8-1
八 悪魔再来
グライナー家の事件も解決し、少しばかり続いた仮初の穏やかな日々。
ツバキは影供に肩代わりさせていた瑕疵を少しずつ癒しながら、カラスに変化したカゲロウに悪魔アスタロトを見つけさせるべく、再び、日々空へと彼を派遣させ続け──。
──ついにその日はやってきた。
「収穫なし、か」
「うぅ、ゴメンねツバキ。ゴメンね」
時計塔の展望台で、カラス姿のカゲロウを右腕にとまらせ、ツバキはため息を吐く。
朝から壁外へ派遣していた彼が戻ってきたのは正午を少し過ぎた頃だった。
「でもボク、頑張ったんだよ! 意地悪な鳥型の魔物に突っつかれながら、それでも一生懸命探してたんだよ! イジメに屈しなかったんだよ!」
「カゲロウ、それただ捕食されかかっていただけじゃないの?」
誇らしげに胸を張る、あちこちの羽が綻んでいるカラスに、ツバキは冷静にツッコミを入れる。
「やだなあツバキ、ボクは喋れることを除けば、完璧にどの動物にも化けられるほどすごい悪魔なんだよ? あんな雑魚魔物に食べられるなんてあり得ないよ!」
彼の頭には、見た目が完璧なカラスだからこそ捕食対象になってしまった、という考えは微塵もないようだ。
ツバキは「すごいすごい」と棒読みで、おめでたいカラスの頭をくしゃくしゃと左手の指でかき回す。
そんな何の変哲もない、穏やかな時間に終止符を打ったのは、ガチャガチャと金属の擦れる音を立てながら時計塔の階段を駆け上ってくる兵士の足音だった。
「あ、こんなトコにいたのですか! ツバキさん、探したんですよ!」
「あー、確かあなたは……井戸だっけ? どうしたの?」
「すみません、エドです……。じゃなくてですね! 見つかったんですよ! 悪魔が!」
兵士──エドの言葉に、ツバキの表情が固くなる。
「いつ、どこで!」
「先程、壁の外を見回りしていた兵士の一団が、茂みの中に洞窟を見つけまして──」
「よし、もういいわ」
ツバキはエドの横をすり抜け、階段を駆け降りた。
「なるほどね……上空からボクが探すのを見越してたってことか」
「そうね。いやはや、慎重なことじゃない」
人海戦術も悪くないものだ、とツバキは少し思う。
カゲロウは偵察としてはとても優秀なのだが、一匹で出来ることは限られているのだ。
ツバキが辿り着いた、時の竜騎兵本部の正面門前には武装した大勢の兵士達が詰め掛け、ごった返していた。
「時計に飛竜の紋章が描かれた隊旗だらけってことは、此処に一般兵が集められているってことね」
何十という天使達が声を張り上げながら、自隊の一般兵へと指示を出している。
「ふーむふむ、私は……って、私、どの天使の配下なの!?」
今更ながら、一般兵を志願したはいいものの、直属の上司となる天使を知らされていない宙ぶらりんな彼女はしまった、と言わんばかりに両手で頭を押さえた。
「と、とりあえず流れで行こうよ!? 門扉のトコで隠れてさ、流れに乗ってしれっと出陣しよう!」
「そ、そうよね……一人集合場所も分からずあたふたしている所とか、誰かに見られるワケにもいかないし……門扉の茂みでこっそり待つとしましょう」
カゲロウの提案に乗った彼女は人混みをかき分けながら門扉を目指すが、寄せては返す人波に押され、門扉は段々と遠くなるばかりで。
苛立ちが募り、目の前の兵士共を蹴り飛ばしてやろうかと真剣に考え始めた時、ツバキは背後から急に、何者かに腕を掴まれた。
「は──?」
多分人違いです、と振り返ったツバキは──、
「七天使のくせに……何普通に一般兵士に紛れ込んでいるのよ、あなた」
──そこにいつの間にか立っていた、制帽を被ったレーベンと目が合った。
「いやあ、だって七天使の中で制服を改造していないのは私とシズマだけですからねー。一般兵士との違いなんて、飾緒と階級章くらいですしー」
レーベンはツバキの腕を掴んだまま、人混みをかき分け、スタスタと足を進める。
「本部から出た時に、たまたま人混みに埋もれていく貴女を発見したもので、発掘した方がいいかなー、と」
「……それはどうも」
ツバキはぶっきらぼうに礼を言いながら、周囲に目を向けた。
