2-2
わんわんと泣きながら縋り付くローザに、されるがままになっているツバキは、自らに集まる数多の視線に、居心地が悪そうに眉をひそめた。
「動物園のウサギじゃないんだけど?」
じろじろ見るなと不快を訴えるが、ローザは血塗れの白い制服で鼻水を拭きながら笑う。
「当たり前なのだわ。ツバキはウサギとかリスとかの小動物でおさまるタマじゃないのだわ!」
「へえ、じゃあ私は何だというの?」
「とっても大きいライオンよ。……態度の」
「ふぅん、ライオンねぇ……って、最後におかしな言葉が聞こえたのだけど?」
「気のせい気のせい!」
よほど嬉しいのだろう、ローザはその生を確かめるようにもう一度強く、おもいっきり親友を抱きしめる。が、すぐにシズマによって、彼女はベリッと引き剥がされてしまった。
「な、何をするのだわ!」
「いえ、その……、このまま見ていたらせっかく生還したツバキさんが絞め殺されかねないので……」
「へ?」
きょとんとしているローザの腕の中で、全身の至るところを骨折しているツバキは白目を剥きかけていた。
ぐでっと伸びたカゲロウがそんな主を見上げ、
「あーあ、また痛いの痩せ我慢してー……」
と、ぼやく。
「痛くないし」「いんや、泣きたいくらい痛いね」
「痒くもないし」「だろうね、痛いもんね」
まるで子供のような、幼稚な言い争いを繰り広げる主従だが、先に主の堪忍袋の緒がぶち切れた。
「煩い煩い! カゲロウ、あなた一人、いや一匹を、ここからあの敵の所までぶん投げるくらいの力は充分に残っているんだから、これ以上ごちゃごちゃ言うなら、本気でアイツに向けてぶん投げてやるわ!」
「や、やめてよ!? 死んじゃうから! ボク、ホントにそんなことされたら死んじゃうからね!?」
時間稼ぎも出来ないから! と、カゲロウは全身の毛を逆立て、持ち上げられないように伏したまま、地面に爪を立てた。
「相変わらずね、二人とも。……でもどうして無事だったの?」
おもいっきり障壁に激突したのでは? と首を傾げるローザに、ツバキは骨の砕けた右腕を掲げる。
「簡単な話。進行方向と逆の力を与えてやれば減速する。だから地面すれすれを飛んでいる時に、手で地面を掴んで勢いを削ぎ落としていた、それだけよ」
ま、腕が千切れないように減速をかけるのは言うほど簡単でもないけどね。と付け加えると、ツバキは緩慢な動作で立ち上がった。
それを視界に収めたカゲロウも、彼女に倣うように四本の脚で震えながら立ち上がる。
ぎょっとした表情でそんな二人を叱咤したのはシズマだった。
「な、何をしているんですか! じき、時の竜騎兵より増援が来ますから! それまで貴女はそこで安静にしていて下さい! カゲロウ、貴方もです!」
ツバキは障壁を張り続けるシズマのその言葉を立て板に水の如く聞き流す。
「ツバキさん! 聞いているのですか!? もう充分です、というよりもう大殊勲ですから!」
シズマの言葉にカゲロウが首をかしげた。
「ねえツバキ、ダイシュクン? って何? 何?」
「もっともっと戦って来い。死ぬまで戦えってことよ」
「いや、違いますよね!? 知ってますよね意味!」
笑顔でさらりと嘯くツバキにカゲロウは「ふーん、そっか」と髭をひくつかせる。
どうやら彼の中では大殊勲は死ぬまで戦うことになったようだ。
「とにかく貴女はそこで休んでいてください、ツバキさ──」「──鬱陶しい」
言い切るより前に、ツバキにさらっと暴言を吐かれたシズマは「えっ」と頬を引き攣らせる。
「あなたの言葉が長くて鬱陶しいって言っているのよ」
「と言われましてもですね……」
癖で敬語になりがちな彼にとって、その分言葉が長くなるのは仕方のないことで。
「ねえツバキ、どうする?」
唸るシズマなどそっちのけのカゲロウの声に、ツバキはシズマから視線を外すと、瓦礫をさらに物色している魔物を丘の上から見下ろした。
