田鎖美優のこと
夏の暑さに目を覚ます。汗でべたついたシャツのせいで二度寝をする気にもならず、二度寝をする時間もなく、仕方がなく起床する。歯を磨き、風呂で汗を流し、朝食を食べながらニュースを流し見する。
「都心では本日も真夏日となっており、熱中症にはどうかお気を付けください」
代わり映えのしない内容の天気予報を聞き流しながら、食事を終える。
「ごちそうさま」
そして、歯を磨き、学校に行く準備をして、両親に挨拶をしてから家を出る。
「行ってきます」
駐輪場で自転車に乗り、学校に向かう道のいつもと同じ見慣れた景色を眺める。学校に近づくに連れて、ありきたりな、日常的な会話が増えていく。
「宿題やった?」
「今日の日直めんどくさーい」
そんな台詞に、学校生活に特有の日常を感じる。それから、自転車を駐輪場に置き、教室に向かい、到着するといつものように挨拶される。
「おはよ、拓海」
だから俺も定型文のような返事をする。
「なんだよ、陽斗かよ。おはよう」
そんな同じような日々の繰り返しに退屈していた。けれど、退屈な日常を一変させるような劇的な出来事を、俺は決して望んでいたわけではなかった。退屈ではあったが、平和な日々だったから。
それから少しして、ホームルームのチャイムが鳴る少し前に、騒がしい教室の扉が開き、彼女が入ってくる。彼女は誰にも挨拶せずに自分の席につくと、教科書を取り出しパラパラとページをめくる。退屈そうな顔をする彼女に、いつものように挨拶をしに行く。
「おはよう、田鎖」
「おはよう、小櫛」
俺の挨拶に対してニコリともせずに返事をした彼女は、俺の幼馴染の田鎖美優。彼女がいたからこそ、こんな退屈な日常を耐えることができていた。
チャイムが鳴ると、いつものようにホームルームの時間が始まる。ただ出席を取るためだけの、いつもと同じだと思っていたホームルームは、今回だけはいつもと違っていた。前に立った教師は、点呼もせずにいきなり転校生を呼び込む。
「このクラスに転校生がやってきたからまずは挨拶を。さあ、入った入った」
「はじめまして。根岸一葉です」
急な展開に驚く俺のことを置き去りにして、転校生が教室に入ってきた。そして、転校生が発したその声は、懐かしさを感じさせるもので、その声に思わず聴き入ってしまう。
「根岸の席は、小櫛の隣に用意しておいたから」
「お隣よろしくね。えーっとなんて呼べばいいかな?」
教師に促された彼女は、俺の隣の席に近づいてきたが、俺は彼女の声に気持ちがかき乱されていたせいで、思考がまとまらず、動揺していて、返事ができず、そのせいで改めて呼びかけられてしまう。
「どうしたの?」
その問いかけになんて返すべきか分からなかった。とにかく動揺していたせいで、俺は明らかに間違った返事をしてしまう。
「素敵な声です、ね?」
「あ、ありがとう」
明らかに間違っていた俺の唐突な発言の影響で、転校生の彼女は顔に苦笑いを浮かべる。そして、その表情が、その声が、退屈な日々の崩壊を予感させるには十分だった。
俺に対する周囲からの笑い声で、なんとか正気に戻る。いきなり変なことを行った俺に集まるのは、驚きの視線と笑い声、それから転校生のことを褒めたことに対する嫉妬の…いや、きっとそれは願望でしかない。
「改めて、私は根岸一葉。一葉って呼んでね」
「俺は小櫛拓海。よろしく」
転校生である根岸は、何事もなかったかのようにもう一度挨拶をしてきた。そのことに驚くが、これ以上会話を交わして変に目立ちたくなかった。
「話しを続けてもいいか?」
だから、そう言った教師の発言のおかげで、視線が少なくなるのを感じて安堵する。
どうしてあんなことを口走ってしまったのか、自分でもわからない。ただ一つだけ確かなことは、根岸といると自分の中の何かが変になってしまうだろうということだけだった。
「続けるぞ。放課後、根岸の案内を誰かにやって欲しいんだ。うちのクラスで部活動に所属していないのは、田鎖だけか。学校の案内をやってくれるか?」
教師の言葉にクラスの視線が美優に集まる。しかし、彼女はそんな視線をものともせずに、不満を露わにして返事をする。
「私じゃなきゃダメですか?」
「いや別にそうではないんだが、田鎖が一番融通が利くと思ったんだが」
思わぬ返答にしどろもどろになった教師のことを気にせず、彼女は容赦なくきっぱりと断る。
「じゃあ、今日は忙しいので無理です」
角が立たないような断り方をしない美優のことを、心の中で勝手に心配していたせいで、隣の席の根岸の様子に目を配れなかった。
「それじゃあ、案内は拓海君にお願いしてもいいですか?」
美優が断ったことで、脈略もなく急に名前を挙げられて驚いていると、教師は安心した様子で勝手に話を進めようとする。
「じゃあ、小櫛が案内してやってくれるか?頼むよ」
「いや、部活があるんですけど」
「大丈夫、大丈夫。俺から拓海は遅れますって言っておくから」
「おい陽斗!」
「友田もこう言ってくれてるし、頼むよ」
だんだんと断りにくい空気になっていることに困り、こうなった原因である根岸の方を見てどうして俺を指名したのか疑問に思った。すると、そんな俺の表情を見たからなのか、彼女はその理由を説明しようとする。
「私が君と回りたいなって思ったの。この学校のこととか、君のこととか、いろいろ話してほしいなーって。ね、いいでしょ?」
具体的な説明がされなかったせいで、疑問は一切解消されなかった。けれど、なんとなく根岸の頼みを断る気にもならず、そのわがままに振り回されることにした。
それから、授業を受けて放課後になると、授業に集中できなかった俺のもとに根岸が近づいてくる。
「拓海君、じゃあ学校を案内してよ」
「おう、拓海楽しんで来いよ。俺は部活行ってくるから」
「うぜー」
俺をからかってきた陽斗の様子、根岸は楽しそうに笑いながら見ていた。
「友田くんは楽しい人だね」
「うるさいだけだよ」
根岸がきっと本音で陽斗を褒めたことに、意味もなく悪態をついてしまう。子供みたいな振る舞いをしてしまった気恥ずかしさをごまかそうとして教室を見回すと、話している俺達を尻目に帰ろうとする美優の姿が視界に入る。
「田鎖!また明日」
「うん、また明日」
そう言って美優を見送ってから、俺達も学校を見て回るために出発した。
学校を見て回り始めてからしばらくすると、唐突に根岸から質問される。
