8-2
憤然と歩くツバキの口元は、自嘲と不快に歪んでいた。
──あの天使は傲慢にも、救うと言った。己の存在自体が罪であるにも拘わらず。
「もし、知っててそう言ったのなら、あの性格はもう歪んでるなんて生易しいものじゃないわね──」
──万人にとって『救い』となる言葉は、自身にとっては最大の嫌悪の対象なのだ、と。
「ねえねえツバキぃ、何怒ってんのさー」
肩に乗ったカラスが己の目を覗き込んでくるのを横目で見遣りながら、ツバキは呟く。
「……カゲロウ、天使とは、かくも増上慢なものかしら」
「うぇ?」
彼女の言葉がよく聞き取れなかったのだろう。愛らしく首を傾げたカラスの首もとをくしゃり、と撫でたツバキは──、
「いえ、なんでもないわ」
──と、少しだけ神経を落ち着け、目を細めた。
「自分でもわかってるもの……」
──救えるはずなどない。
悩みを抱え、躓き、彷徨う人間などに。
──なれるはずもない。
小花の匂い纏う、清らな街の乙女などに。
だってそれは、里を滅ぼした己には決して赦されることではない道なのだから。
「あ、いた! ツバキ!」
ローザの声に思考から引き戻されたツバキは、こちらに気付いて駆けて来る少女に、咄嗟に笑顔を作り、手を振る。
「あらローザ、今日もいい天気ねえ」
「そんなこと言ってる場合じゃないのだわ!? アスタロトが見つかったのよ!」
「ええ、知ってるわ。……だからこれから討伐に行くんでしょう?」
「アンタも、行くのよね……?」
ローザは不安げに、ツバキの白服の裾をぎゅっと握った。
「時の竜騎兵に入れって言ったのはあなたじゃないローザ。何を今更……」
「だ、だって! あの時は悪魔が本当にいるとは信じられなかったし、まさかアンタが脛に傷持つ人間だったなんて思わなかったし──、それに、入ったとしても入団直後から、本当に最前線に放り出されるなんて……思いも……しなかったし……」
「ま、それはそうね」
段々と声が消え入るローザを励ますべく、ツバキはローザの影に指を沈め──、
「大丈夫よ」
──と、手折った翳形草の花を一輪、突き出した。
「な、なんなのコレ? 真っ赤で、とっても綺麗だけど、見たことないのだわ」
両の手で大切そうに翳形草を受け取ったローザは、艶やかな花をくるくると回す。
回す度に、どこか不思議な、芳しい薫りを放つそれは、ローザの心を少しだけ落ち着けた。
「んと、これは彼岸花……(みたいなもの)」
「ヒガンバナっていうの? というか、何か今歯切れ悪くなかった?」
「気のせいよ。……ま、それは、私はちゃんと帰ってくる、っていう約束だとでも思っておいて」
さらりと告げられたツバキのその言葉に、ローザは慌てふためく。
「ちょっと、やめるのだわ! ツバキが約束の花をくれるとか、なんか本当に死んじゃうみたいに思えちゃうから!」
「いや……まだ死なないわよ!? ねえカゲロウ、私ってそんなに信頼ないの?」
主に視線を向けられたカラスは肩口で器用に嘴を鳴らしながら──、
「逆じゃない? 信頼があるんだよ」
──と、主の地雷を踏んだ。
「あー、そっか、そうね」
泡を吹くカラスの首を右手で絞め上げながら頷くツバキの前に、ペガサスを繋いだ綱を片手に走ってきた一般兵士が一人、跪く。
「ツバキさん! 俺達ゃ準備、整いやした!」
「ん? あれ? あなた、いつぞやの」
「デオバルドです! ツバキさん親衛隊、皆いつでも出撃出来やす!」
そのやたらと野太い声にペガサスが嫌々をするように何度か首を振った。
「えーと? 親衛隊? なんで?」
さすがに理解不能なのか、カラスの首から手を離し、眉を顰めるツバキの横で、ローザもぽかんと口を開けながら固まっている。
「宿舎での一件以降、俺達ゃツバキさんに惚れ込み、勝手に親衛隊になったんですわ! 今回俺達ゃ丁度非番の日なので、自分の意志で遊撃隊に回る分には、咎められることもありやせん!」
「え、ああ、そうなの……? それは、ご苦労、ね……?」
恐る恐るローザを振り返るツバキ。
「ツ・バ・キ」
ニコリとツバキを見返すローザの、その目は全く笑っていなかった。
