8-6
「やっぱり、ね」
その声とともに、急にぴたりと止んだ猛攻に、アスタロトは怪訝な顔をツバキへ向ける。
「何がやっぱりなんだよ?」
「あなたは未来が視えると言っていたけれど、あなたの動きはまるで、未来を”予測”している者の取る動きだわ」
その言葉に、アスタロトの表情が怪訝なものから、驚きに満ちたものへと変わった。
「やっぱすげえな、アンタ。実際その通りだぞ。俺様は数ある未来をいくつも一瞬で視ることができる。だから俺様は、アンタの動きから視た未来の一つに対して対処しているに過ぎないのさ。……んー、でもやっぱりこれって無茶苦茶な能力だぜ?」
のらりくらりと話してはいるものの、その意識はしっかりとツバキ、そして後方のシズマへと向けられている。
「まあフツーの人間なら、そんな未来の情報を一気に与えられても情報オーバーになるのが関の山だろうが、残念ながら俺様は悪魔でね。数千いや、数万の未来を同時に視ることくらいお手の物ってわけだ」
アスタロトがゆっくりと腕を水平に持ち上げた。
その動作に呼応するように、洞窟の奥からわらわらと更なる魔物の軍勢が現れる。
「ざっと百……いえ、二百はいるかしら」
面倒ね、と唸るツバキの背後に、シズマが背中合わせになるように回り込み──、腰に穿いていた剣を眼前に構えた。
「一応聞いておくけど、何のつもり? 仲間ごっこなら他所で──」
「──少なくとも、互いの死角は多少補えるかと」
ツバキの言葉を待たずに言い切ったシズマは、背中を合わせているため、背後のツバキの表情など見えるはずもないのだが、彼女がその顔を不快に歪めている様が容易に想像できたらしく、彼は一人で小さく苦笑する。
「ああそう……勝手にすればいいわ……」
深く息を吐く、ツバキの豊かな黒髪が風に煽られたかのように大きくうねった。
「ま、せいぜい私の太刀筋に巻き込まれないよう注意だけはなさい──な!」
刹那、大鎌が闇色の軌跡を描くように横に閃く。
彼女へと飛び掛かった一匹の、腐乱した蜥蜴のような魔物は、その身を横一文字に分断され、地へと落ちた。
それを皮切りに、群れを成して襲い来る同族の魔物を片っ端から鎌と刀とで斬り捨てていくツバキだが、彼女の剣檄の合間を縫うようにして一匹の蜥蜴が運良くそれをすり抜ける。──が。
「無駄!」
合間を運良く切り抜けた蜥蜴だったが、法力を込めたツバキの足に蹴り上げられ、蜥蜴はその骨を砕かれながら宙を舞った。
だが、その死は無駄ではなく、仲間の図らずして作った好機に、他の蜥蜴達が怒涛の如く畳み掛け──その蜥蜴達は、次の瞬間には、轟音とともに降り注ぐ雷霆の前に塵と化していた。
「あーあ、本当に天使って得体の知れない能力を持っているものね。ズルいわ。もっと人間なら人間らしくしてよね」
砕け散る蜥蜴を目の端に捉えながら、ツバキがボヤく。
「お互い様ですよ。というか僕らからしてみれば、貴女ほど得体の知れない能力を持っている人はそうそういませんからね!?」
「失礼ね! 影法師はちゃんと地に足が着いた職業よ!」
「物理的にね。地に足が着かない空中戦にはとことん弱いしねー」
「カゲロウ、黙りなさい」
余計な暴露をした鎌を黙らせ、ツバキは塵へと帰した数以上にわらわらと現れた、眼前の蜥蜴を殲滅すべく、鎌を翻した──その時、背中合わせに立つ二人の周囲、ギリギリを避けるように数多の炎弾が飛び抜けていった。
「あれは──」
群れ成す蜥蜴に着弾し、次々と連爆していく炎弾に、遥か遠方で緋色の光翼を闇に浮かび上がらせている同胞へとシズマが声を上げた。
「ジオン、感謝しますよ!」
途切れることのない炎弾が近くを飛来していく度に灼熱の風がツバキの頬を叩く。
「ツバキ、上、上!」
カゲロウの言葉に、敵襲かと、ばっと頭上を振り仰いだツバキだったが、彼が伝えたかったのはそういうことではなかったようだ。
洞の昏い昊からは無数の緋炎が煌々と墜ちてきていたのだ。
その緋炎の墜ちゆく様はさながら流星のようで──。
「ツバキ、キラキラ! お空がキラキラだよ!」
弾む声の鎌は緋炎にその刃を輝かせていたが──、
「あっ! 空だけじゃないや! ほら、地面もキラキラ! とってもキラキラだよ!」
