6-4
翌日、朝一からジオンは屋敷中を駆けずり回りながら、情報を集めていた。
今までの犠牲者の身辺調査から始まり、大まかな一日のタイムスケジュールや個人の資産まで調査するも、屋敷の三階で寝泊まりするしかない使用人の女性という共通点の他には、これ、といった明確な共通点はあまりなく。
だからといって、そうですか、で終わらせるわけにもいかないジオンは、昼休憩すら挟むことなく、資料室で来たる夜に備え兵士を屋敷中に展開するべく、今度は屋敷の間取り図と睨み合いを始めた。のだが──。
「ったく、肝心な時に役に立たねえ女だな! なんだよ、気晴らしに掃除って!」
間取り図を前に、不機嫌も露にそう放つジオン。
ツバキは昨晩の件がよほど堪えているのだろうか、ジオン隊の調査には参加せず、朝から気を紛らわすかのように、箒を片手に屋敷を徘徊していた。
「まあまあ。ジオン様と違って入団したとはいえ、まだ学生さんですもの。……ショックな気持ちは痛いほど分かりますわ」
午前中ずっと彼に付いて、屋敷を回っていたアラベラは苛立つジオンを宥めながら、小さく笑う。
「学生さんらしくて、可愛らしいものではありませんか。元気で、繊細で、そして気まぐれで──」
アラベラはそう語りながら、「可愛げの欠片すらねえよ」と、間取り図を前に唸る彼へと盆を小脇に抱え、紅茶を差し出す。──と。
「アラベラ……本当にお前も災難だな」
──ふいに掛けられた、ジオンの言葉にアラベラの顔が曇った。
「お前の婚約者、カールが壁外の魔物掃討で命を落としたのも確か一週間ほど前だったか。それだけでもお前にとっては辛いことだろうに……。まさかその直後からこんな事件まで立て続けに起こるとはな……」
ジオンは少しだけ疲れたような表情でぽつりぽつりと呟く。
「要るんだよ……尖兵は。だけれどその度に、一人、また一人と大切な部下が命を落として──。カールもそうだ。魔物に襲われて死んだとまず報告だけが来て。ようやくその死に顔を見れたのは掃討戦が終わった後で」
なんだろうな、とジオンは続ける。
「時の竜騎兵の尖兵であることに誇りはあるさ。けど、同時に心のどこかで常に思うんだ。部下を失う確率の極端に高い尖兵なんざ、クソ喰らえだって、な──」
アラベラはジオンの言葉に、亡き恋人のことを思い出しているのだろう。お盆を抱え直した指に力が籠る。
「危険と分かっていても、俺の隊を志願したのはカールの意思だ。でも、最期までそれを後悔しなかったんだろうかな、アイツは──」
ジオンの脳裏に浮かぶのは、はにかむように笑う、そばかす顔の青年の姿。
──己の隊には向いていない、転隊だ転隊、とよく他の部下から良い意味で絡まれていたのを鮮明に記憶している。
「まあ、アイツのことなら俺なんかよりお前の方がよく理解ってるだろうしな。悪りぃ、余計なコト言っちまったな」
ジオンの謝罪に、盆を片手で持ったまま、アラベラは驚いたように、盆を持つ手と持たぬ手を交互に身体の前で交差させるようにブンブンと振った。
「よ、余計なんかじゃありませんわ! ──その、彼を失ったのは今でも信じられません……。けど、信じられないはずなのに、反面、何故か信じてしまうのです。彼は……絶対に私を見守ってくれているって。だからこそ今回ちゃんと犯人を捕まえて彼を安心させてあげたいのです。私は一人でも大丈夫だ、ってね」
まあ、事件を解決して下さるのはジオン様なんですけどね。と、寂しげに笑んだアラベラはこの話は終わりだとでもいうように、違う話題をジオンへと振る。
「ところでジオン様、ツバキさんはいずれどこの隊に入られるのですか? アマラ様? シズマ様? もしかしてジオン様の隊?」
