根岸一葉のこと
忘れていた、忘れようとしていた事実を自覚した途端に、世界が崩壊していく。過去の思い出を繰り返しているだけのどうしようもなく退屈で、美優が生きているというだけでどうしようもなく平和な日常が、崩壊していく。
体に力が入らず、無様にも膝から崩れ落ちた俺を美優が見下ろす。
「ごめん。俺にもっと力があれば、もっと早く駆けつけていれば、医療の知識があれば、もっと、もっと…」
思い出とともに蘇った無力感と後悔と罪悪感に苛まれて、まともに美優の顔を見られない。
「怒ってないから。そもそも拓海のせいじゃないし」
その言葉にこの上なく自己嫌悪する。本当の気持ちも分からないのに、操り人形みたいに、自分を慰めさせるためだけに、存在しない美優に言わせる妄想をしてしまった。俺が死なせたのに、尊厳すら踏みにじるような行為をしてしまった。
こうなってしまった以上、もう二度とこの心地よい空間、現実と夢の狭間のような場所に逃げてくることはできない。それほどまでに、美優の死を自覚してしまった。もう忘れることなんてできない。
自己嫌悪の最中、目が覚めようとしているのか、少しずつ意識がおぼろげになる。そして、おぼろげな意識の中で、一つだけ思うことがあった。本当はずっと気付いていたけれど、自覚しないようにしていたこと。
「なあ。本当は気付いていたけど、ずっと気付かないふりをしていたんだ」
誰も返事をしないが、そんなこと構わず続ける。
「俺がうじうじしているときは、いつも美優が手を引いてくれた」
公園で一人寂しく過ごしていた時のように、小学生の頃の美優は、明るく俺の手を引っ張ってくれる存在だった。
「高校二年生の時に転校生なんか来なかった」
この世界に急に現れた転校生の根岸一葉は、現実には存在しなかった。そして、この日々の崩壊をもたらした存在だった。
そんな二人は、わがままを言って俺のことを振り回すところだったり、似ている部分がいくつかあった。だが、何よりも気に掛かっている共通点があった。
「初めて根岸の声を聞いたときに、懐かしい声だって思ったんだ。その時に気付いたよ、美優の声を忘れていたことに」
根岸の声は生前の美優の声に似ているどころか、完全に同じ声だった。けれど、確信を持てないままに、縋り付くように、助けを乞うように問いかける。許されない罪を自覚しているのに、許されたいという欲を抱いてしまう。
「なあ、そうなんだろ。根岸なんて名乗ってるけど、本当は美優なんだろ」
その質問にわずかに迷った様子を見せた後、大きくため息を吐きながら、根岸が、美優が白状する。
「はぁ、そうだよ。いつまでもうじうじしてるから、見てられなくて来たの」
幽霊やそれに近いオカルトか、それともかなり回りくどい俺自身の妄想か、こんな曖昧な世界では何が本当なのかなんて分かるわけがない。けれど、俺にとっては本物にしか思えなくて、久しぶりに会えたことに、言葉では到底言い表せない感情が沸き上がり、気を抜いたらすぐにでも泣いてしまいそうだった。
「それで、正体言い当てて終わりじゃないでしょ。何か言いたいことでもあるの?」
しばらくの間、茫然としていた俺を心配するかのように、美優が聞いてくる。本当は色々と言いたいことはあった。だが、口から出た言葉はなんとも情けないものだった。
「何もできなかった俺を許して欲しい」
懺悔なのか後悔なのか分からない、ただ許しを乞うための言葉が自然と口からこぼれた。
「許すも何も恨んでないから。そもそも拓海のせいじゃないし」
美優があっけなく言い放ったその言葉は、少し前に聞いたものとほとんど同じだったのに、今度は自然と涙が零れ落ちてしまう。けれど、許されるべきでない。俺はそれほどの罪を犯したのに、赦しの言葉を受け入れようとしてしまう自分の甘さが嫌になる。心が軽くなってしまったことを反省する。
「それでも、俺が子供で、力が足りなかったせいで。だから、俺は許されちゃいけない。責め立てられて、罰せられなきゃいけない」
「相変わらず頑固。というか、自分で言ってたよね?許して欲しいって」
美優は呆れたように呟く。その姿には俺への恨みなど微塵もなさそうに見えてしまう。
