第一部(後編) 地獄から、さようなら
※第一部(前編)の続きです。
ゴンドラの椅子は思ったより硬くて、お尻がすぐに痛くなった。少し腰を浮かせると、なぜだか頭の上を押さえつけられているような圧迫感を覚えて、私はうつむきがちに体を左右に揺らしていた。
向かい合わせに座る倫くんは、最初はゴンドラが少し揺れるたび「おおっ」と小さく声を上げていたけどそのうち慣れて、中心軸の真横にさしかかる頃には、外の景色を楽しむ余裕さえ見せていた。
この観覧車が一周したらデート終了の時間だと告げられた私は、外の景色よりも倫くんの方ばかり見ていた。
「地獄の炎に比べると、太陽の光は目に優しいね。ここは天国みたいだ」
ゴンドラの窓にピッタリ張り付いていた倫くんが、こっちを振り返って白い歯を見せた。窓の表面は少し曇っていて、彼の鼻孔の形の跡がうっすらと残っていた。そんな彼の様子を見て、私はようやく腑に落ちた心地になった。
「あのね、倫くん……私、ずっと気になってたことがあるんだ」
「なんだい?」
「倫くんが、地獄に落ちた理由」
倫くんのアーモンド形の瞳が大きく見開かれた。ダムの水面にうがたれた巨大な穴のような、吸い込まれそうで怖いけど、目が離せなくなる力があった。
「やりとりしている間、ずっと思ってた。どうしてこんなに良い人が、殺人の手伝いなんかしたんだろうって。こんなに心の綺麗で、すごく楽しそうに笑う人がどうしてって」
倫くんは見開いた目から力を緩めて、でも私のことを真っ直ぐに見た。
「七重さんには、僕のことを嫌いになってほしくないんだ」
その視線から私も目をそらさなかった。
「嫌いになんて、なったりしない」
この観覧車から降りたら、倫くんには二度と会えない。だから、ごまかさずに言おうと思った。
「だって、倫くんは本当は……本当のあなたは……」
倫くんが前のめりに身を乗り出したとき、ゴンドラの位置は頂点にたどり着いて、強風にぐらりと揺れた。
「キャッ」
私がよろけたとき、サッと目の前に手が差し出された。白くて骨ばった細い腕が続いて伸びた。私の目前を通り過ぎたかと思うと、ゴンドラの窓にぶつかりかけた体を支えてくれた。衝撃を受け止めるにはあまりにも頼りない、筋肉も脂肪もない腕だった。
「怪我、ない?」
「ありがとう……倫くん」
私はその腕の手首を、自分の両手で包み込んだ。人差し指と親指で輪を作れば収まるほどの細い手首は、氷のように冷たい。彼の生前の姿を思うと、鼻の奥がツンとした。
「本当の姿を見せるのが、遅くなってごめんね」
レストランで立てた笑い声のときより、1オクターブは高い声が耳元で聞こえた。
「……いいの。たぶん、そうじゃないかと思ってたから」
私が顔を上げると、そこには7歳ぐらいのひどく痩せた子どもが立っていた。細いのは腕だけではない。服の上からでも分かるほど足も胴体も棒のようで、頭部を支える首は割り箸より簡単に折れそうだった。頬がこけてげっそりとした顔のせいでアーモンド型の瞳がより強調されて、不気味なほど鋭く光っていた。昔の絵巻に出てくる、飢えた餓鬼を彷彿とさせた。
「どうして分かったの? 僕が死んだとき、まだ『子ども』だったってこと」
私はその子をとなりに座らせると、彼の頭をそっと撫でた。わずかに私の方に体を傾けると、気持ちよさそうに目を閉じた。
「人は死んで魂だけになると、ずっと年を取らない。たとえ黄泉の世界で長い間過ごしたとしても、魂は永遠に若いまま。親戚のお葬式で、そんな話を住職さんから聞いたことがあって」
「僕は10歳のときに死んでもう16年が経つから、七重さんと同い年のつもりでいたんだけど」
「……10歳だったんだ」
外見よりも3歳は年上だったことで、痩せ具合がより痛々しい印象を残した。
「倫くん。生きているとね、人は多かれ少なかれ悪い経験を積むの。生き延びるために賢くもなるし、ズルくもなる。嘘をつくとか他人の足を引っ張るとか、汚いことも覚えなきゃいけないから、いつまでも子どもではいられない」
ゴンドラは頂点を過ぎてから下降するスピードを速めたのか、乗車してからすでに4分の3の位置まで来ている。外に広がる眺望の良い景色の中に、小学校と運動場と思しき施設がちらほらと目に入った。
