6-5
クラウスと食堂で別れたツバキが部屋へ真っ直ぐ戻る──ワケはなかった。
いや、正確には辿り着いた先は部屋ではあるのだが──。
「テメェはバカか? 真性のバカなのか?」
突然乱入してきた訪問者にジオンは冷たい目を向ける。
ツバキはそんな視線など全く気にしていないのだろう。「あー、疲れた」とボヤきながらベッドへと直行する──彼女の襟をジオンは後ろから容赦なく引いた。
「ふざけんな! そんな埃まみれで俺のベッドに転がるんじゃねえ!」
ジオンの声に、日中掃除に奔走していたツバキは己の身体を見下ろし「えー」と不服そうな声を上げ──、
「……あ、でも昨日シャワー浴びてるわよ?」
──と、ついには謎の持論まで持ち出した。
汚れたのが今日だというのに、昨日入浴したからなんだというのか。
勿論ながらジオンの顔には「だからどうした」と貼り付けてあるようだ。
「とにかく部屋へ帰れ! でなきゃあのお嬢に報告するぞ!」
ローザに報告、という言葉に一瞬怯んだツバキは少し唸り、それからしばらく頭を抱え、そして──はあ、と肩を落とした。
「お風呂……やだな……」
どうやら彼女は己の埃っぽさ故に部屋を追い出されると思ったらしい。
トボトボと風呂場へと消えていくツバキを見送ったジオンは聞き手のいない愚痴を溢した。
「風呂云々以前の問題だと思うんだが……アイツに一般常識はねえのか?」
わりと本気でジオンはしばらく彼女の一般常識の有無について考え──諦めた。
なぜなら、一般常識があれば彼女の友人であるローザもあれほど苦労しないはずなのだから。
ジオンは諦めたようにため息を吐くと、タオル一枚持たずに風呂へと突貫していった蛮勇者のためにタオルを用意しに掛かったのだった。
「あー、ぐったりしたー」
しばらくして、艶やかな黒髪から水を滴らせながら出てきたツバキに、ジオンが大判のタオルを放り投げる。
「それを言うならさっぱりした、だろ」
当然ながらそれを受け止める気など微塵もないツバキは足許に落ちたタオルを踏みつけながら大欠伸をひとつした。
そしてそのままふらふらとベッドへと歩み寄ったかと思えば、ぼふり、と倒れ込むようにベッドに突っ伏した。
拭いてすらいないのだろう、ツバキの髪から滴り落ちる水滴が乾いた枕へと染み込んでいく。
「テメェなぁ……それ俺のベッドなんだが?」
「うるさいわよ。あなたなんて部屋の隅っこで丸くなっていればいいじゃない。ちょうどそこの箪笥の角とかオススメよ。私の視界に映らないし」
おおよそ人を人とも思っていない発言に、ジオンは額に青筋を浮かべながらも、何とか苛立ちを抑え、手近な椅子をベッドサイドまで引いてきた彼は、それにどかりと座り込んだ。
そして予め用意していたのだろう、落ちたものとは別のタオルをツバキの頭へとバサリと落とし、水気を拭き取るために、仕方なくそのタオルを被った頭を片手でワシワシと掻き回し始めるジオン。
「よくもまあ人様の部屋でそこまでくつろげるもんだな」
「そうね」
「そうね、じゃねえよ!」
嫌味をさらりと受け入れられたジオンはツバキを睨み付け──、
「な……なんだよ」
──僅かにその声が上擦る。
ツバキは枕に左半分の顔をうずめたまま、右の黒瞳で射るようにジオンへと視線を向けていたのだ。
ツバキは感情の見られない顔でジオンを見据えつつ、薄い唇を動かす。
「ねえ、この作戦が成功するにせよ、しないにせよ、明日には本部に帰るのでしょう?」
事件解決までこの屋敷に居座るつもりだったジオンは咄嗟にその言葉に否定を返そうとし──彼女の眼光にふとここに来た時のことを思い出した。
『合わせて──』
この屋敷に到着した瞬間から何かを警戒していた少女。
瞬時に彼女の求めている返答を理解したジオンは何食わぬ顔で「ああそうだな」と返した。
「犯人が見つかろうが、見つからまいが、ここに留まるのは今日までだ」
そう言い切るとジオンはこれで良いか、とばかりにじとりとツバキに目を遣る。