──と、彼は地の輝きにも気付いたらしく、ご機嫌な声に鎌の刃を震わせる。
地面のキラキラ。それは地を埋め尽くす炎兵達のことだろう。
燃え盛る彼らはまるで、流星煌めく夜空の下に敷かれた紅い絨毯のように荘厳で。
神々しい景色を天地の炎で織り成している様に見蕩れるカゲロウの主は──、
「思った以上ね……これが七天使」
──と、風情そっちのけで、その威力と範囲、どれを取っても非の打ち所がないその能力に渋い顔をする。
散々七天使を馬鹿にしている彼女だが、こうもまざまざと常人を遥かに超越した能力を見せつけられると、到底、無傷で彼と渡り合えるとは思えないその強さに、改めて感心せざるを得なかった。
「おや、感傷ですか?」
シズマの悪戯っぽい声に「誰が」と返し、鎌を持つ手を握りしめるツバキ。
「思いの外やるものね、と思った──だけよ!」
ひたり、と岩肌を伝って忍び寄ってきた蜥蜴を地から伸ばした影刃で討ち取ったツバキは、ふいに背筋に走った戦慄に、咄嗟に鎌を盾にするように構えた。
刹那──、金属を鋭利な爪が引っ掻くような甲高い音が洞に響く。
「……なんのつもりよ。今本当に殺そうとしたでしょ」
三白眼でじろり、と己を睨むツバキの姿に、アスタロトは反撃を危惧したのだろう。彼は跳ねるような動作で彼女から一定の距離を取った。
「無事ですか!?」
完全にシズマの死角を理解した上での岩陰からの一撃に、対応しきれなかったシズマが狙われたツバキの安否を問う──が。
彼女はそれには答えることなく、苛立ち紛れに影刃を次々と悪魔へと放ち始めた。
「うわっと、まあ落ち着けって!」
音速で迫り来る刃をかわすべく、鈍色の羽で空中へと飛翔するアスタロトだが、伸びる刃に猛追され──ついにその刃が鎧のような皮膚を捉えた。
「ちっ!」
アスタロトは舌打ちしながら、咄嗟に音波を放ち、刃を砕く。
「悪いって!」
上空から降ってくる声を無視し、更に刃を撃ち出していくツバキへとアスタロトが喚く。
「お前の言う通り、天使どもが案外無能そうじゃないんだって!」
洞の低い天を飛び回る、そんなアスタロトの弁明に、ツバキは不愉快そうに眉を顰めた。
「無能じゃなかったら、何だというの?」
「天使の目を掻い潜りながら、抵抗するお前を無傷で連れて行くのはまず無理そうだってことだ!」
更に飛来する刃を爪で砕きながら声を張り上げるアスタロト。
「しゃあねえんだって! ツテはあるんだ。後から蘇生してやっから、悪いけど一回殺されてくれ!」
さらっと告げられたその言葉に、ツバキは「冗談じゃないわ!」と犬歯も露に吠え声を上げる。
「一回って何よ一回って!」
「一回くらい大丈夫だって! 蘇生の成功率は八割強! それに死ぬ時も、俺様の毒なら安楽そのもの!」
「はぁ!? 蘇生をほぼ二割しくじるとか、絶対にお断りよ!」
全力で蘇生を拒否するツバキだが、既にアスタロトは空中で攻撃態勢に移っており──。
「ちっ!」
舌打ちしながら、迎撃に移ろうとするも、彼女の前にはひっきりなしに魔物が押し寄せてくるため、反撃は愚か、逃げることすらも難しい。
そんな時だった。
「──我、ウリエルの名に於いて、審判と為らん。汝の穢れし魂を秤の許に天地へ分断たん」
押し寄せる魔物を雑に斬り飛ばしていくツバキの耳に、シズマの声が朗々と響いたのは──。
刹那、白い閃光がツバキの視界を塗り潰した。
「ッッ!」
目を細め、頭痛がするほどの眩さに耐えるツバキ。
魔物達もまた光に怯んでいるのだろう。彼らが動く気配は見られない。──が、閃光をものともしない者も敵方には一人だけ、存在した。
「見えてるぜ、天使!」
アスタロトの声が光に包まれたツバキ達の耳に届くよりも早く、光を突き抜けるように彼女達の周囲一帯に黒い塊がバラバラと降り注ぐ──。
「まさか……毒塊か!」
いち早く、降り注ぐそれの正体を看破したのはシズマだった。
徐々に光は収束してはいるものの、未だ視界を奪われているツバキや蜥蜴達とは違い、発動者である彼には閃光の影響はないようで。
視界いっぱいに降り注ぐ毒塊のその数に、シズマは一瞬で、防ぐのは不可能だと判断した──。
──ツバキの両脇を抱えたシズマが閃光から突き抜けるように飛翔した。