「あん? ああ、アイツなら一般兵士だぞ。本人がそう望んだって話だが、詳しくは知らん。知る気もねえ。ついでにウチはお断りだ」
ナイナイ、と片手首を振り、拒絶を示すジオンに、アラベラは面白いものを見たとでもいうように、くすくすと笑った。
「まあジオン様のところだけはやめておいた方がいいですわよね。カールのことではないですけど……戦闘任務に就く確率が一番高いですもの。あのお人形さんみたいな、綺麗なお顔に傷がつくのは頂けませんものね」
アラベラはツバキのことを大分気に入っているのだろう。
本人が聞いていたら、げんなりするであろう勢いで花よ蝶よと褒めちぎる。
そんな”花”もしくは”蝶”が資料室を訪れたのは時計の短針が午後二時もだいぶ過ぎた頃だった。
「ん」
びっ、と己に箒を突き付けてくる埃っぽい黒髪の少女にジオンは冷たい目を向ける。
「テメェ、今がどういう状況か分かってんのか……?」
問われた少女こと、ツバキは「当然でしょ」と制服の裾をはたき、大きな綿埃を払い落とした。
「ここではたくな! 外でやれ!」
資料室の床に、制服に付いていた綿埃を皮切りに、虫の死骸やら枯れた観葉植物の葉やらをその全身から景気良く落とすツバキへとジオンが苦言を呈すも──、
「健全な推理は健全な環境からよ」
──と、全くわけのわからない持論を展開するツバキ。
本当に同じ世界を見ているのだろうかと、ジオンがたまに真剣に考えるのも無理からぬぶっ飛んだ思考の持ち主であるツバキは、聞かれてもいないのに「カゲロウの毛皮は雑巾に最適よ」と要らぬ情報を彼へと寄越す。
そんな、今日も元気にぶっ飛んでいるツバキのその頭をひょこひょこと懸命に這っていた、恐らくは庭園掃除の際についてしまったのであろう緑の芋虫をジオンは指でつまむと、窓から外へと放り出し──、
「じゃあ訊くが、その健全な環境は作れたんだろ? なら、何か名案でも閃いたか?」
──と、芋虫を放り出した窓を閉めながら彼女へと訊ねる。
「まあ少なくとも愚策を止めるくらいの案なら?」
悪戯っぽく小さく肩を竦めて見せたツバキは、ジオンが兵を配置しようと印をつけていた屋敷の見取り図を指差し──、
「こんなのまったくもって不要。何故なら今晩の被害者は既に決まっているのだから」
──と自信満々にそう告げた。
「被害者が決まっているだと……? どういうことだバカ女!」
「私にも教えて下さいませ!」
面白いほど簡単に食い付く二人の天使にツバキは──、
「秘密よ秘密。まあでも、一つだけ教えられることがあるとするなら、既に手は打ってあるってことくらいかしら。今夜の犠牲者にはそこそこ強い護衛をつけているの。後はノコノコと出てきた犯人を引っ捕らえるだけ」
──と、含みのある笑顔で答える。
どうやら彼女にはかなりの自信があるらしい。
「そんなワケだから、計算が狂うと困るの。あなたの隊は昨日と同じく部屋に引き上げさせてちょうだいな」
「いや、そう言われてもな……」
ツバキの言葉に、ジオンは難しい顔で考えあぐねる。
彼は兵士を預かる立場上、おいそれと簡単に頷くことはできないのだ。
ジオンとてツバキが全く何も勝算なくして隊を引けなどと言っているのではないことくらいは理解している。──だが、彼女はあくまで一般兵でしかなく。
ツバキの策が失敗するだけならまだしも、もしそのせいで隊に大きな損害が生じた場合、一般兵士の彼女が言ったから、などという弁明が通用するはずもない。
「悪いが、秘密じゃあ兵を引かせるワケにはいかねぇ」
ジオンの決断は当然といえば当然のことだった。──のだが。
「待って下さい!」とその決断に、異を唱えたのはアラベラだった──。
