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忘れられなかった思い出

 きっかけは中学一年生の秋だったが、俺がそのことに気付いたのは中学二年に進級しようとしていた頃だった。今田に話し続けても昔のような仲には戻れず、ヤキモキしていた当時の俺に対して、母は唐突に言った。

「去年の秋頃、美優ちゃんちのお父さん、痴漢で会社を首になったらしいわよ」

「え?」

 理解が追いついていない俺に、母はさらに続けた。

「平日の昼間にふらふらしているところを見たって、ご近所さんが言ってたらしいわ。それで、今はお母さんの方が働いてるらしいわよ」

 思いもよらない言葉に驚いたが、納得ができるような気もした。そのせいで部活や学校を休みがちになり、家のことを手伝うために部活をやめざるを得なかったのだろう。それなのに、それを表に出せず強がっている彼女の味方になりたかったし、できることをしたかった。

 そして、母からその話を聞いた翌日に中学校へ行くと、至る場所で美優に関する噂話がされていた。

「ほら、あの子」

「ああ、親が痴漢した」

 多感な時期の中学生にとって、このニュースはあまりにこの上なくそそられるものだったのであろう。そのせいで、美優の家庭の事情は既に学校中に知れ渡っていた。そして、そのニュースを知り興味本位で見に来た人間全員に対して、彼女は反抗的な態度を取っていた。彼女のことを見世物のように扱っている奴らが不愉快で、そいつらから彼女のことを守りたかった。だから、学校にいる人間全員が敵だと思っていそうな彼女に、せめて俺だけでも味方だと思ってほしくかったけど、彼女の警戒心はとても強かった。

「美優、大丈夫?」

「だから、馴れ馴れしく下の名前で呼ぶな」

 俺に対しても他の人と同じように警戒心を隠しもしない態度で接してきたことは悲しかったが、その強気な物言いにかつての姿を思い出して懐かしい気持ちになり、明るかった面影が見えないことがたまらなく寂しかった。しかも、その変化が美優本人の意志ではなく、周囲の影響でそうせざるを得なかったことがたまらなく嫌だった。 

「それで何?他の奴らみたいに馬鹿にしに来たの?」

「いや、そうじゃなくって」

「じゃあ、何?何が言いたいの?なんの用もないなら帰って」

 彼女を励ましたかったはずなのに、俺を威嚇するような質問にも答えを返せず、容赦なく突き放すような物言いにも、結局何も言い返せなかった。言いたいことはたくさんあったはずなのに、何を言っても怒らせてしまいそうで怖かった。それほどまでに、当時の彼女の敵愾心は強く、ゆっくりと警戒を解いてもらうしか無かった。

 しかし、常に反抗的で面白みのある反応をしない美優に、周囲はすぐに飽きていき、一週間もすればだんだんと元のように孤立していった。それでも、俺だけはずっと彼女に話しかけ続けていた。そして、噂が流れてから七十五日以上経ったある日、呆れたように彼女は呟いた。

「しつこいなぁ。ずっと絡んでくるのはもう小櫛だけだよ」

 その日は夏本番前なのに、降り注ぐ日差しが体を焼くような、暑い一日だったことを憶えている。

「ほんと、しつこすぎ。もういいよ、普通に話しかけに来ても。あ、けど人前では話しかけないで」

「マジで!?」

「別に絆されたわけじゃないから。暑さで頭がぼんやりとしているせいだから」

 特に聞いてもいない言い訳につい笑ってしまった俺のことを、美優はきつく睨んできた。それがさらにおかしく感じた俺は、笑いが収まらなかった。

「何笑ってんの、もう。ふふっ」

 それに釣られるようにして美優も笑って、しばらくの間二人で笑い合った。決して劇的な変化ではなかった。それでも確かに俺達の関係は改善された。その日の嬉しさを、今も覚えている。


 それからしばらく経った中学二年生の秋、美優が普段より暗い様子で過ごしていた日があった。俺以外は気付いている様子がないほどの僅かな変化だったが、それでも確かにへこんでいたから、励ましたくて理由を聞いてしまった。

