第3章(1) 空気のあるところは疲れるんだ……
――現界とは異なる時間が流れる、過去でも未来でもない空間。
そこには空も地面もなく、ただ見渡す限りに白が広がっている。気の遠くなるような昔からここに存在している影は、時間の感覚など失って久しく、自分が何者なのかを意識するのが精一杯だった。
「先ほど、さっそく彼らが来たよ」
そんな影にも、たった一つだけ楽しみがあった。小さな紅髪が現れると、影はうれしそうに微笑んで迎えた。といっても、歩いていって触れることはできない。指の一本さえ、動かし方を忘れてしまってどれくらいたったのだろうか。
「かなりお怒りのようだ。特にゼクスなど、今にも噛みつかんばかりの剣幕だったぞ」
「そんな中でわしがここに来ていることを知ったら、それこそ怒り狂うでしょうな」
シオンが鼻で笑うと、影は「肩をすくめた」ような表情をした。
「貴方の力を使ったことで、さらに迷惑をおかけしてしまって申し訳ない」
「かまわん、そのための権限委譲ではないか。よく“彼”らを守ってくれたな」
「何も言わずにただ隣で助けることしか、今のわしにできることはありませんからな」
シオンは誰にともなくかぶりを振って、ため息をついた。唯一、そのやりきれない思いを知る影は、目を伏せて顔を曇らせた。
「すまんな、エルヴァ。まわりのすべてを偽り、導くべき者をも欺かなければならないお前の孤独を、わたしには代わってやることもできない」
「いや、貴方の永遠の苦悩に比べたら、どれほどのものでもありません」
シオンは顔を上げて、無理に笑ってみせた。それが心からのものではないとわかっていても、影は救われたような気分になった。
「それにしても、閉じられた大陸の真相を知った時の“彼”の反応は、思ったより少なかったな」
「まだ事の重要性を理解できておらんのでしょう。それを知るには、隠された世界の理を見つけなければなりません。自身の真実も、そして貴方のことも」
「すべてを知ってなお自分を見失わずにいるには、あまりにも重い理だな」
この白い空間にいながらにして、大陸のすべての事象を把握している影にも、“彼”の心の内と未来を知ることだけはできなかった。
「しかし過去を見つめ直したことで、わずかでも真実に近づいたのではないのか?」
「結果的にうまくいったものの、危うく呪法に飲み込まれそうになった時には、さすがに焦りました。さごろもめ、部下の仕事にかこつけて、怨念たちが“彼”に反応して動き出すのをわかっていながら差し向けおったな」
「お前のことを知る数少ない存在なのだ、彼なりに心配しているのだろう」
「あやつのイタズラは、今に始まったことではありません」
ムキになって言い返すシオンを、影はおかしそうに笑ってあしらった。どんなに些細なやり取りであっても、影にとっては唯一すべてをさらして話すことができる時間は、この白い絶望の中に残された希望だった。
「エルヴァよ、いつまでもわたしの友でいてくれるか?」
「何を今さら。いつか必ず輪廻の螺旋を破ると、約束したではないか」
不意にたずねた影の哀しい声に、シオンは心外だと言わんばかりに驚いた。
「わしは約束は必ず守る。だから安心せい、エノク」
いつのころからか主に仕える態度と決意を自分に課していたシオンが、この時ばかりは友として、本人も忘れかけていたかつての名で呼びかけた。影は名前以上に久しく失っていた気持ちが溢れて、動かない体に温かい何かを感じた。
さっきまでガンガンに晴れまくっていた空が、ちょっと暗くなってきたと思った瞬間、狂ったみたいに雨を吐き出した。いくらここ数日いい天気が続いていたからって、よりによってオレの買い出しの日に降らなくてもいいじゃないか。
「あーもう、何なんだよ!」
急いで大きな木の下に入った時には、荷物もオレもびしょ濡れだった。
丘の上にぽつんとあるオレの家は、一番近い町でも往復で半日の距離にある。だからたまに数日分をまとめて買い出しにいくんだけど、このタイミングで仕掛けてくるか、雨。
「いやぁ、派手にぶちまけたねー」
確かにさっきまでは誰もいなかった大きな幹の角向かいに、いつの間にか若い男が立っていた。いま来たにしても、髪の毛一本も濡れていない。……いや、そんなことよりあの背中!