視線の先の少女は『上出来』と言わんばかりに口元だけで笑んでいた。
事態が動いたのはそれから数分経ってのことだった。
控え目に響いたノックの音に、わしゃわしゃとタオルでツバキの頭を掻き回していたジオンは、ばっと部屋の扉へ目を向ける。
「おい、聞こえ──てるみてぇだな」
ベッドに転がったままのツバキを一度ちらりと見遣ったジオンは、タオルと枕一杯に広がる濡れ鴉の合間から覗く彼女の瞳が、扉の方へと向いていることを確認し、──彼はゆっくりと扉へと歩み寄った。
そして、警戒しつつジオンが開いた扉の先にいたのは──、
「なんだよ……お前か」
──寝間着姿のアラベラだった。
「あ、あの、こんな夜遅くにすみません……」
オドオドと視線をあちこちへと忙しなく向けるアラベラ。
貴族として以前に、一般常識くらいはしっかり身に付けている彼女にとって、就寝時間に他者の、それも異性の部屋を訪なうというのは相当勇気が要ることのようだった。
「お前までこんな時間に……どうしたんだ?」
扉を腕で支えた態勢のジオン呆れたように訊ねられ、アラベラは覚悟を決めたように一度ぎゅっと目を瞑ると「失礼します!」と扉を支える彼の腕の下を潜り抜け、部屋へと踏み入る。
そんな彼女のまっすぐ向かった先は──、
「あ、いました! ツバキさん、こんな時間に殿方の部屋の、寝台を占拠するなんて淑女のすることではございませんわ!」
──ベットで俯せになり、顔を枕に埋めているツバキの許だ。
アラベラに諌められたツバキは、俯せに寝転がったまま「むー」と不機嫌そうな声を上げ、同時に足をばたつかせる。
それはまるで、まだ眠い時に母親に起こされた子供が上げるような声で。
「ツバキさん。その服はお昼も着ていたものではありませんか!」「むー……」
「まあ! 保湿もなさらずに、ああ、髪もそのままで……!」「むーむー……」
「ツバキさん、ちゃんと聞いているので──」「──ねえ、何で私がここに居るって分かったの?」
それはもう急に、不機嫌な唸りを止めたツバキは、両腕を突きながら、腕立ての要領で寝台からゆっくり身体を起こす。
「え──?」
口をぽかんと空けるアラベラを緩慢な動作で振り返る、濡れ鴉の合間から覗く、彼女の黒曜の瞳には、罠に引っかかった獣を見る猟師のような、冷たい光が宿っていた。
「な、何故ってそんなのお部屋を覗いたら、ツバキさんがいらっしゃらなかったからに決まっているじゃありませんか!」
何を言っているのか、と眉根を寄せるアラベラにツバキは「ふーん?」と含みのある声で返すとゆっくりと床に降り立つ。
「バレちゃあ仕方ないわ。……部屋に戻るのはいいけれど、ほら猪男、護衛しなさいよ」
「なんでそんな、無駄に偉そうなんだよテメェ……」
「いいからほら、早く!」
歩み寄ってきたツバキにぐいぐいと背を押され──、
「分かった、分かったから押すな!」
──と、ジオンはしぶしぶ己に宛てがわれた部屋を後にした。
「ごめんなさいジオン様……」
アラベラの謝罪にジオンは頭を掻きながら「へーへー」とぶっきらぼうに答える。
「つまり、テメェらを部屋に送り届けりゃいいんだろ?」
「ええ。……私に宛がわれた部屋と同じ並びの、確か、一番奥があなたの部屋だったわよね?」
「はい。なのでツバキさんがお部屋に戻られるのを見届けて、私も部屋に引き上げるとしますわ」
月明かりの差し込む廊下をジオンを先頭にツバキ、アラベラと一列に並んで歩く。
三階までの道のりは誰も、何かを語ることもなく、静かなものだった。
ツバキは自室の前へ着くと、背後のアラベラへと問いかける。
「ねえ、あなたさっき、部屋を覗いたら私がいなかったって言っていたわよね?」
「ええ、そうですわ」
それがどうかしたのか、と首を傾げるアラベラ。
「なんで部屋にいないっていうだけで、私が猪男のところにいるって分かったの?」