「なあ、田鎖なんで最近元気ないんだ?」

「去年のことを思い出しちゃうから」

 その言葉に迂闊な発言だったことを自覚した。励ましたかったはずなのに、空回ってしまう自分が情けなかった。

「いろいろ大変だったから、家の雰囲気は暗くて、毎年あった誕生日のお祝いもなかった。精神的に、そして経済的に満たされていて初めて、誕生日を楽しめるって気付いたんだ」

 それはもう一度仲良くなってから、初めて見せてくれた弱みだったと思う。弱みを見せてくれたことは嬉しかったが、小学生のころは祝えていた誕生日を祝うことができないほどに、美優の過程がひっ迫していたことは、悲しいことだった。

「じゃあ、その日は二人でどこか行こうよ」

「いや大丈夫」

 だから、笑顔にしたくて誘ったがきっぱりと断られてしまった。しかし、その後すぐにフォローするかのように、美優は言った。

「嫌ってわけじゃなくて、お父さんが最近働きだしたから今年はたぶん大丈夫」

「そっか」

 そう言ってくれたが、それでも少し傷付いた。けれど断られたショックを隠して返事をした。だって美優には罪悪感などの余計なことを考えず、楽しい気持ちで誕生日を迎えて欲しかった。


「やっぱり特に何もなかった。下らないプライドで、仕事辞めてたんだって。けど、大丈夫。もともと期待してなかったから」

 それから休み明けの月曜日、美優は無理をした笑顔でそう言った。その顔には覚えがあった。心配をかけないために、無理して誤魔化すための顔だった。

「じゃあ、来年こそ俺とどっか行こうよ」

「そしたらお母さんが家事もしなくちゃいけなくて大変だから」

 多少の下心はあったが、励ましたかった。不自然な笑顔でいて欲しくなかった。そう思って美優のことを誘ったが、遠慮がちに断られてしまった。けれど、きっとそれは意地みたいな部分もあったと思う。本当は、彼女も心のどこかで家のことを何も考えずに休める日が欲しかったんだと思う。

「いつも田鎖がやってるんだから、たまには息抜きの日があってもいいだろ」

「そうかな?」

「そうだよ。もっとわがまま言っていいんだよ」

「いいのかな?…そうかもね」

 きっと彼女の心も限界が近かったから、こんなにも簡単に俺の誘いに乗ってくれたんだと思う。

「ありがとう。じゃあ来年は拓海と一緒に過ごしたいな」

 そう言って彼女は穏やかな表情で微笑んだ。その笑顔はまるで昔の明るかったころに戻ったようで、懐かしさを感じながら見惚れていた。


 それからおおよそ一年後、中学三年生の美優の誕生日、俺達は約束通り遊びに出かけていた。

「今日一日は家のことを忘れて楽しもうよ」

 少しでも楽しんでもらいたくて頑張ったけれど、本当に美優が楽しんでくれていたのか、それは今も分からない。けれど、俺は一緒に出掛けられたことが嬉しくて、一緒に過ごす時間が心地よくて、帰り道でつい気分が高揚してしまった。

「今日は楽しめた?」

「今日は家のことを忘れて楽しめたよ」

「そっか、それはよかった。それで、俺達もうすぐ高校受験でしょ。田鎖も翠ヶ丘高校だっけ」

「そうだね」

「そっか。じゃあ受かれば長い付き合いになるな。それで…」

 そこで少し躊躇してしまった。そんな俺の様子が気になったのか、続きを促すような言葉を言われた。

「なにか言いたいことあるなら言ってよ」

 高校に進学したら、美優の交友関係が広がって疎遠になってしまう不安があった。だから、言葉で言い表せる関係性になりたかった。そして、その言葉に後押しされてしまい、俺は勢いに任せて告白をしてしまった。

「その、今日二人で出掛けられて本当に楽しかった。今日一緒に過ごして、田鎖のことが好きだってことを改めて実感した。だから、俺と付き合って欲しい。お願いします」

「えっと…」

 俺の一世一代の告白に対して、美優は少し迷ったような素振りを見せ、絞り出した返答は断るためのものだった。

「ごめんなさい」

 今思えばなんとも自惚れていることだが、当時は振られるなんて思っていなかった。だから、かなりショックだったが、意地と彼女に気を遣わせたくないという気持ちで、努めて平気なふりをした。

