第4章(2) それってデートのお誘い?
目を開けた瞬間、頭のすぐ上に振り下ろされた刃が迫っていた。何がどうなっているのかを考える間もなく、オレは反射的に受け止めようとしたけど、動いたのは右手にあるはずの刀じゃなく左手に持った剣だった。
『ごめん』
オレの口がわずかにつぶやいて、態勢を立て直そうとしていた敵を横なぎに斬り払った。鎧を着た男はうめきながら倒れたけど、まわりに横たわっている人間たちは誰も血を流していない。足元に崩れたこの男も、まだ息があるみたいだ。だらんと降ろした剣は、オレの刀と同じ片刃だった。
『もう、やめよう。こんなところで争って、命を失っては駄目だ』
この悲しい声は、エリンだってすぐにわかった。オレはまた彼の夢に入り込んだのか。今回はそれほどあわてなかったけど、いきなり戦場の真っ只中から始まったのには驚いた。あぁ、四百年前にも戦争があったんだもんな。それも史上最大最悪の。
『あそこにまだ生き残りがいるぞ!』
この戦争を終わらせた妖精の声も今は誰にも届くことなく、血走った目の敵兵たちがまた押し寄せてきた。エリンが肩ごしにふり向いた視線の先、彼の後ろの山のふもとには、小さな集落があった。大きくため息をついたエリンは、すぐそこまで迫っている敵から逃げることなく、正面から迎え討った。
『うわぁーッ!』
少数の妖精たちを相手に、人間の大軍は押されていった。エリンも確かにいい動きをしているけど、実際、他の妖精の方が剣さばきがうまいし、強力な魔法を使っているように思える。言い伝えにあるような圧倒的な強さってほどでもないのが、ちょっと意外だな。
ただ、こんな混戦の状況でも一人も殺すことなく斬り抜けているのはすごい。ただ殺すよりも生かして倒す方がどれだけ大変か、同じように戦場にいたからよくわかる。
『撤退だ!』
銅鑼の合図で引き上げていく敵軍を、妖精たちは追うことなく見送った。ようやく静かになった平原には、生きている者も死んでいる者も累々と横たわっている。殺伐とした荒涼の大地は、赤木ヶ原を思い出す。赤と灰色に染まった光景を見つめるエリンの目には、何が映っているんだろうか。
『どうにか追い払ったようだの』
ずっと無言で立ち尽くしていたエリンの横に、シオンがやってきた。ちらっと視線が動いたけど、またすぐに地面に落ちた。
『でも、大勢の命が消えたよ。妖精も、人間も』
戦争を悲観している人は他にもたくさんいるんだろうけど、彼の悲しみは大陸のすべてを憂えて果てしなく深い。前にシオンが言っていたように、こんなに優しすぎる性格で戦場に出るなんて、辛いだけじゃないか。それでも偽善じゃなく、逃げないで現実に向き合っていることこそが、彼の強さなのかもしれないな。
『それでも、お主は村を守ったではないか。あそこで待っている者たちを』
『戦争なんか、勝っても負けても失うばかりで何も残らないってことを、どうしてわかってもらえないんだろう』
『この前も話し合おうとして出ていったら、危うく串刺しになりかけたくらいだからの。今は誰も聞く耳さえ持ってはおらん』
『“蒼穹の涙”……そんなものがあるから……』
うつむいて唇を噛んでいたエリンは、自分の言葉にハッとして顔を上げた。
『そうか、そうだよ! “蒼穹の涙”があるから戦争が終わらないなら、なくなってしまえばいいんだ!』
『“蒼穹の涙”をなくす?』
いぶかしげなシオンに、さっきまで沈んでいたエリンは自分の思いつきに大はしゃぎで説明した。
『なんでもいい。例えば……そうだ、このボタンにしよう』
そう言って引きちぎった青く透き通ったボタンは、まるでサファイアのように光って……あ、あれ! シオンと一緒に降ってきたあの宝石だ!
