第4章(1) 風は今も世界を巡っているのだろうな
六年前に戦場から引退した時、すでにこの丘の上の家は世間から忘れられて久しかった。いつ誰が建てたのか正確なところはわからないけど、家具はそのまま残っていたのが使えたし、掃除をすればなかなか快適な環境になった。
一人で静かに過ごすには充分な量の本も、書斎に溢れていた。数術学や地理書なんかの学問関係から、武器戦術指南や料理本、果ては古今東西大全なんてマニアックなものまであって、六年かかっても半分も読めていない。前の住人は、きっと本の虫どころか本怪獣だったに違いない。あるいはただの物好きなコレクターか。
この中でオレの一番のお気に入りは、種族学と歴史書だ。どっちもまだまだ解明されていない部分がいっぱいあって、想像力をかきたてられるんだよな。学校の授業では絶対エメリナにかなわなかったけど、オレはけっして運動バカというわけじゃないんだぞ。
「さて、あの続きは……と」
海から戻ってきて二週間、またこの書斎に入り浸るようになった。海底遺跡で会った学者先生の影響かな? 最近はいろいろあってご無沙汰していた読書を再開したら、あっという間に時間が過ぎていく。特に昨日からシオンがどこかに出かけていないから、この静かなひとときはとても貴重だ。
「古代に滅んだ種族、か」
大昔、まだ天界も冥界もなかった時代、もちろん今のどの種族も生まれる前に神サマが創造した『始まりの民』は、あるとき突然消えてしまったらしい。彼らがどんな生活をしていたのか、どうしていなくなったのか、すべては憶測の範疇を出ない。ほとんどおとぎ話のような伝承だけど、まったくの想像でこんな存在を作る理由がないし、中途半端に実態がわからないのもおかしいんじゃないだろうか、とオレは思っている。
そしてその後、冥界の死神と天界の天使が現れて、そのさらに後からようやく現界の三種族が登場している。ここから先は今も続いているように、神サマと天使と死神が魂の管理をして、ぐるぐると輪廻が回っているんだそうだ。
もうひとつおもしろいことといえば、こういう調査をしているのは、ほとんどが人間ばかりだってことだ。一般的に獣人や水人は、歴史にも地理にも興味がない。いや、人間もごく一部をのぞいて、危険や苦労をしてまで調べようなんてヤツは少数しかいないか。ルーフェンさんは、そのめずらしい人種の筆頭だ。妖精が消えた謎に大きく近づいたって大満足で帰っていったけど、あれから本当に学会がひっくり返ったのかなぁ。本棚に潰されていないか心配だよ。
「そういえば……」
種族学の分厚い事典の一角に、ちょっとだけ妖精について書かれた記述があったな。これの著者、歴史学者ヒース=トリーによると、妖精は天使と同じころに誕生して、『始まりの民』ととてもよく似た性質を持っていたらしい。つまり、全体的に小柄で穏やかで、主に自然と共鳴する魔法の力を持っていた、と。なんで何もわかっていない伝説上の種族と似ているって言えるのか、そこには見事に触れていない。
「……ん?」
さっきの歴史書を、妖精が生まれたあたりの時代から逆に読んでいったら、創世神話のページである単語に目がとまった。
「『――滅びを予感したエノクは、直接、神に会いにいった。しかし願いは届かず、すべての生命は1度消えた』……エノク?」
どこかで聞いたことのある名前だ。いつ、どこでだ? そんなに昔のことじゃないけど、はっきりとした話の中で聞いたわけじゃない……確かシオンが……。
「あ、あの時……!」
赤木ヶ原で天使に襲撃された時、シオンがオレ達を守るために立ちはだかって……権限がどうとか言っていたんだっけ。そのすぐ後に意識がなくなって、なんのことなのかわからないままだったから、すっかり忘れていたよ。シオンの知り合い(?)のエノクって人はもちろん神話のエノクと別人だろうけど、何か関係があるのかなぁ。じつは何百代後の子孫とか? もしそうだとしても、だからなんだっていうんだよな。
「……お腹すいた」
空想の中で一人笑ったりうなったりしていたら、いつの間にか外が暗くなっていた。こんなしょうもないことばかり考えているから学校の成績はイマイチだったんだと、前にエメリナに言われたのを思い出してしまった。
仕方なく書斎を出て、何か食べるものが残っていないかとダイニングへ向かう途中、ポストからはみ出た手紙が見えた。この家に手紙が来たのは、サンの使いの鳥が窓を破って強行突入してきた、あの「鳥襲撃事件」の時だけだ。六年間、オレがここにいることさえ誰も知らない。
……はずだったけど、最近は知っているヤツも増えたからな。ちゃんとポストに届いたまともな手紙が妙にうれしくて、ダイニングを素通りして庭に飛び出した。
「うわ、ルーフェンさんからだ」
可能性を考えられ得る中の一人ではあるけど、ちょうどさっきどうしているかと思っていたから、ちょっとびっくりだ。キッチンに戻って、残っていたパンをほお張りながら、帝国大学の紋章がでっかく描かれた立派な封筒を開けてみた。
「むぐむぐ……招待状?」
やっぱり同じ紋章、知性の象徴である梅の花とフクロウの絵が透かし刷りされている紙に、あまり達筆とは言えない字で書かれていた内容は、主任教授昇進記念パーティーについてだった。さすがに名誉教授は無理だったみたいだけど、こんなところまで手紙を出して招待してくれるなんて、意外と律義な人だな。……あれ、シオンも連れて来いだって? 種族生態学の研究家が会いたがっている……なるほど、本命は海の中でも呼吸してサメと話をする正体不明の未知の生態、というわけですか。でも、あいにくだけど今は出かけていていないぞ。
「パーティーは明後日か」
明日の朝、ガティスの町から帝都行きの馬車に乗ったら、たぶん夕方ごろには着くだろう。あいつ、今夜中に帰ってきたらいいんだけどな。
――世界の内にありながら、世界から切り離された空間。
影は目を閉じて、遥か彼方の記憶を呼び覚ましていた。長い永い間、ここに繋がれて役目を果たすだけの時間だけが流れ、未来を考えたり過去を思い出したりすることもなかった。しかし、先日……数時間前? それとも数年前? ……彼の唯一の友人に忘れていた名前と約束を言われ、懐かしい思いが胸の奥からよみがえってくるのを感じた。こんな気持ちは、かつての名前を失って以来、初めてのことである。
「あぁ、わたしは……」
走った。息を切らせて、飛ぶように全力で走った。走り方も呼吸の苦しさも、土の感触や吹き抜ける風がどんなものだったのかさえも、今となっては二度とわからないが……とにかく、あのとき彼は急いでいた。
どこへ? ……森の奥にひっそりと建つ無機質な建物が見えてきた。
なぜ? ……ここにいる誰かに会いに来た、はずだ。
なんのために? ……何かを知らせるため? あるいは何かから逃げるため?
