。いつこっちに着いたんだ?」
「夕方にね。着いたのは着いたんだけど」
「どうしてこんな時間まで、こんなところをうろついているのか、と。……迷ったか」
「……」
無言で情けない顔をしているオレに、ルーフェンさんも何も言わずに同情のまなざしでうなずいた。こういうのを感無量っていうんだろうか、やっと親に会えた子供の気持ちが痛いくらいわかった。
「泣くな、泣くな。ちょっと遅くなったが、ウチでうまいものを食わせてやる」
ルーフェンさんに肩を叩いて励まされて、無言でこぶしを握りしめたオレは夜の街に叫びたい勢いだった。ようやく本日初のまともな食事にありつけることになったのも素直にうれしいけど、やっぱり初めての土地で知り合いに保護され……もとい、世話になれると落ちつける。
「こんな時間まで研究をしていたのか?」
「後でゆっくり聞かせてやるが、俺の論文の発表以来、今や学会では天使研究で大論争が巻き起こっている。それについての見解を聞きにくるやつが後を絶たなくてな」
ルーフェンさんは困ったふうにやれやれと首を振りながらも、残業さえ楽しそうだった。いいなぁ、もうここまで学者バカを極めていたら、見ている方も楽しいよ。
「ここが俺の家だ。嫁さんがかわいいからって惚れるなよ。……おーい、帰ったぞ!」
大学の裏手にある住宅街の一角で、なかなか大きくて立派な家だ。もうすぐ日付が変わる時間なのに起きて待っていてくれているなんて、いい奥さん――
「たっ、助けてくれ!」
「あ〜ん、待ってよシーちゃん! ……あ、ルーちゃん、お帰りなさい!」
……。第一声に非常に困る光景が、家の中で展開されていた。小さい紅髪と、異様な格好の大柄な女性が、こっちを見てそれぞれに転がるように駆け寄ってくる。反射的に、間違えましたと扉を閉めかけた。ここは異次元につながっていたのか? ……いやいや、冷静になって、ひとつずつ考えてみよう。
「まずシオン、どうしてお前がここにいる」
「それはお主の置き手紙を見て、先回りしたから……ぐあっ!」
「もうっ、シーちゃんたら恥ずかしがっちゃって!」
「は、放せ! フィリガー、こやつをなんとかしろ!」
後ろから抱きしめる、というよりはがい絞めにされて、シオンが悲鳴をあげた。金色の巻き毛に大きな赤いリボン、フリフリの白いワンピース。これが小さい女の子なら、人形みたいでかわいいんだろう。……んが。小太りで四十歳前後のおばさんがそれをしたら、軽い犯罪だぞ。
「ただいま。彼は明日のパーティに招待しているフィリガー君だよ」
「こんばんは。ルーちゃんの妻のエメルノイアよ。エメリナって呼んでね」
エ、エメ……。「……初めまして、エメルノイアさん」
「んもう、エメリナでいいってば! フィーちゃんも照れ屋さんなのね」
落ちつけ、落ちつけオレ。反射的に刀を抜きかけた右手を左手で押さえこんで、顔中の筋肉を総動員して笑い返した。
「ん? どうした、フィリガー君。顔色がよくないぞ?」
「は、腹が減ったから、かな」
「そうだったな。少し待っていろ」
帰ったばかりのルーフェンさんが、荷物を置くなりキッチンに立った。あれ?