「ずっと後悔してた。俺が余計なことをしたせいでこうなったんじゃないか、あの場に駆けつけたのが俺以外だったら助かったかもしれないって」
「そっか」
「今も、後悔し続けるべきだって思いもある。それなのに、こうやって美優と話していたら救われてしまいそうになる」
「ほんとしつこいなぁ。さっきも言ったでしょ、恨んでないって。それに、聞こえてたよ。私が死ぬ直前まで生きてくれって応援する声も、自分を責める声も、謝り続ける声も。拓海は十分に自分を罰した。十分に自分を責めた。だから、救われていいに決まってる」
その言葉を聞いてようやく、俺は救われてもいいのかもしれない、美優のことで十分に自分を責めたかもしれない。そう思えた。それだけでこの日々が価値のあったものだと思えて、心が少しだけ救われる。
相変わらず美優は、立ち止まってしまった俺のことを引っ張ってくれる。彼女のおかげで、生きることを許された気持ちになる。前に勧めそうになる。
そのことに安心して涙が流れてきた。その涙はなかなか止まらず、泣き続ける俺をからかうように、懐かしむように美優がしみじみと呟く。
「いつまで泣いてるの。相変わらず泣き虫」
「いつの話ししてるんだよ。というか小さいときもそんな泣いてないし」
美優にとって俺は、頑固で泣き虫なやつらしい。けれど、中学の時もそこまでしつこく話に行ってないし、小学生の頃に美優の後ろを付いて行っていた俺だって、そこまで泣き虫ではなかったと思う。
「今も昔もだよ。そんな泣きじゃくってるくせに、強がっちゃって」
思い出を振り返りながら、軽口をたたきあえることがたまらなく嬉しかった。
「ありがとう。そう言ってくれなかったら、一生後悔を引きずって前を向けなかったと思う」
「後悔していることがあるなんて普通だよ。私だって後悔していることはいっぱいあるし。それに、拓海はこうならなくても立ち直ってたと思うよ」
「なんで?」
ここに来るまで大変だったのに、美優は俺がいずれ立ち直ると確信しているように堂々と言ったから、つい聞き返してしまった。
「だって友田君だって拓海のこと心配してるし、拓海のお父さんお母さんとか、これまでの知り合いの人達だって力になってくれるよ。それに今田さんとだって一からあんなに仲良くなれたんだから、拓海には今までもこれからも味方になってくれる人がたくさんいる。だから、もし辛いときはその人達を頼ればいいんだよ」
そうだった。陽斗もお父さんもお母さんも、俺のことを心配してくれていた。美優が言ってくれたおかげで、ようやくそのことを実感できた。
そのことに安心したけれど、美優はどうだったのか気になってしまう。
「俺は、美優の味方になれてた?」
「当たり前でしょ」
俺は美優の味方になれていた、その事実だけで俺がこれまでやってきたことが報われるような気がした。十分話し合い、心が軽くなると、さらに意識が薄れていく。
「拓海は夢から覚めようとしているんだね。それじゃあ、そろそろお別れしないとね」
別れたくない。けれど、それが避けられないことはわかるから、何とか口から出した言葉は、普段言い慣れている別れの挨拶だった。
「またな」
再会は当たり前のものだったから、美優との別れ際の挨拶はいつもそれだった。それなのに、この場にはふさわしくないものだった。そのせいで、彼女に嫌なことを言わせてしまった。
「ふふっ。私達にまたはないよ。こういうときになんて言うか、知らないの?教えてあげる。さよならだよ」
美優は無理して明るく振る舞ってくれているのに、俺はまた泣きそうになってしまう。そんな言葉は言いたくなかった。言ってしまえば、その言葉が胸に重くのしかかるような気がした。けれど、無言の別れの方がずっと嫌だった。
「さよなら」
最後の挨拶を、笑顔で言えていただろうか。
その言葉を皮切りに意識がさらに薄れていく。きっともうすぐ目覚めの時間だった。
思い出の中に存在する日々を繰り返す、どうしようもなく退屈で、美優が生きているというだけで、どうしようもなく平和な日常の夢は終わり、現実に戻るのだろう。
「私がいなくても前を向いて生きてね」
どこからか、目覚ましの音が聞こえてきた。