前を向いて
目覚まし時計を止め、起き抜けに寒さの残る空気を感じる。既に桜が咲いている地域もあるのに、この辺りはまだそこまで暖かくなかった。寒さに身震いをしながらリビングに向かうと、パンとコーヒーの匂いが漂ってくる。その香りに食欲が刺激され、意識がはっきりとする。
「おはよう。父さん、母さん」
いつもと変わらない日常。
「ご飯、いつもありがとう」
けれど、全く新しい一日の始まりに、いつもよりほんの少しだけ背筋を伸ばす。感謝の言葉を聞いた母は、少しだけ驚いた様子を見せたが、何も聞かず静かに見守ってくれた。そしてその後は、いつものように学校に向かう準備をする。
「行ってきます」
そして、いつものように自転車に乗って学校に向かう。その最中の冷たい風が心地よかった。それから学校につき、教室に入っていくと、いつものように陽斗が話し掛けてくる。
「拓海、おはよう」
なんてことはないやりとりだったが、日常に戻ってきたことを実感する。それから、午前の授業も終わり、昼休みになるといつものように陽斗が昼ご飯の誘いにくる。
「拓海、飯行こうぜ」
「弁当は?」
「もう食った」
「じゃあ学食行くか」
そんな会話の最中、とある約束を思い出した。陽斗は憶えていない、というよりも知らない約束だから律儀に守る必要はないが、自分の内に秘めて口にしないなんて後ろめたいことはしたくなかった。
「今日は飯奢るよ」
「マジで!助かる」
「カツカレーの大盛りでも許してやるよ」
「けどなんで急に?」
陽斗のその質問に対して、今までだったら気恥ずかしくってきっと言わなかった。けれど、言わない後悔を知っていたから、言って後悔するほうがましだった。
「普段の感謝を込めてだよ。お前には色々世話になってるからな。それに約束したから」
「流石にくすぐったいわー」
俺の精一杯の感謝の言葉を、陽斗はケラケラと笑いながらからかってきたが、陽斗の耳は僅かに紅潮していた。
「からかうなよ。いいだろ、たまには」
お互いに何となく恥ずかしくて居た堪れなくなり、誤魔化すようにポケットを探ると財布を忘れていたことに気付く。
「悪い。財布忘れたから取りに戻る。先に行って席取ってて」
「急がなくていいぞー」
肌寒いはずなのに、恥ずかしさで火照った体は熱を帯びていた。
「それでさ」
無事に財布を取ってから教室を出ようとすると、なんてことない会話が聞こえてきた。普段だったら聞き流していたが、今日はなんとなく足を止めた。そして声が聞こえてきた方を見ると、今田と脇田と副島が会話をしていた。
「もうすぐ高三なのに受験勉強やる気湧かないんだけどー」
その会話を聞いて、今田の話し方は俺が思っていたほど間延びしていなかったことに気づいた。無意識のうちに、今田に対して偏見を抱いていたのかもしれない。そのことに罪悪感を抱いていると、不審に思ったように声をかけてくる。
「小櫛、何見てんの?」
「いや、いつも楽しそうに話しているなって」
「そんなこと思ってんだ」
「それに珍しいね。小櫛が話しかけてくるって」
「それな。そんなイメージ無いわー」
「じゃあ、どんなイメージ持ってるんだよ」
「えーっと、普段はクールっぽい感じだけど、友田といるときはいじられキャラみたいな」
「それわかる」
話がすらすらと進んでいき、流れで聞いた質問に返ってきた答えは、美優の言っていた俺のイメージとは異なっていた。思い出の量のがイメージの違いを生み出したのだとすれば、今田達は美優に対してどんな偏見を持っていたのか、今日の俺はなんとなく気になった。
「田鎖って覚えてる?」
「あんな事あって忘れるわけないでしょ」
「そっか。正直、どう思っていた?」
「協調性無いなー、とか?」
「あーね。けど別に掃除とかもサボったりしてるわけじゃなくて、最低限はやってたから別に嫌いとかでもなかったかな」
その答えに思わず笑ってしまう。美優に対する印象は、俺のように好意的なものではなかったが、決して嫌悪していたわけではなかった。俺達は、俺は身の周りに美優の味方なんていないと思っていた。けれど、本当は敵でもなかった。助けを求めていたら俺達の力になってくれていたかもしれない。そのことを、今更悔やんだりしない。むしろ、俺が思っていたよりも、周囲が俺達に好意的だったことに、悩みを話せる存在がいたかもしれないことに喜びを覚える。
「それに、小櫛が田鎖のこと露骨に好きだから、悪い人じゃないと思ってたかなー」
「え」
「何その反応。バレてないと思ってた感じ?ウケる」
「陽斗待たせてるんだった」
「あ、逃げた」
話の矛先が俺に変わって、その内容の恥ずかしさから逃げるようにその場を去った。そしてその最中に、俺が分かりやすいのかどうか考えながら、少し恥ずかしくなった。
食堂に着くと、陽斗はこちらをからかってきた。
「全く、遅いぞ」
「悪い悪い。それでさ、俺って分かりやすい?」
「急にどうした」
「なんでもない」
先程の動揺が隠しきれず思わず変なことを聞いてしまったが、そんな俺のことなんて気にせずに、陽斗が話を続ける。
「まあいいや。話変わるけどさ、日曜日に中学校の同級生と久しぶりに会ったんだよ」
「へー」
「そしたらさ、あれコイツの声こんな感じだったんだ、って思ってさ。すっかり忘れてんの」
その話題に、夢の中での根岸との、美優との会話を思い出す。
「知ってるか?五感には忘れる順番があるんだってさ」
「へー」
「最初に声から忘れるらしいぞ」
「そうなのか、道理で。だとしても、拓海は俺の声忘れるわけないもんな」
『拓海くんは私の声忘れる?』
「忘れるよ」
「ひどっ。そんな冷たいこと言うなよー」
『そうなんだ』
あのときと同じような話の流れに、今回も冷淡だと思われるような返事をする。けれど、本当に言いたかったことはそうじゃなかった。だから、あのときに言えなかった分もその先を言葉にする。
「けれど、けれども俺は、こうやって下らない話をしたこととか、辛かった時に助けてくれたこととか、大切な思い出は忘れないから」
「なんか、今日はそういう日?」
「いいだろ、たまには」
声や匂いを忘れたとしても、一緒に過ごした日々の思い出は残る。辛い思い出が蘇って、苦しい思いをすることもあるかもしれない。けれど、いつまでも辛い記憶にとらわれ続けるのではなく、楽しかった思い出を笑顔で話せるその日がやってくるまで、精一杯前を向いて生きたい。きっと、それが美優の最後の願いだったから。
俺は彼女との大切な思い出を忘れない。