8-4
──轟々と音を立てながら、谷底を薄黄色の川が流れている。
暗闇に棲んでいるのであろう、蜥蜴のような魔物が、川縁へとペタペタと這い寄り、喉の渇きを癒すべく、その水をぺろりと舐め──。
刹那、悲鳴を上げる間すらなく、蜥蜴の肉体は、ぐずぐずに崩れ、骨だけを残して溶け去った。
どうやら川には、魔物すらをも溶かし崩す猛毒が溶け込んでいるらしい。
「ちっ……!」
ツバキは苛立ち紛れに舌打ちした。
酸の臭いの正体が、川に溶け込んだ猛毒だとは分かったものの、彼女には回避のしようがなかったのだ。
辺り一面暗闇というのは彼女にとってはありがたいことだった。
何故なら、触れられる影、もしくは闇に沈んだ足場さえあれば、影法師としての能力を遠近問わずに発揮できるから。
だが今、彼女が直面している問題は、その能力を行使できる起点がどこにもないという致命的なものだった。このままでは影を扱うことができず、成す術がないまま、川に落ちて溶けるしかなく──。
「水面に触れた瞬間に、水面に出来る影を利用して能力を使う……のは無理ね。溶ける方が早いわ……。岩壁も遠すぎて、触れようもないし……」
まさかこんな形で終わりが来るとは露ほども思わなかったが、最期とはそうしたものかもしれない。
ツバキは半ば諦めの境地で、独り静かに友を思った。
もし自分が約束を破り、帰らぬ者となり果てたら、彼女は怒るだろうか。
泣くかもしれない。いや、泣くだろう。
「それは嫌ね……」
──怒られるのはまだいい。でも、泣かれるのは御免だ。
ふいに顔を上げたツバキの目に、影へと変貌してゆく幼い子供が映る。
梟のように頼りなく泣くその子供は──、
「豊……!」
──忘れもしない。それはかつて、己が殺めた里の子供。
幻覚であるとは理解しているツバキだが、その姿はあまりにも鮮明で。
何故お前だけがまだ生きているのだ、と恨んでいるようなその泣き声に、ツバキは彼へ──そして同時に己へと言い聞かせるように呟く。
「心配しなくても、浅ましく生き永らえるつもりはないわ……。だけど、お願い……この命尽きるまでは、護らせて……! 私の……大切な人を──」
──己を救わんとする手は掴めない。
それはきっと、赦されないことだから。
「けれど──例え手は掴めなくても、なんとかして帰らないと──!」
何か活路はないものかとツバキは周囲をぐるりと見回し──暗闇に爛々と輝く、真紅の双眸と目が合った。
敵襲だと咄嗟に判断するも、成す術を持たないツバキは、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
こんなことになるなら、カゲロウが常に武器になる、縊鬼夜叉が影から喚び出せる、などと過信せず、普通に縊鬼夜叉を帯刀して来れば良かった、と今更ながらにツバキは後悔した。
びゅん、と風を切る音と共に、真紅の眼が、二本の筋を一直線に描きながら、彼女に肉薄し──。
「ああもう!」
──ツバキは咄嗟に法力を込めた手刀を相手の眉間の間へと叩き込もうとするが、その手刀から、敵ははいとも簡単に、するりと身を躱す。
彼女が腕を振り下ろすより、断然、相手の方が素早いのだ──。
「ぐっ……!」
刹那──己の腹部に走る鈍い衝撃に、ツバキはくぐもった声で呻く。
その、腹を拳で殴られたような衝撃に、彼女は反射で身体を折り曲げる。──と、追撃なのだろうか、次いでその身体が滅茶苦茶に、縦横無尽に振り回された。
ツバキは全身むち打ちになりながら、目を固く閉じ、両腕で顔を庇う。
そんな彼女の耳をいくつもの風鳴りが突き抜け──ピタリと止まった。
「う……?」
いつまで経っても襲って来ない痛みに、ツバキは固く閉じていた目をじわじわと開く。
薄らと開いた目に映る周囲は変わらぬ闇であったが、土のような臭いと、ひんやりとした空気に、彼女はなんとなく周囲は洞だと判断する。