「ねえ、ここには女性兵士は集められていないの?」
見渡す限り男性兵士しかいない、むさ苦しい眺めにげんなりするツバキ。
「まあ元から女性兵は少ないですからね。その少ない女性兵達は基本的に裏方担当なのですよ。前線にまで赴くのはアマラ隊のエリート兵士達くらいのものですねー」
「あ、ボク知ってる。それ、れでぃーふぁーすとって言うんだよね!」
カゲロウがどこからか仕入れてきた知識を得意気に披露する。
「カゲロウ、違うわ。それはレディーファーストとかなんとかではなく、男尊女卑というものよ」
ツバキは「差別反対ー」とぼやく。
「差別ではありませんよ。女性は男性よりも細やかな気配りに長けますから。それぞれの長所を生かした場所に配属するに越したことはありません」
「あ、そ。そういうお考えなら、一般兵士かつ女性な私も有り難く裏方に──」
「おやおや、歩く重火器が何を仰いますやら」
「……は?」
「寝言は戦場で言って下さいね、もしくは影の世界で──」
「……あなた、今最後に何て?」
ツバキはレーベンの、到底、慈愛の天使の口から出たとは思えないようなその辛辣な発言に我が耳を疑うよりも、彼の言葉の最後が聞き取れなかったことに首を傾げていた。
「も……もるどー……、何て?」
主に話を振られたカゲロウも「さ、さあ?」と目をぱちくりさせている。
だが、彼がその言葉を再度口にすることはなく──。
「適材適所ですよ、ツバキさん」
にこり、と黒い笑みを浮かべるその顔に、ツバキの目が据わった。
間違いない、コイツは──。
「あなた、腹の中は真っ黒ね……」
「まさかー」
明後日の方角を見やるレーベンの姿に、ツバキは確信した。こいつは絶対腹黒い、と。
「あ! 用事を思い出し──」
一緒にいるとロクなことがないと直感したツバキは、咄嗟に逃げようと踵を返し──、
「あだだだだ! 腕! 腕折れる!?」
──彼に、掴まれていた腕をギリギリと音がするほどまで締め上げられ、喚く。
「あはは、大丈夫ですよー。折れてもすぐ治して差し上げますからー」
ニコニコと笑む彼の中では、どうやら腕は折れる前提のようだ。
「何が回復専門よ! 拷問専門の間違いじゃない!? ちょっと、どうにかしなさいカゲロウ!」
ツバキが助けを求めるも、目の前の真実にカゲロウは彫刻と化していて、役に立ちそうにもない。
「やだなぁ、本当に回復しか出来ませんよー?」
レーベンは「そーれ」と、緩い掛け声とともにツバキの腕を捻り上げると、耳許に口を寄せ、低い声でこそりと耳打ちする。
「ただ『反回復』……つまりは、体を形成させている結合した細胞を、バラバラにしてしまうことはできますけど、ね?」
その瞬間、ツバキがぴたりと喚くのを止めた。
彼女のその表情から、逃走する恐れはないだろうと判断したレーベンは拘束していた彼女の腕を解放し、時計塔を見上げる。
「時間がないですね……急ぎましょうか、ツバキさん。──ツバキさん?」
時計塔の巨大な時計から視線を戻した彼の視界に映るのは、小さくガタガタと震えている、絵に描いたような真っ青な顔のツバキの姿。
レーベンは「大袈裟だなー」と頭を掻き──、
「ほら、行きますよ」
──違う意味で引き摺るしかなくなった彫刻を連れ、歩き出す。
「見ての通り、ここは一般兵士がいつも集まる場所なのですよ」
再び歩き始めたレーベンに、引きずられながら、ツバキはなんとか「へ、へえ」と、子分じみた返事だけを喉から絞り出した。
「勇敢な彼らを、出来るだけ損なわないように、より先に、より早く戦場に立つのが我々、七天使の仕事です」
「いや、私も一般──」
「何か?」
「いえ、何でも」
徐々に落ち着きを取り戻しつつも、腕を引かれたまま、ツバキは人混みを抜ける。──と。
「ツバキ! 見て見て! 色んな色がいっぱいだ!」
カゲロウが物珍しげにブンブンと首をあちこちに向ける。
「なるほど。教科書で見たことはあったけれど、私、本物の七天隊旗を見るのは初めてね」
ツバキも忙しなくあちらこちらへと視線を向けながら、まるで物語の一部を切り取ったかのような、色とりどりの旗がはためくその壮観な眺めに「へぇー」と感嘆の声を漏らした。
