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6-6

──もう、何もかもおしまいだ。

 蜘蛛脚で窓から逃げ出したアラベラは通気孔を通り、貯蔵庫へと隠れ込んだ。

 彼女にはもう分からなかった。今覚えている感情が己のものなのか、それとも己を支配する天使のものなのか。

 わかることは、ただひとつ──。

「よかった……手に入れられて」

 両の手で挟むように、意識を失っている少女の細面を持ち上げるアラベラ。

「本当に、綺麗ね、あなたは……」

 ──そうだ。現実離れした髪色と瞳を持つ彼女であればきっと己の願いも叶うに違いない。

 闇に浮かぶ、その白磁の頬を愛おしそうに一撫でし、アラベラは鬱蒼と笑んだ。

 ──彼女に固執すれば、もしかしたら大切なものを失うかもしれないとは気付いていた。けれど、全てを無に帰すとしても、どうしても手に入れたかった。

「そうよ……」

 ──己の悲願を達成するには、手に入れるしかなかったのだから。

「大丈夫よ。あなたは……絶対に残さないから。髪の一筋、血の一滴に至るまで。全部、全部いただくわね」

 アラベラの人の皮が裂けるように破れ、闇に緑光を放つ八眼の大蜘蛛がその内より這い出でる。

 ギチギチ、と不快な音を立てながら大蜘蛛はツバキの顔へとその顎を開き──、

「ぐうっゥぁ──ァァ!?」

 ──刹那、己の腹に走り抜けた激痛に大蜘蛛は絶叫した。



「生きてるか!? バカ女!」

 最悪の事態も想像したジオンが貯蔵庫の扉を蹴り破るのと、大蜘蛛が絶叫しながら後退るのは同時だった。

 響き渡る絶叫の中、猫に戻ったカゲロウはその夜目で主を見つける。

「いた! 天使、あっち、あっちにツバキいるよ! いるよ!」

「あっち!? えーと、こっちか!」

 猫の金眸が向く方角から大凡の見当をつけたジオンは、火球を生み出す時間も惜しいのだろう、脇目も振らずに暗闇へと飛び込むと、半ば直感と手の感覚だけを頼りに──、

「──いた!」

 ──細かなことは言っていられないのだろう。それはもう容赦なく、目的の者らしき物体をぺたぺたと触り、その感触から恐らく人間である、と見当をつけるが早いか、その脇らしき部位を抱えるようにして急いで貯蔵庫から飛び出した。

「テメェら、ここから下がれ! 化け物が出てくるぞ!」

 そのまま彼は、いまいち状況が飲み込めていないと見える見張り番を逃がし、貯蔵庫の鉄扉を体当たりするように閉め、腕に抱えた重みを見下ろし──内心で安堵の吐息を漏らした。