「田鎖さんって、いつもあんな感じなの?」
根岸が聞いてきた質問の内容は、聞き飽きたものだったせいで呆れるが、なんとか平静を保って返答する。
「あんな感じって?」
「案内を断るときみたいな」
「彼女は、田鎖は、本当は優しいやつだよ」
そのことを伝えるために、俺は彼女との思い出話をしようと思った。俺達が仲良くなったきっかけを。
「彼女は優しいよ」
「ふーん」
興味なさげに応える根岸に対して、俺はゆっくりと語りかける。
「俺達が出会ったのは幼稚園の頃。その頃はそこまで仲良かったわけじゃなくて、当時の関係性は、男子に混じって遊ぶ田鎖と、一緒に遊ぶ男子のうちの一人って感じだった。そんな俺達がよく話すようになったきっかけは小学校低学年のころだったはず」
根岸は、ただ黙って聞いている。そのせいで肯定的なのか否定的なのか、そのどちらの意見を持って聞いているのか分からないが、俺は話を続ける。
「小学生になると、俺の名前が原因でいじられるようになった。男なのに名前に櫛が入ってるなんてダセーとか、変な名前だとか。当時の俺は何も言い返せなかった。まあ、今にして思えば、櫛なんて男が使っても別にいいし、そもそも小櫛は苗字だし、おかしな話だけどね」
恥ずかしさを誤魔化すように捲し立てる。情けない自分の昔話をするのは気が進まないから、誤魔化すようにして続きを話す。
「けれど、そんなとき彼女は、特にそこまで仲が良かったわけではない俺のことを、いつも助けてくれたんだよ。『弱い者いじめはやめて!』なんて言ってくれて。それから、泣きそうになっている俺を見て『わたしはいい名前だと思う。それにね、わたしの田鎖っていう名字もね、珍しい名前だってよく言われるの。だから、お揃いだね』って言って慰めてくれたんだよ。田鎖はそういう風に、人のことを思いやることができる優しい性格だよ」
俺に取って大切な思い出、美優は俺のことを助けてくれた。小さい頃の美優は、明るくて、優しくて、憧れの存在だった。
「こんな感じかな。どう彼女のことわかってくれた?」
最後まで黙って聞いていた根岸に問いかけると、彼女はゆっくりと口を開いた。
「それって昔の話でしょ。今も同じ性格なのかどうかなんてわからないでしょ」
根岸の返事の内容が思わぬものだったせいで、とっさには何も言えなかった。
「それにさ、田鎖さんが昔そんな性格だったのが事実だとしても、今はクラスのことに対して非協力的だったり、髪の毛を金髪にして校則違反をしてクラスで浮いていたり、周りに対して話しかけてほしくない雰囲気を醸し出していたり、誤解されるようなことをしているのも事実でしょ」
根岸は何も感じさせない声色で話す。ただ事実を話しているつもりだからだろうか、その声に感情の起伏は感じられない。だが悪意がなかったとしても、美優を悪く言われたままにはしたくなかった。
「でも、実際に話して仲良くなってみたら、田鎖の性格が分かるから」
「それは都合の良い話でしょ。仲良くなるためのきっかけを自分から潰して、それで実際に話すと仲良くなれるだなんて」
けれど、俺の精一杯の擁護も、簡単に一蹴されてしまった。
「というより、本人は友達を作るつもりがないけど、君がおせっかいを焼いて友達を作ってあげようしているって感じかな」
それどころか、少し考えこんだ根岸に図星を突かれた俺は、何も言えなくなってしまった。
「どうして、そこまでおせっかいを焼いているの?」
根岸の追及は、まるで俺を責め立てるためのもののように感じて、黙っていれば自分の非を認めるように感じて、何とか反論する。
「だって、友達がいた方が、いざって時に助けてくれる可能性が高いだろうから」
「あっそう、まあいいや」
しかし、俺の精一杯の反論は、歯牙にもかけられなかった。
「だいたいわかったよ。君は田鎖さんに執着しているんだ。でもね、彼女だけは絶対に駄目だよ。田鎖美優だけはね」
それどころか、よくわからない忠告をされた。しかし、彼女の忠告の意味が、田鎖美優が駄目とはどういうことなのか、全く思い当たる節もないために疑問を投げかける。
「なんで、田鎖は駄目なんだよ」
「なんでもだよ」
複雑な表情を浮かべながら返答をする根岸が、何を意図していたのか俺にはわからなかったが、それ以上の追求は恐ろしくてできなかった。
「とにかく案内ありがとう。また明日、拓海君」
「ああ、また明日」
そんなことがあったのに何事もなかったかのように続けられた学校案内が、無事に終わると思わず安堵する。
それからは、いつものように部活を行い、家に帰り、風呂で汗を流し、ご飯を食べて、布団に入る。
唐突に現れた転校生の根岸のせいで、立て続けによくわからないことが巻き起こった。きっと、これからも根岸一葉のせいで、いろいろなことに巻き込まれる。だから、想像通りの退屈で平和な日常は終わり、波乱に満ちた生活が訪れる、そんなことを考えながら眠りについた。
夏の暑さに目を覚ます。寝ぼけたままの頭で学校に行く準備をする。
根岸の唐突な指名のせいで、学校の案内をさせられて大変だった昨日を振り返り、今日はどうなるのか戦々恐々としながら学校に行く。しかし、俺の心配とは裏腹に、学校に到着した俺が見たのは、女子に囲まれて会話をしている根岸の姿だった。そして、彼女達が話している内容は、自分の席に近づくに連れてだんだんと聞こえてくる。
「それでそれで。一葉ちゃん、昨日はどうだったの?」
「えーっと、お名前聞いてもいい?」
「あーごめんごめん、私の名前は今田芽生。で、こっちは脇田で、こっちは副島。それで小櫛とのデートはどうだったの~?」
「デートじゃなくって普通に案内してもらってただけだよ」
「へ~、そうだったんだ。それにしても田鎖のやつ生意気だったね」
「そうそう、一匹狼気取ってんじゃねーよって思ってた」
「ねー。ほんっと生意気」
「一葉ちゃんも付き合う人は選んだ方がいいよ。あいつ、噂じゃエンコーもしてるらしいし~。だから、昨日もそのために急いで帰ったんだよ」
聞こえてきた会話の内容は、転校生の根岸に話しかける、という体で交わされる美優の悪口だった。しかも、美優がいない状況で悪評を話すことで、本人に否定をさせず根岸に悪印象を持たせる性格の悪さに、嫌悪感と怒りを憶える。
何も知らないくせに。口をついて出そうになった言葉を飲み込む。こんな奴らに何を言ってもきっと無駄だから、言う必要はない。
