第3章(4) 見た目はただのタコだけど
獣人の都フォルトが大陸最大の森の中心に隠されていたように、『蒼き果て』の異名を持つ水人の都リヴィアルも、他種族には知ることも近づくこともできないところにあるって言われている。前の戦争でも人間や獣人がいくつかの湖を襲撃したけど、結局、王都だけは場所の特定さえできなかった。どの種族も自分たちだけが行き来できて、よそ者はいっさい寄せ付けない排他的な町の構造は、いつからかもわからない長い争いの歴史と、そこに積み上げられてしまった根深い対立関係をそのまま表している。
そんな背景を知らない幼い水人の姉弟は、何も疑うことなくオレ達を案内して川を下っていった。正体、というか生態不明のシオンはともかく、オレはどこからどうみても正真正銘の人間で、しかも実際に戦争に出ていたんだぞ。彼らのお母さんを殺した仇敵本人じゃないとはいえ、その仲間だったかもしれないと思えば、もっと警戒するものじゃないんだろうか。
「さぁ、よくわかんないや」
それとなく訊いてみたら、ソノラは首をかしげただけだった。戦争が終わる前の年に生まれたから、敵とか味方とかの実感もないのかもしれない。姉のアマレットも三つしか違わないから戦争そのものは知らないけど、死んだ母親のことを覚えているぶん、複雑な心境みたいだった。
「お母さんは獣人の兵隊に殺されて、その人も人間の軍隊に殺されたって隣のおじさんが言っていたわ。だからフィルさんが悪いとか人間が敵だとか、そんなの思っていないから」
いつも冷めた目をして淡々と話すアマレットは、感情がどこにあるのかはっきり見えなかった。エメリナを失って世の中すべてを拒絶していたオレなんかより、よっぽど前向きで行動力がある。でも、その気概の中に危ういもろさみたいなものが感じられて、何か力になってやりたいと思った。
「ここから入るんだよ」
川が終わってついに海まで出てしまったところで、ごつごつした岩場の一角をソノラが指差した。張り出した木と岩に囲まれて、正面にまわりこまないと見えない角度に、岩場の下を潜る感じでぽっかりと穴が開いている。
「さすがに町の中にまで酸素ボックスを持っていったら、人間だってバレるよな」
「いいじゃん、別に。僕の友達も人間を見たことないから、めずらしがって喜ぶよ」
「みんなが、そうだったらいいんだけどな」
隣のおじさん達は、まず間違いなく喜んではくれないだろう。獣人も人間もそうだけど、最初は個人的な付き合いから少しずつつながりを広げていかないと、そう簡単に消えるほど過去の傷跡は浅くない。
「仕方がない。わしがどうにかしてやろう」
にやっと笑ったシオンは、思いついたみたいにどこかへ行って、しばらくして戻ってきたら両手にいっぱいの海藻を持っていた。それをおもむろにぐしゃぐしゃとつぶして、いきなりオレの頭からぶっかけたから大変だ。
「な、何するんだよ!? うわ、真っ青になったじゃないか!」
「これで外見はごまかせよう。目はできるだけ開けるな」
後ろで束ねていた先端まで黒い髪が、青い海藻がからんだ紺色になってしまった。うえ〜、なんかねちょねちょしているよ。服や顔にまでついた色素は、こすっても水に濡らしてもとれない。これ、帰って風呂に入ったら落ちるのかな……。
「かばんはそのままでよい。口の部分だけ目立たないようにすれば、わからんだろう」
どうにかしてくれるっていうのは、結局オレの頭と酸素ボックスをカムフラージュしただけだった。魔法でちょいちょいって水中呼吸ができるようにしてくれたらいいのに、シオン曰く、魔法はそうそう簡単に使うものではないらしい。ということは、やっぱりこいつが水の中でも呼吸できるのは、そういう生態なのかもしれない。
「こんな安易な変装で、本当に大丈夫かな」
「水中で呼吸をしていたら、たぶん疑われることはないと思うわ。あとは、そのかばんを騙しとおすしかないわね」
こいつを奪われただけで、オレはもれなく溺死決定だ。女王サマとやらに地図のことを訊いてくるだけなら、命を賭けてまでついていかなくても、オレはここで待っていればいいんだけど……。
「……よし、行こう」
何かと噂がある女王サマや、誰も見たことのない水人の都に行ってみたいっていう好奇心の方が勝ってしまった。人間との全面戦争っていう最悪の可能性にさえ気をつければ、少なくともオレとシオンだけなら多少暴れてでも逃げ出す覚悟でいこう。