「そっか。ごめん急に変なこと言っちゃって」

「嫌だったわけじゃなくて、今はそういう事考える余裕が無いというか、お母さんも大変なのに自分だけ楽しんでいるわけにはいかないというか」

 こちらをフォローするためのその言葉が、本当に言葉通りの意味なのか分からなかった。けれど、それ以上踏み込んで聞くことはしなかった。本当の気持ちを知ることは怖かったから。

「わかったよ。ありがとう」

 気まずくならないように返事をしながらも、頭の中ではずっとその言葉の真意を考えていた。とっさに思いついた言い訳なのか、それとも本音なのか。確かなのは、振られたという事実だけだった。


 振られてからしばらくの間は気まずかったが、人は簡単に疎遠になることを身をもって知っていた。だから、そうならないように、その後もなんとか交流を保ち続けていた。そのおかげで、同じ高校に受かった時に喜び合えるくらいの関係性を築けていた。

 それから高校生になると、美優とは隣のクラスになってしまった。そのことは、少し残念だったが仕方ないことだった。そして、俺は部活に入り、美優は少しでも母親の助けになりたくてバイトを始めたらしかった。そのせいで、中学生の時よりお互いに忙しくて、話す機会は自ずと減ったが、部活が休みの日は一緒に帰ったりと、交流が途絶えないように頑張っていた。

 しかし、高校生になってからの話題は、バイトを始めて母の苦労を実感したせいなのか、中学校の頃みたいに面白かったテレビの話とかのくだらない話ではなく、美優の父親に対する愚痴が多かった。

「家にいても酒飲んでばっかだし、働こうともしないし。あいつほんとに気持ち悪い」

「酒を飲んでいる時だけ興奮気味で陽気で暢気なのも気持ち悪い。酔っていないときは機嫌悪いのもほんと嫌い」

 思春期だから、反抗期だから、なんてありきたりな言葉では説明のできない父親への嫌悪感が、彼女の言動から伝わってきた。そんな状況をなんとかしたかったが、他人の家庭の問題に子どもの俺が介入できるとは思えなかった。それに、俺が何かをしたところで関係性が改善されることもなかっただろうし、そうするべきだとも思えなかった。

 少なくとも美優にとっての幸福な家庭は、思い出の中にしかないものになってしまっていた。現実の家庭は、勉強とバイトで疲れた体を押して家事をこなし、父親の一挙手一投足に苛立ちを募らせるだけの場所になっていた。だから、父親との関係性を改善したところで根本的な解決にはなっていなかったと思う。そして、愚痴と弱音が日に日に増えていき、それを聞いているだけで辛くて、早くあんな家から外に連れ出したかった。

 美優にとっては、高校も心穏やかに過ごせる場所ではなかったと思う。中学時代の同級生がいない高校を選んだが、もしバレたらという恐怖は常にあったと思う。だから、彼女は周囲とあまり交流をしておらず、悩みを話せる存在がいなかったんだと思う。

 だから、隣のクラスの陽斗に会いに行くという体で、たまに様子を見に行っていた。文化祭の準備や体育祭などの行事の際に見に行っても、彼女は誰とも会話をせず自分の仕事だけをこなしていた。中学の時のように、陰口を叩かれながら遠巻きに見られて孤立していたわけではなかったが、それでも孤立していた彼女のことが心配だった。けれど、何も行動しなかった。それは俺の許されない罪だった。


 それからしばらくして高校一年生の秋が近づいてきたある日、珍しく不機嫌そうな様子も見せず、笑顔の美優が帰り道の途中で聞いてきた。

「それで、今年はどこに行くの?」

 その言葉に思わず去年の出来事、振られた恥ずかしい思い出が蘇り、顔を顰めてしまった。そして、そんな俺の様子を見た美優は、からかう様に言ってきた。

「誕生日だけは家のことを忘れて楽しんでいい日なんでしょ?去年だけなんてことはないよね」

 まるで、去年は楽しんでくれていたと思われるその言い方に、思わず心が奮い立った。

「今年こそは楽しい一日にするから!」

「期待してる」

 美優はそう言って嬉しそうに笑ってくれた。少しでも明るい様子を見せてくれたことが、たまらなく嬉しかった。


 それから、行き先について話し合った結果、近所の森林公園でピクニックをすることになり、その行き先について反論されることはなかったから、多分美優も楽しみにしてくれていたと信じている。

