2 消えた用心棒
マッサリア。
地上界における二つの大陸塊、北大陸と南大陸の間に浮かぶ大きな島の名にして、その島を統治する唯一の王国の名でもある。
伝説によると、マッサリア島は魔界から送り込まれたという。
魔界の王たちが地上界を侵略するために、次元を越えて島を一つ丸ごと飛ばし、一夜にして北大陸のすぐ南西の海上に出現させた、と語られている。
北大陸を統治していた諸王国は、勇者レヴィロスの下に結束して魔界の侵略に抵抗し、数年の戦いの後にこれを打ち破った。
魔界勢力を殲滅した後、マッサリア島は諸王国によって分割統治されたが、やがて独立の気運が高まり、紆余曲折を経て一つの王国、マッサリア王国として成立した。
王都はフォカニー、マッサリア島南東部に位置する港湾都市。現代においては二大陸との海上交易の玄関口として繁栄している。
文化的には北大陸諸王国の影響が強いが、南大陸からの文物が真っ先に流入する場所でもある。ことに食文化への浸透力は強く、トウモロコシ、トマト、ジャガイモなど、南大陸原産の野菜類が主食となっている。また、バナナやパイナップル、キウイといったフルーツ類も手広く流通し、一般的に食されている。
今なお発展を続けているマッサリア王国だが、決して平和で安全な場所ではない。
荒野に潜む山賊、周辺航路で掠奪を繰り返す海賊など、悪党は数知れず。
島の九割以上を占める未開地には凶暴な魔獣たちが跋扈し、本能のままに人々を襲う。
そして、地上界を浸食、侵略せんとする魔界からの攻勢もいまだ断続的に続いている。
無力な人々をそれらの危機から守るために戦う者たちが「冒険者」であり、冒険者同士の互助を目的として結成された団体が「冒険者ギルド」だ。
ロアリー・ジーベントゥルムとアンリエット・メルヴェイユは、冒険者ギルド内の一部署、調査部の一員である。チームを組んでから約一ヶ月、二人は毎日のようにフォカニーの内外を駆け回っている。
「申し訳ございません! このたびは、うちのギルドメンバーが迷惑をかけてしまって……!」
酒場スリーピング・スフィンクス亭に乗り込んだロアリーは、酒場の店主を見つけるや、まずは先制の飛び込み土下座を決める。
酒場の大将は、豊かな頭髪と鼻髭を蓄えた、強面の中年男性だ。
突然眼前で土下座され、一瞬ぽかんとしていたが、すぐに事情を察する。
「あ、ギルドの人かい! おいおい、土下座はやめてくれよ! そこまでされても、こっちが困るって」
大将は慌ててかがみ込み、ロアリーの上体を引き起こす。
「別に謝ってほしいわけじゃねえんだ。ただ、用心棒がいなくなったから、代わりが欲しいってだけで……」
「代理の人員は、こちらに用意させていただきました!」
ロアリーはイアンを手で示す。
「どうも、イアン・ザカリーです」
イアンは自己紹介し、軽く頭を下げる。
すらりとした体型の、若き冒険者だ。ジャケット、剣帯、長剣を覆う鞘など、身につけている物はことごとく新品で、見るからに駆け出しという雰囲気。
「このたびの件はこちらの不始末ですので、彼の報酬については、一ヶ月分タダとさせていただきます。彼の働きぶりが気に入らないようなら、更に別の人員を用意しますので、その際はお気軽に申しつけて下されば……」
「一ヶ月タダ? そいつはありがてえな。なんならもう一人雇いたいくらいだ」
ロアリーの提案に、大将は笑みを浮かべる。
「この時期、南大陸からの船がどんどん入ってくるだろ? 商売繁盛なのはいいんだが、酔って暴れる奴も多くてなあ。用心棒がいてくれないと、やってられんのよ。あんた、腕っ節に自信はあるかい?」
「えっ。えーと……」
突然水を向けられ、イアンは口ごもる。
「それは、何と言いますか、俺って最近ギルドに入ったばかりで……」
「ここは、自信があると言うんですよ」
アンリエットがイアンの背を軽く叩き、小声で強要する。
「あ、ありますとも。どんな荒くれだろうと、この拳でボッコボコにしてやりますよ!」
慌ててイアンは言いつくろう。
「ボコボコにしすぎるのも困るんだがね。ちょいと揺さぶっただけで吐く奴もいるからな。そういやあんた……」
大将はロアリーに目を向ける。
「昨日の晩、その辺で客が吐いたばっかりだぞ」
「ヒエッ! 早く言って下さいよ!」
ロアリーは一飛びして立ちあがる。
「道理で変な匂いがすると思った」
「だから土下座はやめろと言ったのに。まあとにかく、助かったよ」
「もし今後コールマンがここに戻ってきたとしても、仕事はイアンに任せますんで。その時は、ギルドに出頭するよう言ってやって下さい。イアンも頼んだぞ」
「分かりました。任されます」
頷いてから、イアンは大将に問いかける。
「それにしても、突然失踪なんて、何かあったんですかね?」
「正直言って、何もなかった。そこが謎なのよ」
「コールマンは、ここの二階に泊まり込みで働いていたんですよね」
大将は眉をひそめ、必死に記憶を掘り起こそうとする。
「働きぶりに文句はなかった。どんな荒くれ相手だろうと、しっかり叩き出してくれたもんさ。それでいて、自身は一滴も酒を飲まねえ。仕事中に調子こいて飲み出す用心棒を何人も見てきたから、あいつの真面目さには感動したよ。ところが一昨日、夕方頃に、『すぐに戻る』って言い残して出て行っちまったんだ」