「奥さんが作ってくれるんじゃないのか?」
「彼女は箱入り娘だったから、料理がからっきしでね。いつも俺が作っているんだけど、最近はニンジンを切れるようになったんだ。なぁ?」
「えー、ジャガイモも切れるもーん」
「なんでもいいから放せ! 放さんと輪切りにしてやるぞ!」
「いやぁん、こわーい!」
もがいて暴れていたシオンが、ようやく彼女の腕から逃げ出して、ぜぇぜぇ言いながらオレの後ろに隠れた。髪もローブもぐちゃぐちゃになって、強烈な香水の匂いがしみこんでいるあたり、相当気に入られたらしいな。
「お、恐ろしい女だ。本気で命の危機を感じたぞ」
「オレも初めて本気で殺意を覚えたよ」
めずらしく意見が一致したオレ達は、夫妻に聞こえないように小声で言い合った。知的で研究熱心な学者先生と、何かのコスプレでなければ路線の脱線としか思えない強烈な奥さんの組み合わせは、もはや外野には如何ともしがたい領域だ。当の本人たちが幸せそうならそれでいいんだろうけど、いろんな意味で歓迎されているオレ達は、果たして何事もなくここから帰れるんだろうか。
「夜更かししたらお肌によくないから、私、もう寝るわね。おやすみ、ルーちゃん!」
「おやすみ、エメリナ」
妹と同じ名前を呼ばれるたびに、力の入る右手を抑えるのに必死だ。いくら穏やかなオレでも、たとえシスコンと言われようとも、あのキャラにだけは譲れない。
ともかく、ひとまずは刃傷沙汰を避けることができたから、簡単に作ったルーフェンさんの手料理をいただきながら、ゆっくりと話をすることができた。
「とりあえず遅くなったけど、いただきますとおめでとう」
「俺の昇進はメシの次かよ……」
「んぐんぐ……ほう、なかなかうまいではないか」
「お前ら、帝国大学の主任教授っていえば、どれだけすごいか――」
「それで、さっきは天使の研究がどうと言っていたけど」
なぜか一人で落胆したり怒ったりしている学者先生は、今度は得意げににんまりと笑ってイスにふんぞり返った。
「ジェト半島が消えた理由、つまりは妖精がいなくなった原因に、魔法が関与していたらしい痕跡があっただろう? そこから考えられる可能性は、妖精同士が争ったか、死神または天使が手を出したかのどれかだ。が、妖精は一族の結束が固かったし全員が同時に姿を消したことから、同族争いの線は薄い」
「それじゃ、天使と死神の可能性が?」
「いや、死神の線もおそらくない。細かい論理ははしょるが、死神は死者の案内に熱心で、それ以外の目的のために現界に現れることはないからな」
こないだウチでホームステイした死神のことは、話がややこしくなるだろうから、この際黙っておこう。
「消去法で天使の可能性が大きくなったわけだが、否定する材料がない代わりに、決定的な根拠もない。その議論の余地をめぐって、大学全体が盛り上がっているというわけだ」
「さすがは学者先生、すごいなぁ」
「ふむ、まぁな。専門はあくまで考古学だが、過去の歴史にかかわるものなら一通り押さえてある。地理学、魔法学、種族学……もっとも、天使や神は少し特殊な分野だからな」
「特殊って?」
「データがほぼ皆無なのさ。ごくわずかな目撃談や、根拠の薄い伝承しかないから、ほとんどが推論の域を出ていない。『空の穴』に落ちて帰ってきた者の冥界や死神についての記録の方が、まだ数も信憑性もある。『穴』自体はまだ見つかっていないがな」
ウチの裏の池や、はしごを上った先にもあるんだけどね。怖がりで抜けた少女や、計画的確信犯のとぼけた室長なんて、真面目に研究している学者が知ったら泣くだろうなぁ。山貝のバター炒めを口いっぱいにほお張張りながら、あえて何も言わないことにした。
「お主らは、天界についてどこまで解明しておるのだ?」
「メタトロン神と十人の天使がいるってことは昔から確かなようだが……じつは我が大学では、まだ世間に公表していない研究結果もいくつかある。ふっふっふ、お前らにだけ特別に教えてやろう。絶対に誰にも言うなよ」
近所も寝静まった時間、三人だけの広いダイニングをわざわざ見まわして、ルーフェンさんは身を乗り出して声をひそめた。
「まず、天使と死神は生物学的にはほとんど同じだということだ。これは魔法の力があるということと、永遠に近い寿命ということ、そして存在意義も現界の魂の管理……つまり俺たち現界人が死んでから世話になるか、生まれる前に世話になるかという違いだけでな」
「その理由っていうのは、納得できるな」
「それともうひとつ、重要なことだ。神と天使たちで構成された会議が、現界の天候から歴史的事件まで、天界の意志として関与しているらしい」
「上天院……」
「ん? フィリガー君、どうしてその名前を知っているんだ? こいつはまだ学会にも発表されていないんだぞ」
「あー、それは……」
「わしが教えたのだ」
つい口を滑らせて言い訳に困っていたら、シオンが横から答えた。えっ?