 そしてその当日、俺達は公園を少し歩き回ってからレジャーシートを広げて、お弁当を広げながら取り留めのない話をした。

「お弁当、豪華だな」

「張り切っちゃって」

 広げられた弁当を褒めると、美優は照れくさそうな反応を見せたが、料理が上手いという事実に対して素直に喜べなかった。それは彼女に家事の負担がかかっていたことの証拠に違いなかったから。

「拓海の弁当、肉ばっかじゃん」

 一人で勝手に悲観的なことを考えて暗くなっていても、年相応に、もしかしたらそれよりも幼くはしゃぐ姿を見せてくれるだけで俺はよかった。

 それから、二人で食事を取って少し休んだところで本題を切り出そうとした。気が早いかもしれないが、俺は美優と大学の話がしたかった。

「美優は行く大学決めた?」

「…ごめん、聞いてなかった」

「大学決めた?まだ二年以上あるけど」

「とりあえず横国かな。国立だし授業料免除とか給付型奨学金を使えば、うちの家計でも十分に通えると思うから」

 俺の質問に返された答えは、当時の俺の学力では厳しそうな大学だった。けれど、諦める気はなかった。

「迷惑じゃなかったら、勉強教えてもらってもいい?」

「なんで?」

「俺もその大学目指してるから」

 正確にはその大学を目指していたのではなく、美優と一緒の大学がよかっただけだが、わざわざ説明はしなかった。

「勉強会くらいならいいけど」

「本当に助かる。ありがとう。それでさ」

 そこで大きく深呼吸をした。去年のように断られるかもしれないという不安が頭をよぎった。それでも意を決して話を続けた。

「大学生になったらさ、二人で暮らさない?それよりも早くてもいいけど」

 それこそが、美優をあの家から連れ出すために俺が思い付く精一杯の方法だった。

「えっと」

 そんな俺の提案を聞いた美優は、困惑しているようだった。急にそんなことを言われても、困惑するのは当然のことだった。

「そんなことしたら、あいつとお母さんが二人っきりになっちゃう」

 そして、困った様子の彼女が絞り出した言葉は、自分のことではなく母親を気遣うものだった。その言葉に込められてたのは、おそらく、母親を置いて逃げることへの罪悪感だった。

「美紀さんなら大丈夫だよ。大人だから離婚とか別居とか、いつでも逃げ出せるから。だから、美優が先にあの家から出てってもいいんだよ」

 罪悪感を少しで減らして欲しくて、だいぶ無理のある説得をしたと思う。けれど、彼女はもう限界が近かった。救いがあると信じていなければ、心が簡単に折れてしまいそうだったんだと思う。だから、結果としては簡単に流されてくれたんだと思う。

「そうかな?」

「そうだよ。このままじゃみんなダメになる」

「…そうだよね。ありがとう。正直、私も早くあの家から出ていきたい」

 悲痛な表情でそういった彼女の言葉には、果たしてどれほどの覚悟が込められていたのか。それは分からないが、俺の提案が彼女にとっての逃げ場になって欲しかった。少しでも明るく生きるための希望を持っていて欲しかった。

 しかし、そんな俺達とは、俺の気持ちとは裏腹に、周囲は否定的だった。特に俺の父親は、家に帰ってすぐに同棲のことを話した俺に対して説得してきた。

「田鎖さんのところが大変なのは知っている。だからといって、高校生のお前達の同棲の許可は出せない。なぜなら、金銭面の問題や他にも多くの問題があるからだ。すぐに辛くなって泣きついて来ないか?それで結局だめになったら、向こうの親御さんからの評判も悪い。向こうの娘さんを預かっておいてすぐにダメになったら、もう二度と会わせてもらえないかもしれないぞ」

 父からの忠言は、きっと正しかった。

「そうならないためにどうすればいいか分かるか?」

「お金を貯める?」

「そうだ。貯金をして計画をしっかり立てて、双方の親に許可を取ることだ。貯金をしていれば敷金礼金や、家具家電などを買える。そして、どんな家に住みたいのかについて、しっかりすり合わせておかないと、そういったことの好みの違いで喧嘩だってするかもしれない。例えば、最寄り駅についても話し合った方がいい。他にも一人の時間を作るために部屋は複数あったほうがいい。それに若い女性が暮らすのだったら、オートロックは必要だ。そして何より、親への挨拶をしないのはかなり印象が悪い」