「……」
かすかに浮かぶ光景は、もやがかかったようにかすんでいて、はっきりと見えない。思い出そうとすればするほど、彼のまわりに広がっているこの空間ような、果てしない白い闇に飲み込まれていく。どれだけの時間が過ぎたのか、影が諦めて目を開けると、そこには小さな紅髪がじっと控えていた。
「来ていたのか、エルヴァ。言ってくれればよかったのに」
「考え事をされていたようでしたので。……何か、思い出せましたか?」
過去をふり返っていたことを気付かれ、影は恥ずかしそうに自嘲した。
「森の中を走っていた。ただそれだけしかわからなかったが、昔は自分は足が速かったんだということが意外だったよ」
「貴方は風と仲がよかったですからな」
「そう……だったのか?」
「なればこそ、神力結界は風と大気の力を借りて、光の反射を歪めることで外界と遮断しておるのです」
「風……わたしは忘れてしまっても、風は今も世界を巡っているのだろうな」
シオンに説明されても、影はそれについては思い出せなかった。彼のすべての記憶は、世界の記録として残されている。だが、その原初のころの記憶は過去に埋もれて、探し出すのはもはや不可能に近い。思い出の温もりが音もなく消えていく絶望感さえ、すでに感じることはなくなった。
「巡るのは風だけではありません。魂の因果もまた、戻ってこようとしています」
「“彼”が何かを思い出したというのか?」
「エリンの記憶に触れたようです。今までなんの自覚もなかったのは、どうやら分かたれていたもう一方の魂に記憶が眠っていたからだと思われます」
「それが一つになって、魂がつながりつつある、ということか」
「あやつとの約束を果たすときも、近いかもしれません」
シオンの声がわずかに硬いように思えたが、それがうれしさのためなのか緊張のせいなのか、影にはわからなかった。
「それよりも、ひとつ確認したいことがあって戻ってまいりました」
「どうしたのだ?」
「ジェト半島を消したのは、天界の意思だったのですか」
いつもここでは穏やかで慈愛に満ちた目をしているシオンが、初めて怒りのにじんだ鋭い問いを発した。影は目を細めて、どこか遠い一点を見つめている。その間、白い空間は完全な沈黙に覆われた。
「……そうだ」
やがて、影が短く応えた。答えはわかっていたものの、シオンは握りしめたこぶしが震えるのを抑えきれなかった。もはや過ぎたこととはいえ、やり場のない悔しさに唇をかみしめるしかないのかと思うと、今まで気付かなかった自分にも腹が立つ。
「どうしてエリンが呪法を使ったのか、やっとわかった。わしはあの時、あやつの苦しみを理解してやることもできなかった……!」
「すまぬ、エルヴァ。お前の気持ちを考えると、どうしても言えなかったのだ」
「……」
「しかし、“蒼穹の涙”は天界にとってもこの大陸にとっても危険だという彼らの意見に、反論することはできなかった。止められる力がありながら、どうすることもできない……すまぬ」
「いいえ、わしこそ取り乱して申し訳ない。貴方の責任ではありません」
深いため息をついて、シオンはかぶりを振った。
「後悔するよりも、今はやるべきことがあります。今度こそ“彼”を守らなければ」
「エルヴァ……」
影が何かを言いかけたとき、空間に歪みを感じて、二人ははっと視線を向けた。と同時にシオンは風にかき消されるように姿を消し、代わりに男女の人影がそこに浮かび上がった。
「主よ、ご機嫌うるわしゅう」
「第一天使イル、ならびに第二天使ドヴァーが参りました」
丁重に挨拶をする二人の天使は、先ほどまでいた紅髪の存在には気付いていないらしい。影は注意深くそれを確認すると、内心でほっとしながら厳格にうなずいた。
「先日は罪人を取り逃がしてしまいましたが、わたしとゼクスが再び追跡しようと思います」
「それと、“蒼穹の涙”が現界に現れた兆しがあるので上天院で今後の対応を決定したいのですが、ご出席いただけますでしょうか」
「……わかった」
長身の穏やかな女性と上品で優雅な男性は、また一礼して消えた。誰もいなくなった白い世界に一人残された影は、再び記憶を手繰るように目を閉じた。