「そんなの、ツバキさんがおられそうな所を想像してみただけですわ」
「ふーん、まああなたの豊かな想像力はこの際置いておいて。──あなたの今の説明、私は結構腑に落ちていないのだけれど……あなた、どうやって私の部屋を覗いたのかしら」
疑問符の尽きぬアラベラへと、ツバキは扉の前から身体をずらし、自室の扉へ歩み寄るよう促す。
「どうぞ、開けてごらんなさいな」
ツバキの言葉に、訝しげにアラベラはドアノブへと手をかけ──、その目が驚愕に見開かれた。
「鍵が……掛かっている……!?」
「そ。屋敷に長年住んでいるあなたなら間違いなく知っているでしょうけど、ここの屋敷の寝室は部屋の中からしか鍵が開けられないそうね?」
どういうことかしら、と冷たく見つめてくるツバキに、アラベラは咄嗟に言葉を詰まらせる。
「アラベラ。どういうことか説明しろ」
己を見遣るジオンの瞳にも不信が滲んでいることに気付き、アラベラはしどろもどろで言い募った。
「えっと、ごめんなさい! 本当はノックしたのですけれど、ツバキさんが出てこられなかったものですから……その、まさか窓からお外へ出られているとは……」
アラベラはツバキが窓から抜け出したと思っているのだろう。
だが、その言葉に、ツバキは「あら、それはおかしいわね?」と獲物を追い詰めた狩人の笑みで、彼女へとゆっくり言葉を紡ぐ。
「ねえ、その扉、ノックしてみなさいな」
ツバキの声に、後に退けなくなったアラベラは疑問符を浮かべながら、控えめに部屋の扉をノックする──と、「はーい」と紛れもないツバキの声が部屋から聞こえ、
「どちらさまかしら?」
──ガチャリと部屋の内から鍵を解錠し、姿を現したのはツバキその人だった。
「え──え……!?」
二人のツバキに挟まれたアラベラの顔に浮かぶのは理解不能の空白。
「ねえ、ノックしたなら、そこの私が出るはずよね?」
「あの、その……」
「はっきり伝えてあげましょうか? あなたが私が猪男の部屋にいる、と知っていた理由。それは彼の部屋の中をどこからか見ていた、からよね?」
ツバキの氷鈴の声にアラベラはもう何も言わなかった。
ぐっと唇を噛み、ただただ項垂れるアラベラに、ツバキは尚も追い討ちをかける。
「まんまと罠に掛かってくれてありがとう。それも、今日雀すら寄り付かないような、米と笊で設えたような安い罠に掛かってくれるなんて、ね──」
そこに込められているのは、侮蔑と嘲笑と。
「ああ、猪男の部屋を訪れたこと、今更後悔しなくても良いわよ? どの道、今晩ケリをつけるつもりだったから。……例え、あなたが猪男の部屋に来なかったとしても」
「……確証もなく、私を裁く、と?」
ようやく口を開いた、震える声のアラベラに、ツバキはニタリと悪魔顔負けの嘲笑みをその顔に貼り付ける。
「ええ。本当はそうしたかったのかもしれないわね。あなたを暗殺し、今晩の犠牲者にして──、明日からは何故か誰一人として犠牲者が生まれなくなりました。めでたしめでたし。……どうかしら、反吐が出そうなくらいに不快な結末でしょう?」
そうならなかったのが本当に残念、とくつくつ嗤うツバキ。
そんな彼女を視界の端に納めながら、ジオンは深くため息を吐き──。
「おい、アラベ──」「──動かないで!」
──彼の声を遮り、鋭く叫んだのはアラベラだった。
彼女が叫ぶのとほぼ同じタイミングで、彼女の背後に立っていたツバキがゆっくり傾ぐ。
「バカ女!?」
意識を失い、頽れたツバキの身体を抱き抱えるように受け止めたアラベラは、ツバキの首筋に、どこからか取り出した鈍色のナイフをピタリと当てる。
「ジオン様、どうか動かないで下さい。目の前でツバキさんの首を落としたくないのなら」
「アラベラ、やっぱりテメェ……堕天したか!」
己を射殺さんばかりに睨み付けてくるジオンに、アラベラは寂しげに微笑んだ。──その瞬間だった。もう一人のツバキがアラベラの腕に飛びついたのは。