「ジオン様、どうかツバキさんの仰る通りに、兵を引き上げさせて頂けませんでしょうか……!」
「……何故。理由があるなら言ってみろ」
ジオンに鋭い眼光で射竦められたアラベラは「それは……」と、言い淀み、しばらく考えていたが、言いたい言葉が上手く出てこないのだろう、唇を震わせる。
「アラベラ。お前も天使なら、感情で口を開くのはやめろ。言葉にならないような、あやふやな理由で兵士の命を預かるんじゃねえ」
諫めるようなジオンのその言葉にアラベラは項垂れた。
ジオン隊は最前線の任に就く率が高い。誰よりも命の瀬戸際に立っている彼だからこそ、命の重みを誰よりもよく理解している。故に危険と知りながらも彼の隊には志望者が多く、また隊内の団結力も強い。
「でも──!!」
ふいに上がる、その振り絞るような声はアラベラのものだった。
「お願いします! 私は──いえ、私の天使としての責任下において、どうか、どうか!」
拳を震わせ、何度も頭を下げるアラベラは震える声で続ける。
「もしジオン様の兵に想像以上の損失があれば、私は天号を返上──いえ、この命を以てして、お詫び致します。だからどうか──!」
「──まだ言うかこのバカ! いいか、テメェの命の返上なんざテメェのエゴなんだよ! そのワケの分からんエゴの代償に、俺の兵達が何でみすみす命を落とす危険に晒されなきゃならねぇ!」
怒声とともに、机に置いてある見取り図を両の手で叩きながら立ち上がるジオン。
その衝撃で机上に置いてあったティーカップが床に落ち、中身をぶちまける──寸前で黒猫が滑り込み、器用に前肢でティーカップを受け止めた。
アラベラはジオンの剣幕に圧され、その目からぽろぽろと涙を溢すも、決して引こうとはせず──。
「確かに根拠は──ありません。だけど、私、信じているんです。昨日、ツバキさんが仰った「明日必ず犯人を捕まえる」というのを。だって、ツバキさんは昨日の事件にいち早く感付いたんですよ。私はもう、もう誰も犠牲にしたくない。だから、ツバキさんに賭けたいんです──!」
「アホらしい……愚劣極まる感情論だ」
ジオンは無機質な声で、そう突き放すように呟くと資料室から去っていってしまった。
アラベラは床にぺたりと座り込み、しばらく嗚咽を溢していたが、時間が経つにつれ、だんだんと落ち着きを取り戻し──、
「ごめんなさい、格好悪いところをお見せしてしまいましたね」
特に何を言うでもなく、ただ側で棒立ちしていたツバキへと涙の残る瞳で微笑みかける。
「私、ジオン様に嫌われてしまいましたね、きっと……」
すん、と鼻を啜るアラベラに、ツバキは「さあ」と首を傾げた。
「私が今のあなたにとって都合のいい「そんなことないわ」と、言ってあげるのは簡単だけれど……それじゃあ根本的な解決にはならないもの。彼の気持ちは彼の気持ち。私がそれを汲んで代弁してあげることはできないし、というかしたくない」
情け容赦の欠片もない主の声に、その足元で黒猫が小声で「うわー……」と呟く。
物言いたげなその尻尾をさりげなく踏みつけ、悶絶する猫を尻目にツバキは「で?」と続ける。
「それで、今晩はどうする気?」
「どうも何も、ジオン様はお考えを改めては下さいませんでしたし……」
伏し目がちにボソボソと呟くアラベラに、ツバキは一ヵ所を指差した。
──それは机の上に放置された屋敷の見取り図。
「これ、置いて行ってどうやって兵士に指示を出す気なんでしょうね」
「え……? あ──!」
ツバキの言葉の真意を理解したアラベラの顔が徐々に輝く。
「ジオン様、ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