姉弟に続いて岩場の下に潜って、鍾乳洞の中を泳いでいった。三人くらい並んで通れる幅があるけど、水が天井近くまであるから船で進むことはできない。ときどき海から流れ込んでくる波に押されながら――これ、帰りは苦労しそうだな――、しばらく進むといくつもの光が見えてきた。
「これが……!」
唐突に洞窟の通路が開けたかと思ったら、そこは広大なひとつの街だった。下に向かって伸びているビルが針山みたいに乱立していて、左右だけでなく上下にも街灯が並んで道を作っている。街灯以外にも全体的にぼんやりと明かりがあると思って視線を上げたら、水面のはるか上に小さな空が見えた。
「リヴィアルはね、大昔の火山の地下にあるんだよ」
得意そうにソノラが教えてくれた。あぁ、なるほど。さっき通ってきた洞窟は溶岩が流れ出た道で、ここはマグマの海が空っぽになった空間だったのか。入口は海岸の狭い洞窟か、山の頂上の噴火口しかない、完全な隠れ家だ。そりゃいくら探しても、見つかるわけがないよな。
「本当は街の中をいろいろ見てみたいんだけど、すぐに女王サマのところに行くか?」
「あ、でも僕、ちょっとだけ家に……」
「フィルさんの正体がバレるといけないわ。急ぎましょう」
何か言いかけた弟を抑えて、アマレットが先に泳ぎだした。オレはその後ろ姿と悲しそうなソノラの顔を見比べて、どうするべきか迷ったけど、結局オレ達も後についていくしかなかった。
街の中を進んでいくと、誰も見たことのない水の中の生活がそこにあった。街灯や家の明かりは光ゴケを使っていて、ぼんやりとうす暗い。水人は暗闇に強いらしい。木は腐ってしまうから、建物とか家具とかは全部石造りだ。あ、あそこの屋根は貝殻かな。すれ違う水人はもちろんみんな青髪の碧眼で、水抵抗の少ない細いラインの服が多い。
「だ、大丈夫かな?」
「普通にしていれば平気よ」
今一番大事なことは、自然に泳ぐことだ。わかってはいても、緊張したら足と手があべこべに動いてしまう。オレ、スパイにはむいていないよな。
「何を挙動不審になっておるのだ。小心者め」
そういうシオンこそ、泳ぎにくいローブで髪も紅いままなのに、まったく堂々としていた。この根拠のない自信には、こっちが間違っているのかと思ってしまうから怖い。事実、水人はオレ達を見ても気にせずに通り過ぎていく。
「女王さまに会わせてください。どうしても女王さまの偉大な知恵をお借りしたいことがあるんです」
「そうか、それならいいぞ」
街の中心にそびえる宮殿の門を、衛兵はあっさりと通してくれた。いちおうの武装はしていても、これっぽっちも警戒していない。こんな子供やよそ者を宮殿に入れるなんて、ここの警備は大丈夫なのか?
「この都自体が天然の要塞で守られているから、衛兵なんてただの飾り。どうせ敵は入ってこられないんだから」
「ここに入っているぞ、敵じゃないけど」
「衛兵も衛兵だけど、これが女王さまの性格なのよ。とりあえず、フィルさんもソノラも、余計なことは言わないように黙っていてね」
小声で言いながらずんずんと進んでいくアマレットについていった。虹色貝のアートやサンゴの置物が飾られている廊下には、オレ達の他にもおばさんやよぼよぼのじいさんまでが普通に泳いでいた。ずいぶんとオープンな王宮なんだなぁ。
「くれぐれも、絶対に、何があっても女王陛下に失礼のないように」
大きな扉の前で衛兵にくどくどと念を押されてから、謁見の間に通された。水中だからひざまずくことはできないんだけど、だからといってバタバタと手足を動かすのも失礼だから、浮かび上がらないように直立したまま静止しているのは至難の業だ。
「ツァリーヌ女王陛下のお出ましです!」
さぁ、いよいよ女王サマとご対面だ。顔を上げるわけにはいかないから、ギリギリまで目だけでのぞき見たら、真っ赤なドレスのすそが見えた。
「女王さま、今日もお美しいお姿を拝見できて光栄です」
イスに座った気配がした直後に、アマレットが挨拶をした。勝手に顔を上げてもいいものかと思ったけど、女王サマはとがめるどころか上機嫌に笑っていた。
「子供ながら、美をわかっておるとは感心なことだ。他の者どもも楽にするがよい」
許可が出たから、待っていましたとばかりに勢いよく見上げたら、酸素ボックス中の空気を吐き出しそうになってあわてて飲みこんだ。
まず、すそどころか全体真っ赤っかのドレスが視界にぐわっと押し寄せてきた。それを耐えたら、今度はドレスからはちきれんばかりの見事な体型がまわりまで圧倒していて、思わずひっくり返りそうになったけど足を踏ん張ってどうにかやり過ごした。
あ、赤いゆでダコがイスにふんぞり返っている……!