「天使……!?」
「ん? あー、また羽を隠すの忘れていたか」
男は自分の背中をふり返って、のんきにつぶやいた。警戒して距離をとったオレにかまうことなく、翼を消してあくびをひとつ。
「面倒くさいんだよね、いちいち隠すの。キミ、天使(ボク達)を見たの初めて?」
「……いや。この前お目にかかった、かな」
「へぇ、めずらしいねぇ。誰だろ、フィーラあたりかな?」
見たことがあるどころか、危うく冥界送りになるところだったよ。でも、この天使には殺気どころか敵意も感じられないな。少なくとも、オレを追ってきたわけじゃないらしい。
「天使がこんなところで何やっているんだ?」
「雨宿りだよ、キミと同じ」
男はにっこり笑った。死神と同じく実年齢は不詳だけど、人間でいうならオレより四,五歳下ってところかな。天界でオレ達の話が伝わっていないはずがないのに、無邪気というか無頓着というか。どうも天使全員が、よってたかって血眼になって探しているわけでもないらしい。
「雨くらい魔法で防げばいいんだけどね。たまにはこうやって雨宿りしながら、新しいイタズラを考えるのも悪くないなぁって思ってさ」
「イ、イタズラ?」
「へへ、現界人ってさ、姿を消して声をかけただけで、飛び上がって驚くんだよね。何百年前だったっけな、大昔のトイレを古代文明の遺産だって言って死神にプレゼントしたら、冥界で大流行したんだよ! ははは、あれは一番の大傑作だったなぁ」
な、なんてことだ、やっぱりあれは陰謀だったのか! 自分の常識は証明されたものの、まさか天使がそんなイタズラをするなんて聞いたこともない。
「キミ、このあたりの人間?」
「家はもっと先だよ。たまたま買い物でこっちに来ていたんだ」
「そりゃ災難だったねぇ。天界のとばっちりを受けちゃってさ」
男はくすくす笑ってから、急に顔を近づけて声をひそめた。
「じつはここだけの話、今、上天院が大荒れでさぁ。罪人を捕らえろだの現界で手を出すべきじゃないだのって。ボクそんなの興味ないから、途中で脱走してきちゃったよ」
やっぱり。彼がたまたまあっけらかんな性格だからよかったものの、然るべきヤツだったら、今ごろまたドンパチだったぞ。
「どうしたの? むずかしい顔して」
「あー……いや、なんでも」
「しばらく雨はやみそうにないし、死神でもからかってこようかな。よくわかんないけど、罪人はこのあたりに潜伏しているらしいから、キミも気をつけた方がいいよ」
言えません、ウチの同居人がその噂の罪人だなんて。もちろんその共犯者が気をつける相手は、あんた達です。
「じゃあね〜!」
オレの心の叫びなんか気にするはずもなく、若い天使はまた翼を広げて飛び立っていった。あのぶんだと、後でオレのことを知っても、やっぱりあくびをして終わりそうだな。
それからしばらくたっても、雨は勢いが弱まることさえなかった。川に沿った街道のはずれなのに、この天候じゃ人っ子一人見当たらない。戦争が終わっても、行商人や旅人以外で町の外を出歩くヤツなんて、ほとんどいないからな。
ざーざーと、ひたすら雨の音だけが耳に響いている。このままじゃ川が氾濫して、このあたりも巻き込まれるかもしれない。かといって、このバケツ雨の中を走って帰る根性もないしなぁ。
「わー、ヒドい雨だ!」
ごうごうと爆発したような激流から小さな少年がはい上がってきたのを、驚くべきか呆れるべきか迷いながら見ていた。さっきは空から、今度は川から。なんでみんな普通に登場しないんだ。
「あーぁ、もう、びしょ濡れだよ」
いやいや、川を泳いできたのに何を今さら。青い髪と緑の瞳を確かめるまでもなく、ツッコんでくれと言わんばかりの視線を向けているのは、まだ子供の水人だった。
「ねぇねぇ兄ちゃん、もしかして人間だろ?」
「いちおうな」
「やっぱり! 僕のカンは鋭いからね」
鱗から進化したっていう青い髪じゃなく、獣の耳やしっぽがなかったら、自動的に人間しか選択肢が残らないと思うんだけど……まぁ、人生たまには天使や死神なんてのにも出くわすこともあるからな。
「人間って初めて見たけど、意外と普通なんだね」
「どんな化け物を想像していたんだ?」
「でっかい角と牙があって、口は耳まで裂けているんじゃないの?」
「どこの妖怪だよ」
この歳ならしょうがないか。戦争中はみんな敵だから、他の種族のことなんか悪魔みたいに凶悪だって決めつけていたもんだ。戦争に出ていた者以外は、ほとんど他の種族を見たこともないからな。
「お前、どこの湖から来たんだ?」
「ガルテラ湖だよ」