上司のいなくなった机へと何度も感極まった様子で頭を下げるアラベラは次いでツバキへと深く頭を下げた。
「ツバキさん、どうかお願い致します。今晩、なんとしてでも犯人を見つけ出して下さいませ……!」
「あなたに言われずとも、端からそうする気よ」
素っ気ないツバキの言葉にアラベラはぷっと吹き出す。
「ツバキさんって、ジオン様とよく似ておられますわね」
「はぁ!? 冗談でもやめてよ!?」
思わぬ発言に、素っ頓狂な声を上げるツバキ。
「本当ですわよ。どちらもぶっきらぼうですけど、本当はとってもお優しいところとか、本当は人一倍──」
「あーあーあー! そんなのじゃないわ! 私はただ……そうよ、ただアイツに兵を展開させてほしくなかっただけなのだから!」
ツバキは子供のように大声でアラベラの言葉を遮り、あまつさえ──、
「いい? 黙って様子を見ていたらこうなることが分かっていたから、私のその目的のためにあなたを矢面に立てて利用しただけなの!」
──と、懸命に主張する。
「ふふふ、そんなところもジオン様とそっく──」「──きーこーえーなーいー! あ、カゲロウ、晩御飯の時間だわ! ささ、行くわよ!」
全力でアラベラの声を掻き消し──、これ以上の問答を拒否するかのように、ツバキはカゲロウを引き連れ、急ぎ足で部屋から出ていってしまったのだった。
「ふざけんじゃねえ。そんな理由で俺の兵達を……」
ジオンは震えるように怒気を吐き出す。
「テメエらは命というものを微塵も理解っちゃいねえ……」
勢いで資料室を飛び出した彼がようやく足を止めた屋敷の廊下には誰もおらず、その声は誰にも聞き届けられることなく虚空へと消え行く。
理由なく信じる──それは何の根拠もないただの妄言だ。
妄言に任せられる部下の命などただの一つもなく、また民の命も言わずもがなである。
そう理解していながら、強く懇願する彼女をどうしても諫め切れなかった己に苛立ち、歯噛みするジオン。
「もしも、だが……」
そう、これがもし、相手が七天使の同胞だったならば話は別だ。彼らの強さやその覚悟を長い付き合いということもあり、己のことのように知っている。故に信じることができるし、その決断を尊重することもできる。
だが、彼女達は違うのだ。
一人は小隊とはいえ部下を持つ身であるが、その心には、すぐ他者を頼らんとする甘さがある。
もう一人に至っては表面的な強さこそあれど、まだ学生である──云々以前に、本人も気付いてはいないのだろうが、その精神は久遠の過ぎ来し方に取り残された赤子同然の脆弱なもので。
「判ってる。任せられる器じゃねえ……」
──今からならまだ取り返しがつく。
そう何度も動きそうになる脚を、己の中の何かが止めた。
「団長、アンタならこういう時……」
呟かれた言葉に、己の出番だと勘違いしたのだろう。隊服の襟からひょこっと顔を出したニクスの頭をジオンは人差し指で撫で──、
「本当に、俺の命くらいで埋め合わせが利くなら良かったのにな。……とりあえず晩飯行くか」
──思考を断ち切るように頭を一度大きく振ると、彼は食堂へと足を向けた。
「あのー、ツバキさん……」
「ん?」
ツバキはパンを千切りかけた態勢で頭上を見やる。
「あ、えーとあなたは……」
「クラウスです」
いつぞやのチェス成金は「覚えてくださいよ」と苦笑しながらツバキの隣へと腰掛けた。
そして彼はキョロキョロと周囲に視線を走らせ──、
「アラベラ様とジオン様、何かあったんですか?」
──ずい、と顔を寄せ、聞き取れるか取れないかくらいの小声でヒソヒソとクラウスに問われたツバキは、互いに離れた位置で食事を摂る天使二人に目を遣る。