『これこそが“蒼穹の涙”なんだって言って、みんなが見ている前で破壊するんだ。簡単に壊れたら嘘くさいから、できるだけ派手な大魔法を使ってさ。そうしたらみんな、諦めて戦争なんかやめるよ。どうかな?』
すごい名案だろうと言わんばかりに興奮しているエリンは、大きく輝いているだろう期待の目をシオンに向けて答えを待った。でも、シオンの表情は浮かなかった。
『確かに“蒼穹の涙”がなくなれば、争う意味もなくなるかもしれん』
『だろ!』
『だが……そんなことをしたら、お主は全種族の恨みを買うことになる。それがどういうことかわかるか?』
『……』
『この大陸に、お主の居場所はなくなる。まわりのあらゆるものに疎まれ、一生狙われるやもしれん。すべての歪んだ憎しみを抱えて生きていくなど、人ひとりの身で背負うには重過ぎる』
厳しい言い方だけど、シオンの言葉のひとつひとつが友人を心から気遣っているのがわかった。もちろん、エリンもそれに気付いているはずなのに――だからこそなのか――、彼は一度は消した笑顔を満面に作った。
『もちろん、そんな覚悟くらいあるよ。僕に怒るのも無理はないし、それでみんなが仲良く平和に暮らせるなら、僕一人が恨まれるくらいなんでもないさ』
『エリン……』
『ほら、僕は特別なんだって言っていたじゃないか。普通の人にはできなくても、僕なら大丈夫。それに……』
エリンはそこで言葉を切って、少しの間、目を閉じて息を詰めた。
『大陸中の人に嫌われても、シオンだけはわかってくれる。そうだろ?』
柔らかい微笑みの中に、悲しいまでの決意があった。シオンもオレも、言葉が見つからない。どうしてこの少年は、そこまで自分を犠牲にしてでも戦争を止めようとするんだろう。それで大陸が平和になったとしても、みんなに恨まれるなんて……。
いや、待てよ。エリンは滅びの呪法を使ったはずだ。オレの知る限り、後の世で彼が恨まれているってことはないし、でも彼はこのとき呪法で死ぬつもりはなかった……どういうことだ? この後で、何かあったのか?
『僕はただ、みんなで笑っていたいだけなんだ。だからそれが叶えば……僕はよその大陸に行こうかな。外の世界を見てみたいし』
『わかった。その時はわしがつれていってやろう』
『ほんと? 約束だよ。わぁ、楽しみだ!』
無邪気に喜ぶ笑顔が本心なのか、シオンに心配をかけないように無理をしているだけなのか、オレにはわからなかった。ただ、意識が闇の向こうに遠ざかっていく間際、胸を締め付けられるような苦悩を感じだ。
――――……――――
いつの間にか眠っていた目を開けたら、オレは泣いていた。知らないうちに涙が溢れて、ひざの上に次々と流れ落ちていく。言葉にならないエリンの悲愴な思いが、今もまだオレの中に残っていた。しばらくの間、瞬きをするのも忘れて、呆然とそこにある何かを見つめていることしかできなかった。
「お客さん、もうすぐ到着ですぜ」
前の御者台から男の声がして、やっと我に返った。そうだ、ガティスの町から帝都へ向かう馬車に乗ったんだっけ……結局、シオンは朝になっても戻ってこなかったし、こんな田舎じゃ昼を過ぎたら遠出する馬車なんてなくなってしまうから、仕方なく一人で出発したんだ。カーテンを閉めてあった窓をのぞいたら、山から下りていくその先に、落ち始めた夕日に照らされて赤い影が伸びる大小無数の建物が見えてきた。
「あれが帝都かぁ」
「初めての人は、必ずため息をつきますよ。なんたってここは大陸最大の都ですからね」
ぶっちゃけて言ってしまえば、冥界マーラを見た後じゃ大した驚きもないんだけど、規模も美しさも大陸中のどこよりも桁違いだと力説する御者のガイド話に逆らうことなく聞き流して、だんだん大きく近づいてくる街の光景をじっと見下ろしていた。
ただルーフェンさんのパーティに出席するだけなのに、オレは来るべくして来たっていう――例えば運命と呼ばれているような、なぜか必然的なものを感じずにはいられない。夕焼けが哀愁を感じさせるのか、さっきの夢のせいなのかはわからないけど、あの街で待っているはずの何かを探すように、ただじっと見つめ続けていた。無意識のうちに、エリンの服のボタンだった、あの青い宝石を握りしめながら。
人間社会の中枢である帝都エル・デ・ファウラは、古い言葉で『天の庭』って意味を持っているらしい。
