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かしこ可愛い姪っ子は、初恋のひとの娘です。

 駅からすこし離れた場所にある小さな喫茶店。


 ジャズピアノの軽やかな音色のなか、ふたつのコーヒーカップとひとつのモンブランをはさんで、おじさんは少女に問いかけた。


「まちなかで、急に叫んでみたくなることあるだろ?」

「考えたこともないです」


 実の姪にあたる美少女は、きょうも柔らかな表情を浮かべたまま、無碍なく伯父の言葉を切り捨てる。

 けれどいつものことだから、彼は気にせず話を続けるだけだ。


 アンティークな店内にはコーヒーの香りとともに落ち着いた空気が満ちていて、制服のブレザーに長い黒髪が似合いすぎる美少女と、平凡が眼鏡をかけたような白髪まじりの中年の組み合わせにも、不躾な視線を向ける客はいない。


「ないか? ストレスの発散、カタルシスの解放でもあり、やったらどうなるだろうという知的好奇心、あるいは破滅願望も含まれるのかも」

「……父と母にはだまっておきますね、心配するから」

「ああ、うん。けどなあ、漫然と生きてなければ、誰もが一度はこう、胸にいだく衝動だと思うんだよなあ」

「それを抑えるのが理性というものですよ」

「んーまあ、そうなんだけどさ」


 ぐうの音を出す前に、おじさんはひとまずコーヒーをすする。金縁の丸眼鏡が湯気ですこしだけ曇る。

 初老の店主が淹れるオリジナルブレンドは、鼻から脳に抜けるような芳しさと、苦みの向こうに甘みのひそむ味わいが絶品で、徒歩圏内に居を構える彼は、小説の執筆に行き詰ったとき気分転換によく訪れる。

 そしてひとりコーヒーの美味に満足して帰るのだ。


「……でも……」


 店内に流れる軽やかなジャズピアノの曲がちょうど途切れたタイミングで、モンブランの上に鎮座していた和栗の渋皮煮と入れ替わりに、少女の口から逆接がこぼれた。


「わたしの中に選択肢としてそれがなかっただけで、この話をしたあとのわたしは、叫んでみたいと思うこともあるかも知れない」


 流れてきた次の曲をバックに彼女は、和栗不在のモンブランを真顔で見つめながら、淡々と言葉をつづける。

 ちなみにその曲が、かの空想特撮TVドラマの主題歌「ウルトラマンの歌」のジャズアレンジであることに気付いているのは、店主とおじさんぐらいだろう。


「どうしてくれるんですか」

「いや、そう言われてもなあ」

「わたしが思わずまちなかで変なこと叫んでしまって、社会的におしまいになったら、おじさんのせいだ」


 柳眉をさかだて睨みつけてくる少女から目を逸らすため、またコーヒーカップに口をつける。

 いつもの穏やかな表情より、感情の込められたそれのほうが、より彼女の母親に似て見えた。 

 

「こうなったら、実際にまちなかで叫んだとしても平気そうな、カジュアル絶叫ワードを模索しましょう」


 コーヒーを皿の上に置くころには、少女はいつもの穏やかさを取り戻して、それどころかちょっと楽しそうにそんなことを言い出す。


「それは大喜利か?」

「いえ、大マジです」

「そうか、よし……」


 小説家志望のおじさんの発想力を鍛えるためと称して、二人はときどき大喜利対決をする。そしていつも、少女の柔軟な思考に打ちのめされる。


「お客様の中にお医者様は! ってやつはどうだろう」

「それ、隣にたまたまお医者さん歩いてたらどうするんですか」

「うーん、たしかにそれは気まずい……」


 そこからおじさんのいくつかのアイディアが却下されたのち、モンブランを食べきった少女が、満を持してひとつの案を提示した。


「はっくしょん、とかどうです?」

「……なるほど、くしゃみの擬声表現か。たしかに、それは悪くない。だてに自分だけ糖分を摂取してないな」

「ごちそうさまです」


 目を閉じ手を合わせ、丁寧に頭を下げて見せる。あいかわらず、いやになるくらいちゃんとした姪っ子だ。


 それからほどなく。少女を駅まで送る道すがら、二人は「くしゃみ」を試す機会を伺っていた。

 地方都市の郊外、退社時刻にはすこしだけ早く、人通りはまばら。やるなら今しかない。

 すこし先を歩く少女が、ちらちらとおじさんの方を振り向き、怪訝そうな表情に「やらないの?」という催促をまぎれこませてくる。

 

 どこからどう見ても美少女で、誰に対しても優しく、学業もスポーツもそつなくこなす。そんな少女に集まる感情は、必ずしも好意や憧憬だけではないのだろう。

 だから、叫びたくなることもあっておかしくない。


 外面も内面もそっくりだった彼女の母親を、同級生としてそばで見ていたおじさんは、なんとなくそれがわかる。

 それを見ているだけで何もできなかった自分への失望も、忘れることはできない。


「はあっくしょん!」


 思いっきり、くしゃみを棒読みにして叫んだ。胸の中のなにかが、すこしだけ軽くなったような気がした。見ると、少女は先を歩きながら、くすくすと肩を震わせている。


「……なんだよ、僕にだけやらせるのか?」


 不服そうに小声で呟いた、それが聞こえたのかどうかわからないが、急に足を早め距離をとってから、少女は胸を反らして息を吸い、大きなくしゃみをした。


 棒読みと呼ぶにはナチュラルすぎる、でも少女がするには盛大すぎるそれは、おじさんにもどちらなのか判然としなかったが、振りむいてにやりと笑って見せたということは、彼女の胸のなにかもきっと、すこし軽くなったのだろう。


 そういえば一度だけ、彼女の母親が同級生のころ、こうして駅までの道を二人で歩いたことがある。


 二人が通っていた高校の最寄り駅への道だ。少年だったおじさんは、今のようにネットで気軽に資料を調べられる時代ではなかったから、放課後はよく図書室にこもって勉強するふりをして、閉門ぎりぎりまでノートに小説を書いていた。


 ある日の帰り道、なぜか彼女は歩道のはしで立ち止まって、もう薄暗い空の下の電柱を、じっと見上げていた。


「いつも遅くまで勉強してて、すごいよね」


 彼に気付いてそう話しかけてきた彼女の頬に、ひとすじ光るあとがあったように思えたけど、見てはいけない気がして目を逸らし、そのまま二人で駅まで歩いた。


「……ありがとう」


 別々のホームに別れる階段の前で、彼女はなぜだかそう言った。あのとき、自分の恋心を叫んで伝えたい衝動をなぜ抑え込んだのだろう。

 いや、なぜかなんてことはわかっている。そんな勇気などあるわけがなかった。

 それでも何度、後悔したかわからない。

 弟の結婚相手として、想像した通りまっすぐに大人の女性になった彼女と再会してからも、何度も。


 ふと見ると、先を歩いていた姪っ子は、転んでしまったらしい小さな男の子の傍らにしゃがみこんでやさしくエールを送っていた。

 その子の母親であろう女性も、すこし申し訳なさそうな顔で見守っている。


 あのとき、衝動に身を任せていたらどうなったのだろう。

 どう転んでいたとしても、二人の関係性は違うものになっていたはずだ。その結果として、この姪っ子はきっと世界に生まれてきてはいないだろう。


「ようし、えらいぞ」


 泣かずに立ち上がって彼女に頭をなでられた男の子が、まんまと初恋に落ちる瞬間を眺めながら、おじさんは、薄れていく後悔を受け入れることにした。



お気に召しましたら、星にてご評価よろしくお願いいたします。

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