互いに違うテーブルで、誰とも会話することなく黙々と口に料理を運ぶその姿は、昨日の仲睦まじい様子からすると、誰の目にも何かあったとしか思えない状態だろう。
なんとなく理由は分かるのだが、説明の面倒なツバキは──、
「ああ、うん。何かあったわ」
──と、簡潔極まりない返答をする。
「ああ、やっぱり。因みにどんなことが──」「方向性の違い的なこと」
「は、はあ。ツバキさんの見立てではどちらが悪いので?」「頭」
「いや部位の話ではなくて……ともかく、なんとか仲裁を──」「不要よ」
えぇ、と頬を引き攣らせるクラウスにツバキは手元のパンを見つめながら言葉を紡ぐ。
「不要、仲裁も和解もまったくもって不要。何ならいっそ、不仲な方が良い。何故なら今夜死ぬのは──」
「え……?」
ツバキはうっかり己の言いかけたことに気付き、口を噤む。
「なんでもないわ。とにかく、枷になるようなものなんてない方が良いってことよ。手枷も足枷も首枷も──、全て、できることなら無いに越したことはないわ」
淡々と語るツバキは千切ったパンを己の口へと運び、不味そうにそれを飲み込んだ。
「枷のせいで命を落とすなんて羽目になったら目も当てられないもの。それが一方的なものだったのなら、尚更ね」
「はあ、なる……ほど……?」
ツバキの言葉の真意を汲み取れないのだろう。クラウスは目を白黒させるばかりである。
「分かったのなら──そのミートパイ、ちょうだい」
それはもう唐突に。話の流れから、どう発展させたのか。
ツバキは左掌を上に向け、クラウスへと「寄越せ」という意味合いなのだろう。ちょいちょい、と手首だけを動かす動作を繰り返す。
「えぇ!? 何でそんな急に!? まあいいですけど……」
クラウスは己の皿をツバキの皿へと傾け、載せていたミートパイを滑らせるようにして彼女の皿へと落とし込む。
「……あの、ツバキさん」
──と、その瞬間、クラウスがぽつりと呟いた。
「俺達、今晩自室待機になったんですけど……別にジオン様のご判断に異を唱えるワケじゃないんですよ? 異を唱えるワケじゃないんですけど……本当にそれでいいんでしょうかね」
本当に他意も含みもないんですけどね、と続けるクラウス。
「いつもだったら今頃俺達はそれこそ屋敷中に散開して神経を張り詰めさせているところなのに、今日は何故だか自室待機。なんか、いつものジオン様らしくないというか……」
調子が狂うというか、とボヤくクラウスに、ツバキは小さく鼻を鳴らす。
「少しだけ賢くなったってことじゃないの、猪男が」
「本当にそれだけのことなら良いんですけどねぇ……」
遠くを眺めはじめたクラウスを尻目に、ツバキは殆ど咀嚼もせずにミートパイを胃袋に流し込むと、辺りをキョロキョロと見回し──、
「それはそうと、ちょっとあなた、この食堂に残ってる食べられるものありったけ持ってきてくれない?」
皆が大方食事を摂り終えたのを確認した彼女は、黄昏れるクラウスへと声を掛ける。
「へ?」
「なんならもう食べ残しでも何でも良いから」
「いや、食べ残しは……」
「私が良いって言ってるんだから良いの! 私の能力は燃費が最悪なんだから、燃料は補給できるときに最大限補給しておきたいの!」
「わ、分かりましたぁぁ!」
この後に起こるであろう有事を想定し、怒涛の勢いで食堂中の食べ物を食べ尽くしたツバキが席を立ったのは食堂に着いてから優に三時間経過した頃だった。
巻き込まれたクラウスを除き、誰もいなくなった食堂でツバキは「さ、帰ろー」と立ち上がった──刹那、彼女の肘が机に重ねて置いてあった皿の山を小突いてしまった。
けたたましい音を立てながら机から落ちた皿は、その衝撃に耐えられなかった数枚が破片となって飛び散る。