どうやら、腕の中のモノは彼の目当ての人物で間違いなかったようだ。

「おい、化け猫。とりあえずこいつの意識が戻るまで──」「……もう戻ってるわよ」

 カゲロウにツバキを引き渡そうとしたジオンは、地を這うような声に、己の腕を見下ろす。

「よくも……ここまで、ぞんざいにあつかって、くれたわね」

 ツバキは身を捩るようにその腕から抜け出すと、がくりと床に片膝をついた。

ともすればついた片膝すら砕け、倒れ込みそうになる彼女は何とか体勢を保ちながら、荒い呼吸を繰り返す。

「ツバキ! 大丈夫? 大丈夫!?」

 痛いの? 苦しいの? と、主の顔を不安そうに見上げるカゲロウ。

だが、ツバキからの返事はなく。カゲロウはその躰を必死に擦り付けるようにして、彼女の意識を己へと向けようと猫特有の行動を取り始める。

「おい、とにかく一旦退くぞ!」

 ツバキが負傷していると踏んだのだろう。撤退するべくジオンがツバキへと手を伸ばし──、

「あー、悪いけれど、負傷はして、ないから」

 ──と、彼女はその伸ばされた手を拒んだ。

「アホか! テメェ顔が青瓢箪みたいな……のはいつものことか」

「失礼ね! ……あぁ、でもようやく眠気が覚めてきたわ……」

 くぁ、と恥も外聞もなく、大欠伸をするツバキ。

「……待て、眠気、だと?」

「そーよ。眠気」

 たっぷり三秒は思考を巡らせた後、──ジオンは激怒した。

「テメェふざけんじゃねえぞ!? 人に散々手間かけさせておいて、寝てましただぁ!? テメェの神経は一体どうな──」

 刹那、予備動作すらなく、ふわりと立ち上がったツバキがジオンへと脚を振り上げる。

 直後、長脚の一撃を食らい、ガンと音を立てたのは彼の肩口より少し上方、彼が背で押さえている扉だった。

「気をつけて。私の二の轍を踏むのは嫌でしょう?」

 すっと扉から離された、彼女の足が蹴りつけた場所には、小指大ほどの大きさの蜘蛛が潰れ、へばり付いている。

「蜘蛛……!」

 ジオンが不快そうに潰れた蜘蛛を見やった時だった。二人を照らしていた、窓から差し込む月光が途切れたのは。

 先に反応したのは、扉を背で塞いでいたために、運よく窓の正面に立っていたジオンだった。

 ほぼ間髪入れず、彼の表情から何かしらの異常を察知したツバキがすかさずその場から飛び退いた直後、ガラスの割れる甲高い音が廊下に響き渡る。

「タミエル……!」

「閉じ込めた、と思いました? 残念ですが私は──」

「──通気孔から自由に出入りができる。でしょ?」

 ジオンとのやり取りに首を突っ込まれた大蜘蛛は苛立たし気に顎をギチギチと鳴らす。

「なるほど。蜘蛛に咬まれたふりをして、貯蔵庫までの経路を掴んだということですか」

 案外姑息ですね、と嗤う大蜘蛛。

 ツバキは言葉を返す代わりだと言わんばかりに、一足飛びで大蜘蛛へ肉薄すると、その頭部に回し蹴りを叩き込んだ。

「所詮その程度──!」

 脚の一本でそれを防いだ蜘蛛に、ツバキは遠心力を生かし、反対の脚を蜘蛛の顎へと流れるように打ち込む。

「なッ──!?」

 思わぬ打撃に怯んだ蜘蛛の頭へとツバキは更に脚で追撃を加え──。

「ありゃりゃ、ツバキ怒ってるね」

 カゲロウはそんな主を見遣りながら、ジオンの横で他人事のように呟いた。

「あ? 怒ってるなら、なんであの気味悪りぃ能力使わねぇんだよ?」

「ん? 使ってるじゃん。脚にほら」

 ほら、と言われてもただ蜘蛛を乱打しているようにしか傍目には見えないのだが、実際は法力を脚に纏っているのだろう。

「わっかんないかなー? ほら、脚がぼやーってしてるじゃん?」

カゲロウの言葉に、暴れ倒すツバキの脚をじっと見遣る──と、その脚に何やら黒い靄が纏わりついているのが見えたのだろう、ジオンは「あれか」と、納得したように頷いた。

 次の瞬間──、一層強く叩き込まれた脚の一撃に、鉄の甲板を殴りつけたような鈍い音を立てながら蜘蛛の巨体がよろめく。

「何故……どうして私の催眠が効かないのです……!?」

 たたらを踏み、何とか倒れることを耐えた蜘蛛の、震えるような声に──、

「そういやアイツ、毒に耐性があったんだっけな」

 ──と、ふとジオンはシズマの報告を思い出す。

 恐らく何かしらの毒により、催眠状態に陥るのだろうと踏んだのだろう。納得した様子のジオンに、ツバキは怒気も顕に犬歯を剥いた。

「はぁ!? そんなもの持ってたら苦労、しないわよッッ!」

 怒号とともに、ツバキは大蜘蛛の横っ面に脚を引っ掛け、──瞬く間に、吹き飛んだ大蜘蛛が屋敷の壁に激突する。

「ツバキはね、影供って言って、無理矢理自分の影に怪我とか毒とかを一時的に肩代わりさせてるの。でもあくまでも一時的なものだから、ちゃんと後からそれらを受け取らなきゃいけないんだよねぇ」