「そうね、アレがやってくれたのは本当だものね。……すぐにでも報復してやりたいところだけど……まだまだ日が高いわ」
残念そうに正午の太陽を見上げるツバキ。
ローザは不安そうに、紅く染まった制服の友の背を見つめている。
「ねえツバキ、アイツは間違いない、アスタロト……猛毒を司る太古の悪魔だよ」
と、ふいに周囲に響いたカゲロウの発言に、場がどよめいた。
名前までは知らないものの、本物の悪魔だということに薄々勘付いてはいたらしいシズマは「やはりそうか」と思った程度なのだろう、取り立てて驚いた様子はない。
そう、悪魔に対しての驚きはないのだが──。
「あら、投げられるまでのあの短期間に、もう情報収集できたの? さすがは私の偵察ね。ご褒美に後で高級猫缶『マッシグラ』をあげるわ」
「ついでに猫じゃらしも付けてくれるとボク嬉しいなー」
「そう? じゃあ欲張りさんは両方なし、ね」
「えええええっ!?」
こんな時であるというのに平常心を保ち続ける主従の姿に、シズマはそちらにこそ驚きを通り越し、不気味さすらを覚えていた。伝説でしかない存在──悪魔が目の前にいるのである。だというのに民間人であるはずの彼女達の落ち着き様は何だろう、と。
横暴だー、と騒ぐカゲロウの鼻の頭を指で弾いたツバキは顔を上げる。と、自分をじっと見つめていたシズマとばったり目が合ったらしく、ツバキは何かを思い出すように、ちらりと斜め上を見上げた。
「ああ、えっと確か、あなたはさっきの──」
「ツバキ、アイツはツバキの腕斬った奴! 敵だ! 敵だよ!」
主がシズマのことを忘れてしまったと踏んだのだろう。
カゲロウは毛を逆立て、主に警戒を促しながら、シズマのその腰に穿いた剣を睨んだ。
「カゲロウ、少し黙りなさい。その件はローザを無事連れ出してくれたみたいだからもうどうでもいいの。……で、ええと、名前忘れたわ。シグレだったかしら」
「シズマです。時の竜騎兵、七天使が一、シズマ・イヴァノフ・ゼヴィン。与えられた天号は”ウリエル”で──」
「長いわ」
シズマは時の竜騎兵の形式に則って名乗りを上げるものの、途中で「面倒くさい」と言わんばかりにツバキに話を切られてしまった。
「す、すみません……って、な、何でしょうか!?」
ふいにツバキは己の顔を、吐息がかかる程までシズマに近付け、やたらまじまじと彼を観察し始める。
そのあまりの近さに、シズマは体を弓反りに反らして、ツバキの顔から距離を取る──が、離れた分だけツバキが顔を寄せるため、結局距離は変わらない。どころか、周りから見ると、ただのシュールで間抜けな絵面になってしまっていた。
シズマは視線だけをローザへと向け、彼女に助けを求めるが、ローザは「諦めて」と言わんばかりに腕で宙に大きくバツを描いた。
「すみません……それ、ツバキの癖なんです……」
「癖じゃないわ。昔、ある人から教わったの。人はよく観察しなさいって。で、シグレ、あなたの能力は?」
よくよく観察する割には、つい先程名乗られた名前すら覚えていないという有様だが、ツバキは「能力、能力」と、シズマへと能力の開示を求める。
「……シズマです。僕の能力は天象操作ですが、それがどうかされましたか?」
ふーん、天象操作。とオウム返しに呟くツバキは、彼の問いには答えることなく、次いで、悪魔を丘の上からたっぷりと観察し──そろそろね、と呟いた。
「え、何がそろそろなの?」
ローザは友人の呟きの意図が汲み取れず、彼女へと率直に訊ねる。
「ん? アイツは今、寝起きの寝坊助だけど、そろそろ覚醒する頃だって話」
それはもう、さらりととんでもないことを言ってのけたツバキの声に、生徒達が再び大きくどよめいた。
シズマは注意深くアスタロトを睨み付けながら「そういうことですか」と納得したように呟く。