「あ……」
「ツバキさん、大丈夫ですか!?」
「私は大丈夫だけれど……。はぁ、拾うしかないわね……」
面倒くさそうに屈んで、皿の破片を拾い始めたツバキを見兼ね、破片拾いを手伝うクラウス。──だが。
「……気にしなくて良いわよ。とっとと帰りなさい」
ツバキは己の過失である破片拾いを、彼に手伝わせるつもりは毛頭ないようで。
クラウスへと自室へ戻るよう促すツバキだが──、
「俺も拾います」
──と、彼がその言葉に従うことはなかった。
「本当に、此処の連中は変な奴らばっかり……」
「ありがとうございます」
己の嫌味にクラウスから笑顔で礼を返されたツバキは「褒めてないわ」と渋い顔をする。
「変なのはあなた達の隊長もよ……」
「自慢の隊長であります!」
悉く嫌味の通じないクラウスに、ツバキは段々と嫌味を言うのもアホらしくなってきたのだろう。
大きなため息をひとつ吐くと、彼女は破片を拾う手を早める。
「あっ! ツバキさん、あまり急いで拾ったら手ぇ切りますよ……って、ほら言わんこっちゃない、早速切ったぁ!」
咄嗟に彼女に注意を促すも、クラウスのそれはほんの少しばかり遅かったようで。
「うるさいわ。手じゃなくて指だし。しかもただのかすり傷じゃないの」
人差し指に入った裂傷からじわりと滲む鮮血を冷たく見遣り、ツバキは構わず皿の破片へと手を伸ばすも、その手は途中でクラウスに阻まれた。
「怪我は怪我ですから。……もう俺が残り拾っておくんで、ツバキさんはとっととお部屋へ戻られて下さい」
「うるさいわよ。私の不注意なのだから、私が拾うの!」
「そういうのは後からで聞きますので帰ってください!」
結局、両者とも破片を拾う手を止め、拾う拾わんとしばらく押し問答をしていたのだが、問答している間に「まあいいけどね」とボヤきながら、器用に前肢で全ての破片を拾い集めたのはカゲロウだった。
「さすが。私の相棒ね」
破片のなくなった床を見下ろしながら、そんなカゲロウを労うツバキ。
「じゃあ床もキレイになったことですし、俺達も引き上げましょうか」
椅子の下などを見て回り、破片が飛んでいないことを確認し終えたクラウスはそうツバキへと提案し──、
「あ、そうだ」
──と、ふいに何かを思い出したように自分のポケットをまさぐり始める。
そしてしばらくゴソゴソとポケットをまさぐっていた彼が徐にそこから引っ張り出したのは、薄い水色の薄手のハンカチだった。
「コレ、今年で四つになる娘が持たせてくれたものなんですよね」
そう満面の笑顔で語るクラウスは、血の滲むツバキの指にハンカチを巻き付けると、その布端を結んで止める。
「……何よ、とっても大切なもの、なんじゃないの?」
己の指に巻かれた布の温かみに、名も知らぬ幼子が頭に浮かんだツバキは、少しだけ柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん! ……あ、でも気にしなくていいんですよ? だって、これで俺は帰ってこのことを話したら「パパカッコいい!」って言ってもらえるんですから!」
デレデレと頬を弛めっぱなしのクラウスへとツバキは「そういうことなら有難く」と告げると、もう一度指に巻かれた優しい温もりを見遣る。
「あなた、名前……もう一度教えなさいよ」
「え? 今度こそ覚えてもらえるんですか!?」
「……名前、知らないと返せないでしょう? それだけ、よ」
ああ、そういうコトっすか、と頭をポリポリと掻きながらクラウスは再び、ツバキへと己の名を告げる。
「クラウスです。クラウス・エッカート。娘はトラオム。これを機に覚えてくださいね」