──と、彼女のその判断を肯定するかのように、水滴が岩壁へと落ちる音が、反響して谺した。
「うぅ……」
心なしか腹部に苦しさを覚え、唸りながらツバキは自らの身体にすっと視線を落とし──、次の瞬間、彼女は目をかっと見開いた。
自分の腹をずっと抱えて、ここまで運んで来たのだろう、見知らぬ浅黒い手を彼女は咄嗟に払い除け、後方へと大きく跳躍する。
「何者よ!」
不信感が満載のツバキの鋭い誰何に、あっさりと返ってきたのはあっけらかんとした陽気な声だった。
「よお、久しぶりだな。えーっと、一月ぶりか?」
親しげに手をヒラヒラと振る目の前の怪しい男に、ツバキの目が据わる。
「え? 何その『知りません』みたいな顔? ホラ、俺様だよ俺様!」
びっ、と己を親指で指す男は、生憎とツバキの記憶には全く存在しなかった。
灰掛かった藍色の、癖のあるボブショートに、真紅の双眸。浅黒い肌によく似合う、白いカッターシャツと、赤黒いベストを着込んだその姿は──、
「……賭博師?」
そう、ツバキにはカジノにいる賭博師にしか映らなかった。
「あっ、ひでえ! それが毒に溶かされる寸前で救ってやった俺様に対する態度か?」
「その件に関しては礼を言っとくわ。……全身むち打ちになったけれど」
「ん? これでも結構気を使って運んで来たんだがな。やっぱり人間は脆いなー」
頭をパリパリと掻く男に、特に悪びれた様子は見受けられない。
「まあ、あれだ、互いに誤解があったのが、俺達の敗因だと思うわけだ」
だろ? と片目を瞑ってみせる男を──ツバキはこの瞬間、人違い野郎と確定した。
それも、話の通じない、厄介な手合いだ、と。
「誤解も何も……間違いなく人違いだと思う……」
確かな事実を告げるも、男は案の定、人違いと認めようとはせず。
「人違いなんかじゃないぞ。だってお前、影法師なんだろ?」
影法師。その言葉に、ツバキの不信感は一気に頂点に達した。
彼女が影法師であると知っているのは、時の竜騎兵でも、まだ七天使達だけなのだ。
それを、見も知らぬ男が知っている。
どう考えても怪しいこと、この上なかった。
「……」
無言を肯定と取ったのだろう。男は饒舌に喋り続ける。
「いやあ、そうなら最初っからそう言ってくれれば、こっちもそれなりの対応が取れたんだぞ? それか、もしくは、その能力を見せてく──」
一人ペラペラと喋り続けていた男は、急にぴたりと急に押し黙った。
怪訝そうに己を睨んでくるツバキを、男は表情が読めない顔で一度見遣り──、
「無粋だな。招待してもいないのに、闖入者共がおいでなすった」
真紅の瞳で、洞の天井を仰ぐ男。──と、ふつふつと、その顔に怒りの色が浮かび上がった。
「思っていたよりも早い……いや、早すぎるな。とにかく場所を移──」
「──させるか!」
男の手が、ツバキの腕へと伸びかけた刹那、怒号とともに、洞の天井になっている岩肌がぶち抜かれた。
盛大に落石をばらまきながら、上を見上げる二人の間へと兜割りを叩き込みながら降ってきたのは──、
「猪男!?」
──時の竜騎兵きっての切り込み隊長、ジオンだった。
男とツバキの間へとめり込んだ大斧を肩に担ぎ上げ、ジオンがツバキを睨む。
「誰が猪男だ! 何度も何度も簡単に拉致されてんじゃねえ! 余計な手間掛けさせやがって!」
ツバキはその物言いにカチンと来たらしく、三白眼でジオンを睨み返す。
「誰も頼んでないわ。迎えに来てほしいとか」
「んだとぉ!」
勢い、額を突き合わせて火花を散らすジオンとツバキに、完全に蚊帳の外に置いておかれた男はその掌に、闇色の炎を浮かべた。
「悪いが、ちょいと嬢ちゃん、死んでくれるか?」
冷めた目の男は、炎を浮かべた手を横へと振り抜く。
ばさり、と小さな粒子になり、宙に舞った炎は、次の瞬間、爆発を引き起こした。