獣人や水人の都が厳重に隠されているのに対して、ここだけは堂々と大陸のど真ん中に鎮座している。しかも海こそないものの、「すべての道は帝都に通じる」なんて誰かが言ったくらい交通の便がいい。背後の山が天然の要塞になっているとはいえ、今まで隠れることなくいくつもの戦乱を乗り越えてきたのは、ひとえに強大な軍事力の賜物だ。街を囲む外壁は砦の防衛柵よりずっと強固で、地方都市ガティスの人口にも匹敵する軍が常駐しているらしい。
「でかいなぁ」
マーラはちょっと規格外だから置いておいて、一般的な常識で見ると、ここは何もかもが大きい。建物も道も看板も、もちろん人の数も。子供のころ、じいちゃんとエメリナと暮らしていた町もそこそこ大きいところだったけど、帝都は雰囲気からして特別なものがある。大学なんてすぐにわかるだろうと思っていたのに、劇場やら屋敷やら教会やら立派な建物がいっぱいありすぎて、逆に目立つものが全然ないじゃないか。
「おっと、ごめんよ」
田舎者のオーラ丸出しでキョロキョロしながら歩いていたら、すぐに人にぶつかってしまうのは、さすが都会だ。そして……。
「それ、返してもらえます?」
「チッ……」
油断したらすぐに財布を持っていかれるのも、さすがは都会ってところか。刀の刃をちょっと鞘から出してみせたら、ぶつかった男はおとなしく財布を放り出して逃げていった。まったく、おちおち迷子にもなれないよ。
「あなた、どこから来たの?」
広場に並んだ露天をのぞいていたら、今度は女の子に声をかけられた。黒いシャツに薄く透けた緑の上着を合わせた服は、初めて見る素材とデザインだ。高いところで束ねたシルバーブロンドの髪によく似合っている。
「南に半日のところからだよ。なんでよその人間だってわかったんだ?」
「私もここに住んでいるわけじゃなくて、いろんなところに顔を出しているから、なんとなくわかるのよ。その土地の人かどうかってこと」
「へぇ、旅をしているのか? 女の子なのにすごいな」
「おもしろいわよ、町や歴史を眺めるのは」
どこか不思議な雰囲気のする女の子は、見ているだけで心が踊るような笑顔で言った。はきはきした澄んだ声も、耳に弾んで心地いい。大学に行くのは、もうしばらく後でもいいよな。
「なぁ、この街に詳しいみたいだし、アイスでも食べながら少し案内してもらえないかな?」
「それってデートのお誘い?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……!」
「うふふ、いいわよ。キミ、楽しそうだもの」
目をのぞき込まれて動揺するオレを見て、女の子はクスクスとおかしそうに笑った。完全に彼女のペースだよ……。
「まだ名前を言っていなかったな。オレはフィリガー」
「あ、ちょっと名前が似ているかも。私はフィーラよ」
フィーラ……あれ? どこかで聞いたことなかったっけ? うーん、思い出せない……でも知っているかもなんて言ったら、それこそナンパだと思われるから、思い出すまで黙っていることにしよう。
それから約束どおり彼女にはイチゴ、オレはチョコレートのアイスを買って、二人で食べながら暗くなり始めた街を散策した。
「これが七百年前に建てられた美術館で、この街でも一番古い建物のひとつね。あっちのお店の小物、すっごくかわいいの! あ、その向こうに見える屋根、前は有名なガラス工房だったんだけど、百年くらい前に火事があって、今は小さな本屋になっているわ。ふふ、そこの店番のおばあちゃん、隣で寝ている猫とそっくりなのよ」
都の説明はもちろん、フィーラは他の地域のことも話してくれた。オレも戦争中は大陸各地のいろんなところへ行ったけど、彼女はその場所の歴史や移り変わりにも詳しいし、何より話がおもしろい。だけど西地区のほんの一部をまわっただけで、あっという間に夜になってしまった。
「ごめん、今日は人に会う用事があるから、そろそろ行かないと。久しぶりに楽しい時間が過ごせてよかったよ」
「デートもろくにしていないの? 寂しい青年ねぇ」
「う……」
「冗談よ! 私もアイスおいしかったわ。また、どこかで会ったらお話しましょうね!」
一番最近のデートは水人の子供と遺跡巡りだったなんて、とても言えない。悲しいかな、当たっているだけに最後まで言い返せないまま、大通りの街灯の下でフィーラと別れた。また……会えるといいな。
「……しまった」
あんなにたくさん案内してもらったのに、肝心の帝国大学の場所を訊いておくのを忘れていた。前に森でさんざん迷いまくったのに、今度は夜の街中で迷子の予感だ……。