 ジオンへと主の能力の一部を得意気に話す黒猫の尾がひょいひょいと上下に揺れている。

「この後、悪魔との戦が控えているというのに余計な瑕疵を寄越してきてくれて……本当に不愉快。だから楽になんて死なせてやらないから覚悟しなさい」

 闇の(わだかま)るような、(くら)い殺意を含んだツバキの声に、命の危機を感じた大蜘蛛は一瞬たじろぎ──、

「クソッ……!」

 ──体勢を立て直そうと試みたのだろう。苛立ちを吐き捨てると、彼女は四対の踵を返し、その場からの逃走を図った。のだが──。

踵を返した彼女の、毒々しい色の蜘蛛腹から背へと、ツバキによって影から喚び出された、影の刃束が突き抜けた。

「ィアァァァ──!」

 声にならない絶叫を上げる蜘蛛の腹へとツバキは酷薄な笑みを浮かべながら、次々と影刃を撃ち出していく。

「イタイ、イタイ! ヤメテヤメ──」

「煩いから、その口ももぎ取るとしましょうか。……いらっしゃい、縊鬼夜叉(くびれやしゃ)

 影からツバキが喚び出したのは、彼女がぞんざいに撃ち出していた影刃とは比べものにならないほどに、禍々しい雰囲気を纏う闇色の片刃の刀。

見る者の背筋を凍らせるその闇色をツバキが、(おもむろ)に一閃させる。──と、空を切る音なのだろう。周囲に幼子の悲鳴のような音が響き渡る。

「それじゃあ、これにて幕としましょうか」


──刹那、翻る闇色が大蜘蛛の顎を易々と引き裂いた。

 最早悲鳴を上げる力もないのか、ズシリとその脚を折り、床へと這いつくばる大蜘蛛。

全身を己の鮮血に塗れさせ、息も絶え絶えに、何とか呼吸をしているその蜘蛛の、八つの緑眼からは既に狂気の色が抜け落ちていた。

「タミエル──いや、アラベラ。今ならば俺の声が届いているだろう。……何故、堕天した」

ジオンの声に、大蜘蛛の背がビクリと大きく跳ねる。

「堕天? ……ああ、あなた達天使で言う所の破戒僧ね?」

 ま、それはともかく、とツバキはジオンを剣呑に睨む。

「今取り込み中なの。退いてくれるかしら」

 だが、そんな彼女の言葉など、聞いてもいないのだろう。大蜘蛛へとゆっくり歩み寄り始めたジオンがその足を止めることはなく。

「むぅ……」

ツバキは無視されたことに少しだけ頬を膨らませるも、──結局、その行く手を阻むことはしなかった。

「アラベラ。答えろ、アラベラ!」

 ジオンの声に、蜘蛛は再び、ぶるりと躰を振るわせると八つの眼を、己へと近付いてくる上司の後方──、膨れっ面をしているツバキへと向ける。

 アラベラとしての正常な意識を取り戻した彼女の脳裏に浮かぶのは少しだけ前の、まだ彼女に婚約者がいた頃の風景。



「なあ、別れてくれないか?」

「……え?」

 空白。最初に頭を埋め尽くしたのは疑問でも怒りでもなく。

 ただただ彼の言っている意味が分からなかった。

「ど、どうしたのよ急に……」

 月明かりに照らされた時の竜騎兵本部の中庭で、(わたくし)の全てが狂った。

 目の前の、私より十以上も年若い彼は、その瞳に私を映すことすらなく。

「ごめん、俺、好きな子ができたんだ……」

 その、彼の言葉に私は世界が真っ暗になるのを感じた。

なんで、どうして。色々な感情がごちゃ混ぜになり、咄嗟に口を開くも、己のものであるはずの喉から声は出ず。

待って。

話を聞いて。

気に入らないところがあるなら、直すから──。

 必死にそれらを声へと変えようとするも、結局、喉は凍りついたままで。

踵を返し、こちらを振り返ることもなく、去っていく背中をよく覚えている。

音も色も消え、虚無だけが蔓延るような世界の中で、これが現実だと如実に突き付けてくるものがひとつ。

それは、消えることのなかった嗅覚が告げてくる、私の失恋を嘲笑うかのように、尚一層華やぐ匂いを起こす、花壇の花々の香り──。

憎らしくて、憎らしくて──。

気づけば、何故か花壇は滅茶苦茶になっていた。

でも、別に構いはしなかった。──いや、むしろ、土にまみれ、汚く潰されたそれらに笑いすら覚えた。

だけれど、その高揚も一瞬で──。

 