炎の粒子一粒一粒が個々に爆発する為、辺りには闇色の小さな閃光が暴れ回る。
そして──徐々に収まる煙の向こうに佇む、怯えの欠片も見られない、自らを睥睨するかのような黒髪の少女の姿に、男は舌を巻いた。
「いやあ、本気で狙ったワケじゃないが……こうも平然とされるとなぁ」
男は困ったように肩を竦める。
「簡単な話よ。もしあなたがここで私を殺せば、私をここに連れてきた意味がなくなる。……さしずめ、あなたの狙いは私の力か、それとも情報か、といったところでしょう?」
「んー、半分正解、半分不正解ってところだな。確かに、お前を殺せば、俺様はお前をここまで運んで来た意味がなくなる。……かといって、お前に別段、影法師の能力も、お前達の情報も求めちゃいねえよ」
「ふぅん。なるほど。あ、もしかして用途は贄だった?」
それならば、好地まで運ばれたのも納得だと言わんばかりに、手槌を打つツバキ。
「残念ながら、それもハズレだ」
「あら、そう? じゃあ──」
「──黙れ、バカ女」
ツバキの言葉を遮ったのは、同じく爆炎から逃げることなく佇んでいたジオンだった。
「俺達は世間話やクイズをしに来てんじゃねえんだぞ」
わかってんのか、と、剣呑に男を睨み据えるジオン。
男は大斧を隙なく構えるジオンを小馬鹿にしたように眺めやり、──徐に、その口端をニマリと吊り上げる。
「天使ねぇ。そちらからノコノコと死にに来てくれたのは助かるな」
「バカか。……この場で死ぬのはテメェだよ。──見えねえのか?」
ジオンが己の背後を、顎をしゃくり、男に示す。
闇の合間から、ゆっくりとその姿を現したのは──、
「七天使──!」
ヴァイスを筆頭とする七天使の面々だった。
眉間に皺を寄せた男は、舌打ちするが早いか、ひとっ飛びでジオンとの距離を詰めると、その大斧の側面を蹴り飛ばす。
「よっ、と」
ジオンは元より後退するつもりだったのだろう。蹴り飛ばされた大斧の推進力を利用し、大きく飛び退ると、空中で軽く態勢を整え、彼は加勢に現れた同胞の前へと軽々と着地する。
「ツバキぃ、ごめんなさいぃぃー!」
ヴァイスの背にコソコソと隠れる黒猫を、冷めた瞳で見やるツバキは、ゆっくりとその足を七天使の集まる方へと向け──、
「バカ。何でそっちに行くんだよ。お前はこっち側だろーが」
──男の声に、ぴたりとその足が止まった。
「こっちもそっちも、そもそもからして、私はあなたのことを全く知らないのだけれど?」
振り向きもせずに告げられた言葉に、男は「仕方ねえ」と頭を掻いた。
「面識ならあるさ。なあ、そうだろ? 影法師」
「だから無いと何度──」
呆れたように振り向いたツバキの瞳孔がすっと細くなった。
男の頭にメキリと音を立てて生えたのは──、
「アスタロトの角──!」
──男の正体を理解したツバキは一足飛びに飛びすさり、男から距離を取る。
だが、男はそんなツバキを追うでもなく、止めるでもなく、ゆっくりと鈍色に変色した手を彼女へと差し出した。
「一応問うけれど、何の真似かしら──」
「こちらに戻れ、影法師」
アスタロトのその言葉を、ツバキは一度鼻を鳴らすと「断るわ」と一蹴する。
「誰がホイホイと敵の前に出ていくというの」
「だから、誤解だと言ったろう。確かに俺様はお前を攻撃したさ。……けれど、それは寝覚めで、お前が影法師だと気付かなかったからだ」
アスタロトは深紅の瞳で集う七天使を睨み据えると、心底不快だと言わんばかりに鼻の頭に皺を寄せる。
「影法師、天使なぞに騙されるな。そいつらは、お前達、崖の民の仇であり、俺様達、悪魔の敵でもある。だからお前はこちら側に来い。……天使はどこまでも悪辣な輩だ。今は都合の良いことをお前に吹き込んでいるのだろうが、奴らは最後に絶対にお前を裏切るだろう」
アスタロトの言葉に、ツバキの肩と瞳が一瞬、僅かに震えた。
「ツバキ! 僕達は貴女を裏切るようなことは──」