「……帰ったら、お説教ね……?」
「うぇぇん……」
ツバキがげんなりと呻くのと、ほぼ時を同じくして、周囲に角笛の重低音が響き渡る。
その角笛は、住民達が兵士の行軍を邪魔しないよう、厳戒体制がきちんと敷かれたと確認されると鳴らされるもので──、
「おっと、出発みたいだね」
──肩口でカゲロウが嘴を鳴らす。
角笛の鳴り響いた瞬間から、門扉からは七天使を始めとするその部下の兵士達がぞろぞろと流れ出始め──。
真っ先に門扉をくぐったのは、黄色掛かった白い毛並みを持つ、いわゆる月毛のペガサスに騎乗した、アマラの率いる、アマラ隊のようだ。
四隅の隊員達が掲げる、赤色を基調とした隊旗には赤い小さな花が散らされている。
「なるほど『天使羽にカランコエ』か。乳牛らしいわね」
カランコエの持つ意味は『あなたを守る』。
天使中、最強の結界を展開する彼女に最も相応しい花だろう。
「ささ、ツバキさん、我々も遊撃に参りましょう! はい、ペガサスです」
デオバルドの差し出した手綱を咄嗟に受け取りかけたツバキだったが──、
「あー……このペガサス、あなたの愛馬じゃないの?」
──ふいに何かに気付いたらしく、ツバキは、つ、と手綱を押し返す。
「いや、俺達一般兵士は特に特定のペガサスを持ちませんで。こいつも厩舎から適当に引いてきた、一般馬ですわ」
なあステファニー、とペガサスの鬣を撫でるデオバルド。
「うん、間違いない。ステファニーはあなたの愛馬。そういうことにしなさい。五体満足でありたいでしょ。ステファニーも」
「は、はあ……?」
ツバキは自らの肩口で意図せず、ぎりり、と爪を肩に食い込ませている相棒を見やる。
カラスの目は、極限まで見開かれ、血走っていた。
彼の目の前でステファニーに騎乗などした日には、ステファニーは明日の朝日を拝めなくなること必至だろう。
「ツバキぃ、ボク以外の動物にウワキとか、してないよねぇ?」
子供の声が、百万の薄暗い感情を含んでいた。
「してないしてない」
「……ホントーに? ほんとのほんとのホントーに?」
カラスがゼロ距離で、真の意味で、血眼になりながらツバキの瞳を覗き込み──、
「本当よ」
──そう迷うことなく、きっぱり言い切った彼女に、ようやくカラスの顔がぱっと明るくなった。
「なぁんだ、良かったぁ! もしものことがあったら、ボク、悪魔になっちゃうとこだったよ」
「いや、あなた悪魔でしょ……」
ツバキの突っ込みを、カゲロウは全く聞いていない。
疑惑が晴れたことで、カラスはご機嫌のようだ。
「よっと!」
ばさり、と飛び上がったカゲロウは、瞬く間に漆黒の馬へと変化すると、ズシン、と地へ降り立つ。
ポカンと口を開けるデオバルドとステファニーを尻目に、カゲロウは自慢気にその艶やかな漆黒の毛並みを見せつけた。
「申し訳ないけど、私には名馬がいてね。ステファニーはあなたが乗りなさい」
「そそ。メイバがツバキにはいるからね! じゃあねー、ローザ、ステファニー」
ローザ達へと別れの挨拶をしたカゲロウは、その背にツバキを乗せると、門扉にごった返す、ペガサスの群れに無理矢理その巨躯を捩じ込み、押し退けるようにして門扉をくぐり、風のように走り出す。
「ツバキ、カゲロウ! 絶対帰って来なさいよ! 晩御飯はシチューだからね!」
必死にローザの張り上げる声も、すぐに耳許を通り抜ける風の音に掻き消され、聞こえなくなり──。
カゲロウはもう振り返ることもなく、左右に道を開けるペガサス達の間を駆け抜け──、街道を文字通り、爆走し始めた。
「やっほーい!」
漆黒の馬が己の巨躯も弁えず、無駄に大きく跳ねる。
着地の衝撃をもろに食らったツバキは、寸でのところで、舌を噛み切ることだけは避けたが、呼気を一気に肺から絞り出され、無いはずの心臓が爆走する感覚を覚えていた。
「ちょっと! 危うく舌を噛むところだったんだけど!?」
魔物に変化できないカゲロウは、残念ながら、飛翔できるペガサスにはなれないものの、その俊足は並み居るペガサスをも凌ぐものであり、一般兵士を乗せ、怒涛の如く駆けるペガサスの通常馬の群れを、あっという間に追い抜いてゆく。