「ツバキを返せぇ!」
飛びついたツバキ──の姿を取ったカゲロウはアラベラの腕にがぶりと噛み付き、その腕に人型の歯型をつける。
「あなたはまさか……彼女の連れていた……くっ!」
ガジガジと己の腕を噛んでくるカゲロウの腹を魔力を込めた脚の一閃で蹴り飛ばしたアラベラは、その背から毒々しい赤と紫の縞模様の浮かぶ、太い四対の蜘蛛脚をめきりと生やした。
「ジオン様……本当にごめんなさい……」
アラベラは一言そう呟くと蜘蛛脚の先端から数多の糸を前方へと吹き出し──、
「わーん!」
「化け猫……テメェほんと使えねえな!?」
糸からひらりと身を躱したジオンの背後で、飛来した糸にものの見事にがんじがらめに絞め上げられたたカゲロウが喚く。
「何やってんだテメェ!」
待ってろ、と舌打ちしながらカゲロウへとジオンが駆け寄るも──、
「待って! それに触ってはなりません!」
──切羽詰まったようなアラベラの叫びに、糸に伸ばしかけたその手を止めた。
「その糸は触れた者を溶かします。だからどうか触れないで……!」
アラベラの視線の先では「うーっ、うーっ」と唸りながらカゲロウが糸から抜け出そうと必死にもがいている。
「あなたが何故溶けないのか、甚だ疑問ではありますが……」
「ふん、そんなのボクがすごいからに決まってるじゃん! 決まってるじゃん!」
自称すごい猫(人型)はアラベラを睨み、べーっと舌を出す。
「猫のくせに随分と生意気なのですね」
アラベラはカゲロウの態度に、苛立ちを覚えたのだろう。鼻の頭に皺を寄せ、虫けらを見るかのような冷たい視線をカゲロウへと浴びせた。
「二度と生意気な口がきけないように、剥製にして差し上げましょうか?」
「ふん! そんな脅し怖くないよーだ! ツバキを怒らせて、三味線の皮にするぞ、ってよく脅されるボクにしてみれば、全身カッコよく残る剥製なんて、猫冥利に尽きるってもんだよ!」
「シャ、ミセ……? 何のことかは良く分かりませんが、あなたが剥製を希望していることだけは分かりました」
やってみろーい、と糸に絡まったまま、無謀にも挑発するカゲロウを守るように、彼とアラベラとの間にジオンが割って入る。
「黙れ、化け猫。そしてアラベラ──いや、堕天使タミエル。その女を返せ」
ジオンの言葉に、その背後で糸に絡まったままのカゲロウが首を傾げた。
「タミエル? アラベラじゃないの?」
「もうアラベラじゃねえ。アイツは力に飲まれた。……そこにいるのは、宿体を得て暴走している”天使”そのものだ」
「天使? 天使が実体を得ているのに、どうして人を殺すんだよぅ!」
到底悪魔らしからぬ発言であるが、カゲロウは至って真剣に疑問と感じているらしい。
「暴走している、と言っただろう。宿体の心体が器たり得る均衡を崩した時、天使は宿体の意志を遂げる為なら手段を選ばぬ凶器となる」
「うーんと……つまり?」
「傍迷惑な自己の欲求を満たす為なら、平気で周りに害を成す化け物になるってことだよ! 止めるには倒すしかねぇの!」
ジオンは炎弾を数発飛ばし、カゲロウを絞め上げていた蜘蛛糸を焼き払う。
「あでで……たすかったぁ!」
糸から解放されたカゲロウはツバキの姿のまま、わたわたと四足で跳ねるようにジオンの近くへと移動し──、
「ああっ!? いないよ! ツバキがいなくなってるよ!?」
いつの間にか忽然と消えていた己の主がどこかに見えないかと、狼狽した様子であちらこちらへ視線を飛ばす。
「化け猫、落ち着け。奴が逃げ込む場所は一ヶ所しかないだろ」
ジオンの声に、カゲロウは首を捻り──、次いで両の人差し指でこめかみをぐりぐりと押し──、首を「うーん」と引き伸ばし──、ハッと気付いたように顔を上げた。
「……あ、物置小屋だ!」
「……物置じゃなくて貯蔵庫な。ほら行くぞ」
駆け出したジオンに続くように、猫の姿に戻りながらカゲロウが駆ける。
「ツバキ、今行くから待っててね。待っててね!」