「夕方ですか」
「なんか深刻そうな様子でね。帯剣もしてたっけな。たまにゃいいだろう、と思って、そのまま見送ったのよ。ところがその後、完全になしのつぶてでね。だからおたくのギルドに連絡したのさ」
「いやはや、本当に申し訳ございません」
「そっちこそ、コールマンが何か問題を抱えていたのか、知らんのかね?」
逆に問われ、ロアリーはアンリエット、イアンと顔を見合わせる。
「私は顔すら知りませんよ」
アンリエットが呟き、イアンも首をひねる。
「俺も全く接点が無いです」
「俺は、噂をちょっと小耳に挟んだことがあるような気がする。ギャンブル癖が酷くて、賭場を三日も離れると手が震え出すとか……」
とまで言ってから、ロアリーはここが客先であることを思いだし、慌てて咳払し、大将に向き直る。
「……えーと、とにかく、現状こちらではまったく把握していませんね」
「そうかい。一体何があったのやら。……そうだ」
大将は天井を指さす。
「上の部屋にコールマンの荷物が残ってる。持って行ってくれるかい?」
「もちろん、引き取らせていただきますとも。私物は残していったんですか」
「そうなんだよ。だから、バックれるつもりはなかったんだろう。事故にでも遭ったのかねえ」
語りながら、大将はロアリーたちを階上の一室へと導く。
シンプルなベッドにサイドテーブルが置いてあるだけの狭い部屋だった。両開きの窓を押し開けると、長方形の中庭を見下ろせる。周囲全てスリーピング・スフィンクス亭の建物で、中庭の南側には馬車が入ってくるゲートがあり、他の三面は個室の窓が並んでいる。
「なんだい、こりゃ」
テーブルの上に一冊の本が置かれている。ロアリーはそれを手に取り、中身を開く。
「日記みたいだな。八月三日、晴れ。朝食なし。昼食、トマトソースのサラダ、パン、スープ。夕食、ミートパイにワイン……食事のことしか書いてない」
「行方を追う手助けにはならなそうですね」
失望もあらわに、アンリエットは肩をすくめる。
「希望を捨てるのはまだ早い。コールマンがどこかのレストランで料理に文句を言ったせいで、コックに包丁で解体された……なんて事実が発覚すれば、こいつは重要証拠に早変わりするぞ。……いや、そうでもないかな」
ロアリーはすぐに発言を撤回する。食事に関する日記も、三日ほどで途切れ、以降は白紙。
「文字通りの三日坊主か。日記が途切れてしばらく経っている。ここで用心棒を始める以前だな」
パタンと日記帳を閉じ、テーブルに置き直す。
「他の荷物は?」
「これだけみたいですね」
イアンは、床に転がっていた背負い鞄を差し出す。
「鞄の中身は? 誰かから受け取った脅迫状とか、あったら助かるんだが」
ロアリーは鞄を受け取り、中身を全てテーブルの上に取りだす。
「この短剣は食事用かな。水で洗ったようだが、肉の脂が残っている。あとは着替えに、応急手当用の物資ってところか」
「手がかりなしですね」
アンリエットがつぶやく。
「貴重品を取りに戻ってくることもなさそうだ。いやはや。おとなしく持って帰るか」
ロアリーは取りだした物を元に戻し、ついでに日記帳も鞄に収める。
「他に残している物、あります?」
「いや、そいつで全部さな」
大将の言葉に納得して、ロアリーはイアンに目を向ける。
「それじゃ、俺たちは撤収する。ここでの仕事はよろしく頼む」
「任されました」
イアンは答え、一礼する。
「お二人は、ギルドに戻るんですね?」
「そうなる。荷物を預けたら、すぐにコールマン捜索の旅に出かけるよ。何一つ手がかりのない、あてなき旅の始まりだ」
ロアリーは重苦しいため息をつく。
「ひょっこり帰ってくればいいんですけどね」
アンリエットは希望的観測を口にしたが、ロアリーはしかめ面で応じた。
「そうはならないような気がするよ」
「ロアリーの予測は?」
「コールマンとは二度と会えない気がする。死体は海に捨てられ、魚のエサと成り果てているだろう。俺の調査部員としての勘がそう告げている」
「それはなかなかいい兆しですね」
「どういう意味だろう」
「ここ一ヶ月、勘が当たったことなんてあります?」
「いくらでもあるじゃないの。例えば……」
ロアリーは例を示そうとしたが、どれだけ記憶を掘ってみても、思い出すことができない。
「……アンリと組む以前には、そこそこあったさ」
「具体例を述べてもらえないと、納得できませんよ」
不利を悟って、ロアリーは話を打ち切り、大将に向き直って別れの挨拶を告げる。
「……今後とも、マッサリア冒険者ギルドをごひいきに、よろしくお願いします。それではこの辺で……」
「ちょっと待って。今ここで食事できます?」
ロアリーを遮り、アンリエットが大将に言う。
「食事?」
「はい。今朝はバタバタしていたんで、朝食を食べていないんですよ」
「そりゃかまわんよ。うちの自慢料理はタコスだが、どうかね?」
「大好物です。あと、ワインいけます?」
「そっちもいける。用意するから席で待ってな」
そう語って、大将は真っ先に階下へ降りていく。
「昼飯には少し早いが、食べられる時に食べておくか。しかし、アンリは本当に酒好きだねえ。こんな時間から飲むのかね」
「私はワイン程度では酔わない体質ですよ」
ロアリーの言葉に小さな笑みで応えつつ、アンリエットも階段へ向かった。