 どんな家に暮らしたいのか、意見をすり合わせるなんて考えてもいなかったから、きっとこれも正しい忠告だった。けれど、両親への挨拶だけは心から納得できなかった。母親はともかく、美優の父親に関しては、彼女は挨拶なんてして欲しがらなかったと思うから。

「他にも金銭面の負担をどう分担するか、家事をどう分担するか、そういった細かいことを先に決めておくといい。大学生からなら二年しかない」

「それって大学生からなら認めるって?」

「ああ。そうはいっても二年は短いぞ。部活に受験勉強をしながらだと、貯金だって大した金額は貯められない。それでもやれるだけやってみろ。お前達の人生はこれからまだまだ長いんだ。そんなに急がなくていい」

 最後まで父は正論を言っていた。しかし、結果としてはただの正論に過ぎなかった。

 そしてその翌日、父の話と勉強会の日程についての話し合いをするために美優に会いに行ったが、酷い目にあった。

「美優。ちょっと話できる?」

「何?…下の名前で呼ばないで」

「え?」

 後で知ったが、人前ではやめてって意味だったらしい。そんなこと弱みにならないと思うのに、美優にとっては大事なことだったらしい。さらに悪いことに、一部始終を陽斗が見ていたせいで、俺の失態は部活のチームメイト全員の知るところになった。弁明のために幼馴染だとかいろいろと説明をする羽目に合ったし、その日は本当に散々だった。


 それから数日後、無事に美優と話し合いをする機会が作れた。

「家の両親は大学からならいいって。それから、お金のこととか、どんな家に暮らしたいのかについてしっかり話し合っておけって言われたかな」

「うちのお母さんは、拓海なら安心して任せられるって」

 無事許可が取れそうなことに安心して、つい余計なことまで言ってしまった。

「健一さんの許可って」

「そんなのいらないでしょ」

 案の定、父親の名前を聞いた美優は、不機嫌な様子を見せて、それに慌てて話題を変えた。

「いつだったら勉強会とかできそう?」

「別にいつでもいいよ」

 すると、美優も俺の話題転換に流されてくれたおかげで話を続けられたが、彼女にとって父親の話題は踏み込んではいけないものだった。

 それから少しして、無事に勉強会が行えるようになると、その場所は主に俺の部屋になった。美優が図書館などの公共の場で二人きりは嫌で、家には来て欲しくないと言ったから、俺の部屋になるのは当然の成り行きだった。それで勉強会の際は二人きりという環境の影響か、本音で話してくる機会も増えたし、何よりも甘えてくることが増えた。最初は近くに座る程度のことから始まったそれは、だんだんと手をつないだり、ハグをしたりと、肉体的な接触を伴うものに変化していったが、向こうにはそういう気持ちがなさそうだった。それよりも精神的な安定やストレスの解消のためだったのだと思う。そのせいで、悶々とする俺の気持ちとは裏腹に、関係性はあまり進展しなかった。


 それからは特に大きな出来事もなく高校二年生になると、嬉しいことに同じクラスになれた。しかし、人前では話しかけるなと忠告されているせいで、あまり積極的に関わりに行くことはできなかった。それからは、バイトをして少しずつ貯金をしたり、勉強会をしたりと普通の日常を送って、気が付くと美優の高校二年生の誕生日が間近に迫っていた。

 誕生日が近づくに連れて、美優は楽しそうな様子を見せてくれた。その姿に俺のおかげかもしれない、なんて調子に乗っていると、彼女はその前日に何故か不機嫌な様子になっていて、その姿に嫌な予感がした。そして、その日はたまたま部活が休みだったおかげで一緒に帰ることができたから、その理由を探ろうと思った。

「なんか嫌なことでもあった?」

「昨日、あいつと喧嘩しただけだから気にしないで」

 歩きながら美優に質問をすると、彼女は明らかに無理をした様子で答えた。

「そっか」

 そんな様子を見ていたのに、どうして俺はもっと詳しく聞かなかったのだろう。理由だったりと聞くべきことがたくさんあったのに。行動に移さなかったことを、俺は今でも後悔している。