 その翌日、悲憤に暮れる私が、気晴らしに、と父に勧められ訪れた街の市場で見たのは、自分の屋敷で働く、私付きのメイド──ハンナに嬉しそうに指輪を選んでいる彼の姿だった。

 今思えば、その時頬を伝い、流れ出て行ったのは『私』の理性だったのかもしれない。

 だけれど、その時の私はそんなことを考える余裕すらなく。

 ──誰よりも、信じていた。

 己のことを何よりも案じてくれていると、分かってくれていると思っていた、そのメイドを。

 ──誰よりも、愛していた。

 たまに、頼りないこともあるけれど、はにかむように笑む姿が印象的な、婚約者である彼を。

 誰よりも、誰よりも、二人を好きだった、はずなのに──。

「裏切られた──」

 その真実が、私の中の全ての黒い感情を呼び起こした。

 惨めで、悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、何より──憎くて。

 その光景から逃げるように屋敷へと駆け戻り、私は己の部屋に閉じ籠った。

 血相を変えて帰宅した私を心配した父が部屋をノックしたが、もう私は誰も信じられず、己を案じる父すら追い返して──。

 それからは、しばらくベッドに突っ伏していた。

 心の何処かが、まだ希望を捨てていなかったのかもしれない。

 こうしていたら、目が覚めて、全てはやたらと現実じみた夢だった、なんてことがあるのかもしれない──と。

 そんな私の希望を粉々に打ち砕くように、私の目にふと飛び込んできたのは──、

「誰──あなた──??」

 天蓋付きベッドの枕側。壁掛けの大きな鏡に映るのは、それはそれは醜い己の姿だった。

 常に皆に、花よ蝶よと称賛されていたはずだった。だが、それが世辞だと知った。

 だって、鏡に映る己はまるで、おとぎ話に出てくる、意地悪な老婆のように、こんなにも醜いのだから──。

 彼が自分を捨てた理由、それはもう、理解するしかなかった。でも──。

「許せない──」

 鏡に突いた手に力が籠り、鏡面にぴしりとヒビが入る。

 分かっていても、許せない。己を裏切った彼を。

己を騙していた彼女を。

己に嘯いていた皆を。

「絶対に──許せない──!!」

 感情が目から溢れ、枕にシミを作った。

 そんな時、歯を食い縛る私の耳に突如として響いた声の、なんと神々しかったことか──。

『汝、己が唯一の願いを持つ者よ──。その願い、真に成就したくば、我に唱えよ。ただ一言『成せ』と』

 それが、何を意味するかなどと考えもしなかった。

 いや、考える気もなかった、と言うべきか。

 ただただ、私の中に残った感情、それは『憎悪』だ。

 己の心にあった『愛情』を燃料に、激しく燃え上がったそれは、瞬く間に己の心を焦土へと変え──。

 『憎悪』の焦げ付いた、穢らわしい焦土には、もう何の新芽(きぼう)も芽吹くことはないのだから、己の『願望』となってくれる、その言葉を発することに、何の躊躇いもなかった。

