第2章(5) うん、約束!
どんよりと重くのしかかるような空と、灰色の腐った大地の間には、今や無数の青白い光があふれて渦巻いていた。この空間で唯一生きているオレ達に対する怨念が、ひしひしと感じられる。
「間違えました、で見逃してくれ……ないよなぁ」
ダメもとで言ってみたものの、光が青から赤に変わっているのを見れば、彼らが何を言いたいのかは嫌でも理解できた。
「どーすんだよ、これ!?」
やっと現実を受け入れて焦ったところで、後ろのうつほは完全に腰が抜けていた。
「あ、あわわわ……」
「しっかりしろ、うつほよ。まずは一度力ずくでおとなしくさせてやらんと、こちらの言うことなど聞く耳を持たんぞ」
「でも、こ、こんなのどうしたらいいのか……」
「そのためにフィリガーがおるのではないか。あやつの刀に、死神の力を少し分けてやれ」
「は、はい」
シオンに指示されるまま、うつほはオレの刀を鞘ごと手に取って、何やら気合いを込めた。黒い鞘と刀身が一瞬ぼんやりと光ったけど、何がどう変わったのかはわからない。
「これで魂に接触することができます。あとはお願いしますね」
「いや、お願いされても……」
押し付けらた刀を受け取った瞬間、光の一つが突っ込んできた。反射的によけたら、突撃された枯れ木がジュウって焦げるような音をたてながら、黒くしなしなになって干からびた。うげ……。
「とりあえず、こやつらが頭を冷やすまで相手をしてやれ」
「この怨霊を? この数を? 一人で!?」
冗談だろう、と言いたいところだけど、あいにくこの妖精もどきは冗談を言ったことがない。しっかりと木の陰に隠れてしまったうつほを横目で見ている間にも、次々と魂の光が襲いかかってきた。
「案ずるな、わしらはうつほの結界の中にいるから安全だ」
「ちっとはオレの心配もしろ!」
のんきに声をかけるシオンは、いつの間にかうつほと一緒に淡い光の幕の中にいた。オレもその中に入りたいけど、それじゃいつまでたってもここから動けなくなってしまう。仕方なくあきらめて、怨霊たちの相手をすることにした。
「俺も協力しよう」
リーフさん、あんたいい人だよ~。オレの刀と同じようにうつほに力をもらった彼の武器は、片手で扱える銃だった。この大陸には大砲か、両手で構える大型のものしかないから、リーフさんのいた外の世界の方が文明が進んでいるみたいだな。
「それじゃ、後ろをよろしく」
いくらオレが大勢を相手にする戦いが得意とはいえ、こんな何万個いるかわからない、しかも人間じゃないのはちょっと反則だ。背中を任せられるだけで、数が半分になるという以上に楽になる。リーフさんがどれだけの腕なのかはわからないけど、この状況を見ても冷静で、自分から助太刀を買って出るくらいだから、あっちで観戦しているだけの約二名なんかとは比べものにならないくらい心強い。
普段は両手で扱う刀を右手だけで持って、左手は軽く添えて、足を少し開く。とにかく機動性を重視して、体力の消費を最小限にする構えでいくぞ。
「よし、こい!」
光が雨のようにいっせいに降ってきた。まずひと続きの動作で十数個を斬り落として、同時に背後でリーフさんの銃声が鳴り響く。とにかく止まったら負けだから、手当たり次第に斬りつけていくしかない。
「リーフさん、あんた度胸すわってるよなぁ。戦い慣れているのか?」
「詳しく話している暇はないが、夢の世界で悪夢と戦うのが俺の仕事でな」
「まさに悪夢だよな、これ」
後ろをふり向く余裕はないけど、リーフさんの声は相変わらず落ちついていた。これならあっちは大丈夫だな。光を斬っても手ごたえがほとんどないから、ちょっと感覚が違ってやりにくいけど、そのぶん動きを遮るものは何もない。このまま体力の限界まで、いっきに……
『コノ、タマシイハ……。』
「……ッ!?」
何かが聞こえた気がして、戸惑って動きが止まった一瞬の隙に、光が肩をかすめて通り抜けていった。服がでろでろに破れて、右腕がもぎ取られたみたいな激痛が走った。
「どうした、フィリガー? 大丈夫か?」
「あ、あぁ」
利き腕をやられて、じつはあんまり大丈夫でもないんだけど、それよりさっきのはなんだったんだろう。
『ワレラヲ、シバリツケタ、チカラ……』
まだた。空耳なんかじゃない。地面の底からうなるような、低くて重い音……シオンやうつほはただオレの傷ばかり気にしているみたいだけど、あいつらには聞こえていないのか?
『ヨクモ……ナガキ、ノロイヲ……』
『ユルサン』
『オマエモ、ホロベ!』
取り囲んでいた光の群れが突撃をやめたかと思ったら、一ヶ所に集まってどんどん黒くなっていった。夜よりも深く、これっぽっちの明かりも底もない、本当の深淵……。
「……」
どうしたんだろう。恐ろしいはずなのに、逃げないといけないのに、なぜか一度見てしまうと目が離せない。あの黒い光の底に、どうしようもなく引き込まれてしまう……。
「いかん、フィリガー!」
誰かが何かを叫んでいる声を遠くに聞きながら、オレは闇に溶けた。
――――……――――
「フィル……」
懐かしい、声……。オレを呼ぶのは、誰だ?