「ん? その後ろの者どもはおかしな格好をしておるの。もしや、陸の種族ではあるまいな?」
「まさか。人間や獣人が、女王さまの都に入れるはずがありません」
「そうであろう。陸を這いまわる下賤の者など、わらわの治める地に近づくことも許されぬわ」
「偉大なツァリーヌ女王さまは絶世の美貌だけでなく、海よりも深い英知をお持ちだとお聞きして、ぜひお知恵を拝借したいと思って参りました」
「海より深いなどと、大げさな物言いをする者が多くて困るな。しかし、小さきそなたの願いごときなら、聞いてやってもよいぞ」
尊大さはシオンといい勝負の女王サマは、謙遜しているように見せかけて得意げ満々だった。こんな見え透いたおだてに喜んでいるあたり、こいつはかなりわかりやすい。アマレットも、いつもの無表情のままで、よくもここまで歯の浮くような言葉を吐けるなぁ。しかもこの丸々したタコを直視して平然としているなんて、むしろ近眼を疑ってしまうよ。
「親戚のおじさんの友達の息子のお嫁さんの曾祖母が残したそうなんですけど、どこの地図なのかわからないと言われて預かってきました」
隣で聞いているオレ達は、もう吹き出しそうになるのをこらえるのに必死だ。地図ってこと以外、見事なまでのデタラメをすらすらと並べたてて、アマレットはガラスケースに入れたあの紙切れを平然と差し出した。
「これは……」
女王サマは手に取ったガラスケースをのぞきこんで、しばらく動きを止めた。『ウツクシイ』って単語の意味がここでは崩壊しているけど、アマレットやソノラが自信を持ってここまで訊きに来たからには、何かしらの知識くらいはあるんだろう。そう期待したい。
「これは海溝図だな。しかもずいぶん昔のものだ」
長い沈黙の後で、うなるように答えた。あの白と黒のシミみたいな絵で、どうやってわかったんだろう。
「どのあたりか、ご存知ですか?」
「わらわを誰だと思っておる。すべての……」
「すべての水界を統べる王、ですよね。もちろん存じ上げています」
「わかっておるならばよい。これはジェト海溝の近海だ」
「ジェト海溝……!」
姉弟の反応からして、水人の間じゃ知られた海らしい。ん? シオンまで驚いた顔をしているぞ。なんだよ、またオレだけわからないってパターンか?
「しかし、なぜ何千年も前の海溝の地形図を持っておる? 水人でもほとんど知り得ぬ海域、それも紙などと陸のものを使って……」
「詳しいことはわかりません。親戚のおじさんの友達の息子のお嫁さんの曾祖母が残したものらしいので」
疑問に思った女王サマに考える間を与えないように、アマレットはすかさず話を打ち切った。
「つまらないことに貴重なお知恵を使っていただいて、ありがとうございました。改めて女王さまの偉大さを拝することができて、とても光栄でしたわ」
「ふむ、わらわの広大な知識が必要ならば、いつでも参れ」
まんまとごまかされた女王サマは、満面の笑みでふんぞり返っていた。オレ達もアマレットにならって愛想笑いをしながら、そそくさと退却した。
「あー、笑いこらえるの疲れた」
「女王さまっておもしろいよね」
宮殿を飛び出して離れてから、オレとソノラは思う存分笑い転げた。もう顔の筋肉がぴくぴく引きつりながら、ずっと足をつねっていたんだ。
「あんな変なので、本当に大丈夫なのか?」
「水人の王はただ瞳が赤いだけじゃなくて、すべての海域を知り尽くしているの。だから適当におだてて、いろんなことを教えてもらうのよ。見た目はただのタコだけど」
さっきまであんなに愛想よくお追従をしていたアマレットは、外へ出るなりいつもの冷めた目に戻って言い捨てた。役者というか大人というか、感情が薄いだけに恐ろしい。
「それで、ジェト海溝って場所はわかっているのか?」
「えぇ、それなら……」
「アマレット!? それにソノラも!」
急に名前を呼ばれて、姉弟がふり返った。オレも目をやったら、細身のおっさんが駆け寄って……じゃなくて、泳ぎ寄ってきた。二人の知り合いか何かかな?
「お父さん!」
……お父さん? 二人の家はガルテラ湖じゃなかったのか? ソノラが手を振って叫んだからびっくりしたけど、なぜか険しい顔をしているアマレットの反応が気になった。