「カゲロウ、落ち着いて。このまま走り続けたらもれなく本当に最前線を張らなきゃならなくなるじゃない!」
のらりくらり行きましょう、と、ツバキはその鬣を引くが、カゲロウは何かを勘違いしたらしく──。
「ツバキ、心配しないで! ボク、魔物にはもう化けられないけど……それでもペガサスなんかに負けないから!」
そう言うが早いか、一気に速度を上げたカゲロウは前方を駆ける、鹿毛のペガサス達に追い付いた。
「もーらいっ!」
カゲロウが鹿毛のペガサスの群れを率いていた、一際立派なペガサスを追い越す。
「あっ、テメェ!」
どうやらそのペガサスに騎乗していたのはジオンだったらしく、追い抜かれたことが癪だったのだろう彼は目を釣り上げ、漆黒の馬を睨んだ。
鹿毛のペガサス達はジオン隊のペガサスの特徴のようで、彼の親衛隊も全てが鹿毛のペガサスに騎乗しているようだ。
「そんな簡単に追い越させるかよ──!」
追い抜かれたジオンのペガサスは、このままでは主の顔に泥を塗ることになると思ったのだろう。一声鋭く嘶くと、ペガサスはその速度を上げた。
ペガサスは速いだけではなく、総じて賢いため、ジオンの騎乗するペガサスもご多分にもれず、その知能を如何なく発揮し、カゲロウを追い抜いたペガサスは、その鹿毛の巨躯でカゲロウの行く手を塞いだ。
「ああっ! オマエ! よくもやったな!」
対抗心を燃やすそれは最早、暴走車両もとい、暴走悪魔だった。
視界を塞ぐペガサスの尻に物理的に頭突きをかまし、ジオンのペガサスが僅かにたたらを踏んだ隙に、その脇をすり抜けるカゲロウ。
「この……! 絶対負けんじゃねえぞ、テレジア!」
主の声に、鹿毛の立派なペガサスこと、テレジアは鋭く嘶くと、ますます速度を上げ──その躰一つ分、漆黒の馬を追い抜いた。
「へへーん、どうだ! これが俺の愛馬テレジアの本気だ!」
誇らしげにカゲロウを、そしてその背に掴まるツバキを振り返るジオン。
すぐに彼女からは対抗心マシマシの言葉が返ってくるかに思われた。──のだが。意外にもツバキは闘争心を燃やしてはおらず、鬣に腕を巻き付けるようにして、無の表情でその背にしがみついていた。
ペガサスは馬を軽く凌駕する脚力を誇るが故に、高速での走行時は乗り手が風圧に晒されないよう、その翼をもって、防壁とするのだが、如何せん、カゲロウにはそんなものあるはずもないため、ツバキは背にかじりつくのでわりと精一杯だったのだ。
「──ねえ、なんで馬車じゃダメなのよ!」
カゲロウが更に速度を上げたため、結果として並走する形となったジオンへと、風に流される声で懸命に叫ぶツバキ。
「んなもん、馬車なんか使って壁外に出ようとした日には、移動で丸二日掛かりになるからだろーが! 遠出の時は基本ペガサスだ!」
「あー、そーですか!」
それはそうですね! と、それはもう投げやりに返すツバキ。
「おい、化け猫! 少し速度落としてやれよ!」
比喩でなく、騎乗者の天地がひっくり返るほどに暴走する馬に、さすがに苦言を呈すジオンだったのだが、頭の緩いカゲロウはそれをどうしてか挑発と取ったらしく。
「むむっ! そんな相手を陥れるような言葉が出るのは是、我が優勢という肯定なりッ! ツバキ、一等をプレゼントしてあげるからね!」
頭の緩すぎる暴走馬は脚の何処にそんな筋肉があるのか、更に速度を上げ、賢いペガサスを頭一つ分、追い抜いた。
「ホント、バカなのな化け猫!」
ジオンは舌打ちしながら、懐から伝令要員のニクスを呼び出す。
「おいテレジア、少し速度を落としてくれ」
主の声にも、テレジアは鼻息荒く、その脚を緩めようとはしなかった。
その全ての行動は己の主を思って、のことである。
「テレジア、これはそもそも競争じゃねえ。お前は、千里を一昼夜で駆け抜けられるよう、持久に特化した訓練しかさせてねえしな。……ほら、先に行かせてやれ」
ジオンが愛馬の、その首を叩いて労う。
テレジアは悔しそうに、前方を駆ける漆黒の馬を睨みながら、──ゆっくりと速度を落とした。