「ねぇフィル、起きて!」
「……え?」
少しずつ世界が明るくなってきて、じっとオレをのぞきこんでいた目と目が合った。透きとおった青水晶ような水色の瞳――それ以外は鏡を見ているみたいにそっくりな顔。そんな、まさか……。
「エ、エメリナ?」
うわずった声で思わずつぶやいたら、彼女はおかしそうにクスクスと笑った。
「大丈夫? すごくうなされていたみたいだけど」
このやわらかい声も、目をぎゅっと閉じる笑い方も、コツンと頭をつついた手も……同じ日の同じ時間に生まれた、双子の妹に間違いなかった。でも彼女は六年前、確かにオレの目の前で……。
「本当に、エメリナなのか?」
「どうしたの? 鏡なんかじゃないわよ、この顔は」
「……」
恐るおそる手を伸ばしたら、その頬は確かに温かかった。オレはすぐに飛び起きて、寝ていたテントの中から飛び出した。
「赤木ヶ原……」
腐った土も枯れた木も淀んだ空気も、さっきまでと同じ場所だ。なのに、まわりを埋め尽くしていた怨霊の光がなくなっていて、シオンやうつほの姿も見当たらない。代わりに何百人もの武装した人間と、同じようなテントがいくつも並んでいた。
心臓が早鐘のように暴れて、のどがカラカラになった。この光景を、オレは知っている……。
「エメリナ、大尉が水人の軍を破ったのはいつだった?」
「十日くらい前じゃなかったかしら」
「北にある獣人の砦は、まだ落としていないんだな?」
「えぇ、そんな知らせは来ていないわね」
間違いない。ここは六年前の赤木ヶ原……まだエメリナが生きている時間。あの黒い光に飲み込まれて、過去に飛ばされてしまったのか? 無意識に肩に手を伸ばしたら、怨念にやられた酸で溶けたような傷がなかった。
「何むずかしい顔をしているの、フィル? やっぱり決戦前だから、怖い夢でも見たんでしょ」
夢、なのか? だとしても、どっちが? 今この瞬間が幻なのか、それとも今までが長い夢だったのか……。
「ね、顔色よくないよ。もう少し中で休んだ方がいいわ」
エメリナが心配そうな顔をして、オレの腕を引っ張った。
あぁ、失ったはずの妹がここにいる。そうだ、何が本当で何が夢だろうと、たった一人の家族がいる場所こそが、オレの帰るところじゃないか。
「エメリナ、オレはこれからもずっと一緒にいるからな」
「急に何を言っているの? 変なフィル」
首をかしげて瞬きをする妹を、壊れ物みたいにそっと抱きしめた。エメリナは戸惑いながらも、黙ってじっとしている。忘れかけていた温もりを身体中で感じて、オレは胸がいっぱいになった。
そういえば、戦いに出る前に何度かこんなことがあったっけ。エメリナは家で待っているのが嫌で、いつも戦場についてきていた。それでも、駐屯地から前線へ向かうオレを見送る時、泣きそうになるのを必死で隠して笑っていることには気づいていた。だから何も言わないで抱きしめてやったら、それが絶対にまた戻ってくるっていう約束になっていた。言葉はなくても、同じ魂を持つ双子の兄妹にはそれで充分だったんだ。
「間もなく作戦を開始する! 第三、第四部隊は集まれ!」
銅鑼が響いて、招集がかかった。オレはこのとき第三部隊に所属していて、最前線で戦っていた。たぶんこれから獣人の陣地へ攻め入って、その勢いで水人に奇襲をかけようとして……でもその時、エメリナが何か叫びながら飛び出してきて……。
「フィル、いくぞ」
こないだ施設跡の地下で再会した時より少し若いゾンネ少佐が、一人遅れていたオレをうながした。みんな家族を家に残してきているから、ここで別れを惜しんでいるのは贅沢なんだろう。
だけど、今回は違う。今、エメリナのそばを離れたら、二度と会えなくなるのは確実だ。オレさえ行かなければ、彼女は……。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
でも、この戦いの半ばでゾンネ少佐が敵に囲まれて、オレが駆けつけなければ部隊を突破されていた。もしもここで少佐が戦死するようなことになったら、あの誘拐事件は起こらなかった。そしてリトル達やスキームの人生も変わってくる。オレが過去と違う行動をとって、彼らの未来まで変えてしまってもいいのか……?