「黙れ!」
シズマの切実な叫びに、アスタロトが怒気も露に吠える。
「影法師、知っているだろう? 無抵抗な崖の民に、奴らが何をしたか! ……そこの悪魔、バアルの正体が奴らに知られた時に、お前は理解したはずだ。奴らは、壁の民以外の存在を決して認めはしない、と」
アスタロトの言葉に、ヴァイスの陰で、カゲロウは一言も発することなく、ただただ俯いた。
ツバキはゆっくりと顔を上げると、七天使達を順繰りに見やり、次いで背後のアスタロトを振り返る。
「……」
ツバキにはどの道が正解なのか、分からなかった。
分かることはただ一つ。恐らく今この場に於いては、誰も嘘を言ってはいないということだけだった。
シズマ達は、本当に自分を裏切ることはないだろう。
短い付き合いだが、それを断言できるくらいに、彼等は馬鹿正直すぎた。
一介の、ただ死にゆくだけの、名もなき生徒の願いを聞き入れ、親友を校舎の外に連れ出してくれた。それだけでも、彼等を感謝するには余りある。
だが──一方で、アスタロトの気持ちが分からないわけでもなく。
腐っても崖の民の末裔である以上、壁の民と天使は仇敵なのだ。
自身が影法師である以上、祖先とはいえ、彼らのしたことをおいそれと赦すわけにはいかなくて──。
「樹……こんな時、あなたなら……」
脳裏に閃く青年ならば、と追憶の彼方を想うも、所詮それはツバキの記憶の残影でしかなく。正しい答えなどまず示してくれるはずもなかった。
結局は自身で判断するしかないのだ。
ツバキはゆっくりと瞼を瞑り──、
「なんだ、簡単なことじゃない」
──と、闇に染まる地面から漆黒の刀──縊鬼夜叉を引き抜いた。
「アスタロト。私はローザを一度でも殺そうとしたあなたに付いて行く気はないわ。だからといって、必要以上に天使共に与する気もない。つまりは、ほら簡単な話。殺り合いましょう」
勝者が敗者の命運を決める権利を得る。
世の中それが、一番単純で明快だ。
「交渉決裂か。仕方ねえ。ま、俺は是が非でもお前を連れて行くぞ。……そこの、腐れ縁共々、な!」
アスタロトは紫色の炎を全身から吹き出し──、
「オォオオオァアァ──!」
──聞く者の鼓膜を劈かんばかりの雄叫びを上げた。
その雄叫びは鋭利な空気の刃となり、ぶち当たった洞窟の岩肌を砕き、剥がす。
剥がれた岩は落石となり、集う天使達の頭上にも降り注ぎ──、
「させない!」
──アマラが咄嗟に同胞の周囲へと結界を張り、落石から彼らを守った。
地に打ち付けられた岩が砕け、土砂が降り注ぎ──、しばらくして、もうもうと立ち込めた土煙が晴れると、そこには鈍色の──顔のない悪魔と、剥がれた岩肌の奧には数百の魔物の軍勢が犇めいていた。
アスタロトが羽ばたくよりも早く、シズマが己の能力で、悪魔を竜巻へと閉じ込める。
「ジオン、炎の兵団を! イェンロン、レーベン、お前達は私と共に周囲の魔物の殲滅に当たれ! なるべく地上部隊の元へ魔物を到達させるな!」
ヴァイスの指示にすぐさまジオンは炎の兵団の召喚に入り、イェンロンとレーベンは群がる魔物と交戦状態に突入した。
「じゃあ、私はこっちの獲物を貰いましょうか」
ツバキは己の周囲にも張られていた結界から一歩足を踏み出す。
その足元にぴったりと付き従うのは一匹の黒猫。
「カゲロウ!」
ツバキの声に、カゲロウは何も語ることなく、漆黒の鎌へと変化する。
小回りの利く縊鬼夜叉は肉薄された時の立ち回りのために。大鎌はそのまま大立ち回りのために。
縊鬼夜叉を咥えたツバキは竜巻を鎌で切り裂き、その内部へと滑り込み──、まさかの竜巻の中はもぬけの殻だった。
「──!?」
確かに竜巻に閉じ込めたはずだ、と周囲を見回すツバキだが、鈍色の悪魔の姿はどこにもなく。
五感を研ぎ澄ます彼女の耳に、小さく届いたのは竜巻の外から聞こえてくる剣檄の音だった。