ジオンの狙い通り、テレジアを追い越したことで「勝ったー!」と少し速度を落としたカゲロウは、勝利の雄叫び高らかに跳び跳ねながら去っていく。
そんなカゲロウをため息混じりに見送りながら、ジオンはニクスへと音波を飛ばすよう指示を出した。
「あー、聞こえるか? 俺だ。今しがた、そっちに暴走馬が一匹、爆走して行ったから、もしできそうなら、どうにかしてやってくれ──」
音波に乗って、辺りに拡散されたジオンの通信を真っ先に拾ったのは──、アマラの頭上に座り込み、のんびりと寛いでいたニクシーだった。
「へ? 暴走馬? なんのこ──」
──一度首を傾げ、ジオンがいるであろう方角を振り返るアマラは、一瞬で通信の意味を理解した。
何か、黒い塊が、もうもうと砂煙を上げながら、爆走して来ていた。
「えーと……無理!」
アマラは賢くも、一瞬で判断し、隊を左右に割らせた。
そもそも彼女の隊が一番最初に門扉を出たのにはれっきとした理由がある。
「あんな暴走馬止めるとか無理だから! イェンロン、レーベン、パス!」
アマラ隊の率いる、黄色掛かった白──即ち、月毛のペガサス達は、長時間飛翔できるように改良を重ねているのだ。
故に、空中での機動性に富む反面、地上での走りは遅く、それを考慮した上で、他の隊に遅れないように真っ先に門をくぐるのである。
「いえーい! ぶっちぎりー!」
漆黒の悪魔は、左右に避けた月毛の馬の間を、あっという間に駆け抜けて行った。
その頃──、背に跨がるツバキはというと、
「ねえ、これ何の勝負なの?」
──鬣を掴む腕と、背を挟む脚がそろそろ痺れ始めていた。
アマラからの伝令を受けたイェンロン、レーベンの両隊はアマラより後に立ったものの、すぐに彼女の隊を追い抜き、隊随一の俊足を誇る、シズマとヴァイスの隊にこそは追い付けないまでも、アマラ隊とは既にかなりの距離を開けて走っていた。
「のう、レーベンや……」
「はい」
「あの黒いゴマ粒がアマラの言う暴走馬で間違いないかのう?」
「……ええ、恐らくは。それにしても凄まじいスピードですね。もうヒヨコ豆程度の大きさはありますよ」
「じゃのー」
芦毛のペガサス達を率いるレーベン隊と、薄墨毛のペガサス達を率いるイェンロン隊は、作戦を決行すべく、縦五列に並ぶと、左右にずらりと等間隔に隊を展開した。
「減速!」
レーベンの指示に、両隊のペガサスの速度が落ちる。
その眺めは、まさに馬の長城だった。
「ふふん、これで止まるより他にあるまい」
イェンロンは、隊旗を持つ兵士を集めると、
「ささ、振るのじゃ!」
カゲロウに通行止めを伝えるかのように、旗を振らせる。
「隊旗をどんな使い方しているのですか……」
「物なぞ、使ってナンボじゃぞ、レーベン」
イェンロンは、黄色を基調とした『天使羽にスズラン』の描かれた、自隊旗を兵士の手から抜き取ると、ペガサスの背に立ち上がり、器用に振る。
その隊旗は、スズランの中央にツェンリンを模しているのだろうか、白虎が描かれ、イェンロンとその相棒の、泰然自若とした精神を表すかのように、風に煽られた虎が踊った。
「これは競争ではないぞ! だからストップするのじゃー!」
いよいよ目視で、その蹄までくっきりと視認できるほど迫ったカゲロウに、イェンロンが叫ぶ。
だがカゲロウは長城を前に、減速するどころか、態勢を低くし、ますます速度を上げ──、
「これ! 止まらんかー!」
──跳んだ。
兵士隊があんぐりと口を開けているのを、遥か下方に見下ろし、カゲロウは叫ぶ。
「いっえーい!」
ツバキは、鬣を掴んではいるものの、その身体は宙に浮き──、
「ぐはっ!」
──全身に、着地の衝撃が走り抜けた。
肺の空気を全て絞り出され、あまつさえ胸骨と顔面を、馬の背に強かに打ち付けたツバキは「あだっ!」と鋭い悲鳴を上げる。
「あと二人ー!」
馬の背で、転落死しかけたツバキを乗せたまま、カゲロウは馬の長城を残して猛然と去って行った。
「レーベン、失敗じゃの……」
「そうですね」
「シズマに連絡せねばの……」
「もう連絡してあります」
イェンロンの肩で、ツェンリンが仕方ない、とでも言うかのように「キュ、キュウ」と複雑そうに鳴いた。