「そんなことより、今週末楽しみにしてるから」

「任せて」

 不自然な様子について聞こうとしなかったことへの後ろめたさがあったせいか、あからさまな話題の転換だったのに、流されて喜んでしまった。浮かれて、そのことで頭を一杯にして、喧嘩のことなんて忘れても問題ないと思い込もうとしていた。

 それなのに、家に帰って勉強をしながらご飯の準備を待っていると、突然美優から連絡が来た。

『たすけて』

 その言葉を見た瞬間、思わず体が走り出していた。自転車の鍵を探す時間すら惜しかった。

「ちょっと!ご飯もうすぐ出来るよ!」

「ごめん!」

 慌てて出ていく俺に声をかけた母にちゃんとした返事をする余裕もなかった。ずっと感じていた嫌な予感と焦燥に駆られ足を動かしていた。自転車で向かうには短すぎる距離を必死に走って向かった。時間は七時近く、陽は既に落ちきっていて空は暗かった。

 しばらく走ると見覚えのある家にたどり着いた。数年ぶりに来た美優の家は、外観もほとんど変わらない姿でそこにあった。

「昨日も大きな声で言い争う声がしたらしいわよ」

「近所迷惑だって思わないのかしら」

 急いで玄関に向かう途中に、家の近くで何かを話している声が聞こえてきた。酸素が足りない頭ではその会話の意味も考えられず、息つく暇もなくインターホンを鳴らしドアを叩いた。

「美優!大丈夫か?」

 近所迷惑なんて考えずに大声で叫んだが、返事は聞こえてこなかった。そして、ふと、ドアノブに手をかけると鍵が掛かっていないことに気が付いた。

「お邪魔します」

 だから、誰に確認するわけでもなく家に入った。


 久しぶりに訪れた美優の家からは、特有の懐かしい匂いと嗅ぎなれない匂いがした。酒と煙草と血の匂い。その気持ちの悪い匂いに鼻をつまんでいると、一人の男性が現れた。

「やあ拓海くん、久しぶりだね」

 現れたのは田鎖健一、美優の父親だった。

「断りもなしに、夜遅くに人の家に来るなんて感心しないな。まあ、君ならいいか。それより、今から少し出かけるから。帰るときは鍵閉めていってね」

 軽い世間話のような態度を取っていたが、その格好はあまりにも似つかわしいものではなかった。服には明らかに人の血液が付着していて、手には包丁が握られていた。その姿を見て恐怖と緊張を覚えた俺のことなんて意に介さず、健一さんはあまりにも軽い態度で出ていった。

「じゃあね」

 通り過ぎた彼からはきついアルコールの匂いがして、去っていった方向からは悲鳴が聞こえてきた。過ぎ去っていったはずなのに、恐怖はなかなか収まりそうになかった。しかし、そんなことにかまけている余裕はなかった。

 より血の匂いが濃い方向に向かっていくと、台所に倒れている人の姿を見つけた。倒れている人に一歩一歩近づくと、僅かに白髪の混じった茶色い髪の毛を確認して、それが美優の母親の美紀さんであると分かると、思わず安堵してしまった。

 散らかった台所、広がった血溜まり、ピクリとも動かない様子、そのどれをとっても無事とは思えないのに、安堵してしまった。人として、救いようがない。

 現実離れした光景が続く中、台所に散らばった酒の空き瓶にだけは、嫌な日常感があった。


 その後は、なるべく嫌な想像をしないように美優を探したが、どこにも姿が見えなかった。そして、最終的には美優の部屋の前についた。他の場所には居なかったから、いるとしたらそこしかないのに、彼女がいるにはあまりにも静か過ぎた。そのせいで、自然と息が荒くなっていった。それでもなんとか呼吸を落ち着かせ扉を開けると、美優は部屋の壁を背にして目をつぶりながら座っていた。

 首にある大きな傷からは止めどなく血が流れていた。

 信じがたい光景に、頭が現実を認識することを拒んだ。そのせいでしばらく立ちすくんでいたが、その間にも少しずつ美優の呼吸がか細くなっていった。

 慌てて正気に戻り、震える指で救急車の番号を押した。

「救急車、救急車呼ばなきゃ」

『こちら消防庁です。火事ですか?救急ですか?』

 心細くって、怖くって、電話口から聞こえてきた大人の声に少しだけ泣きそうになった。

「首から血を流していて、助けて下さい」

『救急ですね。住所を教えてください』

 震える声でなんとか応えたが、その質問を聞いた途端に頭が真っ白になった。俺はこの家の住所を知らなかった。応急処置も住所もわからない俺は、無力で美優を救うことができなかった。俺のせいで、彼女は助からなかった。