「ねー。親の教育が悪いんだろうね」
それでもやはり、本当に不愉快だった。どうしてそんなに簡単に、他人を傷つける言葉を吐けるのだろうか。
「そうそう。それにさ、昨日一葉さんを案内した小櫛っているじゃん。小櫛ってさ、田鎖の幼馴染なんだって。あいつらってさ家族ぐるみの付き合いらしいからさ、だまされてるんだよ」
さらに、俺がここにいることを理解したうえで意図的にしているのか、俺や俺の家族を巻き込んだ悪口すら聞こえてきた。そんなくだらない会話なんて、これ以上聞きたくなかった。一刻も早くこの場を離れたかった。
「拓海、トイレ行こうぜ」
「あ、ああ。行くか」
そんな俺に、陽斗が声をかけてくれる。そのおかげで、俺達はその場を離れられた。
陽斗が連れ出してくれたおかげで苛立ちが少しだけ収まり、落ち着いた心で俺は会話をできていた。
「陽斗、いつも悪いな」
「いーよ、いーよ。謝らなくていーよ」
「そうか。じゃあ、今度なんかおごるわ」
「お、じゃあ学食のカツカレー大盛りな」
「お前おごりのときだけ大盛りにするのやめろよ」
陽斗の軽い態度にため息を吐きながらも、軽口を叩いたおかげで心が楽になっていることを実感する。陽斗のその明るさのおかげで心に余裕ができると、陽斗が何かを言おうとしていることが分かった。
「どうしたんだよ。なんか聞きたいことでもあるのか?」
「いや、お前たちが幼馴染ってのは知ってたけど、家族ぐるみの付き合いだとは知らなかったから。ちょっと気になって」
「そうだっけ。聞きたい?」
「できたら」
「そっか。じゃあまあ、きっかけは確か小学校四年生の頃かな」
楽になった心で語り始めながら、つい昨日も同じようなことがあったことがなんとなくおかしくって、笑い出してしまいそうだった。
「うちの両親は共働きだったから、小三までは学童に通ってたんだよ。それで小四になって学童を卒業したら、放課後はだいたい友達と遊んで過ごしてたんだけど、水曜日だけはみんな習い事に通ってた。だから、水曜日はずっと家で一人で過ごしてた。けれど、家に一人でいるのって退屈で寂しかったから、時々公園にただぼーっとしに行ってたんだよ」
家に一人は寂しかったけれど、子供なりに遠慮をして、親に心配をかけたくなかったから、相談はしなかった。
「そしたらある日、公園に一人でいるところを田鎖に見つかって『何してるの?』って聞かれてさ、だから正直に『家に一人でいたくなくて』って答えると『じゃあうちに遊びに来て』って有無を言わさずに俺の手を引っ張ってくれたんだ」
「だいぶ今と印象が違うんだけど、それほんと?」
「そうなんだよ。昔は優しくて、明るくて、男勝りな性格で、わがままで。今もわがままな部分はあるけどな」
陽斗があまりに驚いたように言うものだから、ついつい笑いながら答えてしまう。本人に聞かれたら怒られそうだと思いながら。
「それで話の続きだけどさ、田鎖の家に連れていかれたら、田鎖のお母さんが驚いた様子で出迎えたんだよ。急に家に行ったからかな。それで、田鎖がお母さんに連れてきた理由とかいろいろ話したらさ『いつでも遊びに来ていいよ』って言ってくれたんだ」
「優しい人達だな」
陽斗がつぶやいたその言葉に心の中で同意する。その優しさに俺は本当に救われた。
「それがきっかけで、水曜日はたまに田鎖の家に遊びに行くようになったんだ。さすがに毎週は気が引けるから、そこまでの頻度じゃないけど。うちから歩いて五分くらいだったから気軽に行けてさ、ちょくちょく遊びに行ってたんだよ。それでさ何回も遊ぶうちに『いつまでも苗字じゃ堅苦しいから、下の名前で呼んで』とか、そんな感じで仲良くなっていったんだよ」
「あれ、今って田鎖呼びじゃなかったっけ」
「いろいろあって中学で少し疎遠になってさ」
陽斗の質問に対して曖昧に答えてから、誤魔化すように話を続ける。
「それでさ、何度も遊びに行ってたら、うちの親も迷惑かけてないかとか、ご挨拶しなきゃって感じになって、それがきっかけで家族ぐるみの付き合いが始まったんだ。たまに一緒に旅行に行ったり、誕生日、…そう誕生日にはどっちかの家で誕生日会を開いたりさ」
一息をつき話を区切り、陽斗の反応を伺う。
「だいたいこんな感じかな。退屈な話でごめんな」
「そんなことねーよ。ただ、拓海が田鎖のこと大事に思ってることが、よく伝わってきたよ」
俺の話を最後まで聞いた陽斗は、冷やかさずに真剣な様子で答えてくれる。それがこの上なく嬉しく、すっかり先ほどまでの苛立ちは忘れていた。
それから少しすると、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。
「やばい、ホームルーム遅刻確定かよ。急いで戻るぞ、陽斗」
「荷物おいてるから許されねえかな」
「どうだろうな」
こうして俺達は、来た時とは違って笑顔で教室に戻っていった。
「小櫛と友田は遅刻か」
戻ってきた俺達を迎える教師の声に、陽斗が返事をする。
「います、いまーす。友田も拓海もいまーす」
「今回は見逃してやるから、早く席につけ」
「「ありがとうございまーす」」
ありがたい言葉に感謝をして席につくと、根岸が小声で質問を投げかけてくる。
「ねえ、拓海君。さっきの話のことだけど、拓海君は本当だと思う?」
「さっきの話って?」
こちらを探ってくるような言い方に、質問の意図を薄々察したうえで一応確認をする。
「援助交際の話」
出来ることなら違う話題がよかったが、思った通りあまりいい話題ではなかった。しかし、陽斗のおかげで心が楽になったから、そこまで動揺することなく会話を続けられる。
「田鎖は援交なんてしていないよ」
冷静になったお陰で堂々と言い切った俺に対して、納得のいかない様子の根岸は、その理由を追求してくる。
「どうして断言できるの?四六時中一緒じゃなければ、確証なんて持てないでしょ」
「だって俺は彼女のことを信じているから。彼女はそんなことをするような性格じゃないって」
納得してくれるかわからなかったが、俺はこれ以上なく単純な理由で答えると、根岸は穏やかな表情で微笑んだ。
「バカだなあ。それはただの感情論で、何の根拠もないよ」
それから、表情を厳しいものに一変させると、今度は圧をかけるように忠告してくる。