「ちっ、逃げるな天使!」
毒塊を矢継ぎ早に放ち、アスタロトはシズマへと追撃を加える。──が、飛来するそれを何とか切り揉み回転しながら、被弾寸でのところで回避していくシズマの腕あたりからツバキの非難めいた声が上がる。
「ちょっと、何やってるのよあなた!」
「何って、見ての通り回避しているわけですが!?」
お願いだから大人しくしていて下さい、と続けながらシズマは再び飛んできた毒弾をギリギリまで引き付け、左へと急旋回しながら、それを躱した。
黄金色の軌跡を闇に描きながら飛翔ける天使を目掛け、アスタロトは巻き込まれた配下の魔物が溶けるのも気にせず、次々と虚空へと毒弾を生み出し続ける。
「降ろしなさい、この馬鹿!」
「無茶言わないで下さい!」
そんな状況にありながらも、二人は風を切る音に声を流されながら言い争っていた。
「あなたのその光翼、どう見ても一人用じゃない! 私を抱えている余裕はないわよ!」
「気のせいです! 黙ってないと舌を噛みますよ!」
シズマの背から生えている金の光翼は、同胞であるジオンの緋の光翼よりも一回り細く、そして薄い。
七天使きっての俊足を誇るシズマの翼は、一人であれば、毒弾を回避することなど造作もないことなのだろうが、薄く細いその翼は、重さの影響をもろに受けるらしく、荷物が増えてしまった今は、かえって同胞よりも機動性に欠ける、振り回されるような飛び方を余儀なくされてしまっていた。
「天使と心中とか死んでもお断りだし、お荷物はもっとお断り!」
「だったら早く秘策でも考えて下さい! じゃないと本当に死にますよ!?」
じたばた暴れるツバキを抱えたまま飛来してきた毒弾を大きく一回転するように躱したシズマだが、僅かに体勢を崩し、──立て直そうとするよりも早く、その光翼の先端に次弾が着弾した。
「ッ──!」
じわり、とその光を蝕む毒にシズマは奥歯を噛み締める。──と。
「早く離しなさい! 今ならまだ……!」
──シズマの耳に、今まで聞いたこともないほどに切羽詰まったツバキの叫びが響いた。
先端の砕けた翼で、バランスが上手く保てないのだろう。空中で大きく傾ぎながら、シズマは己の腕中に抱えた少女に視線を落とす。
腕の中で大鎌を握りしめているその少女は、懇願するかのような、いっそ悲痛とすら取れるような、そんな表情で己を見上げていた。
──己を離せば、すぐにでもその毒された翼を斬り落としてやる。だから、すぐに己を降ろせ。
視線からでも伝わってくる、そんな彼女の真意をシズマは的確に介しながらも、彼が彼女を手離すことはなかった。
シズマにはどうしても翼のない彼女を空中で放り出すことができなかったのだ。
そんなことをしてしまえば、ツバキはまず間違いなくアスタロトの追撃を受けるだろうし、運良く追撃を免れたとしても、その後、地に激突した彼女が無事でいられる確率は大変低い。
「二度も繰り返すのだけは……絶対に嫌なんです!」
シズマの脳裏に駆け抜けるのは学園で、責務のためとはいえ、一度見捨てた少女の姿。
二度目はもう巡ってなどこないとあの時は諦めていた。
しかしながら予想に反し、彼女は生き延びた。ならば、今度こそ──。
「護る……! 今度こそ、見捨てはしない!」
血の滲むようなその声音に、ツバキは言葉に詰まった。
正直、彼に学園で見捨てられたなどと露ほども思っていなかったツバキは、今まで全く考えたことすらなかった。──彼が己を見捨ててしまったというそのことに対し、そこまで気に病んでいたということを。
「シグレ……聞き分けて」
ツバキは少しだけ声を和らげる。
「その光翼じゃあ、このまま翔び続けるのは不可能よ」
「そんなこと、判っています!」
シズマはそれでも尚、諦めたくないようだった。
このまま毒が回った己が絶命し、墜落してしまえば結局は共倒れとなることも、彼は充分に理解している。
「ツバキ、何度も言いますけど……」
──ならば、一か八かやるしかないだろう。と、シズマは心に決める。
「僕の名前はシズマです──!」
シズマはもう何度目になるかも忘れた己の名を告げると同時に、光翼にありったけの魔力を込めると、辺りを飛び交う炎弾に彗星の如く突っ込んだ──。