 ──そうだ。願いが叶うのなら、もう厭うものなど何もない。

そうして、私はただ一言、虚空に告げた。

──「成せ」と。



「思い、出した……」

 蜘蛛がわななくように息を吐く。

「私、私の手で、あの人、殺した」

 途切れ途切れにそう語る、緑の蜘蛛眼には苦渋の色、そして後悔の色が浮かんでいた。

「私、殺した。任務に就いた彼、追って、殺したの」

「……まさかカールを殺したのがテメェだったとはな」

 部下の死の真相に、ジオンの顔にはやるせなさとやりきれなさが滲んでいる。

「だって! 彼が悪いのよ! あの人は私を裏切ったの! だから、私が裏切って何が、何が──ッ!」

 脚に力を込めようとしたアラベラは、全身に走る痛みに声を詰まらせる。

「ねえ、私、綺麗になった、でしょ? タミエル、教えて、くれたのよ。若くて美しい女、食べれば、人は若返る、のよ。その女、食べれば、きっと私は、完璧になる」

「あなた、まさかそんな下らないことのために……」

 呆れ半分、蔑み半分で己を見やるツバキに、己の願いを、下らないの一言で切り捨てられたアラベラはその蜘蛛顎から血の(あぶく)を吐きながら激昂した。

「分からないわ! 見るからに、全て、揃っている、あなたなんかには!!」

「あ、そ? 悪いけど、全くわからないわ」

 アホらしい、と言わんばかりに肩を竦めるツバキの姿に、アラベラが怒りの咆哮を上げた──次の瞬間だった。ツバキが彼女へとすっと手を伸ばしたのは。

「なによ、なんの、つもりよ」

 アラベラは己の眼に映る少女の行動に、びくりと全身を強張らせる。

「何って、そんな妄言を信じてここまでした、愚かを超えていっそ天晴れかもしれないあなたへのご褒美ってところよ。あなたの悲願は私を食べれば達成できるのでしょう? ならば、ほら、食べてみれば良いわ。私を食べたところで己の悲願など、まだまだ叶わないといずれ知る時の、あなたの絶望する顔が見られないのだけが残念だけれど、ね」