「それよりも、言ったよね。田鎖美優は駄目だって。まあ、とりあえず今はいいけどね。もうすぐ授業が始まるから、後でね」
言いたいことを言って満足したのか、駄目な理由を聞こうとした俺の表情を見たせいか、根岸はこれ以上特に何も言ってくることはなかった。
そして、その後も何事もなく一日が過ぎていき、家に帰った俺は、明日こそ平和な一日であることを願いながら眠りについた。
夏の暑さに目を覚ます。そして、いつものように学校に向かい、教室に入ると根岸が挨拶をしてくる。
「おはよう。今日も暑いね。毎日こうも暑いといやになっちゃう。早く秋になってほしいよね」
「俺は、秋なんて来てほしくない」
思わずただの世間話にふさわしくない言い方をしてしまったことに、自分でも驚く。横を見ると、当然ながら根岸も驚いた表情を浮かべている。
「なんで?」
「いや、何でもない。それよりも、ほらホームルームが始まるから」
追及されたくないから、昨日の根岸と同じような手段で誤魔化してしまう。幸いにも教師が入ってきたおかげで、これ以上追及されることはなく話が流れ、何かを言いたげな根岸とは、会話をすることもなく授業が始まる。
「次回の授業で小テストを行うからしっかりと勉強しておくように」
「先生!根岸さんが不利だと思います!だから、延期しましょう!」
授業が始まると、教師は開口一番に嬉しくないことを言った。そして、それに対する陽斗のおどけた発言に、教室で笑いが起こる。
「何を言ってるんだ。延期はしないに決まっているだろ。けど、確かに根岸は不利かもしれないな。根岸、数学Bの進度はこの学校の方が少し早いであってるか?」
「え?えーっと、こっちの方が少し早いくらいの進度だと思います。多分?」
教師の質問に根岸は驚いたような反応を見せ、曖昧な返答をする。
「そうか。じゃあ根岸の結果は考慮する。だから、予定通りに小テストを行うからな」
結局、小テストは行われることに周囲から漏れる不満気な声を聞きながらも、数学ならばしっかりと勉強しようと思った。
その日の放課後、部活に行こうと思っていると、スマホにメッセージが届いていた。
『たすけて』
「…」
『数学Bの小テストの勉強教えて』
『場所は?』
『拓海の家は駄目?』
『久しぶりにそっちの家は?』
『私の家はあんまり来て欲しくないけど』
『俺もダメなの?』
『そうだね』『拓海ならいいかな』
『本当?いつ行ったらいい?』
『拓海の平気なときでお願い』
『じゃあ今日晩ご飯食べた後に短時間なら大丈夫』
『それならうちで食べていいよ』
『迷惑じゃないかな』
『いいよ』『それに料理するの私だから』
『じゃあ、ありがたくごちそうになろうかな』
『その分ちゃんと勉強教えてよ』
『わかった』『また後で』
『うん』『また後でね』
「拓海ー。部活行こうぜー」
「今行く。ちょっと待ってて」
スマホをしまっていると、同じようにスマホをしまいながら帰る準備をしている美優と目が合う。
「田鎖!また後で」
「また後で」
帰っていく美優を見送ってから、改めて陽斗に声をかける。
「部活行くか」
部活動に参加しながら、先ほどまでのことを考える。久しぶりに美優の家に行くことが決まり、そのことことに喜びと緊張の入り混じった感情を抱いたせいで、部活にはろくに集中できなかった。
部活が終わり家に帰って、汗を流すためにシャワーを浴びる。久しぶりに美優の家を訪ねるときに、不快感を与えないように少しでも気を遣いたかった。他にも、家に行ったらきっと彼女の親がいるから、必要なものをいくつか準備する。その他にも教科書などを準備して、親に一言声をかけてから出かける。
「ちょっと出かけてくる。ご飯はいらない」
「そう。どこ行くの?」
「美優の家」
遅くから出かける俺を心配するように、母は晩御飯を作る手をいったん止めて聞いてくる。その質問に別に隠すことでもないから、正直に答える。
「美優ちゃんちにご飯を食べに行くの?ご両親は許可したの?」
久しぶりなせいか、夜も遅いせいか、母は少し驚きながら質問をしてくる。そんな母を心配させないために、多分美優は許可なんて取ってないと思っているうえで嘘を付く。
「多分大丈夫」
「そう。田鎖さんのところは、色々と大変なんだから迷惑かけないようにね」
「わかってるよ」
俺に対する心配か、美優に対する心配か、そのどちらかはわからないが、声に心配をにじませている母を少しでも安心させるために、明るく答える。そして、それ以上言いたいことはなさそうなことを確認すると、行ってきますの挨拶とともに家を出る。
自転車で向かうには短すぎる距離を、ゆっくりと歩いて向かう。時間は七時に近いのに、夏だから空はわずかに明るかった。
そうしてしばらく歩いていくと、見覚えのある家にたどり着く。数年ぶりに訪れた美優の家は、外観もほとんど変わらない姿でそこにあった。
緊張を抑えるために、一度大きく深呼吸をしてからチャイムを鳴らす。しばらく待っているとドアが開き、出てきた美優は俺を家に押し込んだ。
「拓海、上がって。私の部屋で待ってていいから」
久しぶりに訪れた家からは、特有の懐かしい匂いと嗅ぎなれない匂いがした。美優の家の匂いを憶えている自分に気持ち悪さを感じて、自虐的な思考をしながら階段を登ると、一人の男性が現れた。
「やあ拓海くん、久しぶりだね」
「お久しぶりです。健一さん」
現れたのは田鎖健一、美優の父親だった。
「美優、なんか手伝いいる?」
「いらない。適当に待ってて」
父親がいる手前、一人で美優の部屋で待つのも気まずく、ただ待っているのも申し訳なく思って、手伝いを申し出るがそっけなく断られた。
「拓海君、ごはんまで少しお話できるかな?」
美優に断られた俺は、健一さんの誘いを断るための口実も思いつかず、仕方がなく対面に座る。
「最近、美優はあんまり会話してくれなくてね。だから、娘が学校だとどんな様子なのか教えてくれるかな?」
美優の学校での様子を正直に答えるのは、あまり気が進まなくて適当にごまかす。
「多分普通ですよ」
「そうかい。学校じゃ普通なら家での態度は反抗期なのかな。ははは」
能天気にも思えるその発言に対して、肯定も否定も、特に何の反応も示すつもりはなかった。聞きたいことを聞いて満足したのか、その後、健一さんは俺に対して話しかけてくることもなく、俺からも何か話しかけたくもなく、静かな食卓には料理の音だけが響いていた。そんな気まずいな空気の中、玄関のドアが開く音が聞こえてくる。
