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天使アラベラ



幕間 天使アラベラ



「……ください」

 声がした。優しくて、温かな声が。

「ほら、起きてください、アラベラ様。このままでは遅刻してしまいますよ」

 ゆすゆす、と控えめに腕を揺すられ(わたくし)は己の部屋のベッドで目を覚ます。

「ハンナ……」

 目の前にいるのは見慣れた己の従者。

 よく見知っているはずのその姿に私はどうしても胸を締め付けられるような感覚に襲われ──、気付けば彼女をぎゅっと抱き締めていた。

「アラベラ、様?」

 急に彼女を抱き締める形となった私の手に、ハンナは一瞬目をしばたかせるが、一度くすりと微笑んだ彼女はゆっくりと私の背に手を回し、年下であるはずの彼女は、母親が子供にするように、私の背をゆっくりと叩いてくる。

 ──思い出せなかった。

 だけれど、とっても酷いことをしてしまったような気がして、私は彼女にすがってわんわんと泣いた。

「アラベラ様。いいんですよ、思い出さなくて。ちょっとやそっとのことじゃ私はアラベラ様から離れてあげませんから。……だって、アラベラ様は世界一優しくて、世界一お綺麗な、私の自慢のご主人様なのですから」

 ハンナの言葉が温かな慈雨のように、私の心に染み入る。

「さあ、アラベラ様。涙を拭いて下さいな。そろそろ行かないと、怒られちゃいますよ」

 ゆっくりと身体を離した彼女の言葉に私は首を傾げた。

「行くって、どこへ?」

 私のキョトンとした顔を見たハンナは柔和な面持ちで、私の左手を持ち上げる。

「もう……本当にしっかりしてくださいよ。今日は大事な日じゃないですか」

 持ち上げられた私の左手の環指に光るのはガーネットの嵌まった──、

「あ──!!」

 目を最大限に見開く私に、ハンナはにっこりと笑う。

「ふふ。さあ行きましょう。カール様がお待ちですよ──」

 ハンナに促されるがままにベッドから降り、立ち上がった──その時、床にはらりと何かが落ちた。

 落ちたそれは、何故か焼け焦げ、千切れた赤い組紐。

それを見下ろしていると、何故だか目頭が熱くなって仕方がなかった。

「あら? なんでしょうか、この焦げた紐。ちゃんとお掃除はしたはずなんですけど……。とりあえず後から捨てておきますね」

 ハンナが組紐をポケットに仕舞おうとしたその手に、私はワケもわからずかじりつく。

「ま、待ってハンナ! ……それは、何かとても、大切な約束だった気がするの」

 ハンナの手から組紐を抜き取り、それを矯めつ眇めつ眺めやる。

 それは、見るからに安物で、どこにでもありそうな普通の組紐。

「アラベラ様?」

首を傾げるハンナへと僅かに意識を傾けた──刹那、脳裏に一瞬、この世界に存在するはずのない濡れ鴉の黒髪を組紐で結い上げ、夜風に遊ばせる麗人の姿が鮮明に閃き──すぐにそれはあやふやな像へと変わってしまった。

「ハンナ。これで私の髪を結ってちょうだい」

「ええっ!? いいですけど、もっと綺麗な紐、いっぱいありますよ?」

 何もこの大切な日にそれを選ばなくても、と彼女の顔には書いてあるようだ。

「ううん。今日という日だからこそ、これじゃなきゃダメなの」

「そ……そうなんですか? あ、でも、アラベラ様なら何でもお似合いですから特に問題はないですね!」

 お任せください、と、嬉々として己の髪を櫛削り始めるハンナの手に、私は何故だか口元が弛んで仕方がなかった。

 ──ありがとう。

 それは誰に対しての感情なのか、もうわからない。

 だけれど、私は。

「ありがとう」

 呟き、私は笑む。皆が褒め称えてくれた、この顔に恥じないように。

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