「おかしいとは思っていました。あれが伝説の悪魔であるなら、攻撃がこんな生半可なものであるはずがないですからね」
「でしょう? アレは自分を呼び出した贄共の心臓を美味しく頂いて、腹ごしらえも済ませたようだし……そろそろ陽気に朝の散歩と洒落込みだすんじゃないかしら。……猛毒を撒き散らしながら、ね」
刹那、そんなツバキの声に呼応するように、今まで瓦礫を漁っていた悪魔──アスタロトは一度羽を大きく伸ばすと、銅鑼を叩くような大声を上げた。
その声は音波となり、砂塵を舞い起こし、空気を大きく揺るがす。
「あら、案の定お目覚めのようね。さて、こちらは戦闘員少数に対し、お荷物は数百余名。あちらは単騎とはいえ太古の悪魔、アスタロト。結果は──まあ、考えるまでもないわね」
喉の奥でくつくつと笑うツバキに周囲から批難の目が集まるが、彼女は気にした風もなく、至って自然体だ。
「アスタロト……」
ローザが呆然と悪魔の名を口にする。
「ま、もう少し早ければ召喚を止められた、とは言わないわ」
「うん、完璧に手遅れだったもんねー」
どうやらツバキは、放送室を飛び出した後、悪魔の召喚を止めに向かっていたようだ。
「そうね。カゲロウのヒゲを頼りに、悪魔召喚に使われている教室に辿り着いた時には時既に遅し……どころか遅すぎにも程があったわ。封じてあったはずの魔導書は燃えて既に灰。悪魔は骸の胸に顔を突っ込んで、もぐちゃもぐちゃとお食事中。わざわざ突撃したことを心底後悔したわ」
言葉の通り、本当に骨折り損だもの、とツバキは砕けた己の腕を見下ろし溜め息を吐いた。
アスタロトは、久々の現世にも段々と慣れてきたのだろう、蝙蝠のような羽を拡げると、バサ、バサと重い羽音を立てながら僅かに宙に浮く。──と、風圧で周囲へと押しやられた空気や砂塵が触れた、校庭の草木がたちどころにパキパキと音を立てて枯れていった。
「猛毒か……!」
シズマは咄嗟の判断で、目の前に張っていた障壁を解除し、悪魔そのものを己の能力で発生させた巨大な竜巻の中心部へと閉じ込める。
「へえ、やるじゃない。確かにそれじゃあ竜巻外に高濃度の毒霧は拡散しない」
「……貴女は一体どっちの味方なのですか」
まるで第三者のような目線のツバキの姿に、苦笑するくらいにはシズマにも落ち着きが戻ってきていた。
実力こそは全く知らないものの、大怪我を負いながらも尚、余裕綽々といった表情のツバキは今この場において、心理的にではあるが、シズマにとって非常に心強い存在となっているようだ。
「ツバキ、問いますが、貴女の洗脳はあの悪魔に効きますか?」
「悪いけれど、絶対無理ね。諦めて」
「ですよね」
もとよりダメ元の問いだったらしく、ツバキの回答に対するシズマの割り切りは早い。
洗脳が通じるような相手ならば、そも、封印を必要とされることもなかったはずだ。
「……ところでなのだけれど。私はあなたに呼び捨てにされる覚えはないわよ?」
ジロリ、と己を睨むツバキの黒曜石の瞳を正面から見返しながら、シズマはニヤリと口端を釣り上げた。
「僕の話は長いですからね。せめてどこか省略しようと努力した結果なのですが」
まさかの敬称である『さん』を省略されたツバキは、鼻の頭に皺を寄せながらも、己の言い出したことである手前、強く文句を言えないらしく「勝手にすれば?」と吐き捨てるようにボヤく。
「で、竜巻に閉じ込めたまでは良いけれど、これからどうする気なのかしら?」
気を取り直したようなツバキの声に、シズマは竜巻を見やり、
「このまま竜巻内の毒の濃度が上がって、勝手に溶けてくれたら万々歳なのですがね」
と希望を口にした。
外皮の弱い魔物にはそこそこ使える戦法なのですが、と続けるシズマの言葉をツバキはそれはもう容赦なく一刀両断する。
「あ、それもまず無理ね。……あなた勘は良さそうだから、なんとなく勘付いているとは思うけれど、アイツそのものが猛毒の塊みたいなものだもの。本体が毒である以上、アレが自身の毒で溶かされることはまずない。そうでしょう?」