「ただいま」
「お帰り、お母さん」
「お久しぶりです、美紀さん。すみません、お邪魔してます」
帰ってきたのは田鎖美紀、美優の母親だった。
「ああ、拓海君。久しぶりね」
「晩御飯そろそろできるから、拓海ごはんよそって」
美紀さんが帰ってきたところで、料理が完成して、美優の配膳の指示に従って多少準備を手伝うと、すぐに食事が始まる。
「「「「いただきます」」」」
食事が始まっても、相変わらず会話は弾まなかった。空気を読めず空回りをする父親、それを無視する娘、仕事の疲れが顔に色濃く出ている母親、冷え切った気まずい食卓だった。
「それで、拓海君はいつ帰るのかな?」
唯一といっていい話題は、食事の途中で健一さんからされたそんな質問だった。まるで、早く帰ることを催促しているようなその質問に急かされるように食事をとった。
「少し勉強をしてから帰るつもりです」
その気まずさのせいで、一刻も早くこの場を離れたかったせいか、緊張のせいか、ご飯の味があまり分からないままに、急いで食べきった。
「ごちそうさまでした」
そして、食器を軽く水洗いするために立ち上がると、ちょうど美優も食べ終わったらしく一緒に席を立つ。そして、その様子を見て発せられた健一さんの発言は、これ以上ないほどに不愉快なものだった。
「勉強は美優の部屋でするんだってね。変なことはしないようにね。ははっ」
「きもちわるっ。うざ」
その発言に美優は容赦なく罵声を浴びせ、そのせいで空気が悪くなった食卓を俺と美優は去った。
「式の中にnが入ってる漸化式が難しくって」
「それはn+1の場合を考えて引き算するんだよ」
約束通り、食後は数学の小テストの範囲の勉強をする。
「もっとわかりやすく教えて」
「十分わかりやすいつもりなんだけどな」
「疲れた!休憩する!」
しばらく勉強して疲れた美優は、俺の返事に不貞腐れたという体を取ってベッドに仰向けになると、両手で顔を覆う。
「もう、つかれた。私だって家の事を色々しないといけなくて大変なのに、なんでよく知りもしない人から悪口言われなきゃいけないの?つらい、もういやだ」
今にも泣き出しそうな声で、美優は不満をこぼす。少しでも安心してもらうために、ベッドを背にして座り、慰めの言葉を言う。俺にはその程度のことしかできない。
「俺は絶対に美優の味方だから大丈夫、安心して。それに、あと一年と少しの辛抱だから」
「そうだよね。ありがと」
けれど、そんな慰めの言葉にすら、美優は安心したように笑ってくれる。俺の力では問題を根本から解決することはできず、その場しのぎの慰めしかできなかったことが、たまらなく悔しかった。無力な自分が嫌だった。
それから少し経つと、美優は少しだけ落ち着いた様子になってわがままを言う。
「拓海、来て」
「まあいいけどさ、こっちの気持ちのことも考えてくれると嬉しいんだけど」
「そういうのいいから。黙ってこっち来て。ハグをして」
少し元気になった様子に安堵して軽口をたたくと、思ったよりもきつい返しがきて少し傷つく。
「はい、すみません。というか、なんでいつもハグなの?」
「知らないの?ハグをするとストレスが減るんだよ」
俺の質問を聞いた美優は、得意げな表情で答えた。彼女は気が滅入ると、いつも俺のことを呼び出して二人きりで会って、こうやってストレスを減らすために甘えてきた。だから俺は、いつものように彼女を慰めることを目的に抱きしめる。なるべく雑念を抱かないようにしながら。
しばらくの間、黙って抱き合っていた。その最中、俺は何の気なしに美優の髪を梳かすように撫でていた。憶えている限りあまり触れたことはなかったが、その感触を忘れたことはなかった。そして、美優は俺の手をくすぐったそうにしながら身を捩り、疑問を投げかけるようにこちらを見てくる。
「いや別に深い意味はないんだけど、髪の毛を染めてきた日を思い出して」
「何?黒髪の方が好みだった、とか言わないでよ」
「なんも相談してくれなかったことがさみしかったんだよ」
そう言って俺は、中学校時代、疎遠になっていた時期のことを思い出していた。
小学校の高学年だと少しからかわれる程度で済んでいた一緒の登下校も、中学校に入ると性差が顕著になるせいか、それまでより露骨にからかわれることが増えた。そのことに少なくとも俺は嫌気がさしていて、そのせいか一緒に登下校することを避けるようになってしまい、部活動に入るとそれぞれのコミュニティが出来始め、一緒に過ごす時間は少なくなっていった。それでもなお、気が付くと美優のことを目で追いかけてしまうほどには、俺は未練がましく思っていた。
そんな日々が続いたある日、風の便りに美優が部活を辞めたということを知った。少しずつ部活に行く頻度が減っていき、ついには退部届を出して部活をやめたらしい。
それから少しして髪を金髪に染めたせいで、彼女はより一層孤立していった。不謹慎かもしれないが、俺はそれをいい機会だと思っていた。髪を染めた理由や、部活を辞めた理由を聞いたり、心配をきっかけに、また話しかけられそうだと思っていたから。
そんなある日、たまたま帰りの下駄箱で美優に鉢合わせた俺は、この機会を逃せばいつ話しかけられるかわからなく思い、意を決すると話しかけた。
「久しぶり、美優。なんで髪の毛染めたの?」
「下の名前で呼ばないで」
それなのに、返ってきたのは明確な拒絶だった。なぜ急に彼女が荒れ始めたのか、この時は知らなかったが、後日になって改めてその理由を知った。
その頃は疎遠になってしまっていたが、相談してくれなかったことはさみしかったし、助けになれなかったことは悔しかった。
「さみしいって言われても、当時は疎遠だったんだし仕方ないじゃん」
美優の呆れたような声に、思い出から現実に引き戻される。
「仕方ないのはわかるけどね。感情は別なんだよ」
「そう、わがままだねぇ。あのときの拓海は、ほんとにしつこかった」
それからしばらくの間、懐かしい思いでを語り合った。笑い合いながら思い出の共有をすることは、心地よい時間だった。
「よし、休憩終わり!続きやろ!」
いろいろと話してストレスが和らいだのか、俺達は勉強を再開した。それからはそのまま勉強をして過ごし、切りのいいところまでやったら、美優の両親と、美優に挨拶をしてから家に帰る。
