第1章(1) 人生、常に生きるか死ぬか、ヤるかヤられるかだ
いつの間にか、眠っていたらしい。
それでもしっかり握っていた竿がピクピクッと動いて、オレは目が覚めるより先に、反射的に竿を引き上げた。
「ぬ〜……」
この世界は、釣り針の先に魚がかからないようにできているんじゃないのかと、ときどき本気で疑ってしまう。もしかして、裁縫箱から持ってきたこの針じゃ短すぎたのか? ボタンを付け替えるときには、ちょうど使いやすい長さなんだけど。
気を取り直して、また池に投げ入れた。子供のころ、じいちゃんがよくこうやって釣りをしていたのを、たまについて行って眺めていただけの記憶では、確かこんな感じだったはずだ。
竹の棒に糸を結んで、その先の針を投げて、あとは糸が引くまでぼーっと待つ。
……うーん、なんか違っているのかなぁ。
「ま、いっか。春だし」
魚はともかく、考え事をするには、この場所とこの時間が一番だ。
まわりの木々はいっせいに花を開いて、目にまぶしいくらいの色が溢れている。池の向こう側には、しっぽが三本と脚が六本の、なんて名前だったかな……かわいい小動物が、くるくる丸い眼を動かしながら草をかじっていた。丸焼きにしたらおいしいんだよなー……とか思っていたら、オレの方をビクッと見上げて、ものすごい勢いで走り去ってしまった。
「……ん?」
そのまま視線を上げたら、オレの目と同じ紺碧の空の先で、何かが光ったような気がした。風で飛んだ花びらの見間違い……じゃない!
「あっぶねぇ……!」
危うく跳び退いたら、さっきまで座っていた岩に、小さいけどしっかり穴が開いていた。
な、何が落ちてきたんだ……? しばらく様子を伺ってからゆっくりのぞいてみたら、小さな青い珠がそこにあった。拾い上げて空に透かすと、空より深い、吸い込まれそうな青い光が渦巻いている。サファイアか何かの宝石かな? 町に持っていけば、高く売れるかも……
「うわぁぁーッ!」
「……ッ!!」
今度は避ける間もなかった。青い宝石をポケットに入れて立ち上がった瞬間、次は紅い何かが降ってきて、見事にオレの頭に直撃した。
「いっ……つつつ……」
あー、よく生きていたもんだ。自分に感心するよ。……って、あれ?
「ひ、人……!?」
ぶつかる前に声がしたと思ったけど、そこに転がっていたのは確かに人……っぽい生き物だった。紅い髪に草色のローブを着ていて、立ち上がってもオレの腰くらいしかない子供なのに、手と足はオレより大きい。
「だ、大丈夫か?」
「ここは……いや、それよりかくまってくれ!」
「は?」
「追われておるのだ。早くせんとヤツが来る!」
「え、あぁ……じゃぁ、あそこで隠れていろ」
坂の上の家を指差したら、そいつは飛ぶように走っていった。とっさに言ったはいいけど、何なんだ、いったい……?
「おい、そこの男!」
釣竿を持って座りなおしたとたんに、大柄な男がやってきた。なんだ、追っ手は一人なのか。でも第一声からして、外見を裏切らないデカい態度だ。
「紅い髪の小柄なヤツが、こちらに来ただろう。どこへ行った?」
「さぁ」
「隠し立てすると、お前のためにもならんぞ」
いきなり現れて剣をちらつかせるようなヤツに、答えてやる義理はない。あくまで無視してやろうと思ったけど、丘の上に目をやるのは時間の問題だとも思っていた。
「あそこに隠れたのか?」
「あれはオレの家だ。誰もいないし、鍵をかけてきた」
針を回収して、釣竿を片手に立ち上がった。糸がついた竹の棒を振り下ろして、男の目の前にピッタリ止めた。
「オレは釣りをしているんだ。邪魔をしないでくれ」
「……ただの釣り人ではないようだな」
男が剣の柄に手をかけ、釣竿をはさんで数秒間じっとにらみ合ったけど、結局抜かずに引き下がった。
「まぁ、いい。いずれ神の命が下れば、どこに逃げようと抹殺する」
「あっ……!」
男の背中に大きな白い翼が広がって、空へ飛んでいってしまった。あいつ、天使だったのか……天界エル・カラルってところに天使と神が住んでいるって話は知ってるけど、実際に見たのは初めてだ。
ちなみに神サマが世界を創ったとか人を裁くとかっていう昔話の真偽はともかく、天使は人間や獣人なんかと同じ一種族で、別に伝説でも神話でもない。ただ、たった十人しかいないってことで、めったにお目にかかれない希少な存在なのは確かだ。まぁ、あんなに傲慢なヤツだとは思わなかったけどな。
「もう大丈夫だぞ」
今日も釣果ゼロのまま、天使の男が完全に見えなくなってから、オレも家に引き返した。ハッタリじゃなく、本当に鍵を閉めてあったのに、あの紅髪はどうやったのか中に入ったらしい。
「あれ? おーい、もうあいつは行ったから……って、おい!?」
入口にいないと思ったら、奥の部屋からひょっこり紅いのが出てきた。……その手に、一枚の写真を持って。
「そっ、それは……!」
あわてて飛びかかったけど、すでに手遅れだった。紅いのは軽々と避けて、しまってあったはずのその写真をちらつかせながら、にんまり勝ち誇ったように笑った。
そう、それは間違いなく勝利宣言であり、でなければ降伏勧告でしかない。
「頼む! 返してくれ!」
「ん〜? それが人にモノを頼む態度かの?」
「か、返して、ください……!」
「お主、なかなかおもしろそうだから、しばらく厄介になるぞ」
軽いめまいを覚えるくらい、何がなんだかわからなかった。いつものように釣りをしていただけなのに、いきなり天使から脅迫まがいに絡まれたり、名前も得体も知れない紅いのに正真正銘の脅迫をされたり。
本当に厄介なことになった。オレには選択肢もなければ拒否権もない。
「おぉ、せめてわしの名前を教えてやるから、ありがたく思え。わしはシオニスシャレム。種族は、そうだな……ふむ、妖精だ」
「そんなこと、どうでもいいから……」
「ん? 長くて呼びにくいのなら、シオンでよいぞ」
「……」
不意をついて手を伸ばしても、あっさりと逃げられた。
「そういえば、お主の名を聞いておらんかったの」
「それ、返せ」
「名前も知らんヤツのなら、町に持って行っても……」
「フィリガー=フェルセンです」
即答してしまう自分が悲しい。シオンは満足げにうなずいてるけど、手の中のモノはしっかり持って油断がない。
「どうしたら返してくれるんだ?」
「諦めろ」
「それが助けてやった者への態度か?」
「人生、常に生きるか死ぬか、ヤるかヤられるかだ。覚えておけ、こわっぱ」
「……お前、いくつだよ」
「お主の百倍は生きておるわ」
見た目は小さくてかわいい子供なのに、中身はジジくさくてかわいげの欠片もない。からからと笑う顔なんか、もう悪魔そのものだ。
「そんなにうれしそうな顔をされると、これからが楽しみだな」
「オレがいったい何をしたっていうんだ……?」
せめて神様にでも届くことを願いながら、オレは誰にともなく嘆かずにはいられなかった。
……あぁ、『人質』の写真に何が写っているのかは、もちろん秘密だ。