 喉でくつくつと嗤うツバキ。

 アラベラは屈辱に震えながらも、最期の力を振り絞って立ち上がった。

「私は、私は──!」

 勢いよく振り下ろされた蜘蛛脚がツバキの肩に食い込む寸前、──大蜘蛛が緋色の炎に包まれ炎上する。

「アァァアァ──!!」

「猪男……?」

 かつての同胞を炎の渦に落とし込んだジオンは、疑問符を浮かべながら己を振り返るツバキを無視し、悶え苦しむ蜘蛛の前へと小さな何かを放り投げた。

「ホント、バカだなテメェ。……死ぬ前にそれをよく見てみたらどうだ」

 ジオンの言葉に、アラベラは蒸発しかかる血眼を輝く『それ』へと向け──、ぴたりとその動きが止まる。

「ゆび、わ……?」

「それはな、アイツが……カールがテメェに殺された日、任務に赴く直前に、俺に渡して来たんだ」

「え……?」

どういうことか、と、痛みも忘れ、眼を見開くアラベラ。

「アイツはな「俺は弱いから、この任務で死ぬかもしれない。だからあの人が悲しまなくていいように未練を切って来た」って言ってやがった」

 婚約者の声で、その言葉が鮮明に脳裡に流れ、アラベラは息を飲んだ。

「ソレは、もし自分が生きて帰れたら、時の竜騎兵を辞めてテメェと一緒に生きる、って決めたアイツから、その日の為に預かっていたものなんだよ」

「う……そ……、じゃあ……あの子は……ハンナは……」

 アラベラの眼に、いつもにこやかに側に従っていた、屋敷で最初の犠牲者となったメイドの愛らしい笑顔が浮かぶ。

「もう、その答えは分かるだろ」

「あぁ……ぁ」

 ジオンの言葉に、アラベラの喉から嗚咽が漏れる。

 だが、嗚咽は漏れても、人ではない蜘蛛の眼から涙が流れることはなく。

そんな、涙で滲まぬ視界は、彼女にとって幸でも不幸でもあった。

「ハンナ……ハンナ──!!」

 溶けかかる蜘蛛の腕で必死に指輪を引き寄せようとするが、太い脚が災いし、触れた指輪は弾かれ、彼女から離れるように転がってしまう。

これが二人を殺した己への罰なのだろうか、と転がっていく指輪に、アラベラは胸を鋭利な刃物で突き刺すような感覚と痛みに襲われる。

──が、彼女はそれでも手を伸ばさずにはいられなかった。

「ないで……お願いだから、行かないで!」

 アラベラは必死に懇願するも、転がる指輪に言葉を解する能力があるはずもなく。無情にも切願する彼女から離れていく、その指輪を拾い上げたのは、白磁の華奢な指だった。

「ふーん、いい趣味してるじゃない」

 燃え盛る炎の中に迷わず腕を突っ込んだ黒髪の少女に、アラベラは咄嗟に制止の声を上げる。

「や、止めなさい──!」

それは、何かを考えて放った言葉ではなく、彼女すらもう燃え尽きたと信じて疑っていなかった本心からの言葉で──。

 だが、そんな制止など聞き入れることもなく、少女は腕が炎に巻かれるのを気にした風もなく、指輪をつまんだまま、ぶっきらぼうにボヤく。

「ねえ、いい加減熱いんだけど。はやくコレ、受け取ってくれない?」

「このバカ──!」

 ジオンがツバキの腕を炎の中から引き抜くのと、伸ばしたアラベラの脚先に指輪が嵌められるのはほぼ同時だった。

「間違い……ない……わ」

脚先に光るその指輪に、アラベラは確信を得たように、震える息を吐き出した。

 銀の指輪は、ガーネットが嵌め込まれた可愛らしい小花柄であり、それは彼女の好みと完全に一致しているもので。

「居る、はず、ないわ……」

そう。いるはずもない。──と、アラベラは一人呟く。

 ここまで己の趣味嗜好を知っている者など、天地のどこを探しても一人しかいるはずがないのだ──。

「あの日……」

嬉しそうに市場で婚約者カールと並んで指輪を見ていたハンナ。

「あれは、そういうこと、だったの。……二人で、選んで、くれたの、ね」

カールは、己が喜ぶものを選ぶために、己を最も良く知るメイドとともに、市場にあの日赴いたのだ、と、アラベラは今ならば心から信じることができた。

「愚かだったのは私、ね……」

 ──信じていたはずの二人を疑い、あまつさえ堕天し、手にかけてしまった。

 アラベラは霞ゆく眼を炎の向こうへと向ける。

「オラ、腕出せ!」

 よく見知った隊長が、悲鳴を上げる黒猫の尾を掴み、バシバシと燃える少女の腕に猫を叩きつけながら消火活動にあたっていた。

「痛い痛い! そんなに叩かないでよ!」

「アホか! マジで焦げ炭になるだろが!」

「あづいよおおおお! ツバキいいぃぃ!」

 その戦々恐々としながらも、どこか平和な光景に内心で小さく笑みを溢し、「不思議ね」とアラベラはゆっくりと息を吐き出す。

 奇妙なことに、あれほど熱くて苦しかったはずの炎に巻かれているというのに、今は微塵も彼女の中に痛みや苦しみはなく。

 ただただ、溢れんばかりの温かな気持ちと、安らぎだけが彼女の中にはあった。


「また私は……」

 ──逢えるかしら。

 ふと思い付いたそれは、『私』の素朴な疑問。

 もし、あの世とやらであの子達に逢えるのなら。──と思ったりもしたけれど。

「でも、私はきっと」

 ──彼女達と同じ天国には行けそうにない。

 なぜなら、それだけのことをしでかしたのだから。

「もう、謝りたくても……」

──謝れない。

湧き上がる悲しみに、再び痛みと苦しみが身を苛み始めた、その時だった。

「ほら、貸してあげるわよ」

 ──と、消火が終わったのだろう。腕の焼け爛れた少女が己に何かを放り投げてきたのは。

 既に炭化してしまっている蜘蛛腕で、『私』は投げて寄越された、その輪のようなものを受けとる。

「こ、れは……?」

 彼女が投げて寄越してきたのは赤い組紐。

よくよく見ると、組紐に六マークの貨幣が通されている。

 その金額は、下級とはいえ、貴族の令嬢が持つ金額ではない。というよりは、そもそも六マークでは貧民ですら何も買えはしない。

 だけれど、彼女には何かしらの思いがあるのだろうと、『私』は有り難くそれを受け取る。

「私の故郷とは通貨が違うから……それで橋渡ししてくれるかは分からないけれど。まあ天国への片道切符だとでも思いなさいな。あ! 貸すだけよ! 利子は十一(といち)だから、次会った時にはせいぜい膨れ上がった借金に涙を飲みながら返済することね」

 『私』にハンナ達のいるであろう場所への切符をくれた少女の言葉はぶっきらぼうだけれど、とっても温かで。

 例えどんな巨額に膨れ上がろうとも、いつかは返そう。絶対に返そう。そう心に強く念じる。

 ──だって、手にしているマークはこんなにも、心強いのだから。

「ありが……とう」

 思い遺すことなど、もうなにもなかった。

 薄れ行く意識の中、『私』が最期に見たものは、炎に照らされながら己へと敬礼する、敬愛してやまなかった天使の青年と、心優しき白服の少女の姿だった──。

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