「相当、流されてきたみたいだな。ここは山一つ西の地域だぞ」
「えぇっ!? ……あ、うん、そうだよ。ここを目指して泳いできたんだ。ちょっと遠出してみようと思ってさ」
最初の驚きは聞かなかったことにしてやろう。オレも大人だからな。
「そういえば、僕の姉ちゃん見なかった?」
「さぁ。水人に会ったのも久しぶりだからな」
「さすがにこっちまでは来ていないかぁ。またはぐれちゃったな」
「お姉さん、心配して探しているんじゃないのか?」
「どうかなぁ。これくらいいつものことだから、今ごろお茶でも楽しんでいるかもね」
なかなかタフな姉弟だな。でも、このまま放っておくのも気が引けるか。
「小降りになってきたみたいだし、後でお姉さんを探してやるからウチに来るか?」
「わぁ、ホント!? ……あ、駄目だめ! さらって食べようってつもりだろうけど、そうはいかないぞ」
「食わねーよ」
まぁ、確かに。客観的に見たら、これって誘拐犯の常套文句だよな。相手は子供、しかも他種族ときたら、ひと昔前なら即戦争の引き金になっていたところだ。
「じゃぁ、この刀を人質に渡しておくから、それなら大丈夫だろ?」
「うん、わかった。しょうがないね」
「オレの愛刀なんだから、大事に持ってくれよ」
小さな水人は、身の丈に近い刀を鞘ごと両腕で抱えて、ふんばりながら小走りについてきた。最初のころよりはだいぶ小雨になったとはいえ、まだ空は赤木ヶ原並みに真っ暗だ。
「お前、なんて名前なんだ?」
「ソノラだよ。人間にも名前があるの?」
「天使や死神にもあるくらいだからな。オレはフィリガー」
「言いにくいから、フィル兄ちゃんね」
たぶんソノラより小さいころから妹がつけてくれた呼び名は、六年間誰にも呼ばれたことがなかった。それが、この前再会したゾンネ少佐や、この小さな新しい友人に呼ばれるたびに、くしゃっとした笑顔で話しかけるエメリナの声を思い出す。そして、途切れていた時間がつながって動きだしたんだって実感がした。
「ねぇ、ちょっと、待ってよ……!」
「やっぱりそれ、持とうか?」
「こ、これくらい大丈夫だよ。でも、空気のあるところは疲れるんだ……」
「あぁ、そうだったな」
普段は水の中で生活している水人は、陸に弱い。両生類みたいにどっちでも呼吸はできるけど、走るよりも泳ぐ方が断然速いし、酸素が多すぎると過呼吸状態になるらしい。それでも地上に出てきて戦争をしていたんだから、根性のある種族だ。
「お、重い……!」
こいつの場合は、そういう問題以前の話だな。ひーひー言いながら赤い顔して、それでも抱えた刀を渡そうとしなかった。
「ほら、見えてきたぞ」
ようやく丘の下まで来た時には、ソノラは返事もしなかった。これじゃ誘拐犯の汚名は逃れても、虐待の疑いをかけられそうだな。
「ひぃ、はぁ、やっと着いた?」
鞘をほとんど引きずるようにして丘を上ったソノラは、入口の前に立って家を見上げた。うつほになんと言われようとも、ウチは人間の家としてはまったくの標準タイプだ。あんぐりと口を開けているそこの少年、さぁ今度は何を驚くつもりだ?
「よ、横長だ! すっげー低いぞ!」
「……低い?」
いちおうウチ、二階建てなんですけど。
「普通、十階以上はあるでしょ? 僕の家は十二階建てだよ」
よく話を聞くと、水人の家は水面すぐのところを一階として、湖底に向かって伸びているらしい。オレは戦場では何度も相対したけど、水人の地域に攻め入ったことはないから、彼らの生活がどんなものなのかは知らなかった。冥界マーラで見たビルって高層物が、湖ににょきにょきと生えているのを想像して、ちょっと複雑な気分になった。メルヘンチックなんだか、最先端文明なんだか。
「それじゃ、中で体をふいてちょっと休んだら、お姉さんを探しにいこうか」
もう頭のてっぺんから足の先まで、自分をしぼりたくなるくらいベチョベチョだ。ソノラは濡れていてもまったく気にすることなく、むしろ大荷物をおろせてほっとしている。川から出てきた時には騒いでいたくせに、やっぱり水人、鱗の機能を残している皮膚が水をはじいていた。
「ただい……え?」
「お帰りなさい」
「ようやく戻ったか。遅かったではないか」
戸を開けると、ダイニングで二つの小さな赤と青の人影がのんびりとお茶をしていた。一人はシオンでいいとして、あっちの女の子は……。
「姉ちゃん!」
「あら、ソノラも一緒だったの?」
「お、お姉さん?」
後ろから叫ぶソノラと、カップを置いて無表情に向き直った女の子を見比べて、オレはしばらく言葉が出なかった。