西日が射して、私たちの足元の上を窓枠の長い影が伸びている。下校時刻の学校の廊下が、脳裏に浮かんだ。
「倫くんが心の底から楽しそうに笑う姿を見ていたら、子どものまま、ずっと変わらないできたんだろうなって。お母さんのこと、すごく愛してたんだろうなあって。だから……その姿を見ていると、張り裂けそうに胸が痛くなった」
今なら分かる。私が倫くんに抱いていたのは、ただの恋心じゃなかった。子どもを産んだことはないけど、私の中に眠る母性が呼び起こされて、守ってあげたかったのだと。
「倫くんの前世はきっと、すごく辛い人生だったんだね……寄り添おうともしないで、自分のことばかり話して、ごめんね」
ぐすん ぐすん
となりから鼻をすする音が聞こえて、私は倫くんの顔をのぞきこんだ。氷が解けて水の表面張力が崩れたときみたいに、その大きな瞳からぽろんと涙がこぼれ落ちた。倫くんの口が小刻みに震えた。
「お母さんは僕に、妹の口を塞がせたんだ。睡眠薬を飲ませたあと、吐き出さないようにって……家族全員で、死んだお父さんに会いに行こうって」
ひっくひっくと、倫くんが肩をしゃくり上げた。
「ずっと……ずっと待ってたんだ……お母さんが、地獄から出れるまで……」
「どうして?」
「僕は……どんな目に遭っても、やっぱりお母さんのことが、大好きだったから……お母さんと一緒に、生まれ変わりたくて……」
途切れ途切れに話す倫くんの服に涙が次々と落ちて、雨粒が降りかかったような模様を描いた。
「倫くん……こっちにおいで」
私は倫くんに両手を伸ばして、おくるみで包むようにぎゅうっと抱きしめた。自分の胸の内側から込み上げてきた熱と、小さな体の冷たい体温が混じり合う。
「七重さん……あったかぁい」
子どもらしい甘えた声が、お腹のあたりから聞こえた。私はその声の主の背中を、水気を拭きとるように何度もさすった。
「倫くんのこと、前世からずっと、温めてあげたかった」
ゴンドラは子宮で、私は羊水。倫くんという無垢な魂が、ゆらゆらと揺りかごのように揺れた。
倫くんの背中をさすっていた手を止めたら、彼は私から体を離した。その顔には赤みがさして、こけていた頬がわずかに膨らんだように見えた。
「見て、綺麗な夕焼け」
倫くんに言われて、私は窓の外を眺めた。朱色の炎におおいつくされた街が、徐々に私たちと近くなっていく。
倫くんが、もうすぐ地獄の業火から解き放たれる前触れのようでもあった。
「七重さん、チョコありがとう。美味しかった」
低い声がしてハッとしたら、爽やかな風貌の青年がとなりに座っていた。
「食べてくれたんだ。お口に合って良かった」
「今度生まれ変わったら、また七重さんに会えるといいな」
倫くんが、私の手を取った。大きくなった手は男らしくて、さっきまでの冷たさとは打って変わって、とても熱かった。
「それまで、元気でね」
私は倫くんを見上げて、努めて明るい笑みを浮かべた。
ゴンドラが地上に着いた拍子にガッタンと揺れて、私たちはお互いの両手に力を込めた。なにかヒリヒリとした痛みが、指の先から心臓に伝わってきて、それが最後の触れ合いになった。
私だけが降りたあと、ゴンドラは倫くんを乗せたまま再び空へと上がっていった。アーモンド型の瞳が、ゴンドラの中から私の方をじっと見ている。と、その口が大きく開いて、唇から一文字一文字の形がくっきりと伝わってきた。
――七重さん、大好きだよ。
次の瞬間、夕日の光がゴンドラに反射したかと思うと、私が目を凝らしたときには、そこにはもう誰も乗っていなかった。冷たい風が吹きつける。観覧車が鐘のように揺れ、体がぶるりと震えた。
「倫くんが、お母さんとまた家族になって、今度は幸せに暮らせますように」
夕焼けと同じように目を赤くさせた私は、寒さでかじかむ手を合わせて、親子二人が来世で再びご縁があることを強く願った。
(了)
◎前編から最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。
◎予定は未定ですが、オムニバス形式で続けていきたいと思います。