「美優、また明日」
「また明日」
家に帰って一息をつく。それから持ってきた荷物を片付け、いくつかの荷物の出番がなかったことに、ため息を付く。色々なことがあった疲労感から眠気がひどく、すぐに眠りについた。
夏の暑さに目を覚ます。今日もいつものように学校に向かう。
教室に着くと元気そうな様子の美優を見かけて、その姿に安堵する。昨日のおかげで元気になったのならば嬉しいが、はたしてどうだろうか。そんな風にぼんやりと美優を見ている俺のもとに、根岸があいさつをするためにやってくる。
「おはよう拓海君」
「おはよう」
そして、この間の会話で仲良くなったのか、今田が根岸と話すために、会話に混ざってくる。
「おはよう一葉ちゃん」
今田が会話に混ざろうとしているが、以前の今田の発言に嫌悪感を抱いていたせいで、あまり気は進まなかった。けれど、場の空気を悪くするようなことを言うつもりはないから、ただ黙ってみていた。
「一葉ちゃん、小櫛とばっかだけじゃなくて私とも喋ろうよ」
高校での転校生が珍しいから、きっとそんな理由で、今田は根岸に積極的に話しかけている。
「なんでそんなに小櫛にばっか話しかけるの?あっ、もしかして二人ってそういうこと?」
そして、自分で聞いた質問に一人で勝手に納得すると、どこか興奮したような様子で聞いてきた。
「なんでそんなに興味津々なんだよ」
「だって転校生だよ。定番でしょ~」
何の定番か知らないが、興味もないから何も聞かなかった。
「珍しいな。拓海が今田と話しているなんて」
すると、俺達の会話に陽斗が混ざりに来た。こちらの意思に関係なく一方的に話しかけられているだけで、好きで話してるわけじゃない、なんて言って気まずくなるのも嫌だから適当に誤魔化す。
「俺と根岸が話していることを、からかいに来たんだよ」
「違うよ~。二人がいっつも仲良さそうに話してるから、怪しいよね~って話してたの」
「そうなんだ。けど拓海って」
「おい、陽斗」
今田の追求に、不用意な言葉を吐こうとしていた陽斗を止める。
「そうだよ。私じゃなくて田鎖さんでしょ」
しかし、根岸の方は何の躊躇もなく発言した。
「え、そうなの!そっか~。幼馴染の方か~」
すると、今田は意外なことにも興奮した様子を見せた。今田は美優のことが嫌いだと勝手に思っていたから、会話の中で名前が出たことに嫌悪感を見せると思った。しかし、実際は楽しそうに会話を続けたことに驚く。
「今田はてっきり田鎖のことが嫌いだと思ってた」
「嫌いだよ。けれど小櫛のことはべつにだし〜、それに幼馴染も定番でしょ〜」
それどころか、今田は興味の対象が移り変わった様子で、質問をしてくる。
「どんなエピソードがあるの?」
「別に面白い話はないよ。むしろフられているから」
「なんでなんで?」
興味をそぐための発言だったが、今田は余計に興味を惹かれたかのような反応を見せた。しかし、その流れを断ち切るようにして、根岸が今田に質問をする。
「どうして田鎖さんを嫌いなの?」
空気を読まないような質問に気まずい空気が流れたが、そんな質問に対して今田は、少し戸惑いながらもきっぱりと答える。
「なんでそんなこと聞きたいのよ。まあいいけど、べつに大したことじゃないからね。あいつの協調性がないところが嫌い」
きっぱりと言い切った今田は、それだけでなくさらに詳しく嫌いな理由を説明する。
「うちの学校のいわゆる文化祭って、みんな真剣に参加するんだけど、あいつはろくに手伝いもせずにいつもとっとと帰ってた。他のみんなが残って準備していたのに」
「けど俺も部活の方に行ったり、そんなに協力できなかった日もあったから」
その内容が事実だっただけに反論し辛く、少しでも話を逸らそうとした。
「それはそうでしょ。そういう人は余裕のある日に、ちゃんと準備に参加してくれたから。けれど、あいつは部活にも入ってないくせに、ろくに手伝わなかった」
しかし、あまり話を逸らすこともできず、結局美優の愚痴に戻ってしまった。その愚痴の内容に事実も含まれていたから、否定もできなかった。けれど、少しでも悪い印象を払拭するために付け加える。
「そのことは田鎖も後悔してるって言ってたよ」
「別に擁護しても印象はよくならないないよ~。あれはきっかけに過ぎないし、あいつがそういうことをしたってことを、私は覚えているからね」
結局、今田の印象を改善できなかった。そのことは残念だったが、一連の話を聞き終えたところで、根岸がこちらの顔色を伺っていることに気付いた。その様子を見ただけで、根岸の質問の意図を十分察することができた。
「私の話はどうでもいいの。それより振られたってどういうことなの~?」
ある程度語り終えた今田は、身を乗り出してこちらの話を聞いてくる。その興味津々な姿に、嫌悪感を忘れて、あまり話す機会のなかった話をすることに、つい口が軽くなってしまう。
「二年前のことだから、中学三年生のときかな。その年の田鎖の誕生日を祝うために、二人で出かけた日に告白したんだ」
「中学生のころ?」
陽斗が疑問を抱いたかのような反応を見せたために、軽く説明を付け加える。
「ああ、疎遠になっていたのは一時期で、その後また関わるようになったんだよ」
しかし、こちらの会話にあまり興味を示さなかった今田は、俺と美優の間で何が起こったのかについての興味が尽きない様子で質問を続けてくる。
「ふ~ん。それで、田鎖の誕生日っていつなの?」
「十一月の二十五日だよ」
「へ〜。それでどんなデートだったの~?」
「デートじゃなくって二人で出かけただけだよ。それでその日は、近所の中華街に食べ歩きをするために行ったんだよ」
「中三で?拓海、余裕あるなー」
「毎日気を張っていたら大変だからな。ちょっとした息抜きだよ」
からかってくる陽斗に言い訳のような説明をすると、陽斗はニヤニヤとこちら見てきた。それを無視して話を続ける。
「とにかく、中華街で食べ歩きをしたり、そこから少し行った赤レンガで買い物したり、色々なとこに行ったんだよ」
「楽しそう〜。いいな〜」
話を聞いた今田が笑顔で言ってくれたが、後悔しているからつい正直に答えてしまう。
「恥ずかしいけどそうでもなかった。休みの日だったせいで、食べ歩きはそこそこ並んでて、その間に何とか会話をしようとして、俺だけが話しかけて空回ったり、黙り込んでいる時間が結構あった気がするんだよ」
