メイドの決意
「私、カーディフ宰相のメイドになるわ!」
高らかにアナスターシアは声を上げた。一緒にお茶を飲んでいた幼馴染のアーロンはぎょっとする。彼とはアーロンの母がアナスターシアの母と姉妹なので、生まれた時から頻繁に会う仲だ。
そして、少し内弁慶気味のアナスターシアが気負わずに話すことのできる数少ない異性である。さらに、アーロンは、アナスターシアがなるといった、宰相クライブ・カーディフの秘書官として働いている。
「私、本気よ!……だって、婚約者になって三か月。顔合わせ以降、全く音沙汰がないの」
アナスターシアは俯いた。
そのしょんぼりとした雰囲気に、アーロンはポリポリと頬を掻く。
「まぁ、確かに。閣下はまめなタイプではないね」
「そういう問題ではないわ!」
アナスターシアは顔を上げこぶしを握る。その紫色の目がらんらんと輝いている。
思い出すのは三か月前の顔合わせだ。あの時だって、彼はアナスターシアの顔を一切見なかったのだ。ただひたすらに、父と婚約の条件のすり合わせをしていた。若い女性らしく、婚約者という存在に心をときめかせていたアナスターシアにとってその対応は、がっかりでは言い表せないくらいに落胆させられたのだ。
道端の石ころにだってもう少し興味があるだろう。
アナスターシアにだって矜持がある。貴族に生まれたからには、政略結婚だって覚悟していた。しかし、たとえ政略結婚だとしても、石ころ以下の存在に成り下がる気はない。
ただ、これからのことを考えるにしてもアナスターシアは彼のことを何も知らない。
――――まずは、敵を知らねば
そこで冒頭の考えに至ったのである。
「協力してくれるわよね…!」
「えーーー」
がくがく揺さぶられながらアーロンは力のない声を上げた。その後には、勘弁してくれよーという心の声が続く。しかし、アーロンは可愛い妹分にはたいそう甘い。結局、協力することになるのだ。
こうしてアナスターシアは、婚約者のメイドとして働くことになったのだ。
「は、はじめましてアナです。今日からよろしくおねがいします。カーディフ宰相様」
「よろしく。早速だがお茶を頼む」
「は、はい!お好みはございますか?」
「飲めれば何でも良い」
「そ、そうですか……」
意気込んで職場にやってきたものの、初日からアナスターシアは心が折れそうになっていた。
最初の挨拶でちらりとアナスターシアを一瞥して以降、クライブは一切こちらを見ないのだ。何かを尋ねた際の返事は、簡潔を通り越して簡素だし、向こうから話しかけてくれることもない。これでは、何かを見極めることも、何かを育むこともできるわけない。けれど、アナスターシアだって生半可な覚悟で来たわけではないのだ。
――――ぜーーーったい負けないんだから!!
それは、アナスターシアの意地だった。
――――何でもいいなんて言わせない。これがいいと言わせてみせるわ!
そこから毎日毎日、違う種類の軽食とお茶を持ち込む。これはアナスターシアの意地で、厨房にそこまで無理は言えないので、軽食は自分で作る。
料理は得意だ。伯爵令嬢らしくはないが、あまり活発な質ではないので、家に引きこもっているうちに趣味になった。お茶は、休日に街を練り歩き、業者かという勢いでたくさんの種類を仕入れてくる。
休日に余ったお茶を飲まされたり、試作品を食べさせられたりするアーロンは辟易としていたが、アナスターシアは目標に向けて一直線だった。
そうしていると、段々と無表情かと思えたクライブの顔にも変化があることが分かってきた。好みの味付けだと、口にした後ほんの少し目が優しくなるのだ。それを見つけた時、アナスターシアは裏でひっそりとガッツポーズをとった。
それからは、好みのものに絞り、多少バリエーションをつけ提供するようにした。
「アナ、いつもありがとう」
最初は空耳かと思った。まじまじとクライブの方を見た。
――――お礼、お礼言われた。え、ちょっと待って、それって普通のことよね。
この人に普通の人と同じことができるなんて。
アナスターシアは普通に失礼なことを考えていた。
あんまり凝視したからか、クライブはきまり悪そうに咳ばらいをする。
「あー、何か褒美を取らせる。欲しいものがあるか?」
アナスターシアは勢いよく首を振った。褒美が欲しくて頑張ったわけではないのだ。
「そのお言葉だけで充分です」
そう、アナスターシアは彼に認めてもらいたかった。きちんとアナスターシアという個人を認識してもらいたかったのだ。嬉しすぎて顔がとりつくろえなかった。
――――いやだわ、にやけて変な顔になってないかしら。
けれど、認めてもらった、認識してもらったと思ったのは、アナスターシアの勘違いだったようだ。
アナスターシアの誕生日、気を利かせたアーロンが一芝居打ってくれた。
婚約者の誕生日に、贈り物の一つもないのはかわいそうだと思ったのだろう。
「えー、アナ今日誕生日なの?早く言ってくれたら何か用意したのにー」
「えぇ、そんな」
「いくつになったの」
「18歳です」
後日でもいい、何か贈ってもらえるかしら。アナスターシアはそんな淡い期待を抱いていた。
そうしたら、その後すぐにクライブがアナスターシアにきれいにラッピングされた包みを渡してきたのだ。
――――もしかして私の誕生日覚えていてくれたのかしら。
衝撃で息が詰まりそうになったアナスターシアにクライブはぶっきらぼうに言う。
「誕生日なんだろう?やる」
アナスターシアはぬか喜びしないように慎重に尋ねた。
「…でも、これどなたかにお渡しするものだったのでは?」
「…気にするな。気に入らなければ売るでもすればいい」
「……ありがとうございます」
やはり、アナスターシアの誕生日を覚えていたわけではないようだ。そうであれば、アナスターシアに渡すために準備したと言うはずである。がっかりした顔にならないように、表情を引き締め、包みを開ける。
アナスターシアは別の意味で衝撃を受けた。
「……綺麗」
そこには、クライブの色をまとった髪飾りがあった。
――――自分の色を、どこの誰に渡そうとしていたの?婚約者がありながら。
しかも、クライブは気に入らなければ売ればいいと言った。
そんなに気軽に渡せるものなの?