生徒達の気を紛らわそうとした希望的推測をツバキにバッサリと切って捨てられたシズマは「それは気付いていますけど……」と複雑そうな表情を浮かべた。
「さっきは運良く寝覚めで毒がまだ体皮に滲んでいなかったから、私は溶かされずに済んだけれど……。もし今アイツに直接触れようものなら、触れた部分から肉体がぐずぐずに溶けて腐り落ちるでしょうね。……というかそもそも今校庭に戻りなんかした日には、呼吸をしただけで肺から腐ってお亡くなりよ」
竜巻は確かにアスタロトの毒霧を閉じ込めてはいるが、その竜巻自体が周囲の空気に触れてしまうのは仕方のないことで。
猛毒に汚染された空気は既に、生命が存在してもよいと微笑んでくれるものではなく、吸う者の生命を奪い取る死神の如き存在へと変貌していた。
「でもまあ、あなたもそろそろお疲れでしょう? 見たところあなた、防衛向きでもなさそうだし。普通に考えて、それだけの竜巻を維持し続けるのは難しいわ」
シズマは力をだいぶ消耗しているのだろう。玉粒の汗がいくつも浮かぶその顔は傍目に見ても血色が悪く、またその呼気も乱れている。
生徒を護る為、幾重にも障壁を張り巡らせた後、立て続けに巨大な竜巻を発生させた彼は、力を大いに消耗しているようだった。元来の能力が防衛向きでないのもまた、彼にとって向かい風となっているようである。
「気にしないで下さい。時の竜騎兵から応援が来るまでは保たせてみせますから……」
大粒の汗を浮かべながらも尚、気丈に微笑むシズマをちらりと横目で見たツバキは面倒なものを見たと言わんばかりに、はぁ、と一度大きく溜め息を吐き──。
「カゲロウ、行くわよ」
相棒に一声掛けるが早いか、まるで小鳥が数歩先に落ちていた木の実に気付いたように、軽い足取りで、両手で剣の両端を支えるように構えているシズマの横をすり抜けた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 校内に戻ろうものなら呼吸しただけで死ぬと、今貴女が言ったばかりじゃないですか!」
ツバキが校庭へと戻ろうとしていることに気が付いたシズマが声を張り上げ、制止をかける。
すでに疲弊がピークに達しているシズマは竜巻を維持するためにその場を動くことができなかった。剣を横にし、それを両手で眼前に構えることで、己の力を剣先を通して自身の身体に環のように循環させることで魔力を節約し、比較的低燃費で巨大な竜巻を維持させているシズマだが、その体勢のために身動きが一切取れないらしく、目の前で校庭に戻るという蛮行に走る少女を追うことすらできない彼は己の力不足に歯噛みしながら、群衆の中にローザの姿を探した。
と、どうやらツバキが戻ったことで安堵していたローザは、まさか再びツバキが悪魔の許へ向かうなどと考えもしていないのだろう。群衆の中に見つけた彼女は、嘔吐を繰り返す生徒の背を心優しくも「大丈夫、大丈夫」と励ましながら擦っていた。
「ローザ、ローザ! 今すぐツバキを止めなさい!」
急に飛んできた、己を呼ぶシズマの声に「へ?」と疑問符を浮かべながら首を上げたローザのその目に飛び込んできたのは、身軽な動きで丘を駆け下りる親友の姿──。
「な、な、なにしてるのだわ──!?」
ローザの叫びが聞こえたらしいツバキはふいに背後を振り返る。と、どうやら丁度ローザと目が合ったようだ。
ツバキは少しだけ、何かを考える素振りを見せるも、すぐにそのまま丘を下って行ってしまった。
立ち去る直前、己へと何かを告げるように小さく動かした口の、その聞こえなかった言葉を解しようと、ローザは同じように口を動かし──、
「ばんごはん、しちゅーでよろしく。……は? ば、バカじゃないのー!?」
彼女は盛大に激昂した。