よくある失敗かもしれないが、俺は今でも後悔していた。肝心な場面で失敗する自分が嫌いだった。
「けど俺は楽しかったからさ、テンション上がっちゃって帰り道でつい告白をしたんだけど、そのせいか振られたんだよ」
「ちゃんとうまくいったときのデートじゃないとだめだよ~。それで、今のは一昨年の話だよね?去年はどうだったの~?」
一昨年の話を聞き終えると、今田はさらに興味を示した様子で聞いてきた。興味を持ってくれたことが嬉しくって、つい思い出話を続けてしまう。
「去年は近所の森林公園とか、紅葉の名所を見に行ったんだよ」
「なんか地味じゃない?」
行き先の落差のせいか、少し否定的なことを言ってきたから、そこに行った理由についてを軽く話す。
「別にいいだろ。それにそこにはよく行ってたんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだよ。田鎖は家出をするといつもその森林公園に行ってたからさ、そのたびに俺が迎えに行ってたんだ」
「いいね~。幼馴染しか知らない思い出の場所か~」
思い出の場所というシチュエーションに興味を惹かれたのか、楽しそうな反応をしてくれたが、あまりいい思い出とは思えないからつい否定をしてしまう。
「家出だから、そんないい思い出じゃないかもしれないけどね」
しかし、今田は俺の返答には興味を示さず、さらに質問を続けてくる。
「その年は告白とかしなかったの?」
「その年は別に告白しなかったかな。けど一緒の大学を目指そうって話をして、それから一緒の大学に入れたら同棲しようって話をしたりしたかな」
すると、今田はさらに食いついてきて、興奮気味に質問をしてくる。
「同棲!?それは了承してくれたの?」
「田鎖は了承してくれたんだけど、うちの両親は許可は出してくれなかった。『高校生のうちはまだ子供だから、大学に入るまでは駄目だ』って。田鎖も大学からだったら親の許可が取れたって」
話を聞き終えた今田は、満足したような様子になり、陽斗は納得したかのように頷く。
「どっちの両親も大学からなら許可してくれたのか」
「…」
「それで」
すると突然、これまでずっと黙って聞いていた根岸が口を開く。
「それで、今年はどこに行く予定なの?」
「今年は」
そこで少し言い淀む。気が早いと思われそうで少し不安になってしまう。
「大学周辺とか、家の下見をしてみようかなって」
「そうなんだ」
心配していたが返ってきた反応は思っていたより薄いものだった。その反応に聞かれてもいないのに、つい言い訳をしてしまう。
「来年は勉強で忙しいかもしれないから」
しかし、根岸はこちらの反応を意に介さず何かを思案する様子を見せると、いいことを思いついたような表情で聞いてくる。
「ねぇ、拓海君。今週末って部活とか予定はある?」
「日曜は特に何もないけど」
「じゃあさ、今週の日曜日、私と一緒にそこに行こうよ。予定はないんでしょ?いいよね。後で連絡するから、連絡先教えて」
こちらの予定を聞いた根岸は、有無を言わさず、こちらの拒否権を認めないように捲し立て、出かける約束を取り付けられた。
夏の暑さに目を覚ます。気が付くと根岸と約束をした日曜日になっており、なんの準備もできていないままに、出かける日を迎えてしまっていた。そして改めて、根岸から送られたメッセージを確認する。
『十二時に駅前集合』
その約束に間に合うために出かける準備をしてから、親に一言声をかける。
「今日は出かける。晩ご飯までには帰って来ると思う」
そう言って出かけようとした俺を、母は見送った。
待ち合わせの時刻の少し前に着くと、既に根岸は待ち合わせ場所で待っていた。
「やっと来た。それで、どうするの?先にご飯食べる予定?」
時間に間に合って到着したはずなのに、わざとらしく待ちくたびれた態度を取った根岸は、今日の予定を聞いてくる。
「大学の最寄りの駅にはにはあまり食べられる場所ないから、ここで食べてから向かう?」
「不便だね。お店は任せていい?」
疑問に答えるようにして軽く今日の予定を提案すると、返ってきた返答はどこか人任せなものだった。
「いいけど」
根岸が誘った側なのにいろいろと人任せな態度で呆れるが、今年の美優の誕生日に行く予定だった店の存在を思い出す。
「もともと行く予定だったお店でいい?」
「いいよ。楽しみだね」
根岸にその店で良いか確認をすると、乗り気な反応が返ってくる。その流れで俺達は腹ごしらえをするために店に向かった。そして、店での食事について、根岸は不満を言わなかった。
「ご飯美味しかったね。それじゃどこに行く?とりあえず大学に行ってみる?」
「別に楽しい場所はないけど。ICカード持ってる?」
「持ってるよ」
「じゃあ電車に乗るか」
二人で駅のホームに向かい、電車に乗って目的地に向かった。
「ねえ」
電車に乗ってからしばらくすると、根岸に話しかけられる。
「こんなに早いうちから大学近くの家とか探して、不安になったりしないの?やっぱり違う大学を目指すって言い出すかも、とか思わなかったの?」
「別に。それに一緒の大学に行きたいって、そう思ってくれるだけで嬉しかったから」
美優が少しでも前向きに答えてくれる、俺はそれだけで良かった。そんな俺の応えに、根岸は納得したような反応を見せ、その反応が嬉してくて、正直に余計なことを言ってしまう。
「まあもちろん欲を言えば、一緒のキャンパスライフとか同棲とか、俺も男だし、したいことはいろいろあるけどね」
「そう、わがままだねぇ」
俺の正直な気持ちを聞いた根岸は、楽しそうに笑っていた。その後も取り留めのない会話をしながら電車に揺られ、しばらくすると目的地に到着した。
「ここが、大学の最寄り駅だよ」
駅から地上に出ると、住宅街が広がっていた。多少の飲食店や、ガソリンスタンドくらいがあるだけの面白みのない光景だったが、根岸は興味深そうに、楽しそうに見ていた。
「本当だ。特になにもないね」
「とりあえず大学の方に歩いて行ってみるか」
そういって歩き出したが、しばらく歩いても変わり映えのしない光景だった。
「本当に特になにもないね」
そんな光景を見た根岸は、楽しそうな様子で言っていた。俺は不便さを感じていたから、なぜそんなに楽しそうなのかを疑問に思った。