「いいのか、シオン?」
「そろそろ現界も世界の在り方を知らねばならん。知識を広めるのに、学者は使えるからの」
「なんだ? 何を言っているんだ?」
「わし自身についてはいっさい質問をしないという条件を飲めるなら、天界や天使についての事実を教えてやる。もちろん、現界ではまったく知られていない極秘事項だ。どうする?」
いかにも怪しい申し出に、ルーフェンさんはうーんとうなって、しばらく壁の方を向いて黙り込んだ。きっとシオンの正体や言葉の意味、もしかしたら新事実を発表した後の昇進パーティまで、頭の中であわただしく計算しているんだろう。
「その話に、証拠はあるのか?」
「ない。だが、すべて真実だ。真実であれば、世界のどこかに必ず証拠がある。それを見つけ出すのが、お主らの役目であろう」
「証拠を見つけるのが役目……確かにそのとおりだ! 学者たるもの、探究心なくして真理の追究はなし得ない!」
用心深くさぐっていたルーフェンさんは、その言葉にいたく感動したみたいで、嫌がるシオンの手を取ってぶんぶんと振りまわした。
「よく言ってくれた、シオン君! さぁ、未来の名誉教授を真理に導いてくれ!」
「さすがは学者バカ、扱いやすいわ」
ぼそっとこぼしたシオンのつぶやきにも気付かずに、ルーフェンさんは紙とペンを用意して、まるで講義を受ける生徒さながらのヤル気だった。自分でうまく丸めこんでおきながら、シオンはやれやれと首を振っている。
「この大陸は約一万年前、メタトロン神によって創られた。その後、天使と呼ばれる種族を十人創り、のちに現界人を生み出すにあたって、魂を管理するために先んじて死神を創った」
「ふむ、それは生命歴史学の一般論とほぼ一致しているな」
「待ってくれ、その前に『始まりの民』っていうのがいたんだろ? 天使よりも先に」
「フィリガー君、そいつを知っているとは、なかなかマニアックだな」
「ウチの書斎の本で読んだんだ。オレも結構、歴史が好きだからさ」
「よかったら、俺の研究室の聴講生になるか? 推薦してやるぞ」
オレとルーフェンさんの話が脱線している間、シオンの表情は何かを迷っているみたいに、うつむき加減に目を閉じていた。
「天使、死神、妖精が魔法の力を持っているのは、彼らが『始まりの民』を模倣して創られたものだからだ」
「それじゃぁ魔法っていうのは、もとは『始まりの民』の力だったのか」
「それが事実なら、かの歴史学の権威ヒース=トリー先生よりも進んだ、とんでもない新理論だな。しかし、ほとんど実態さえ知られていない『始まりの民』や魔法の起源にまで詳しいなんて、いったい……いや、すまない。何も詮索しない約束だったな」
ルーフェンさんはシオンが何も言わないうちから自制して、また忙しそうにペンを走らせた。もともと他人のことに関心の薄い学者先生にとっては、怪しい紅髪の正体なんかをうんぬんするよりも、未知の発見に夢中で目がランランと輝いている。
「どうして現界人だけ魔法が使えないんだ? あんな力があれば、もっと研究がはかどったのに」
「ひとつは、その行き過ぎた力のせいで『始まりの民』は滅んだからだ。そもそも魔法とは、空間から物を取り出したり、爆発を起こしたりするためのものではない」
「『自然とひとつになり、共鳴することで自然の力の一部を操る』、だろう? 魔法学の大原則理論だ。わかってはいるが、便利で強力な力ならば、有効利用しないともったいないじゃないか」
「そういう輩がおるからこそ、危険だと判断されて力を消されたのだ」
そう言われると、ルーフェンさんもオレも何も言い返せなかった。確かになぁ……便利だからって、ちょっとしたことにでも使ってラクをしようとするだろうし、何より戦争なんかで使ったら収拾がつかなくなるどころか、この大陸そのものまで吹っ飛んでしまうかもしれない。
「しかし、現界人が魔法を使えない最大の理由は、その方が天界にとって都合がいいからなのだ。現界を管理するにあたってな」