華やかな紋章の刻まれた旗が其処此処で、風に煽られて翻る様に見入っていたツバキは、いつの間にかレーベンが己の腕を解放していたことにも気付かないほどで──。
──そんな時だった。彼女達の到着した、七天使とその親衛隊が集う一角へと、蒼色の隊旗を手に持つ兵士が駆け寄って来たのは。
「レーベン様! レーベン隊、出撃の準備は整っております!」
踵を打ち合わせ、びっ、と敬礼する兵士。
「うん、ご苦労様。残りの隊が揃うのを待とうか」
「はっ!」
再び踵を打ち合わせ、きびきびとした動作で隊列へと戻っていく兵士を、──正確にはその手の隊旗を見ながら、ツバキはニンマリと嗤う。
「ふぅん、天使羽に待雪草ねぇ」
「待雪草……? ああ、スノードロップのことですね? 『希望』の花言葉を持つスノードロップは我が隊の隊花なのですよ」
「いやぁ、実にお似合いの花言葉じゃない。腹黒いあなたにぴったりよ」
ツバキはレーベンの襟首に付けられた『天使羽に待雪草』の階級章を左手の人差し指で差す。
「それが持つ意味は『希望』だけじゃない。……いや、しかし救護部隊のもう一つの花言葉が『あなたの死を望む』とはね。皮肉にも程があるわねぇ」
心底面白いと言わんばかりに、くつくつと喉を鳴らすツバキ。
「それを仰いますなら、貴女の名前の意味は『誇り』ともう一つ──」
「──知っているわ、それくらい。『罪を犯した女』──微塵も間違っていないわよ。何せ、そういう意味で父様に付けられたのだから。……あの時、あの家に産まれ堕ちた、この命そのものが『罪』なのだから、仕方ないでしょう?」
──卑しくも、兄達が欲して止まなかった『才能』も『元気』も、全てを奪い取る形になってしまった。
腹立たしくも、父が望むそれだけのものを全て奪っておきながら、彼が心底願い続けていた『男児』として生まれて来られなかった。
生まれは選べないから仕方ない、では済まされない。
「きっとあなたには分からないのでしょうけれど……御鶴木に生まれる、ということはそういうことなのよ」
ツバキは己の掌を汚らわしいものでも見るかのように、冷めた瞳で見据えた。
うっかりやぶ蛇をつついてしまったレーベンは、懺悔を聞く神父のように、静かにツバキのその言葉に耳を傾け──。
「ねえ、あなたは慈愛の天使なのでしょう? 救いようのない魂はどうすればいいの?」
──ツバキの問いに、彼は柔らかな面持ちでゆっくりと口を開く。
「……それはご自身のことでしょうか?」
「さて、ね」
遥か遠く、見えない何かを見つめるかのように目を細めるツバキの姿に、レーベンは察するものがあったのだろう。
神が迷える子羊を導くように、親が幼子の手を引くように、冥底でもがく罪人へも、決して切れることのない糸を垂らす──。それが彼の、天使としての役目──。
「──救ってみせます」
レーベンは短く、しかしながら、はっきりと言い切った。
予想だにしない答えに、ツバキの瞳が僅かに丸くなる。
「私は人々が笑むために、こうして此処に居るのです。だから、ご自身が救われないなどとは仰らないで下さい。私が天使の誇りにかけて、いつかは貴女も、街の乙女達と同じように、戦の硝煙とは程遠く暮らせる世界を約束しますから」
本気で言っているのであろうその言葉は、罪人のささくれ立った岩に染み込む慈雨のように、静かにそして柔らかに降り注ぐ。
──だが、慈雨が全ての者を癒すとは限らない。
「──下らない戯れ言ね」
吐き捨てるように冷たく言い放ったツバキは兵士の群れの中にローザの姿を見つけ、彼の横をすり抜けて歩き出す。
レーベンはその背中を見送りながら、一度その長い睫毛を伏せた。
彼女が救済など望んでいないことは彼とて百も承知である。
だけれど──。
「レーベン様、アマラ様より伝達です!」
駆け寄ってくる部下の姿に、レーベンは目を開くと、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべる。
「そうですか。彼女は何と?」
同胞からの伝達に耳を傾ける彼の周囲には、そこかしこに『希望』がはためいていた。