「住宅街だからかな。コンビニとかは多少はあるけど、遊ぶ場所はあんまりなさそうなんだよね」
その後も軽く話しながら歩いてしばらくすると、無事に目的の大学に到着する。大学を見た根岸は、またも楽しそうにつぶやく。
「あ!大学に着いた。本当に特に何もなかったね」
「講義棟とかは入れないらしいけど、敷地内は見て回ってもいいらしいよ」
敷地内の見学は可能だから提案すると、根岸は目を輝かせながらその提案に同意した。
「ほんと!?じゃあ、行こうよ。ほら、早く早く」
楽しそうな様子の根岸に手を引かれて、敷地内に入って行った。しかし、日曜日だったせいでほとんどの建物が閉まっていて、それほどできることはなかった。けれど、根岸は楽しそうに大学に入った後の話をしていた。バイトはどれくらいするか、食堂の味はどうか、授業に付いて行けるか、友人はどれくらいできるか、そんな未来の話を笑顔で語る根岸の姿は、直視できなかった。
「じゃあ、引き返そうか」
一通り見回って満足したから帰ることを提案すると、根岸は残念そうな態度をとる。
「そっか、もう帰っちゃうのかー」
だから、慰めるように、今日はまだ帰る予定じゃないことを説明する。
「余裕があるなら家の方も見に行くから、まだ帰らないよ」
「違うよー。拓海君と一緒に大学に行ったり帰ったりするのが最初で最後なのに、もう終わっちゃうことが残念なんだよ」
「…」
「じゃあ次は家の方も見に行こうよ」
「そうだね」
話を変えるためにされたであろう根岸の提案に同意し、家の方を見てみるために駅に戻って行き、電車に乗って、検討している物件の最寄り駅に着いた。
「着いたよ」
そこは先ほどの住宅街とは異なり、駅前には様々な店があり、人々が行きかっていた。その景色を興味深そうに見ている根岸に向けて、この物件の利便性を説明する。
「ここはスーパーとかも駅前にあるし、大学からも数駅だから便利なんだよ」
すると、それに対して根岸も好意的な反応を示してくれた。しかし、同時に疑問も抱いた様子だった。
「良さそうなところだね。けれど早くない?」
先ほどと同じような疑問だったが、意図していることが多分少し違った。先ほどは美優の意思が変わらないのか、今回のは目星をつけている物件が残りっていないのではないかについての疑問だと思われた。だから、その疑問を解消するために説明する。
「別に卒業するころまで、考えている物件が残っているとは思っていないよ。ただ、意見をすり合わせておきたかったんだよ。例えば快速は止まってほしいとか、ワンルームはいやだとか、オートロックは欲しいとか」
具体的に求める条件を並べると、根岸も何かを夢想しているような様子で立ち止まった。ここでの生活を考えてみているのかもしれなかった。
とはいえ、いつまでも立ち止まっているわけにはいかないから、現実に引き戻すために声をかける。
「とにかく、実際に見てイメージをより鮮明にしたかったんだよ」
「じゃあさ、あのスーパーに入ってみたり、ここら辺を見て回ろうよ。そしたらもっとイメージが鮮明になるんじじない?」
すると、根岸は楽しそうにこちらの手を引っ張って歩き出す。それに従って俺達はしばらく周辺を見て回った。
「足疲れたー」
周辺の建物などをしばらく見回ると、根岸が休憩を促してくる。確かに歩き回ったせいで疲れたから、一度休憩を取っても悪くないと思い、喫茶店に入ることにする。
「喫茶店で少し休憩しようか」
「そうだね。あそこの喫茶店なんかよさそう」
すると、根岸もその提案に同意をしてくれて、休憩をとることになった。
「歩き回ったから疲れちゃったよー」
店内に入り席に座ったところでそう言った根岸は、続けて今日の感想を言う。
「いろいろと見て回れて私は楽しかったよ。拓海君はどうだった?」
「いろいろと参考になったよ。あと俺も楽しかった」
楽しんでくれたという事実に満足して、俺も正直に楽しんでしまったことを告白する。すると、根岸は楽しそうな様子になり、続けて今日どれくらい参考になったかも聞いてくる。
「それで拓海君。イメージはできた?」
「ここに住んだらどうなるかとかは、今日のことで考えられたかな。例えばあのスーパーでいつも買い物をしてから家に帰るかもとか、誕生日にはあの店でケーキを買うかもしれないとか」
実際、今日のおかげで日常生活の参考になったから正直に答えると、根岸は楽しそうにからかってくる。
「退屈な妄想だね」
「いいじゃん、平和な妄想はだれも傷つけないから」
波乱の日々を求めていなくて、退屈で平和な今の日常に満足している俺にとっては、なんてことはない日常で十分だった。
「お待たせしました。アイスコーヒーとアイスレモンティーになります。ご注文の品は以上でよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
注文がやってきて一度話が中断される。その後、俺達はのどを潤し、雑談をしながら休憩をとった。軽い休憩のつもりだったが、思いのほか時間が経っていて、既に遅い時間になっていた。だから、俺達は帰ることにして、駅に向かう。
俺達が家の最寄りの駅に着いたころには既に六時を過ぎており、夕暮れ時になっていた。夕日を眺めながら、根岸が呟く。
「もう六時を過ぎているね」
「そうだな」
「夕暮れ時なのに結構明るいね。ねえ、拓海君は夕暮れ時は好き?」
「とくに好き嫌いはないかな」
その質問の意図が読めないままに返答すると、さらによくわからない比喩が返ってくる。
「夕暮れ時って私たちみたいじゃない?昼と夜の間で中途半端な時間。子供として許可されないこともあるのに、大人としての責任を求められることもある。ね、似ているでしょ。私達は子供から大人に変化しようとしているんだよ。変化が怖い人もいるかもしれないけど、未来に向かって生きるためには、きっと必要なことなんだよ」
根岸の思考の一端に触れられたような気がしたが、これ以上は怖くて踏み込むことができなかった。そして、そのまま歩き続けて分かれ道にさしかかったところで、根岸が声をかけてくる。
「じゃあ、また学校でね。拓海君、今日のデートは楽しかったよ」
「俺も楽しかったよ。また学校で」
そんな俺の返事とともに、それぞれの帰路についた。それから、家に帰り、明日も退屈で平和な日常が続くように祈りながら眠りに就いた。