「なんだ、その上から目線は。いったい何様のつもりだ?」
神様だよ。
「管理なんていっても、いつも現界を見守っていて、悪いことをするやつに天罰を与えるとか、そういうことだろう?」
「いいや、天界はすべてを司っている。天候や大きな事件だけではない。文字どおり、人の行動から心理まで、すべてが生まれる前からプログラムされているのだ」
「なんだと……?」
「それじゃぁ、オレがこの都に来たことも、ルーフェンさんが大学で研究をしていることも、全部始めから決まっていたっていうのか?」
さすがに穏やかじゃない事実に、オレ達は黙っていることはできなかった。自分で考えて、自分で決めたと思っていた今までの人生が、あらかじめ誰かに決められていたなんて、そんなこと信じられない……信じたくない。
「エル・デ・ファウラ――“天の庭”とはよく言ったものだ。この閉じられた大陸そのものが、天界の意志に支配された箱庭なのだからな」
神が住まう天界のように豊かで平和な楽園を理想として付けられた都の名前さえ、その神が考えたものだったっていうのか。自分の思いどおりの世界を動かす庭として、そこに生まれては死んでいくオレ達をあざ笑うかのように。
「そんなこと、あっていいわけがない。いくら神サマが創ったからって、生き方まで決める権利はないはずだ」
「俺もそう思う。だが、なぁ……」
知識の最先端をいく学者は、常に現体制に反抗してこそ新しいものを学びとることができるはず。自他共に認める学者バカなら、誰よりも真っ先に怒り出すと思っていたのに、ルーフェンさんの反応は予想外に渋ったものだった。
「そうは言っても、やはり相手は神だ。現界や俺たちを創ったなら、それを治めるのも当然なのかもしれない」
「何を言っているんだよ。何もかもを管理されているなら、オレ達はなんのために生きているんだ?」
「いやな、ものは考えようだろう。これが本当のことだとしても、この話を聞くまでは人生にシナリオがあることなんて知らなかった。誰も何も知らなければ、自分が選んだ自由だと思って満足に生きていけるじゃないか」
「それはそうかもしれないけど、でも……」
「それに、たとえ誰かにすべてを管理されていたところで、現界はうまく成り立っている。何度も戦争をくり返していても、最終的に滅びることはない。自分たちだけで歯止めが利かなくなるよりも、あるいは幸せなのかもな」
思いがけないルーフェンさんの解釈に、オレはもう言い返すのをあきらめた。こんな理不尽な現実を受け入れるなんて、操られているだけの同じ現界人としてがっかりだ。オレはこの憤りを、どこにぶつければいいんだよ。
「……やはり、このあたりが限界か」
唇を噛んでいるしかないオレに、シオンがかぶりを振った。
「これがこの大陸の理、天界の定めた最重要プログラムなのだ。神には絶対服従し、天界に従順に生きる。たとえどんなに反骨であろうと自由気ままであろうとも、すべての生命は天界の意志に逆らうことはできん」
「そんな……」
シオンは表情を見せることなく、さっと席を立って奥の部屋に行ってしまった。ルーフェンさんは胸に何かがつかえたような苦々しい顔をしながらも、結局最後まで反論することはなかった。
いつかシオンが、閉じられた大陸の話をしてくれたことがあったけど、あの時はまだ外界と遮断されているんだってくらいにしか思わなかった。その意味と重大性が、やっとわかった気がする。
本当の現実の世界にありながら、おもちゃのように創られ管理された、現実のような仮想空間。何度生まれて何度死んでも、魂はこの閉じられた大陸の中で三界を巡りながら、ただひたすら神の思いどおりの形を描く――。
神って、いったい何なんだ?
こんなことを永遠にくり返して、どうしようっていうんだ?
命や世界の在り方まで決めるなんて、オレは絶対に認めない。理もプログラムも知ったことか。神や天使に直接その答えを聞くまでは、オレはもう知らなかった過去のようにおとなしく過ごすつもりはなかった。