 それからのことは記憶が曖昧で、よく覚えていない。ただ、気が付くと電話が切れていて、外からはパトカーのサイレンが聞こえてきた。美優の手元にあったスマホの画面は暗転していた。

 その後、警察には第一発見者として事情聴取を受けたが、通報者の証言で容疑はすぐに晴れた。そのおかげですぐに家に帰ることができ、両親は俺のことを笑顔で迎えてくれた。けれど、俺はそれどころじゃなかった。無力感と罪悪感に苛まれていて、助けられなかったことを後悔していた。自分のせいだと責めることでしか、心が落ち着かなかった。そのせいで、学校を数日間休んだ。

「埠頭で発見」

「浮かんで」

 その後、事件がどうなったのか今も知らない。知りたくもない。


 それから、久しぶりに学校に行くと、クラスにいた全員が俺のことを穴が空くほど見つめてきた。どこまで事情を知っていたのか分からない。ただ、好奇心の込もったその視線がたまらなく嫌だった。

 身近で起こったその凄惨な事件は、高校生にとってあまりに刺激的なものだったから、きっと学校中に知れ渡っていた。けれど、中学生より大人ぶりたいのか、ズケズケと聞いてくるやつはあまりいなかった。その代わりに、周囲は求めてもいない薄っぺらい擁護をしてきた。

「かわいそう」「小櫛君は悪くないよ」「大丈夫?」「元気出せよ」「お前は悪くないよ」「つらいなら泣いてもいいんだよ」「私でよかったらいつでも話聞くよ」「小櫛なら立ち直れるよ」「無理しないでね」「大変だったんだね」「俺はいつでもお前の味方だからな、いつでも相談してくれよ」「みんな小櫛君の味方だよ」「かわいそう」「みんな心配してるよ」「元気出せよ」「今はつらいかもしれないけど、きっといつか立ち直れるよ」

 そのどれもが聞くに堪えなかった。俺が悪いんだから、責められた方がよっぽど楽だったのに。

 そして、聞こえるか聞こえないかの距離でわざとらしく噂話をするやつもいた。その多くにはなんの根拠もなかった。

「援交しているせいで親と仲悪かったんだって。だからあんな事になったんだって」

「親の教育が悪いんだろ」

「そういえば、小櫛が第一発見者なんだって。幼馴染だから巻き込まれたんでしょ」

 何も知らないくせに、死人に口無しとでも言うかのように会話は広がり、そのどれもが本当に不愉快で、そんな会話は聞きたくなかった。そんなときに陽斗はよく助けてくれた。

「拓海。休んでた間のノートコピーしてやるからコンビニついてこいよ」

 その優しさに本当に救われた。けれど、俺は感謝をきちんと述べていなかった。気恥ずかしかったから、精神的に参っていたから。それらしい言い訳なんていくらでも思いつくが、感謝を伝えていなかった。その事実は今も胸に残り続けている。

 周囲がこの話題に飽き始めてからも、しばらくは部活にも勉強にも身が入らなかった。そのせいで、陽斗には余計な心配をかけた。それでも簡単には立ち直れなくて、嫌なことも言わせてしまった。

「お前が辛いのはわかってる。けど部活の新人戦だってまだあるんだし、気持ち切り替えてさ」

 顔を見ればわかった。言われた俺よりずっとつらそうな顔をしていた。そんなこと言わせたくはなかった。だからこそ罪悪感を感じていた。

「いつまでも引きずるなよ。女は星の数ほどいるんだから田鎖のことは忘れて、…ごめん良くない言い方だった」

 けれど、罪悪感を抱いていたにも関わらず、その言葉を聞いたときに天啓だと思った。

「ごめん。心配かけた」

 忘れればよかったんだ。

「別にいーよ」

 俺は彼女のことを忘れたくない。

 それならば、死んでしまったことを忘れればいいんだ。忘れないために忘れればよかったんだ。この最悪な気付きが、どうしようもない現実逃避の日々の始まりだった。

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