「少佐、お願いがあります。オレが戻るまで、何があってもエメリナをテントの外に出さないように、守備隊に厳命してもらえませんか」
「私なら平気よ。いつもちゃんと留守番してるじゃない。守備隊のみんなもいるんだし」
「今回だけでいい、絶対にここから動かないでくれ。頼む」
「守備隊にはわしから言っておこう。だからお前こそ、この戦いに集中するんだ」
「そうよ、フィル。あなたこそ無事に帰ってくるって約束してよ」
少佐もエメリナも心配しすぎだと笑って、むしろこれから戦場に出るオレの身を案じていた。違うんだ、オレのことなんかどうでもいいから……!
「……わかった。絶対に帰ってくる。だからその後、二人でまた一緒に暮らすんだ。約束だぞ」
「うん、約束!」
結局、笑顔を作って指を絡めることしか、今のオレにできることはなかった。いつものように笑って見送る妹の姿を、小さく小さく見えなくなるまで目と記憶に焼きつけることしか。
この時の戦いは、百年戦争最大最悪の死者と規模だったものの一つで、人間と獣人それぞれが赤木ヶ原に集結していたほぼ全軍を投じてぶつかった。人間側は大砲や爆弾なんかの兵器を持っているけど、半分は剣や槍を使った歩兵だ。同じ数なら白兵戦で獣人にかなうはずがないから、兵器で援護しながら数で押す戦法を、ゾンネ少佐率いる第三部隊は得意とした。
「よし、このまま抜けるぞ!」
少佐の指揮が飛ぶ最前線で、オレは当時もそうだったように、ただ黙々と敵を斬り捨てていた。もうすぐ砦に火の手があがって、獣人が総崩れになる。その混乱に乗じて特攻を仕掛けてきた犬の獣人部隊が、離れていたオレ以外の第三部隊を包囲する。
「お前たちだけでも生きては帰さん!」
「しまった……!」
そしてオレが後ろから不意を突いて、包囲網を破る。ここまでは過去のとおり。当時は命がけだった危険も、大丈夫だとわかっているから迷うことなく冷静に行動できる。目の前の敵なんかより、今のオレの頭の中にあるのはただひとつ、エメリナの安否だけだった。
「すまん、助かった」
ゾンネ少佐は足に軽い傷を負っただけで無事だった。もういいだろう。今すぐにでも戻りたい。いや、あいつはテントにいるはずだ。ちゃんと元気に待っているはずだから……。
「フィルーッ!」
爆音も悲鳴も怒号も、すべての音がなくなったかのように、はっきりと聞こえた高い声。血にまみれた兵士の中で、ひときわ目立つ細い線。数時間前に見送ってくれた、その姿。
どうして、なんであいつがここにいるんだ……!
「駄目だ、エメリナ! 来るなーッ!」
「フィル! 早く――」
エメリナが何かを叫んでいる。オレは敵も味方も放り出して、力の限りに引き返しながら、ふと白くひらめくものがあった。
いつもおとなしく待っているはずのあいつが、なぜ今日に限ってオレを追ってきてしまったんだ? 当時は動揺していたけど、確かに聞こえていた……思い出せ……エメリナは今この時、何を言っていた?
「早く逃げて! 黒い光があなたを狙っているの! もうすぐそこまで……」
撤退し始めていた敵の矢が、灰色の空に飛ぶ。この広い荒野の戦場で、無数にいる兵士たちの中で、たった一人を貫いた。六年前と同じ場面。防げなかった同じ悲劇。
あれだけ何度も待っているように言ったのに、やっぱり過去は変えられないのか。他の何を見捨ててでもテントを動くべきじゃなかったのか。誰よりも大切な家族を、オレはまた守ることができなかった……!
「エメリナぁーッ!」
駆けよって伸ばした腕の中に、ゆっくりと倒れていくやわらかい体を受け止めた。すぐに背中に刺さった矢を抜いて、自分の服のそでをちぎって傷口を押さえた。
「エメリナ、しっかりしろ!」
自分に何が起こったのかわからないように、エメリナは目をしばたかせた。
「ごめん、フィル。約束破って来ちゃった……」
「いいんだ。こうなることがわかっていて、そばにいなかったオレが悪いんだ」
「あのね、空に黒い光がたくさん現れて、みんな急に倒れて……光はあなたを探しているって、なぜかわかったの。だから、私……」
「もうしゃべるな。すぐに戻って、医務班に診てもらおう」
「駄目、戻っちゃだめ。フィルは逃げて……!」
呼吸が乱れて、苦痛に顔を歪めた。それでもエメリナはうわごとのように、逃げろと何度もくり返している。
『ミツケタ……』
空からも地面からも、この空間全体に響くような低い音……これは、あの怨霊たちの声……!
『ノロイノ、ゲンキョウ……オマエモホロベ!』
呪いの元凶? 呪法を使ったのは四百年前の妖精エリンじゃないか。どうしてオレが狙われるんだ。なぜエメリナがこんなことになるんだ……!
「くっ!」
黒い光が鉛色の空にあふれて、オレを飲み込もうと押し広がってきた。逃げることはできない。ただエメリナだけは守ろうと、動かない体を抱きしめた。
「目を覚ませ!」
世界が暗転した瞬間、また別の声がした。同時に腕の中がふっと軽くなって、闇がすべてを覆い尽くした。