――――私には、贈り物一つ贈ってはくれなかったのに?
アナスターシアは泣きそうになりながら、必死に表情を取り繕った。アーロンがアナスターシアのことを心配気に見ていたが、それに気づく余裕もなかった。
――――あぁ、私。いつの間にか、この人のことがとても好きだったのね。
真剣に仕事に取り組むその顔も。
好物を食べていると少し柔らかくなるその顔も。
ぶっきらぼうであっても決して横暴な人ではなかった。言葉が少なくても穏やかな関係を築いていけると思っていたのに。
その後、さらにアナスターシアをがっかりさせる出来事が起こった。
伯爵家に、クライブから婚約解消の申し出の手紙が届いたのだ。
――――こんなに大事なことでさえも、あなたは直接おっしゃってはくれないのね。
クライブと打ち解けた、少しは信頼してもらえたと思っていたのはアナスターシアだけだったのだろうか。あのように簡単に渡せる髪飾りを持っていたのだ。きっと溢れるくらいに贈り物をしたくなる、新しい彼女ができたということなのだろう。
――――しかも、私の新しい婚約者にアーロンをなんて…
この半年強、頑張り続けた心がぽっきりと折れてしまった。
父が心配気にアナスターシアに声をかけてくる。
「大丈夫かい?アナ。でもお父さんは良かったと思うよ。君にはもっと誠実な相手が似合う」
侯爵家から持ち込まれた縁談だったので断れなかったが、もともと父はアナスターシアをないがしろにするクライブを良くは思っていなかった。
これ幸いと、婚約解消の方向に動き始めた。
――――もう少し、もう少しよ。婚約が解消されれば、お暇しましょう。
アナスターシアは自らを奮い立たせ、働き続けた。
そして、今日。メイドを辞めさせてもらえるよう話をしよう。
そう思っていたのに、その日、なぜかクライブはアナスターシアに小さな花束をくれた。
あれ?とアナスターシアは思う。
「カーディフ宰相様、少しお話があるのですがよろしいですか?」
「……なんだ?」
「実は、こちらをお暇させて頂きたく存じます」
クライブの呆然とした顔を見て、さらに疑問が募る。
もしかして?
「………何故だ?」
「こちらに伺う理由がなくなったからです」
アナスターシアは、お仕着せのホワイトブリムとメガネを取った。
「アナスターシア・ダルトンと申します。あなたの元婚約者です」
クライブは珍しく口をあんぐりとあけた。
「……そんな、まさか」
――――やっぱり。
アナスターシアは気が付いた。
まさかとは思っていたが、クライブはアナスターシアのことを自身の婚約者だと認識していなかったのだ。これにはアナスターシアもびっくりした。
確かに、一度会っただけなので、顔だけでは分からないこともあるだろう。
しかし、いくらクライブが人に無頓着であっても、普通専属メイドの家名くらい確認しないだろうか。
「カーディフ様のメイドが辞めてお困りだというので、お手伝いのつもりで参りました。中々お会いすることも叶わなかったので……その、あなたのことが知りたくて」
「ま、待ってくれ」
ちょっと意地悪な気持ちになってアナスターシアは言い募る。
「でも、私ではお役に立てなかったようですね……新たな婚約者様までご紹介いただきありがとうございました」
クライブはアーロンをぎっと見る。
「……気づかない閣下が悪いんですよ」
アーロンは、ふいっと目をそらした。
アナスターシアは初めて見るクライブのあわあわとした様子に少し溜飲が下がる。
――――もしかして、私、嫌われていたわけじゃないのかしら。私だけじゃなく、この人の中にも、私と同じ気持ちがあるのかしら。
クライブは震える声でアナスターシアに尋ねてきた。
「……アナというのは何故」
溢れてきた気持ちをそのまま言葉にする。
「恋人に愛称で呼んでいただくのが夢で」
クライブは口許をおさえて俯いた。
その後、結局アナスターシアはメイドを辞めた。
けれど、クライブは時間を見つけてアナスターシアに会いに来てくれるようになった。
折に触れて贈り物をしてくれるようになった。
アナスターシアと結婚したいと言ってくれるようになった。
父は渋い顔をしていたが、アナスターシアは幸せだった。
――――それでも、もう少し。私が頑張った期間くらいはあなたも頑張ってくださいな。
求婚の返答を返すまであと少し。
アナスターシアは自分に会いに来るクライブの姿を自室の窓から見つめにっこり笑った。